間話 対照的な二人
なんで私が前線に送られなきゃいけないのよ――ヨハンナは親指の爪を噛んだ。
家に帰ったヨハンナを待っていたのは、味方をしてくれない家族と、よそよそしい使用人たちだった。
溺愛してくれる母親は泣いて同情してくれたものの、父親の決定に逆らうそぶりすら見せない。兄と姉はヨハンナのことを馬鹿だの要領が悪いだの、さんざん罵ってくる。弟は軽蔑している目で、ただニヤついているだけだ。使用人に至っては、巻き添えをくわないように黙って己の仕事だけをしていた。
父親は帰ってくるなり、ヨハンナに赴任先が決まったと言って、追い出しにかかった。自分の政敵が嗅ぎつけてくる前に、ヨハンナを追放する魂胆らしい。
――滅多に家へ帰ってこないくせに!
仕事のことしか考えておらず、妻や子供たちは己が成功している証としか考えていない。だから不良品と判断したら、簡単に切り捨てられる。
皆は嫌がるヨハンナを荷馬車に乗せ、功績を上げたら帰ってきてもいいと宣言した。ご丁寧に逃げられないよう、魔術で拘束まで施して。
どんなに叫んでも、声は魔術の膜で消されてしまう。ヨハンナの魔術は腕に埋めこまれた腕輪に吸収され、魔力だけ体に戻ってくる。まるで罪人扱いだ。
そうやって連れてこられたのは、国境近くの軍事施設だった。アリの巣のように地中に建設されており、竜の侵入を防ぐために通路は限界まで狭くしてある。ヨハンナが暮らしていた屋敷とは対極の環境だ。
掃除も洗濯も、自分でやりなさいと言われた。やりかたを知らないと言ったら、呆れた顔で説明された。誰もヨハンナの代わりにやろうとしないから、自分でやるしかなかった。
ヨハンナは優秀だから、すぐにできるようになった。だが手が荒れて水がしみる。乾燥を防ぐクリームは屋敷に置いてきてしまった。使用人が適当にヨハンナの荷物をまとめたせいで、入れ忘れたのだろう。
お気に入りの香水もない。
気が利かない人間ばかりだ。
唯一、料理だけは専門の人間が作っていた。だが器に入った料理は自分で運んで、空いている席で食べないといけない。一つの皿に料理を全て入れるなんて、いかにも平民らしくて嫌になる。
――エレオノーラちゃんのせいよ。こんなの、正しいわけないもん。
ヨハンナは常に愛されていた。家族の中で最も魔力が多く、初めて魔術を使ったのは四歳のときだ。家庭教師からたくさんの魔術を教えてもらった。得意だった炎の魔術を極めて、たくさんの人に褒められたのに。全てエレオノーラに関わったせいで、失ってしまった。
彼女さえいなければ、今も楽しく暮らしていたはず。そう思うと、余計にエレオノーラが嫌いになった。
ヨハンナは会議室の端から、隊長だという男を視界に入れた。偉そうに命令してくるから嫌いだ。到着したばかりのヨハンナを労るどころか、迷惑そうに、せいぜい頑張れと言うなんて失礼だ。その上、腕輪を制御する方法まで知っている。
今のヨハンナは他人には攻撃できない。木の板に落書きしただけの的にしか、魔術を使えない。
あの男はヨハンナが炎の魔術を見せてあげたのに、全く驚かなかった。それどころか使い所が難しいから嫌だと感想までつけてくる。
敵を殲滅できるんだからいいじゃないと反論しても、集団戦には向かないとか、わけの分からないことを言う。
敵なんて魔術で薙ぎ払えばいいのに。難しく考えるから、戦いが長引くのだ。
――助けてくれって言われても、絶対に助けてあげないんだから。
隊長は最後に研究所から派遣されてきた魔術師を紹介した。竜騎士に効果がある薬を開発して、実用性を確かめるために前線までやってきた物好きだ。
「え……ルーカス先輩?」
あの陰険そうな顔は間違いない。同じ研究所で働いていたのに、ヨハンナは新人の兵士待遇で、ルーカスは顧問魔術師だ。
不公平だ。不愉快なことが増えたと爪を噛んだヨハンナだったが、面白そうなことを思いついて微笑んだ。
精神教育という名のつまらない話が終わって解散すると、ヨハンナはルーカスの後をつけた。彼は生意気なことに個室を与えられて、そこに滞在しているらしい。
扉を叩くと、すぐにルーカスが出てきた。
「先輩」
「ヨハンナ? なぜここに」
「そんなことは別にいいじゃないですか」
ここにいる理由なんて、ルーカスには話したくない。ヨハンナは不貞腐れて帰ってしまおうかと思ったが、今は我慢してあげることにした。
「いいこと思いついたんです。先輩、エレオノーラちゃんを気に入ってたでしょ? 取り戻すのを手伝ってあげようかなって」
「……必要ない」
ルーカスは扉を閉めようとした。ヨハンナは閉められる前に体で割りこんで邪魔をした。
「待ってください。先輩、ずっとエレオノーラちゃんを狙っていたでしょ? 知ってるんですよ。でも竜騎士に誘拐されちゃったって聞きました。取り返しに行かないんですか?」
「取り返しにって簡単に言うが、敵国だぞ。孤立無縁で生きて帰れるはずがない」
「先輩、私が誰か忘れたんですか? 隣の国のこと、よく知ってますよ。だって私の家には、地図とかいっぱいありましたから。それに先輩、エレオノーラちゃんがどこにいるのか、探す魔術を使えるじゃないですか」
