竜が舞う国5
「エレンが倒れた?」
不在間に溜まっていた仕事や隣国が関連する業務を片付け、ようやく屋敷に帰ってこられたディートリヒは、浮かれていた心が急速に沈んでいくのを感じていた。
エレオノーラに一秒でも早く会いたくて仕事に専念している間、彼女は体調を崩して苦しんでいたなんて。もっと早く気づいていれば、全ての仕事を休んでそばにいたというのに。
ディートリヒの心情が伝わった相棒の竜が、厩舎で悲しい鳴き声をあげた。落ち着けと心の中で返し、知らせを持ってきたカサンドラを問い詰めた。
「いつからだ? 症状は? 医者は呼んだのか?」
「落ち着け愚弟。あと竜も。うるさいわよ。エレオノーラの安眠妨害になるから黙りなさい」
怒られた気配を察した竜が静かになった。相棒は同じ竜騎士のカサンドラが苦手なのか、ときにディートリヒの命令よりも彼女の言うことを聞くことがある。仔竜のころに姉のぬいぐるみに噛みついて、しっかり躾けられた記憶が忘れられないのだろう。
「心配しなくても、だいぶ快復してきたわ。心労らしいけれど、彼女に何があったの?」
「あまり言いふらすことはしたくないが……」
ディートリヒは簡単に、エレオノーラを連れてくるきっかけになった出来事を話した。搾取されるばかりの生活だったこと。冤罪をかけられて精神的に追い詰められていたこと。それから同じ職場の魔術師に家を燃やされたことだ。
さすがに三回目ともなれば、ディートリヒの中でそれぞれの出来事が整頓され、滑らかに言葉が出てくる。辛い思いをしている彼女を、見ていることしかできなかった悔しさも入り混じり、より悲壮さが強調される結果となった。
「ちょっと待って。ハンカチ……ハンカチ出すから」
カサンドラは目尻に浮かんだ涙を、そっと拭った。自分と違って感情表現が豊かな姉は、早くもエレオノーラに同情している。
「そんな……家族を亡くした孤独に耐えながら、理不尽な仕打ちに我慢するしかなかったなんて。しかも味方になってくれる人が、一人もいなかったの?」
「ああ。研究所の魔術師たちは、貴族社会の悪いところを凝縮したような連中だった。だから連れて帰ってきた」
「当然よ! 見捨ててくるような弟だったら、今すぐ決闘を申し込んでいたわ」
話は終わった。エレンのところへ行こうとしたディートリヒを、カサンドラは目ざとく止めてきた。
「待ちなさい。まさかエレオノーラのところへ行く気じゃないでしょうね」
「止めるな」
「止めるわよ。寝こんでいる女性の部屋へ手ぶらで行こうなんて、何を考えているの? 嫌われるわよ」
足が止まった。
エレンのことが心配だ。だが嫌われたくない。二つの想いが脳内を激しく渦巻いている。
「よく考えてごらんなさい。寝る服装でベッドにいるのよ? 人前に出てもいい格好じゃないわ。未婚の女性が、起きたばかりの姿を異性に見られて平気だと思う?」
思うわけがない。自分だってエレオノーラには無様な格好など見せたくない。だが現在の彼女の状態が分からないままでいるのは、拷問に等しい。
しかしながら優先順位はエレンが上。彼女が心身ともに穏やかに過ごせるよう取り計らうことが、己の使命ではないのか。ならばエレンの様子を知りたいというだけで、行動するようなことがあってはならない。
ディートリヒは瞬時にそこまで考え、またエレオノーラとの間にある越えられない壁を感じて落ちこんだ。
「そんな死にそうな顔するんじゃないわよ」
カサンドラはため息をついて腕組みをした。
「仕方ないわね。私がエレオノーラの様子を見てくるから。ついでにあなたが見舞いに来てもいいか、尋ねてあげる」
「頼む」
姉に借りを作る形になるのは癪だが、他に方法はない。エレオノーラに軽蔑されずに済むなら、自分の自尊心などいくらでも捨ててやる。
――もしエレンに断られたとしても、見舞いの品ぐらいは受け取ってくれるだろうか。
もう夜も更けている。大半の店はすでに閉店しているだろう。
