思い出の在り処
丸一日、しっかり休んだエレオノーラは、もう動き回れるほど回復していた。ところがディートリヒもカサンドラも、まだ休むべきだと言って室内から出るのを許してくれない。
「風邪をひいたら、いつも一日休んでから出勤してたよ。だからもう平気」
「隣国の勤務体制は、いったん忘れろ」
「そうよ。病み上がりなんだから無理しないの」
ディートリヒたちが真剣に止めるので、エレオノーラは勢いに押されて弱気になってきた。
なぜこの二人は自分を心配してくれるのだろうか。
「で、でも……ずっと寝ているのは暇だから……散歩ぐらいはしてもいい?」
「散歩中に目眩でもおこして転倒したら危ないな……よし、じゃあ俺がそばに」
「あなたは仕事でしょ。遅刻するわよ」
野良犬を追い払うように、カサンドラはディートリヒを追い出しにかかった。嫌がるディートリヒの背中を押し、メイドに言って扉を開けさせる。ディートリヒは残念そうにため息をつき、エレオノーラを振り返った。
「ものすごく行きたくないが、仕方ないから仕事へ行ってくる。何かあったら、この姉を使って連絡してくれ」
「本当に失礼な弟ね。あなたの手を借りなくても、私だけで十分よ」
「ところで姉上はいつまでここに?」
「今日までよ。弟が無様に怪我をして帰ってくるんじゃないかと思って、気を使って休みを取っておいたの。感謝してよね。エレオノーラを放置せずに済んだんだから」
ディートリヒは、ふと思いついたように言った。
「つまり姉上がいなければ、俺は休みを取得できたのか」
「いや無理でしょ。部隊長が行方不明なんて事態をひきおこしておいて、なんで休めると思うの。いいから早く行け。行って方々に頭を下げてこい。ご迷惑をおかけしましたって」
「エレン、今日は早く帰ってくるから、せめて夕食ぐらいは共に」
「うん。待ってるね。いってらっしゃい」
エレオノーラが了承すると、ディートリヒは嬉しそうにはにかんだ。どこかから竜の楽しそうな鳴き声も聞こえてくる。軽い足取りで出て行ったディートリヒは愛竜に乗ると、屋敷の上を一周飛行してから職場と思われる方向へ飛び去った。
「あそこまで態度が変わると、もはや別人ね……」
カサンドラは疲れた顔で窓から空を見上げている。
――そんなに一緒の夕食が楽しみなの? あっ……もしかして。
あまり誰かと食卓を囲むことがないのだろうかと、エレオノーラは思った。
隊長の業務がどれほど忙しいのか想像するしかないが、管理職なので暇ということはないはずだ。連日のように帰るのが遅くなり、一人で食事をすることが当たり前の生活――自分と似ている。屋敷で働いている人たちを誘ったとしても、雇用主と雇われている者では大きな隔たりがある。お互いに気を使うだろうし、賑やかな会食にはなりにくい。
――そういえば、黒い羽トカゲだったときも、二人で食事をしていたら楽しそうだったわ。
気兼ねなく過ごせる相手がほしい。エレオノーラもよく考えていた。
ならば風邪で迷惑をかけてしまったエレオノーラは、ディートリヒの望み通りにするのが正しいのではないだろうか。
エレオノーラは自己解決して、ディートリヒのことをよく知らないと気がついた。もし彼が触れてほしくない話題や気分を害することがあれば、事前に知っておきたい。優しくしてもらったお礼というわけではないが、ディートリヒとは良好な関係のまま別れたかった。
ちょうど、教えてもらえそうな人が目の前にいる。
「あの、カサンドラさん?」
「何かしら?」
「ディートリヒさんのことを教えていただきたくて……」
「ええ、いいわよ。最近のことから昔のことまで、何でも聞いて」
「じゃあ子供のころの話を。実は私、覚えていないんです」
「うん?」
孤児院に入る前のことを忘れてしまった、思い出したくても方法が分からないと正直に打ち明けると、カサンドラはハンカチを目にあてて動かなくなった。
「カサンドラさん……?」
「待って。そんな大変なものを背負っていたの? それはディートリヒも過保護になるわ。大丈夫よ、職場の知り合いに心的外傷の専門医がいるから、診察を受けられないか頼んでみる」
「そこまでお世話になるわけには」
「いいえ、あなたに必要なのは、誰かに頼ることよ。もう一人じゃないって覚えておいて。弟のことが知りたいのよね? 今日は天気がいいし、庭を歩きながら話すわ」
思ったよりも大ごとになっていないだろうか。目元の化粧を直すと言って出ていったカサンドラを見送りながら、エレオノーラはただ戸惑うしかなかった。
