離れていても変わらないもの
竜皇国へ奇襲攻撃を仕掛けるという段階になって、ルーカスは焦りを感じていた。
魔法薬の作成がうまくいかない。薬自体はできるのだが、完成度が高いものができなくなっていた。薬の基礎となる材料の精製段階で、明らかに質が落ちていた。
――やはりエレオノーラがいないと駄目か。
研究所から連れてきた助手の腕は悪くない。だがエレオノーラと同じ結果を出せずにいた。彼女が精製時に無意識で行っていたらしい、何かが不足している。
「ルーカスさん、新しく届いた回復薬なんだが」
前線の指揮官が小瓶に入った薬を持ってきた。注意を引くように軽く振り、戸惑いを隠せない様子で話しかけてくる。
「薬品の成分が変わったのか? 前よりも効果が現れにくい」
「後方で何かあったのかもしれませんね。物資の不足とか……」
「別の前線を優先したってことか。竜皇国と戦うだけでも精一杯なのに、別の国とも一戦交えようとか、何を考えているのやら。使えねえ貴族の魔術師は送ってくるし……」
指揮官は文句を言いながら帰っていった。
貴族の魔術師が誰のことなのか、名前を聞かずとも予想はつく。
――回復薬の質も落ちている? あいつら、まさか回復薬の精製をエレオノーラに押し付けていたのか?
ルーカスを手伝っていないときも、エレオノーラはよく深夜まで残っていた。だが、なんの作業をしているのかまでは知らなかった。もし研究所の同僚たちが回復薬作りをサボってエレオノーラにやらせていたのなら、急激な質の低下も納得できる。
ルーカスは指揮官が持ってきた薬の蓋を開けた。中身は少し出来の悪い回復薬だ。よく効くと重宝されていたとは思えないほど、別物になっている。指揮官が不審がって持ってくるのも納得だ。
――そういえば。
研究所で作られる薬の品質が上がっていったのは、エレオノーラが入ってきてからではなかっただろうか。彼女が押し上げてくれた品質は、行方不明となったことで元通りになってしまった。それどころか、エレオノーラに押し付けてサボっていた奴らの技術は鈍化してしまい、以前よりも質が悪いものしか作れなくなっている。
――作戦は薬の品質が高かった頃を基準に組み立てているはず。
もとより竜皇国へ攻め入るなど無謀だ。戦力は圧倒的に彼らが上。竜騎士の高所からの奇襲はもちろん、地上戦でも竜が活躍している。竜に対抗すべく魔術の開発をしているが、実験の機会などないので遅々として進まない。
このまま実行しても、引き分けがいいところだろう。その後の停戦交渉では、サンタヴィル戦で勝ち取った領土が、また竜皇国へ戻るかもしれない。
母国の地図が書き換えられようと、ルーカスは研究が続けられれば不満はない。
自分の考案した薬の効果を、最大に引き出してくれるエレオノーラだけが必要だった。
――ヨハンナの思惑通りに動くしかないのは腹立たしいが、他に方法はない、か。
ルーカスの身分と地位では、竜皇国の地図など閲覧できない。ヨハンナがエレオノーラを連れ帰る目的は逆恨みだと察しがついている。あの女は己の欲望に直結したことは記憶力がいいから、道案内として役に立つだろう。ただヨハンナよりも先にエレオノーラを見つけて、保護しなければいけない。
きっと見つけてすぐに焼き殺そうとする。
多少の怪我なら構わない。エレオノーラがルーカスのところへ戻ってくるなら。
赤い瞳の持ち主は竜皇国を連想させるので嫌われやすいが、自分なら受け入れられる。見た目なんて関係ない。彼女が持つ特殊な技能が欲しい。
誰のものにもならないように、自宅で保護するのもいいだろう。敵国に囚われていた魔術師は、洗脳されていると疑われてしまうのだから。どこかの治療院へ連れて行かれて、次世代の魔術師を望む男に振り分けられてしまう前に。
ルーカスは自分が利己的な考え方をしていると気がついていた。エレオノーラの意思を考慮していない。だが魔術師とはそういう生き物だ。学院を卒業したエレオノーラなら、きっと理解している。
彼女が赤い瞳を嫌っているなら、一時的に色を変える目薬を使えばいい。貴族の間では普通に流通していて、愛人の子供のルーカスですら入手法を知っている。少し高いのが難点だが、成分を分析してルーカスが新たに開発してやってもいい。
ルーカスは自室へ戻ると、荷物の整理を始めた。平和なうちに前線を離れる準備をしておかなければいけない。どうせヨハンナは、いつ離脱すれば敵に見つからずに国境を越えられるのかなど、考えていないだろう。ルーカスから合図を送って、落ち合う場所も選定しておく必要がある。
