竜が舞う国
愛称で自分を呼んだ人は、知り合いらしい。なんでも呪いをかけられて羽トカゲにされ、エレオノーラに拾われたそうだ。時間がない中で簡単に説明されただけでは、まだ納得できないことばかりだった。
――子供の頃に会っていて、一緒に遊ぶ仲だったらしいけど。
残念ながらエレオノーラが覚えていない。ディートリヒは記憶がないエレオノーラを責めたり、無理に思い出させようとはしなかった。
初めて乗る竜の上で、エレオノーラは自分をしっかりと支えるディートリヒを盗み見た。黒髪と金色の瞳は保護をしていた黒トカゲと同じ色だ。目の前で呪いが解けるのを目撃しているから、彼は嘘をついていない。
「……寒くないか?」
見られていることに気がついたディートリヒが尋ねてきた。
「だ、大丈夫……」
少しでも姿勢を崩せば落ちてしまうのではないか――慣れない飛行体験で寒さを感じる余裕がない。それに異性と密着することなどなかったので、恥ずかしくて自然と体温が上がっていた。
「あの、ディートリヒさん?」
見つめ合う気まずさから逃げたくて名前を呼ぶと、ものすごく残念そうな顔をされた。
「愛称でいいと言ったはずだが」
「でも、長い間、会ってなかったみたいだし」
覚えていないエレオノーラには、初対面と変わらない。だが無表情になってしまったディートリヒがあまりにも悲しそうだったので、エレオノーラが折れた。
「……ディー?」
「ん?」
幸せそうに返事をされると、他人行儀な呼びかたをしたことに罪悪感がわく。
「私を探していたって、言ってたよね?」
「ああ。休日のたびに国内を探し回っていた。隣国にいたのは誤算だったな」
最も国境に近いとはいえ、子供の足で歩けば隣国の町まで数日かかる。ましてや当時は戦争中だった。敵国の子供と知られたら、どんな扱いを受けるか分からない。他にも町を脱出した住民がいたので、彼らと国内のどこかへ避難したのではと予想していたそうだ。
「どうして私を?」
「約束したことがある。俺が竜騎士になったら、エレンを乗せて飛ぶ、と。戦争で行方が分からなくなっていたが、こんな形で果たせるとは思わなかった」
「よく似た別人ということはないの? だって、前の戦争から何年も経ってるし、成長して顔とか変わったと思うし」
「使役の契約をしたときに、エレンの記憶の一部が流れてきた。あの町が健在だった頃の風景と、子供同士で遊んでいた頃の」
「……戦争の記憶も?」
「少しだけな。想像にしては生々しかった」
「私の家族は?」
「ご遺体は共同墓地に埋葬されている。生活が落ち着いたら、墓地まで案内しよう」
「そっか……もう、いないんだ」
思い出せないことが、もどかしい。
どんな生活をして、どんな人たちだったのか、知っていたはずなのに。
もう亡くなっていたと知らされてもあまり心が傷まないのは、記憶がないせいだと思いたかった。
「記憶を取り戻したいなら、できる限りのことはする。だから絶対に孤独だと思わないでくれ」
もしかしたら黒トカゲだった時から、似たようなことを言ってくれていたのだろうか。ただの鳴き声にしか聞こえなかったが、いつも必死に訴えてきていた。ようやく話せるようになったと、嬉しそうに言っていたことが腑に落ちた。
「ありがとう。一人じゃどうしようもない時は、お願いするね」
「いつでも構わないのだが」
遠慮をする意味が分からないとばかりに、ディートリヒはため息をついた。先ほどから、隙あらばエレオノーラを甘やかそうと企んでくる。
自分以外に頼れる人がいなかった経験から、依存することへの不安があった。もしディートリヒが心変わりをして離れていってしまったら、エレオノーラはまた一からやり直さないといけない。
何も持っていない自分を、無条件で受け入れてくれる場所なんてあるはずがない。
家族はもうおらず、育った孤児院は家庭的な場所ではない。
魔術を習った学院は、みな上を目指すために必死で、他人を気遣う余裕がある者などいなかった。
「もうすぐ砦に到着する。あまり快適な場所とは言えないが、今夜はあそこに泊まるぞ」
「泊まるぞって、急に押しかけても平気なの?」
「問題ない」
竜が徐々に高度を下げてゆく。地上に見える灯りへ向かっているようだ。
ディートリヒが歌のような囁きを発すると、竜が呼応して澄んだ声で鳴いた。
微かに、遠くから笛の音が聞こえる。竜は音が聞こえた方向へ頭を向け、急降下を始めた。
「安心しろ、絶対に振り落とさない」
思わず小さな悲鳴が出たエレオノーラに、ディートリヒはそんなことを耳元で囁く。艶のある声で、そんなことをしないでほしかった。色々と刺激が強い。
砦の屋上に着陸した竜は、その場に伏せてゴロゴロと甘えるような声を出した。先に降りたディートリヒは竜の首を軽く叩き、よくやったと褒めている。親密な光景がエレオノーラの記憶を刺激したが、正体を掴む前に消えてしまった。
ディートリヒの手を借りて竜の背中から降りていると、砦の中から次々と人が出てきた。似たような黒い制服を着ているので、全員が竜騎士なのだろう。
「隊長、心配しましたよ。よくご無事で」
先頭にいた男がディートリヒに話しかけた。他の者は竜がつけている手綱を引いて、どこかへ誘導していた。
