第八話
そこは実際に飲食店として使われる建物なのか、四人がけの席がいくつかあり、一枚板の巨大なカウンター席がある。奥に見える厨房では大型のかまどが複数と、いくつかの木桶に活魚が跳ねていた。ユーヤたちはカウンターを挟んで職人と相対する。
「いやあ寿司なんていつぶりかな。どの国も生魚を食べる習慣がなかったしラウ=カンでもお米にはありつけなかったから。しかも目の前で握ってくれるなんて贅沢だな、あ、なんかでっかい魚はねた」
「ユーヤどの妙にテンション高いでござるな……」
「では握らせていただきやす」
ねじり鉢巻きを締めた精悍な職人。タライから取り出すのは大きなタイのような魚である。まな板に寝かせて目打ちをして、尾から手際よく三枚に下ろしていく。
「おお、見事な……」
厨房の脇から別の職人が出てくる。盆に捧げ持つのは焼かれたばかりの白いパン。大きさはミートボールほど。
「ん?」
ねじり鉢巻きの職人が刺身を長めに切り、パンにくるりと巻いて、楊枝を刺して朴葉の上に盛り付けて出す。
「へいお待ち、米粉パンの石臼巻きでございやす」
なるほど香ばしく焼き上がったパンには米の香りが漂う。軍艦に似てるから軍艦巻きと言うのと同様に、こちらの世界では石臼に似てるから石臼巻きなのだと思われた。
「さ、ユーヤさん、お先にどうぞ」
「ええと、はい」
食べてみる。唇に当たる鯛の刺身の冷たさと、もっちりと噛み切れるパンの温かみ。温と冷が溶け合って刺し身の輪郭を際立たせる。わずかに塩味が感じられるのは柚子胡椒のような柑橘系の塩をまぶしてあるのか。
「うん、美味しい……一見するとバラバラなパンと刺身を一つに合わせる見事な料理だ。それはそれとして普通の」
「へい、続きやして赤浜お待ち」
現れるのは名刺サイズの米粉パン。半分に赤黒いものが塗られている。それは包丁で叩かれたネギトロのような赤身だ。
「これは……マグロのヅケに近いものか。醤油漬けにした刺し身を叩いてディップのようにしてる。うん、確かに濃厚な魚の旨味と米粉パンがよく合って……でもできれば普通の」
「へい、イカとサヨリの握りお待ち、本日は良い米粉が手に入りましたので、ラスクにして握ってみやした」
「ちょっと待って」
ユーヤが止める。ベニフデが巾着寿司を箸で持ち上げながら顔を向ける。
「ユーヤさん、どうされたの?」
「あの、普通のお寿司ないですか? いやこれも凄く美味しいけど、米は米として食べたいと言うか、こないだの米豆腐もなんか見た目が豆腐なのに味が米粉パンだから脳がバグるというか」
「普段の出張でしたら握りを提供させていただきやすが」
職人が答える。角刈りにされた髪がいかにも頑固そうだ。
「珠羅のお屋敷に呼ばれてそんな当たり前のものを出すわけに参りやせん。フツクニに暖簾を構える「と奈」の三代目として、風雅の極みをお目にかけたく思いやす」
「そ、そう……」
「さあ、どんどん握らせていただきやす。続いては鯛汁と揚げた米粉パンの吸い物でございます。その後は米粉パンのパン粉を鮭の刺し身にまぶして……」
「あんまり握ってない……」
ユーヤのつぶやきは、職人たちの威勢のいい掛け声の中に溶けてゆくのだった。
※
「ユーヤどの、いかがでござったかヤオガミの寿司は」
「……すごい技術だったよ」
ベニクギと庭園を歩く。後ろからはメイドのカル・キがついてきているが、この屋敷にいる使用人は誰も近づいてこない。ベニクギを見るとそれとなく背を向けてしまう。
「……なんだかお母さん以外の態度が硬いな。謹慎中だから仕方ないか」
「いや、拙者はそもそもこの家には居づらい立場なのでござる。使用人が目を背けるのは父に気を使ってのことでござるよ。母は変わらず接してくれるのでござるが……」
「お父さんの……」
「左様」
淡々と、どこかの遠い親戚について語るような口ぶりで話す。
