離れていても変わらないもの6
ディートリヒの機嫌がいい。クルトは嫌な予感がした。
届いたばかりの手紙を開封したディートリヒは、読み進めるにつれ表情が柔らかくなった。こんな表情ができるのだと世間に知られたら、間違いなく人気が加熱する。砦の執務室だったのは、ある意味で幸運だったのかもしれない。そこまで考えて、クルトはため息をついた。
無愛想を擬人化したような男が、愛おしいものを見つめる顔になる原因は、一つしか心当たりがない。
「……それ、あのお嬢さんから?」
「ああ」
だろうなと心の中でツッコミを入れた。むしろエレオノーラではないほうが驚く。
「和んでるところ悪いんだが、あと一歩ってところで、こう着状態に陥った戦場を打開する策は思いつきましたかね、隊長」
敵の魔術師たちは地下要塞に罠を仕掛け、最奥に立てこもってしまった。出入り口になりそうな扉には強力な結界があり、突入するには時間がかかりそうだった。
兵糧攻めをしている間に増援が到着すると面倒だ。短期間で決着をつけて、国同士の交渉へ移行してほしいというのが本音だった。
表情を消したディートリヒは、手紙を大切そうに封筒の中へ入れながら言った。
「俺の予想では、中にいるのは囮だ」
「奇遇だな。俺もだよ。扉には結界の他にも魔術がかけられているらしい。開けたら作動するんだろう。要塞内部を崩落させて、侵入した俺たちに一矢報いる気でいるのかもな」
「敵はもう動けない。工作班が罠を解除するまで待て。森の捜索は終わったか? 見つかっていない指揮官たちは、森で身を隠しながら首都方向へ逃げようとするはずだ」
「包囲は完了した。複数箇所で人間らしい熱源を探知している」
ディートリヒは机に置いていた剣を取った。
「最後の大詰めだな。今日中に片付けるぞ」
「やけに急ぐじゃないか」
「エレンからの手紙に、会いたいと書かれていた。一秒でも早く帰らねば」
「お嬢さんが絡むと分かりやすいほど単純になるよな、お前は」
常に冷静沈着だった同期はどこへ行ってしまったのだろうか。恋に踊らされている姿を見る日が来るとは、夢にも思わなかった。一途に想う相手がいるのは、ある意味では羨ましくもある。
「急襲か。久しぶりだな」
「えっディートリヒも包囲網に参加すんの?」
ディートリヒの不穏な発言に驚いていると、何を言っているんだと呆れられた。
「部下に命じるよりも自分でやったほうが早い」
「そうだけど。どんだけ早く帰りたいんだよ」
「可能なら今すぐ帰りたいのだが」
「隊長が率先して戦線離脱するな。俺が被害を受けるからやめて」
しばらくはディートリヒが無茶をしないように見張っておくのが自分の仕事だろうなと悟って、クルトは背中を追いかけた。
***
戦争が終結しても、ディートリヒは事後処理で足留めされていた。西の砦を無人にするわけにはいかず、交代要員が到着して引き継ぎを済ませるまでは、帰還できないそうだ。
エレオノーラが受ける資格試験の日が十日前に迫ったとき、ようやく帰還する日程が決まった。
「参戦した騎士は全員、帰ってくるみたいですよ。休暇で静養させるのが目的らしいんですけど、主は隊長ですから、仕事で呼び出されそうな気もします」
「そう……でも無事で良かった」
ベティーナとリタがどこかから情報を仕入れてくれるお陰で、エレオノーラの心は安定していた。二人がそばにいて話し相手になってくれるし、退屈しない。メイドの仕事の範疇を超えている気もするが、友人に近い関係になれたことは嬉しかった。
ようやくディートリヒが帰還してくる日、気がつけばエレオノーラは空ばかり見ていた。ディートリヒの竜が近づけばアルバンに教えてもらうことになっているから、自分で探す必要はないと理解しているにも関わらず。
「エレン様。ディートリヒ様が到着されるのは、昼過ぎですよ」
あまりにも空を気にするものだから、リタが苦笑している。
「待ち遠しいのは分かりますけど、あまりぬいぐるみの羽をいじると、もげますよ?」
ベティーナの指摘で、自分が膝に乗せたぬいぐるみをひねっていることに気がついた。もし生きている羽トカゲだったら、痛みで鳴いていただろう。ごめんねと心の中で謝って、窓辺に置いた。
昼をだいぶ過ぎたころ、アルバンが帰還を知らせてくれた。
庭へ出ると、西の空に黒い点がいくつも見える。あの中のどれだろうと探していたら、一つだけ群れを離れて急降下してきた。真っ黒な竜だ。
エレオノーラがいる地点を目指して真っ直ぐに突っ込んできた竜から、会いたかった人が飛び降りてくる。
「約束通り、生きて帰ったぞ」
「お帰りなさいっ」
駆け寄ったエレオノーラは、ディートリヒに抱きしめられた。
触れたところが温かい。夢にはない温もりで涙が出そうだ。
少しだけ怪我の治療に使う薬の臭いがする。
「怪我したの?」
「少しだけ。重傷じゃない」
「守護を付与した紙、残ってる? 私ね、確か五枚ぐらい封筒に入れたはずよ」
「……一枚は残った」
「もう。どんな無理をしたら、そんなに消費するの? 隊長って前に出て戦うのは稀なんでしょ?」
ディートリヒの左手には真っ白な包帯が巻いてある。薬品臭の発生源はここだ。
「早く終わらせたかった。帰る日がどんなに待ち遠しかったことか」
お互いの額がくっつきそうな距離でディートリヒが言った。
「そう言われたら、許すしかないわ。でもね、無理をしてほしくないのは譲らないから」
「俺もエレンが無理をして資格試験の勉強をしているんじゃないかと心配していた。お互い様だな」
「私は素敵なメイドさんたちが休憩時間を教えてくれるから、心配しなくてもいいわ。試験に出そうな問題も出してくれるのよ」
「へえ。じゃあ試験は合格できそうなのか」
「……たぶん」
一気に自信を失って勢いを無くしたエレオノーラを、ディートリヒは優しく笑う。大人しく待っていた竜を呼び寄せ、右の前足を上げさせた。
「知っているか? 戦いに勝った竜の前足は、幸運の印らしい」
「本当? 触ってもいい?」
竜に聞くと、ゴロゴロと甘えた鳴き声を出して鼻先で触れてくる。
「足に触るのは初めてだよね。すごい爪……かなり分厚いね」
硬い足の甲に比べると、指の腹は弾力があった。肉食獣の肉球のような役割があるのだろう。
感触の違いを楽しんでいると、ディートリヒが上空を気にした。
「あいつら、もう追いついてきたのか」
「ディー?」
「帰る途中で抜け出してきた。帰還の報告がまだ残っているんだ」
「隊長がそんなことしてもいいの?」
「規則違反ではないが、良くはないな」
ディートリヒは竜の飛行速度が速いのをいいことに、先に戻ってきたらしい。後から追いついた騎士たちと、帰還後の報告をしなければいけないそうだ。
「先に報告書は送っていたから、すぐに解放されると思う。エレンが試験を受ける日までには、全て終わる予定だ」
「わかった。私も資格試験、頑張るね」
竜の前足を離したエレオノーラは、ディートリヒに手を掴まれた。優しく引き寄せたディートリヒが指の付け根にそっと口付けてくる。
名残惜しそうに離れたディートリヒは竜に乗って空へ戻っていった。
「……私も頑張らないと」
その前に、うるさいほど脈打っている心臓への対処を、誰か教えてほしかった。
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