「不在間の様子は?」
「何度か魔術師たちの姿を目撃しましたが、お互いに被害はなく。いつもの膠着状態です」
報告を受けているディートリヒは、限りなく感情を削ぎ落とした顔になっていた。エレオノーラに向けていた笑顔の余韻はまるでなく、冷静で厳格そうな竜騎士としての姿があった。
「ところで、そちらの女性は?」
急に自分に関する話題に切り替わった。
大勢から注目されて萎縮するエレオノーラに対し、ディートリヒは堂々としていた。
「先の戦争で行方不明になっていた民間人を、隣国で保護した。俺を助けてくれた恩人でもある。失礼のないように」
「は」
名前を聞かれることも、素性を聞かれることもない。ディートリヒが連れてきたから無害だと全員が信頼している。説明されずとも、この集団の中ではディートリヒが最上位者だと物語っていた。
「エレン」
どうすればいいのか迷っているエレオノーラを、ディートリヒは手招きした。
「疲れていると思うが、もう少し辛抱してくれ」
空腹かどうか聞かれたが、エレオノーラは首を横に振った。今夜は極度に緊張する状態が続いていたせいか、胃のあたりが落ち着かない。代わりに温かい飲み物をもらえるだろうかと尋ねた。
「お湯でもいいの。あまり濃くない味なら」
「すぐに用意する」
ディートリヒに連れられて階段を降り、幾度か廊下を曲がって両開きの扉をくぐった。扉の正面には重厚な机が置かれ、厚手の絨毯が敷いてある。壁には紋章を描いた旗がかかっていた。紋章の隣には、学院で敵国のものだと教えられた国旗もある。
竜に騎乗して、夜中にエレオノーラを連れて砦へ押しかけても問題なく、立派な調度品が揃った部屋を使える。この現実を目の当たりにして、ディートリヒの正体を予想できないほど愚かではない。
「ディー。あなたがこの国で何をしているのか、まだ聞いてなかったわ」
隣へ続く扉を開けたディートリヒは、言っていなかったかと呑気に言った。
「竜皇国の西方を守護する竜騎士団に所属している」
「隊長、なんて呼ばれていたけど?」
「いくつかある部隊の一つを任されているだけで、そう大したものじゃない。今夜はここを使ってくれ。粗末で悪いが」
自分の役職は本気で大したことはないと思っているらしく、素っ気ない回答で終わってしまった。
隣は寝室になっていた。狭いが寝心地が良さそうなベッドが用意されている。ワードローブなども備え付けられていて、長期滞在できるよう設けられているようだ。
ディートリヒはエレオノーラを部屋に残して出ていったが、しばらくして温かい茶が入ったカップを持って戻ってきた。
「明日、さらに東へ向かって移動する。こんな砦じゃ、ゆっくり休めないだろ?」
「ここでの仕事はいいの?」
「緩衝地帯から魔術師たちが撤退したから、こちらも通常の監視体制に移行している。普段、俺がいるのは、もっと後方の司令部だ。常に最前線にいる必要はない。それに呪いをかけられたことについて、上層部へ報告しに戻らないと」
最終的にどこまで行くのか尋ねると、西方で最も大きな町だと教えてくれた。
「それを飲み終わったら、エレンは先に休むといい。少し隣が騒がしくなるかもしれないが、扉を閉めておけば聞こえないはずだ」
「私がベッドを使ったら、あなたはどこで寝るの?」
「俺一人ぐらい、どうとでもなる」
「まさか隣の部屋にあったソファで? 駄目よ、あんな狭そうなところで寝たら、身体中が痛くなるわよ」
研究所に寝泊まりしていたエレオノーラには、まともなベッドで寝る重要性を熟知していた。足が伸ばせるからと床で眠ると、寒いし床の硬さでよく眠れない。かといって一人がけのソファを繋げても、快適な寝床とは言えない。
助けてくれたディートリヒに窮屈な思いをさせるぐらいなら、自分がソファで寝ると言うと、しばらく無言で見つめられた。
「ディー。私、本気で言ってるのよ」
「……いや、それは理解した」
ディートリヒは口元を片手で多い、楽しげに笑っていた。
「心配せずとも、空きのベッドはいくらでもある。今は最低限の人数しかいないが、非常時にはもっと多くの人員が配置されるからな。一人増えた程度では困らない」
「それならいいけど……」
「別に床だろうと屋外だろうと、どこでも眠れるが」
「気になって私が眠れないわ。お願いだからまともな場所で寝て」
「エレンの願いなら仕方ない」
ディートリヒは愛おしげにエレオノーラの髪に触れたあと、頬に口付けた。
「おやすみエレン」
いくら恩義を感じているとはいえ、甘い顔で言わないでほしい。
――ディーはただの恩返しとして助けてくれただけ。親切にされた程度で、自分に気があるなんて思ってたら迷惑になるわ。
あまり他人から優しくされた経験がないエレオノーラには、勘違いする要素ばかりだ。だが勘違いから生じた恋愛の拗れは、学生の時から見聞きしている。同じ失敗はしたくない。
「とりあえず、これ飲んで寝よう。明日も竜に乗るみたいだし」
また密着して乗るのだろうか。次は前ではなくて後ろがいい。でも後ろだと背中につかまるしかないので、それはそれで恥ずかしいかもしれない。どちらを選んでも解決しそうにない問題だ。
エレオノーラはしばらく考え、諦めてカップの茶を飲んだ。