冤罪3
戸棚から日持ちする焼き菓子を出してきたエレオノーラは、包丁で適当な大きさに切り分けた。果実酒を染みこませて粉砂糖をまぶした、冬の保存食にもなる菓子だ。
店が開いていなかったときや、何もしたくない休日のために、買っておいた。まさか謹慎処分になって食べるなんて想像もしていなかったけれど。
ずっしりと重い菓子を一口かじると、中に詰まったナッツや干した果実の香りがした。
「トカゲさんも食べられそうなら、どうぞ。君のごはんもあるからね」
定時で帰れるときに買いだめしておいた食材から、肉を選んで焼いてあげた。黒トカゲは目の前に置かれた皿よりも、エレオノーラを気にしてテーブルの上をうろついている。
エレオノーラは投げやりな気分のまま、コップに果実酒を注いだ。
「真面目に仕事してたの、馬鹿みたい。誰かの嘘でこんなことになってさ。頑張っても意味なかったよね」
同じ職場にいる人たちは、エレオノーラを庇うどころか迷惑そうにしていた。いつも便利に使っている道具が壊れた、そんな認識だったらしい。取り調べから戻ってきたときも、心配してくれる声なんて一つもなかった。
「このまま、仕事やめようかな。頑張っても魔術は使えないし。ね、どこか遠いところへ行かない?」
黒トカゲが同意するように鳴いた。エレオノーラの腕に前脚をかけ、訴えてくる。
「私が生まれた家を探すのもいいかもね。あのね、私、孤児院に入れられる前のこと、覚えてないんだ。たぶん戦争で色々あったんだと思う」
黒トカゲの羽が下を向いた。落ち込んでいるように見える仕草に、エレオノーラは少しだけ癒される。
「院長はお金にうるさいおじさんだったよ。私を拾ったのも、成長したら売れそうだったから、だって。魔力検査してなかったら、今頃はどこかの店で接客してたかもね。それとも誰かの愛人? どっちも嫌だなあ」
コップの果実酒を半分ほど一気飲みすると、すぐに胸の辺りが熱くなった。
「魔力、あるのに。なんで魔術は使えないんだろう。使い魔の契約だって、トカゲさんみたいな弱い子しか成功しなかったし」
平民だったとしても強力な魔術が扱えたなら、出世が保障されている。強力な魔術を扱えなくても、貴族だったなら重要な役職を任される。エレオノーラはどちらも持っていなかった。
テーブルに伏せると、硬いものがぶつかる音がした。首からかけた細い鎖を手繰り寄せ、音の正体を服から出す。
「私が持ってたもの、これだけだよ。模様が描いてあるメダル。学院の本を調べても、由来が分からなかったの」
素材はおそらく安価な金属だ。院長に見られても取り上げられなかったのだから、間違いない。何かの紋章が浮き彫りになっているが、国内に該当するものは見つけられなかった。
黒トカゲが気にしている様子だったので、見えやすいようにテーブルの上に置いた。グルグルと鳴いているが、酔ってきた頭では感情を読み取ってあげることはできなかった。
「私、頑張ったよね? もう休んでもいいよね?」
伏せた顔に黒トカゲが触れてきた。距離が近づくと、伝わってくる感情が強くなるらしい。温かい心のようなものが自分の中に入ってくる。
「慰めてくれるの? ありがとう」
黒トカゲを抱きしめると、慌てて逃げようとするのが面白かった。だがエレオノーラの手から抜け出しても、遠くへは行かない。触れさせてくれないのに、近くにいてくれる。
「そうだ。契約、解除するね。私の将来がどうなるのか、もう分からないし、今のうちに」
もう自由だよと黒トカゲに言って解除しようとしたが、相手から拒否された。繋がった部分を離してくれない。普通の使い魔なら。使役している側の都合でいつでも解除できるのに変だ。
金色の瞳で真っ直ぐにエレオノーラを見つめる姿が、彫刻の竜のようで綺麗だ。
小さくて弱い魔獣のくせに、やけに強く見える。
もし一人きりだったなら、心細くてベッドから出られなかった。エレオノーラは浮かんできた涙を隠したくなって、テーブルに伏せた。
* * *
エレンが冤罪で研究所から追い出された。この国の魔術師たちは、どこまで無能なのだろうか。もし羽トカゲの姿でなければ、ディートリヒは魔術師たちに反論しただろう。
