孤独な雑用魔術師2
戦争で身寄りをなくしたエレオノーラは、国境近くにある孤児院に拾われた。院長は金に汚い男で、エレオノーラを拾ったのは、高く売れる見た目に成長しそうだという理由だけだった。
劣悪な衛生環境を工夫してしのぎ、自分より下の子供の面倒を見る生活が続いたある日、王都から魔術師が派遣されてきた。なんでも一定以上の魔力を持つ子供を探し、国に貢献する人材として育てるためだという。
エレオノーラを検査した魔術師は、すぐに院長へ引き渡すよう告げた。想定よりも魔力が高く、教育を始める最適期間を越えようとしていたためだ。
話を聞いた院長は即答で、エレオノーラを文字通り売った。後から聞いた話によると、優れた魔術師を輩出した家には報奨金が出るらしい。金が大好きな院長が断る理由など皆無だ。さらに支度金と称して、いくらかまとまった金も受け取っている。
王都へ連れてこられたエレオノーラは、全寮制の学校へ入れられた。不衛生な孤児院を抜け出せたことと、まともな教育を受けられたことは感謝している。ただ魔術の習得は苦手だったので、就職にはかなり不利だった。
エレオノーラが名門と名高い魔術研究所に就職できたのは、かなり運が良かったのだろう――そう思っていたのは最初だけだ。本当は就職辞退者が相次いで、エレオノーラに回ってきたのだと判明したのは、出勤初日だった。
ここで働いている魔術師たちは、貴族や富裕層が多い。それゆえにプライドが高く、家同士の力関係もある。事情を知っていた同級生たちは、そういったしがらみを嫌って採用を蹴っていたのだろう。
エレオノーラは実験用に飼われているスライムに、食堂でもらった残飯を与えた。何を考えているのか分からない緑色の物体は、半透明の体を震わせて餌箱ににじり寄って覆い被さった。一晩かけてゆっくりと餌を消化するつもりだ。
スライムは、この研究所で最もエレオノーラに友好的な生き物だ。面倒な雑用を押し付けてこないし、嫌味を言う口もない。餌さえ与えておけば、襲ってくることもなかった。だが意思の疎通ができないので、癒されることは全くない。
飼育小屋の鍵をしっかりとかけ、薄暗い廊下を通って所属している魔法薬を専門とする部署に戻った。外はとっくに陽が落ち、定められた勤務時間を過ぎている。
室内に残っていたのは、ヨハンナと男性の先輩ばかりだった。
「ね、お願い、手伝って!」
目ざとくエレオノーラを見つけたヨハンナは、瞳を潤ませて祈るような格好で縋ってきた。
「実験のデータをまとめた報告書、明日までに提出しないといけないの。でもね、今日は友達と食事に行く約束してたから……」
「友人に事情を話して、別の日にしてもらったらどう?」
「そんなことできないよ! だって、ずっと前から楽しみにしてたんだもんっ」
頬を膨らませて抗議するヨハンナは、すぐに悲しそうに表情を変える。
「こういうの、得意でしょ? いつもみたいに、ちょっと書いてくれるだけでいいから!」
「手伝ってやれよ。同期なんだから」
ヨハンナの近くにいた先輩が口を挟んできた。普段からヨハンナばかり贔屓してくる男だ。
「どうせお前は今夜の用事なんてないだろ。一人で寂しく過ごすより、仕事してたほうが有意義なんじゃないか?」
「でも私が報告書を書いたら、ヨハンナが困るんじゃないですか? 実験もヨハンナが途中で帰っちゃったから、私が最後までやったし……主任に質問されたら答えられる?」
「報告するときに、一緒にいてよ。私が分からないところは代わりに答えて」
「最初から最後まで私にやらせて、ヨハンナの研究って言えるの?」
「そんなぁ。私、ちゃんとやったよ。横取りしないで!」
「うわ……お前、最低だな。手柄だけ取るつもりかよ」
「横取りなんてやってません」
ヨハンナにやる気を出してもらいたくて言ったことが、どんどん歪んでいってしまう。
彼女の研究を盗むつもりなんてない。主任がヨハンナに主題を与えてやらせていることだから、彼女がやらないと意味がないのだ。
「先輩、待ってください!」
エレオノーラに詰め寄ろうとした先輩を、ヨハンナが腕を掴んで止めた。ヨハンナはそのまま先輩の腕にすがり、弱々しく微笑む。
「わ、私、信じてるから。本当は横取りするつもりなんてないって。ちょっと意地悪なこと言っちゃっただけだよね? ごめんね、自分でやるから……っ」
ヨハンナの目から涙がこぼれた。とたんに周囲の男たちはエレオノーラに敵意をあらわにした。
「あーあ、泣かせるなよ。たかが手伝いなのに、どうして快く引き受けてやらないんだ?」
「どうしてって、主任に指名されたのはヨハンナだったから……手伝いはするけど、データの取りまとめとか報告書は――」
「うるさいな。ヨハンナは予定があるって言ってただろ」
別の先輩が机の上に置いてあったレポート用紙を、雑に押し付けてきた。
「責任もってやっておけ。どうせ雑用しかできないんだから、少しは誰かの役に立つことをしろよ」
「明日までにできてなかったら、主任へ報告して評価を下げてもらうからな」
「ごめんね、もう行かなきゃ! 書き終わったら、私の机に置いてね!」
彼らはヨハンナを連れて、部屋を出ていった。
「えっと……どう答えても、私がやるのは変わらなかったってこと?」
楽しげに笑う声が廊下から響いてくる。
エレオノーラは真っ白なレポート用紙を見下ろした。これを書き終えられるのは何時ごろだろうか。残業を通り越して、徹夜になるかもしれない。
――最後に家で寝たのは、いつだったかな?
一週間を超えたあたりで、数えるのをやめた。
先ほどのように就業時間を過ぎてから、仕事を回されるのは珍しくない。一晩かかる実験を任されることもあるので、職場に泊まる準備はしてある。
もうすっかり慣れてしまったけれど、たまにはソファではなくて普通のベッドで心ゆくまで眠りたかった。