にっこりと笑いかけると、ルーカスは嫌そうな顔になった。
「ストーカーみたいな言い方をするな。追跡の魔術だ。あれは対象の個人情報がないと」
「ええっ。先輩、あんなにエレオノーラちゃんに固執していたのにぃ? 魔力の情報は研究所にあるじゃないですかぁ」
絶対にルーカスは話に乗ってくる。ヨハンナには予感があった。本当は今すぐ取り戻したいと思っているくせに、理屈をこねて動こうとしない。魔術を犯罪に使ってしまうかもしれないと恐れている。
いまさら正義の騎士を気取るつもりだろうか。それとも正攻法でエレオノーラに会いに行けば、彼女が好きになってくれるとでも思っているのだろうか。
馬鹿ねとヨハンナは心の中で嘲笑った。
帰り支度をしているエレオノーラに残業しなければ片付かない雑用を申し付けたり、厳しく接するだけで褒めたことがないルーカスなんて、嫌われる理由しかないというのに。
「先輩はエレオノーラちゃんが要らないんですか? 私の知識と先輩の魔術があれば、潜入して連れ戻せるのに。なんなら、私が陽動してあげましょうか? その間に先輩はエレオノーラちゃんと逃避行するんです。もしかしたら愛が深まるかも?」
うんざりとしたルーカスは、短くなぜだと尋ねた。
「俺に協力する見返りはなんだ。君はエレオノーラを殺そうとしていたじゃないか」
「これでも心を入れ替えたんですっ。前線で生活して、ようやく自分が酷いことをしたって自覚しました」
ヨハンナは嘘をついた。
「謝っても許してもらえないことは分かってます。でも! 自分にできることって、エレオノーラちゃんを助けることだけだから。きっと外国で心細く暮らしていると思うんです。だから」
「……完全に君を信じたわけではないが、そこまで言うなら作戦ぐらいは考えているんだろうな?」
ようやくルーカスが関心を持った。
「もちろんです。簡単ですよ。さっきも言いましたけど、私が囮になりますから、その間に先輩がエレオノーラちゃんを捕まえるんです。でも私、この腕輪のせいで魔術が使えないから、あまり役に立ちませんけど」
「腕輪は俺が対処できる。まず大まかな方向を探るから、まだ何もするな」
ルーカスは冷たい声で言ってヨハンナを押しのけると扉を閉めた。
――よっぽどエレオノーラちゃんが好きなんだ。
ルーカスはもうエレオノーラを取り戻す気でいる。彼女のことを想うあまり、ヨハンナの提案に乗ってきた。
これでエレオノーラが戻ってくる。
ヨハンナは自分に運が回ってきたと感じた。
エレオノーラが全ての元凶だ。彼女さえいれば、ヨハンナには元の生活が戻ってくる。
だから邪魔なトカゲ使いが立ち塞がったとしても、全て焼き払えばいい。
* * *
「降格と停職だけ? なぜですか。だって、私」
「被害者が刑法に則った処罰を望んでいる。それに私刑は明確に禁止されている。君に罰を与えるために違反せよと?」
ディートリヒに呼び出されたアルマは、もっと重い処分が下されるものと思っていた。
アルマは後悔していた。誰かを守りたくて竜騎士を志したはずなのに、その誰かを殺すところだった。どうすれば償えるのか、被害者は無事なのか、そればかり考えていた。
――彼女に温情をかけられた? でも、どうして。
うっすらと見えたエレオノーラの記憶が頭から離れない。辛いことを追体験させてしまったのだから、彼女が望む通りに罰せられるべきだと思っていた。それなのに肝心のエレオノーラが極刑を望んでいない。
「エレオノーラの事情は、記憶をのぞいた君なら知っていると思うが」
感情を削ぎ落とした顔で、ディートリヒが言った。
「君の荒療治で、彼女は記憶を取り戻した。きっかけとなったことについては、感謝していた。だから法律外の処罰は求めないそうだ」
「そう……ですか」
「俺自身は思うところがあるが、彼女の意見を尊重する。感情に任せて左遷などの冷遇はしないから、君もそのつもりで行動するように」
「わかりました」
優しいようで、実は違う。いっそ怒鳴られたほうが楽だった。ディートリヒが仕事と感情を切り離しているのは、アルマを冷遇することが罰になると知っているからだ。
罪を意識させ、罰せられることは、アルマにとって一種の救いになる。贖罪する方法を示されて盲目的に従うことで、いつか許されるという希望を抱いてしまう。
自分で償いを考えて行動していると、それが本当に正しいのか疑問がつきまとう。
また似たような過ちを犯しているのではないのか。
自分が償いと思っていることは、被害者の神経を逆撫でにする行為ではないだろうか。
誰も教えてくれない。
正解がないから、苦しい。
ディートリヒは本気で怒りを感じているから、アルマに終わらない苦しみを与えることを選んだ。
――私はそれだけのことをしてしまった。
直接、エレオノーラに謝りたかった。
けれど、それは不快にさせるだけだろう。アルマはエレオノーラを傷つけた本人なのだから。関わろうとすることで、再び傷つけてしまう。
どうすればエレオノーラに償うことができるだろうか――アルマは暗闇の中に落とされた気持ちで、ただ彼女の幸せを願った。




