竜が舞う国2
翌日、隣から聞こえてくる話し声で目が覚めた。一人はディートリヒで、もう一人は分からない。落ち着いた声音に再び眠気を誘われたが、ベッドから降りて無理やり起きた。
寝癖がついた髪をなんとか誤魔化し、静かになった隣室へ行くと、机に書類を広げていたディートリヒがいた。考え事をしながら手元の紙に書きつけていたが、エレオノーラが入ってくると、すぐに気がついて険しい表情を緩めた。
「おはよう。疲れてないか? もう少し眠っていても良かったのに」
「……おはよう。あの、仕事の邪魔じゃなかった?」
「まさか。どんな仕事だろうと、エレンが最優先だ」
朝からいい笑顔で誤解させることを言ってくる男だ。それともこれが竜皇国の社交辞令だろうか。
どっちだろうと悩むエレオノーラをよそに、ディートリヒは机の上を片付けて布を被せたカゴを取った。
「朝食にしようか。座って」
カゴから出した皿を並べ始めたディートリヒを見て手伝おうとしたが、やんわりと断られた。羽トカゲだった頃に世話になったからと彼は言うが、奉仕されると落ち着かない。
「誰かにやってもらうなんて、慣れないわ」
「慣れろ。これが俺のやり方だ」
無茶を言う。
「前線の砦だから、良い食事とは言えないが」
「食事を分けてもらえるだけで十分だから」
日持ちするように固く焼いたパンと、野菜や肉をしっかり煮込んだスープだ。質素な内容だが、しっかりした味付けで美味しい。
席に着く前は緊張していたのに、二人で食卓を囲むと驚くほど自然に会話が進んだ。ディートリヒは一見すると冷たい印象を受けるが、言葉の選択が上手いのか、エレオノーラが萎縮するようなことはなかった。
無理して優しくしているようには感じない。知らない砦にいるのに、居心地がいいと感じてしまうほどだ。
「そういえば、あのルーカスという男の仕事を手伝ったことは?」
「あるよ。でも私が関わったのは、回復薬とか試薬がほどんどね。薬の調合は秘密にすることが多くて、全ては知らないの」
ディートリヒに呪いをかけたのがルーカスだったというのは、昨日の段階で聞いている。あの出張でディートリヒと衝突して、トカゲになる呪いをかけていたなんて驚きだ。呪いには後遺症が残るものもある。危険な実証実験でも敵に使うなら問題ないということだろうか。
呪いについてエレオノーラが協力できることはない。ルーカスの専門は攻撃に使える魔法薬全般だ。研究内容が盗まれないように、核となる部分には決して他人を関わらせようとしなかった。エレオノーラは彼の研究内容を尋ねたり、情報を抜き取ったりしなかったので、助手候補にするには丁度良かったのだろう。
「……ごめん。他人の研究には関わらないことが、研究所の規則だったから」
「謝ることはない。呪いは解けた。影響が残っているかは、この国の術者でも調べられる」
食事の後にディートリヒが用事を済ませている間、できる限りのことを思い出してみたが、呪いに関することは浮かんでこなかった。ルーカスの徹底した情報管理は見習うべきところが多い美点だと思うと同時に、こんなときは少し恨めしい。
ディートリヒは竜が待つ屋上へ行く前に、薄手のコートをエレオノーラに渡した。
「今の服装では風邪をひく。長距離を飛ぶことになるから、大きさが合わなくても着ていてほしい」
おそらくディートリヒのものだろう。袖から手の先しか出ない。裾も長くてスカートと長さが変わらなかった。
「……誤算だった」
「やっぱり変、だよね?」
なぜかディートリヒは壁の方を向いて項垂れている。
「あいつら、こうなると知ってて……褒めてやるべきか? それともいっそ特別手当?」
「ディー?」
「なんでもない。行こうか」
ほのかに頬を赤らめて、なんでもないはずはないと思うが、仕事中の顔に切り替わったディートリヒは答えてくれないだろう。
屋上で待機していた隊員たちは、エレオノーラたちが現れると、急にほっこりした顔になった。昨日のよそ者に対する視線とはまるで違う。ディートリヒが怪しい者ではないと説明してくれたのだろうか。
東へ向かって移動する隊員は他にもいるらしく、赤や灰色の竜も待機していた。背中に鞍をつけられ、大人しく待っている。ディートリヒの竜は主人が近づくと鼻を擦りつけて甘えていた。
昨日と同じように竜の背中に乗せられたとき、馬と違って背中側だと落ちる可能性が高いからと説明された。体を支えているのがエレオノーラの腕力だけだと、上下に移動するときに耐えられないかもしれないそうだ。
「竜は飛翔して上空の風に乗る。ほとんど体力を使わないから、馬よりも長い時間を移動できるんだ。ずっと同じ体勢のままでいると、降下したときに力が入らなくて事故になりやすい」
「でも前だと、ディーが疲れない?」
「この程度で疲れるような竜騎士はいない。昨日、絶対に落とさないと言っただろう?」
騎乗している竜が翼を広げた。昨夜のように澄んだ声で鳴くと、砦から似たような鳴き声が響いてくる。
「珍しいな。待機中の竜まで歌うとは」
「隊長が浮かれてんのが伝染したんだろ」
副官のクルトが呆れたように言った。気安い仲の同期という存在が珍しくて、エレオノーラは羨ましくなる。
「お嬢さん。竜はね、乗り手と心が繋がってるんだよ。だから、そこの男が何を考えてるのか分からないときは、竜を見ればいい。どうせ単純なことしか考えてないから」
「クルト」
「さーて、後方で警戒でもしていようかなぁ」
睨まれたクルトは逃げるように竜を操って後方へ下がっていった。
「竜も使い魔と似たような契約をしているの?」
「竜騎士は己の竜を卵から育てて、徐々に絆を深めていく。魔術で強制的に繋いだ回路じゃなくて、お互いの信頼で自然と構築される回路がある。言葉にするのは難しいんだが、自分の体がもう一つ存在している感覚に近い」
「だから命令しなくても竜が動いてくれるのね」
遠くにいても竜には主人の居場所がわかるそうだ。さらに心で繋がっているので、わざわざ名前をつけることもしない。
「名前がないと、誰かと竜の話になったときに不便じゃないの?」
「主人の名前さえ分かれば特に……俺たちは自分の竜に聞けば、どの竜と誰が繋がっているのか教えてくれるからな」
書類にも竜は主人と一緒に記載されるので、不都合が生じたことはないそうだ。
「使い魔とは全然違う……あ」
「どうした?」
唐突に、呪いをかけられていたディートリヒを魔獣扱いしていたことを思い出した。
「私ね、ディーを魔獣だと思ってたから、きっと失礼なことしてたと思うの」
目の前で着替えたり、抱きしめたこともあった。
黒トカゲだったディートリヒが見ないように背中を向けて、極度に触れないよう気をつけてくれなかったら、きっと気まずいなんて生ぬるい感想では終わらなかった。
「……俺は見てないからな」
「うん。ありがとう」
仏頂面で前を向いているディートリヒの耳が赤い。
逃げ場がない空の上で、会話を再開させるきっかけが掴めない。だが無言で飛んでいるのも悪くないと思い始めていた。