エレオノーラは質素な生活をしていた。あまり高価なものを贈り物にすると、萎縮させてしまうかもしれない。奥ゆかしい彼女は好ましいが、もう少し欲を出してほしかった。最初は軽いものから始めて、徐々に増やして慣れてもらうしかない。訓練と同じだ。
厩舎にいる相棒が、花がいいと伝えてきた。屋敷の厩舎から見えるところに咲いているらしい。
「花か」
庭に咲いている花なら、エレオノーラも気後れせず受け取ってもらえるかもしれない。花束なんて作ったことはないが、これを機に新しいことを始めてみるのも悪くなかった。
* * *
まだ若干の倦怠感はあるものの、熱が下がって起きられるようになった。エレオノーラは医者の手配をしてくれたり、様子を見にきてくれたカサンドラに感謝していた。
「会ったばかりなのに、すっかりお世話になってしまって……」
「いいのよ。こちらこそ、気がついてあげられなくてごめんなさいね。大変な思いをしていたって聞いたわ。その上、慣れない飛行でしょう? 倒れても仕方ないわよ」
カサンドラはきっと、ディートリヒから聞いたのだろう。彼女にしてみれば。エレオノーラは唐突に現れた得体の知れない訪問者だ。当然ながら素性を知りたいと思うはずだ。
「すいません。本当なら私が自分で話さないといけないことなのに」
「な、何を言っているのよ。風邪で伏せっているときに、辛い話をしなくてもいいの。余計に追いこまれるだけなんだから。あなたはまず健康になることだけを考えて!」
夜遅くに邪魔したわねと言ってカサンドラは退室しようとしたが、思い出したように足を止めた。
「忘れてたけど、愚弟が見舞いに来たいって言ってたわ。通しても大丈夫?」
「こんな格好で失礼にならないでしょうか。可能なら明日以降のほうが……」
「そうよね。大丈夫よ、本人も無理強いはしたくないようだったから、断っても問題ないわ」
カサンドラが出ていってしばらくすると、マーサという年配のメイドが小さな花束を持ってきた。
「ディートリヒ様からの贈り物です」
「私に?」
大輪の赤い花を中心に、品よくまとまっている。どこか近くで摘んできたのか、切り口はまだ瑞々しい。
「可愛い……」
「ディートリヒ様自ら、庭で摘んでおられたようです。平癒に効果のある魔術を施してあるそうですので、こちらに置かせていただきます」
マーサはガラス製の花瓶に入れて、枕元に近いサイドテーブルの上に置いてくれた。
花をよく見ると、薄く魔術がかかっている痕跡が見えた。手を近づけると暖かく、気持ちが落ち着いてくる。
「何かあればお呼びください」
「ありがとうございます」
もう休むと伝えると、マーサは部屋の明かりを消してから退室していった。
「早く治さないと」
誰かに助けてもらってばかりだ。つい依存してしまいそうになる。
ずっと、頼ってもいいのは自分自身だけという生活をしていた。だから他人がいないと生活できない環境になってしまったら、困るのはエレオノーラだと知っている。
――だって、こんなに幸せなことばかり続くわけないから。
いずれ終わる生活だ。
いくら昔の知り合いで、呪いを解いた恩人だったとしても、生活を支援し続けるなんて現実的ではない。
すでにディートリヒの私生活を邪魔している自覚があった。
ディートリヒは竜騎士だ。竜皇国を守る重大な任務に比べたら、エレオノーラに構っている時間は無駄ではないのか。彼を頼りにしている人は多い。突然現れた自分が独占していいはずがない。図々しい奴だと嫌われる前に、仕事を見つけて出ていくのがお互いのためだ。
心も体も弱っているせいなのか、今は楽観的にはなれそうもない。
目を閉じて自分がやるべきことを考えているうちに、エレオノーラは眠ってしまったらしい。夢の中で知らない子供達と遊んでいた。黒い髪の男の子はディートリヒだろう。好奇心が強そうな金色の瞳が、エレオノーラを見つけて嬉しいと語っている。
集団から二人だけで抜け出して、お気に入りの場所まできた。何かを約束してから、絶対に秘密だと言っている。
その約束を知りたいのに、声が聞こえない。
目が覚めたとき、夢は楽しかった余韻だけを残して消えてしまった。