お前たちの頭には泥でも詰まっているのかと。
彼女と再会してから行動を共にしているが、薬草の密売に関与したことなどない。材料の計算もできない魔術師に代わって必要分を保管庫から出し、余剰が出れば元通りに返却している。奴らが使いっぱなしで放置しているものだって、片付けて管理しているのは彼女だ。
少し一緒に行動しただけのディートリヒですら分かることなのに、なぜ職場の人間は理解していないのだろう。百歩譲って権力が怖くて黙っているなら、まだ理解できる。だがエレオノーラが連行されていくときの顔を見る限り、そんな様子はなかった。
一方で、エレンが証拠となる手帳を渡したのは、失敗だったと思っている。身分に厳しい研究所では、目の前の物証よりも上の人間が言うことが正しい事実へと変わる。あれは絶対に自分で持っていないといけない。
何もできない自分が嫌になる。すぐそばにいるのに、弁護も手助けもできない。
家に帰ってきたエレンは、自殺してしまうのではないかと思うほど、顔色が悪かった。そんな状況なのに、ディートリヒには無様に鳴くことしか選べない。
彼女との繋がりは薄くなっている。回路が消えかかっているのは、ディートリヒの呪いが徐々に効力を失っている証拠だった。だが今ほど、消えないでくれと思ったことはない。言葉が通じなくても、心が繋がっていればディートリヒが言いたいことの半分は伝わるのに。
だからエレンが焼き菓子をやけ食いして、果実酒を一気に飲んでも止められなかった。愚痴ならいくらでも聞くから、体に悪いことはやめてくれと頼んだところで、トカゲの口から出てくるのは鳴き声しかない。
自暴自棄になっているようで、ちゃんとディートリヒの食事を用意してくれたことは、惚れ直す要因にもなったが。彼女は優しい。人間の姿に戻れたら、全力で礼をすべきだ。
ディートリヒはテーブルに伏せて寝落ちてしまったエレンに、そっと近づいた。
涙の跡が痛々しい。
理不尽な扱いをされて、心無い言葉を投げつけられても気丈に振る舞っていたのに。
エレンが自分から過去を話してくれたことで、なぜ隣国で魔術師になったのかという疑問が解けた。戦場になった町から逃げるうちに国境を越えてしまい、金にうるさいという孤児院の院長に捕まったのだろう。
エレンに手を出さなかったことだけは褒めてやろうと思う。そうでなければ、探しだして罪を償わせるところだ。
――記憶がないことは予想外だったな。
辛い体験をした者が、無意識で記憶を封じてしまうことが稀にある。だからエレンは自分の国へ帰ろうという発想が出てこなかった。ディートリヒが呪いにかからなかったら、今後も見つかることなく人生を終えていたかもしれない。
エレンが身につけていたメダルは、彼女の父親が持っていたものだろう。表の紋章は父親が所属する職人ギルドのものだった。裏にはきっと、父親の名前が彫ってある。
――遠いところへ、か。
この国に残っても、エレンが幸せになれるとは思えない。たとえ冤罪と判明して謹慎が解けたところで、陥れようとした犯人が捕まらない限り、また似たようなことに巻きこまれる。
――あのヨハンナとかいう女が怪しいが。
同室の魔術師たちの中で、エレンに対して最も敵意を抱いていた。善良なふりをして周囲に害悪を撒き散らす姿は、見ているだけで寒気がする。生まれたときから身分の恩恵を受けているせいか、平民と使用人の区別もついていない。つける必要がない。
そんなヨハンナに忖度して取り巻きに成り下がっている奴らが、エレンを助けるわけがない。
つまらない人間関係に心身を削られて壊される前に、ディートリヒがエレンを生まれた国へ連れ帰って幸せにする。命を助けてくれた恩人だ。誰になんと言われようと、エレンのためになることは惜しまない。
それに、気になっている異性から誘われたら、全力でお受けするのが竜騎士というものだ。残った呪いの影響など、気合いで克服してみせる。
決意を固めたディートリヒの鼻を、焦げ臭い煙がくすぐった。
夕方の赤い光に混ざって、不穏なゆらめきが窓から見える。火事だと気がついたディートリヒは、急いでエレンの頬を叩いて起こしにかかった。