遠回りな情熱6
対抗戦の翌日、ディートリヒは休みだと聞いたので、二人で朝の時間を過ごしていた。
朝食のあと、新聞を広げていたエレオノーラは、対抗戦の記事を見つけたので読んでみた。皇女が観戦していたこと、それぞれの組で勝ち進んだ上位三名の名前が載っている。ディートリヒはそれなりに有名なのか、他の騎士よりも書かれている情報が多かった。
――秘密の婚約者?
試合で付けていた布にも言及され、勝利を捧げたのはその婚約者だと断言されている。さらに晩餐会のあとで皇女から個人的に話しかけられたともあり、婚約者とは皇女のことなのではと推測が続く。
――赤は皇女殿下が纏う色ではないが、初代皇帝の竜は目が赤かったことから、皇室を連想させる色である……?
二人は抱卵の儀で初めて出会ったが、その後は会っているという情報はない。しかしそれは公の場においての話である。晩餐会での二人は、仲睦まじい様子に見えたと記者の感想で終わっている。
途中からはディートリヒと皇女について断言することを避けているが、読み手には二人が婚約しているのではないかと期待を抱かせる書きかたがしてあった。
「エレン?」
じっと紙面を見つめたまま黙っていたら、ディートリヒに名前を呼ばれた。
「ディー、婚約者がいたの?」
「いない。なぜそう思った?」
即座に否定したディートリヒに記事を見せた。さっと全文に目を通したディートリヒの表情が冷淡なものに変わる。
「……なるほど。出版社には正式に抗議しておく。憶測で書いてもいい限度を超えているな」
「本当にいないの? 私ね、誰かの仲に亀裂を入れるようなことはしたくないの」
「エレンが想定しているような相手はいない」
ディートリヒは誤解を与えないためか、考えながら言葉を続けた。
「どう言えばエレンに納得してもらえるのか分からないが……順を追って話すから、聞いてほしい」
「うん……」
エレオノーラはなぜディートリヒが晩餐会で婚約者がいると発言したのか、真意を教えてもらった。
「対抗戦の優勝者は、皇都で行われる試合に招待される。国中の注目が集まる大会だ。とうぜん、参戦者の名前は公表されて記事になる。名が広く知れ渡ると、良くも悪くも接触してくる者が増えるんだが……」
「持ちかけられそうな縁談を避けるため?」
「それはあまり効果がない。婚約者がいても、あわよくばと釣り書を送ってくる図太い神経の持ち主はいる」
「じゃあ、どうして?」
「エレンの名誉のため」
「私?」
ディートリヒが自分のことよりもエレオノーラを優先して、婚約者だと周囲が信じる下地を作った。エレオノーラの将来が少しでも良い方向へ転がるように。
助かったとか、嬉しいと思う気持ちより、戸惑いが大きい。
「どうしてそこまで親切にしてくれるの? 私はあなたに何もお返しできないよ? 呪いを解いただけなのに、私がやったこと以上のものを、あなたから受け取ってる」
「エレンが思っている以上に多くのものを、俺は受け取った」
「分からないよ。ずっと離れてたんだよ? 会えなかった間に、あなたが何を考えて、どう育ったのか、全く知らないのに」
一緒にいる時間が長くなるほど、制御できない気持ちがあった。まだその感情に名前をつけたくない。もっと大きな不安が心に鎮座しているから、嬉しいこともまとめて飲み込まれて溺れそうになる。
ディートリヒは昔のエレオノーラしか知らない。だから現在のエレオノーラを知って、幻滅するのではないかと恐れていた。
彼の中にある理想のエレオノーラにはなれそうにない。どんな姿をしていて、どんな性格なのか、こちらからは全く見えないのだから。自分以外のものを演じる技量もない。
居心地がいい場所に慣れきってしまう前に、ただの都合がいい夢をみていたのだと錯覚してしまいたかった。
「エレン」
今は自分を呼ぶ声が、いずれ誰かの名前に変わるところなんて見たくない。自分に向けてくれる優しさを独り占めしてしまいたい。
「……本当は、もっと信頼を得てから打ち明けようと思っていたのだが」
ディートリヒは迷っている。最初の一言が見つからないのか、そっとエレオノーラから視線を外した。
何を言われるのか予想ができず、エレオノーラは逃げたくなった。
もしかしたら婚約したい人がいるけれど、エレオノーラが屋敷に居座っているから公にできないとか。愛人を囲っていると誤解されたから出て行ってくれとか。悪い方向に思考が傾いていく。
「俺はエレンが好きだ」
皇女と再会したことで、恋が始まったと告白されてしまったら。
「――え?」
エレオノーラは不安の渦に飛び込んできたディートリヒの言葉で、現実に引き戻された。
もう一度、言ってほしい。聞き間違いだったら嫌だ。
「この先も、共に暮らしていけたら、これ以上幸せなことはない。エレンを連れてきたのは恩義以上に、俺が離れたくなかったからだ。家に滞在してもらえるよう、理屈をこねて……今度こそ、自分の手でエレンを守りたかった」
本心から出た言葉なのは、ディートリヒの表情で察した。真っ直ぐにエレオノーラだけを見ている。
昔から変わっていない。いつも真摯に向き合ってくれる。
「なんで、いつから……」
「エレンを探していたころは、自分の気持ちを自覚していなかった。おそらく羽トカゲにされて、エレンに拾われたときだろうな」
「私、あなたのこと変わったトカゲだと思ってたのに?」
「だからこそ、本当の性格が見えた。人間の姿だったら、心を開いてくれなかっただろう?」
内面が好ましいと言われて、嬉しくないわけがなかった。ディートリヒの告白がゆっくり心の中へ入ってくる。
「今すぐ返答しなくてもいいから、エレンがどう思っているのか聞かせてくれないか。どんな答えになろうと、俺はエレンの気持ちを優先したい」
応えてしまってもいいのだろうか。
エレオノーラがためらっていると、ふとディートリヒは窓の外を見た。仕事をしているときのような、無表情へと変わる。
「あまり良くない報せが来たようだ」
「良くない報せ?」
外へ出ていくディートリヒの後を追いかけると、厩舎の前に制服を着た竜騎士がいた。ディートリヒに敬礼をしてから、近づいてくる。
「お休み中のところ、申し訳ありません。司令部に招集がかかっています。西の砦近くで魔術師たちに動きがありました」
「予想より早かったな。分かった、着替えてから向かう」
竜騎士はディートリヒに書類を渡してから、己の竜に乗って飛び立った。
「エレン、急な仕事が入った。申し訳ないが、屋敷からあまり出ないようにしてくれ。対抗戦で集まっていた観客で、まだ町が騒がしい。必要なものがあれば、マーサ達に言えば調達してくれる」
「わ、分かった」
ディートリヒは素直にうなずいたエレンに、優しく微笑んだ。
胸のあたりを強く掴まれたような痛みがある。ディートリヒの気持ちを知る前には、なかったものだ。
すぐに着替えてきたディートリヒは、使用人たちにエレオノーラのことを託して、竜と共に出かけてしまった。
それからしばらく、ディートリヒは屋敷に帰ってこなかった。