「拙者は珠羅の令嬢として、この大店を継ぐはずでござった。しかし拙者は剣に生きたかった。己の剣技をヤオガミの役に立てたいと思ったのでござる。父はそんな拙者をけして認めず、外から婿を入れてそれと結婚させようとした。拙者が10の頃にござる」
「10……ヤオガミの感覚は分からないけど、きっとかなり早いんだろうな」
「拙者は家を飛び出して腕を磨き、数年後にロニを名乗るに至った。ロニとなれば父がいくら反対しようともはや認めざるを得ぬ。拙者は自分で自分の生き方を決める力を得たのでござる。しかし」
庭園の丘に立ち止まり、視線を遠くへ伸ばす。その美しい眼差しの先は海の向こうにあるのか、あるいは過去や未来を見据えるのか。
「どうも……失敗ばかりにこざる。ハイアードでもシュネスでも、己の未熟さを痛感するばかりにござるよ。世の中は剣だけではどうしようもなく、さりとてもはや剣に一生を捧げるよりない。謹慎を受けて屋敷に戻っても、父は拙者に会いにこない。会っても何をどうすることも出来ぬのでござる。拙者と珠羅の家は流される二艘の小舟のよう。時代の波に揺られて、ただ離れていくのみでござる」
「そんな事情が……」
ユーヤの目から見ればベニクギはまさに卓抜の人。一騎当千の強さとクイズの実力を持つ傑物。彼女ほどの人材が世界に何人いるだろうかと称賛以外の言葉はない。
それでいながら彼女の心には影が降りている。輝かしい過去はつまづきばかりと記憶され、どんなことも成し遂げられるはずなのに力不足を恥じるばかり。あてどもなく夜の底を歩き、黎明の時は永遠のように遠い、そんな流浪者のような心境なのか。
ふと気づけば空が暗灰色に変わりかけていた。重たげな雲が空一面にかかっている。
「……そろそろ宿に戻らないと」
「拙者がお送りいたす。謹慎中の身なれどそのぐらいは」
来たときと同じく裏の木戸からそっと出る。出るとすぐにかんぬきの降りる音がした。
カル・キは短い竿の先に提灯を吊っていた。中身は妖精のようだが、光量はやや弱く感じる。
「なんだか暗いみたいだけど」
「蛍石と蜂蜜で喚べる妙光精です。ヤオガミでは妖精が安定して呼び出せず、性能もかなり落ちるのです。この妖精、大陸で喚んだ場合は目がくらむほど明るいのですが」
「……ヤオガミの全土でそうなの?」
「そうです。妖精が定着していないためと言われていますが、年々、性能は上がっているようです」
「……」
通りを歩く。このあたりは豪商の邸宅や倉庫、公共施設などが集まっている街だという。一つ一つの建物が大きく、それは白い土壁で囲われていて、石畳の溝を歩く蟻になった気分である。
夜は猛獣のような速度で迫る。日が落ちるのとともに、雲が濃くなりつつあるのか。
いくつかの想念が浮かんでは消える、まだ明確には像を結ばない。
(軍事力の増強、妖精の鏡の濫用。いずれも証拠がなく、全体像が見えてこない)
(だがもし、このヤオガミに何らかの陰謀があるとすれば)
(それはやはり、妖精の鏡を使う資格のある人間。王が事態の中心にいるはず)
「ベニクギは、クマザネ氏のことをどう思ってるんだ」
問いかける。ベニクギの赤い着物だけは夜の底でも見失わないように思われた。
「……ユーヤどの、ロニが王と対等とはいえ、クマザネどのはフツクニの大々名であり、ヤオガミの天下に手をかけたる御仁。それへの言及は慎重にならねばならぬ」
ベニクギは早足ではあるが、ほとんど足音がしない。腰の刀に手を添え、いつでも抜き放てる構えで歩を進める。
「だがユーヤどのの問いとあらば答えるでござる。一言で言えば人に恵まれたお方でござろう。これといって突出した才知や武技は持たねども、多くの臣下によってフツクニは順当に大きくなった。小競り合いはあるものの大きな戦はなく、それでいて確実に勢力を伸ばす。戦わざる勝利でござる。運にも恵まれたのでござろうが、一種の理想に相違なし」