しばらくして、すっきりとした表情のカサンドラは、エレオノーラを庭の一角に誘ってくれた。綺麗に手入れをされた花は、ディートリヒがくれたものと同じ種類だ。わざわざ暗い中、庭に降りて摘んでくれたのだと思うと、心の奥がざわめいて温かくなってきた。
「どこから話そうかしら……」
カサンドラは二人の家について話し始めた。
「私たちの父親も竜騎士だったの。サンタヴィルは竜が身につける装身具の産業が盛んでね、よく注文しに行ったわ」
子供のころのディートリヒは、父親と一緒によくエレオノーラの生家を訪れていたそうだ。エレオノーラの父親が営む工房が鞍を専門に製作していたためだ。その縁でエレオノーラとディートリヒは仲良くなったのだろう。
「すごく腕がいい職人だって、父が言っていたわよ。竜ってね、空中で体をねじって急旋回することがあるの。だから体に合った鞍を選ぶのは大変なのよ。相性が悪いと鱗が剥がれたり皮膚が傷ついてしまうから。細かい調節をしないといけなくて、泊まりがけで様子をみることもあるわ」
ディートリヒが竜騎士を目指すと言い出したのも、そのころだった。
「絶対にやりたくないって言ってたのが嘘みたいだった。サンタヴィルでいいことがあったんでしょうね」
「ご両親は、同居されていないんですか?」
「母は本邸に住んでいるの。ここは別邸なのよ。父は……サンタヴィルを守るために出撃して、そのまま亡くなったわ」
赤い空を飛ぶ竜の姿が、うっすらと浮かんだ気がした。
「すいません。立ち入ったことをお聞きして……」
「いいのよ。もう何年も前のことだから、ちゃんと折り合いをつけているわ。それにね、竜騎士の家族は突然の訃報を覚悟しているものよ」
だから気にしないでとカサンドラは微笑んだ。
「戦争前のことで私が知っていることといえば、エレオノーラのご両親のことぐらいね。あとはディートリヒの恥ずかしい話……は、少ないわ。あいつ、要領がいいから」
「ディートリヒさんは、お父さんのことについて何か言っていましたか?」
「全然。何も言わないけど、尊敬はしているみたいよ。訃報を聞いたときも、人並みに悲しんでいたわ。でも立ち直るのは早かったみたい。いつまでも立ち止まっていたら約束を破ってしまう、顔向けできないとか言っていたわね。父と、もう一人。名前は教えてもらえなかったけど」
夢でみた光景を思い出した。それにディートリヒは竜騎士になったら、エレオノーラを乗せて飛ぶ約束をしたと言っていた。
――約束、守ってくれたんだ。
子供の戯れだからと破ったりせずに。エレオノーラが覚えているか関係なく、生死すら分からない状態になっても。
反対に、自分は彼に何を約束したのだろうか。
忘れてしまったエレオノーラに失望していないだろうか。
ディートリヒは自分とは違う世界の人だからという理由で、離れることばかり考えているのだから。
――よく考えたら、すごく失礼なことよね。
何を考えているのかなんて本人にしか分からないのに、ディートリヒが望んでいることを聞きもせず、勝手に理解したような気になっていた。どうせ心変わりをすると決めつけて、逃げようとしているのは誠実ではない。
どんな言葉を並べたとしても、行き着く先は自分が傷つきたくなかったという理由でしかない。
――まだ思い出せないことばかりだけど、せっかく会えたのに今のディートリヒのことを知ろうとしないなんて駄目ね。
久しぶりに会った、好意的な人だ。このまま一緒にいられたらいいのにと、不相応なことを考えてしまうほど。
孤独だった反動だろう。
少し優しくされただけで、特別だと勘違いしてしまいそうになる。でも隣国にいた頃は、そんな勘違いをさせてくれる相手に出会うことすらなかった。
「……あ。そういえば、ここは別邸って、さっきおっしゃいましたよね?」
「ええ。維持費がかかるから手放そうかって話が出ていたんだけど、ディートリヒが西方勤務になったから使うことにしたそうよ」
母親が住む本邸はこの竜皇国の首都にあるそうだ。
もしや資産家の家系なのかと尋ねると、カサンドラは爵位なんて面倒なものを背負った代償よと答えた。
「もう古い世代ほど豪華な生活はしていないから気にしないで。ディートリヒも私も、騎士団で質素な生活してるから、貴族らしい生活って苦手なのよね」
屋敷の中に家令やメイドと呼ばれる職業の人たちがいて、専属の庭師を雇って、外商を呼ぶ生活は質素なのだろうか。エレオノーラは、やはり住んでいる世界が違うと実感した。