抱えた仕事が増えているにも関わらず、ルーカスは辛いとは思わなかった。苦労をした先にエレオノーラがいる。彼女が自分のものになるのだから。
***
隣国が侵攻の準備を進めているという情報が、最西端の砦からもたらされた。エレオノーラを保護して、最初に滞在した場所だ。
偵察していた部隊によると、地中にある彼らの基地へ運びこまれる物資が増えたという。それも食料品だけでなく、戦いに必要な装具や魔法薬もだ。
「呪いへの対抗策は、臨床実験では成功している。砦の近くに治療師を派遣することが決定した。もし異常を感知したら、後退させるように」
司令官から前線部隊で指揮をとるディートリヒたち幹部へ、注意事項がもたらされた。呪いに関すること以外は、通常の出撃と変わらない。
「主力部隊は本格的な侵攻に備えて、後方で待機。連絡要員として地上部隊と飛行部隊の両方から数名を指名。作戦に関わる人員と装具の総数は、以前に述べた数より変更はなし」
参謀から作戦の内容が明かされ、改めて国土を守れと命令が下る。
前線の砦から戻ったばかりのディートリヒは、ふとエレンが何をしているのか気になった。
――全く連絡せず放置することになってしまったな。
どうしても秘匿事項が多いため、手紙で知らせるわけにもいかない。隣国が攻めてくるかもしれないという不確定な情報は、まだ騎士団と皇都にいる政府しか知らないことだ。
屋敷で働く者はディートリヒの仕事をよく理解しているから、うまく彼女に説明してくれていると思うが、やはり心配になる。
「主力部隊の移動は本日の昼から、順次行われる。総員、気を抜かず守りきれ。サンタヴィルの悲劇を繰り返すな」
「了解」
十年前の戦争は、まだ風化していない。騎士団にも当時を知る者が多く、サンタヴィルの名は特別なものになっていた。
ディートリヒにとっても同じだ。父親が命を落とし、エレンが行方不明になるきっかけになった。自分と同じ思いを、誰にも味わってほしくない。
それに、前線を守ることがエレンを守ることにもなる。
会議が終わって解散したディートリヒたちは、司令部の建物を出てそれぞれの持ち場へ戻っていった。
今日は竜たちが騒がしい。戦いの気配を察して、高揚している。いつも通りに落ち着けと言ったところで、聞くわけがない。
――いま騒いで体力を消耗するな。勝ちたいんだろう? だったら温存しておけ。いつでも襲撃できるように。
頼りにしていると回路から相棒へ伝えると、任せてと無邪気な声が届いた。
職場には、騎士の家族の姿が見受けられた。唐突な訓練でしばらく会えなくなるから、という名目で見送りに誘ったらしい。察しがいい家族は浮かない顔をしていたが、何も知らない子供たちは無邪気に戯れている。
「主、探しましたよ」
子供と同じぐらい無邪気なメイドの声がした。
「ベティーナ? お前もいたのか」
「いましたよ。アルバンさんとマーサさんの指示で、エレオノーラ様をお届けに。今は他の家族さんと一緒に、会議室で待っています」
「護衛は? 当然、いるんだろうな。道中で怪しい動きをする者はいなかっただろうな? 帰るまで安全に守れると誓えるか」
「落ち着いてください。私、一度に言われると処理できません。あと顔が怖いです」
ベティーナは嫌そうに横を向いた。
「リタちゃんが殺る気に満ち溢れているから大丈夫ですよ。屋敷の警備も同行してますから。いざとなったら、私がエレオノーラ様を抱えて走ります」
「お前たちの戦力なら……いや、近頃は物騒だからな……」
「主、エレオノーラ様に会いたくないんですか? 早くしないと会える時間が減っていくだけですよ」
呆れたベティーナに背中を押された。
「ベティーナ。エレンは、その、何か言ってたか?」
「えっ。連絡しなかったことについてですか? もしかして主、エレオノーラ様に嫌われるのが怖くてヘタレました? 大丈夫ですよ。マーサさんがいい感じに説明してましたからね!」
ヘラヘラと笑うメイドは信用できないが、他に情報源はない。
「それに嫌いな人に、わざわざ会いにくると思います?」
「よし、行くか」
それもそうだと思い直したディートリヒは、改めて建物内へ入った。
ディートリヒが指揮をする部隊の大半は砦に詰めているので、内部は人が少なかった。会えなかった家族は、もうすぐ移動する騎士たちに、それぞれ渡したい物を託していた。
エレンは会議室で待っているとベティーナが言った。短い面会時間で、小物や刺繍入りのハンカチを渡す家族は多い。どうしても期待してしまう。
出発前の高揚とは違う意味で緊張してきたディートリヒに、竜の喜ぶ鳴き声が聞こえた。