「なるほど……」
「軍事力増強の噂、それは少し意外な話にござるが、乱世とあらば已む無きこと。むしろ明白な国力の差を作り出せれば、戦わずしての併合も夢ではなかろうと愚考いたす。あるいは当代において遂にヤオガミの統一が為されるか、そう期待する声もござる」
「人望があるんだな」
「クマザネ殿が傑物ではないから、でござろうな。大きな失敗は無く、予想を超えるほどの成功も無い。地に足の付いた人物でござるよ。家臣団も働きやすかろうと思われ……」
足が止まる。
通りの奥。
白の着物に浅葱色の肩衣。闇夜にぎらりと光る刃金。その人物は槍を立てて構えている。
「あれは……」
「ユーヤどの、そこのメイドどのもけして動かずに」
ベニクギがユーヤの真正面に出る。まだ刀は抜かない。
「シラナミ、何用にござる」
剃り上げた頭、若さゆえの気負いを示す肩肘張った立ち姿、確かにそれはシラナミである。長さ2メーキほどの槍が強く意識される。
「ベニクギどの……お耳に入れたきことが……斯様なこと、とても信じがたいが……」
ユーヤの感覚と経験がそれを察する。シラナミの声はわずかに震えている。彼はどこか通常の精神状態ではない。
「シラナミ、そこを動かずに言うでござる。いや、その前になにゆえこの絽台に槍を持ち込んだ。塀から頭をのぞかせるような長物はこの区画にそぐわぬ。不遜にござるぞ」
「申し訳ありません、火急の事態にて、私もせめて自分にできることを……」
シラナミが動く。真っすぐこちらに走ってくるが、足さばきの美しさゆえか袴が乱れない。
「シラナミ、止まれ、槍を持って十尺に踏み込ぬことは許されぬ」
「申しわけ……我は指南役ゆえ……のっぴきならぬ……」
ベニクギは、動かない。
鍔を鳴らすこともせぬ。体に力も入れぬ。ただユーヤを庇うように立つのみ。
シラナミが脇を抜け。
槍の穂先が円弧を。
「曲者!!」
はっと振り向く。
いつからいたのか、背後にいたのは黒装束の人物。
一人ではない、いつの間にか白壁の上に、その向こうにのぞく松の上に、波のような屋根瓦の上に。
「これは……忍者」
「埋どもにござる。草むらに埋まりて獲物を狙う狼ども。どうも町に不穏な気配が流れていると思っていたが……」
「貴様ら! ここに居られるベニクギどのをロニと知っての狼藉か!」
シラナミが槍を振るう。風斬りの音とともにひるがえる銀閃。漆喰の壁を豆腐のように裂き、腕ほどの太さの松の枝を斬り飛ばす。埋たちは大きく飛んで回避する。
「おのれ逃げるな! 貴様らはどこの埋であるか! 西方のトジモリか北方のジュロウか! 一人残らず殿の御前に引っ立ててくれる!」
ユーヤはまだシラナミへの警戒を解かない。彼はどこか浮足立っている。槍の穂先は目にも止まらぬほど早いが、予備動作が大きすぎて回避されている。そのことがユーヤにすら見て取れる。
「シラナミ、将軍家指南役、シラオイの息子であり家督を継いで二年の若造」
埋の一人が声を発する。やや年輪を重ねた重厚な声。冷静にシラナミを評するような言葉の中にあざけりの響きが混ざっている。シラナミは白壁の上に飛び上がってその黒装束を追う。
「おのれ動くな! この刻銘の槍、「鯨波」を恐れるか!」
「なんと滑稽な型か。道場剣術というだけではない。それほど負けが応えたか」
びし、と草鞋に釘を打たれたように動きが止まる。
「貴様は……!」
「御免」
黒装束が走る。足場のおぼつかぬはずの壁の上、ユーヤが視線を動かすより、さらに早く。
シラナミの手元で槍が跳ねる。その切っ先が黒い影を突き抜ける。埋が抜くのは鍔が四角い忍者刀というものか。壁の上でシラナミを通り過ぎる、亡霊のように。
槍が五つの棒に分断され、シラナミの腕から、肩から、胴体から鮮血が噴き出すのが、その一瞬後のこと――。