外伝 無垢なる君と拈華の宴 6
「公開、実験は、今日の夜なんです。ハイフウの外れに地下の遊興街があるんですけど、そこで行う予定だって」
「ほほう、ハイフウの地下遊興街というと游星郭じゃな。まだ行ったことがなかったのう」
「今日か……」
数日あればもっと検討できただろうか。さまざまな備えができただろうか。公開対決をユーヤが引き継ぐなら、ほとんどぶっつけ本番で挑むことになる。
(……いや、それでいい)
時間がないということは、向こうもこちらの素性など分からないということ。ユーヤが彼方からの来訪者であることを突き止める可能性は低いはずだが、ユーヤという人間はそれなりに目撃されている。特にハイアードでは数千人が見たのだ。それを知れば向こうも警戒するだろう。ぶっつけ本番は都合がいい面もある。
それに時間が欲しいなどと甘えたことは言えない。たとえ予想外の事態になったとしても、対応してみせるのがクイズ戦士であると、ユーヤはそのような意識を言語化されないレベルで持っている。
「大丈夫だ、行こう。だけど僕たちは超力開発団とやらに真正面から喧嘩を売りに行くんだ。危険な事態になるかも知れないから、陸と雨蘭は」
と、目の前にある鍋に視線が引っぱられる。
それには何も入っていない。陶器ではなく石で作られた頑丈な鍋であり、下では鉄のカゴに入った炭火が燃えている。鍋がどんどん熱されているが、これは放置していいのだろうか。
「あの、この鍋なんなの」
「ん? それは香油炸という料理じゃ。もう少ししたら店員さん来るから待っておれ」
「ユーヤ、さん、ラウ=カンは初めてだって聞いてたので、せっかくだからハイフウの名物料理を頼んだんですよ」
「ああそう……」
桃はと言うと冷や麦のような麺料理である。たっぷりのボウルの中に細い麺が泳いでおり、短冊状に切ったリンゴなどの具が別の皿にある。桃は麺を引き揚げると、その具にちょんちょんとつけて絡ませる。
雨蘭の皿には炒め野菜の上に蒸し魚がでんと乗っている。それを大きめのスプーンでざくざくと突き崩して、ほぐし身にして炒め野菜と絡めている。骨が見当たらないが、丁寧に骨を抜いてから蒸しているのか、それとも骨ごと食べられる魚なのか。そういう分かりやすい料理が良かったなと思いつつ、さっきまで言いかけていた話の尾ひれを捕まえる。
「陸と雨蘭は危険だから来なくてもいい。僕と桃だけで行ってもいいんだが」
「ふふん、そう言われてはいと答える我じゃと思うか」
毛ほども思ってない。
だがユーヤはそういう義務的な言葉をけしておろそかにしない。
「陸はどうする?」
「まあ桃はサークル仲間だし、俺だけ帰るなんてさすがにカッコわりいだろ。俺も行くよ」
「……わかった。念のため現地では警戒してくれ。単独行動は避けて、すぐに仲間の誰かに声をかけられる位置に」
そこへ店員が来る。袖をタスキでまとめた若い女性であり、満面の笑顔で小さな木の樽を抱えている。
「はーい、お鍋失礼しまーす」
だぷだぷと、注がれるのは明らかに蜂蜜である。黄金色の波が採光窓からの明かりにきらめいている。ブランデーの樽を抱えた救助犬のようだな、と何となく思う。
「これデザートなの……? というか、こんな大量の蜂蜜」
「いえいえ、こちらフォゾス産の「ノルモーク」でございまーす。ぜんぜん甘くありませんし、飲んでも太りませんのでお気になさらず」
店員さんは席に配置してあったレンゲで蜂蜜をすくい、ユーヤへと差し出してくれる。
「良かったら味見のほうどうぞー」
「あ、ありがとう」
断るとさらに流れが滞りそうだったので、逆らわず味見。確かに甘さがほとんどない。香りは確かに蜂蜜のそれなのだが、どちらかと言うとカツオダシに近い味がする。グルタミン酸のうまみである。
「すごい……粘り気は確かに蜂蜜なのに」
「うむ、チャンネルの問題じゃ。ノルモークはフォゾス語で「甘くない」という意味。ノルモークの甘さは人体が吸収できないとされており、味蕾でも感じることができぬ。一部の昆虫や獣だけがその甘さを理解できるのじゃ」
「なるほど……そういえば鳥には辛みを感じる受容体がないから、ハバネロなどを食べても反応がないなんて話を聞いたことが……」
鍋はかなり熱くなっており、注いだ蜂蜜は即座に煮え出す。非常に細かな泡が鍋の底から湧いてきて、全体が白濁してくる。ただアクなどは出ず、泡はすぐさま消えていく。
「ええと」
いま何の話をしていたか。
ユーヤという人物がそれを見失うのはかなり珍しい。
「そう、公開実験については僕が引き継ぐように交渉する。桃は彼らのもとへ潜入してるんだったね。別行動になるけど、もし危険を感じたらすぐに逃げるか、合図を出して」
「ええ、と、どういう合図にしましょうか?」
「そうだな、額に軽く触れてくれれば」
「はーいお鍋の具でございまーす」
先ほどの店員がカゴを持って現れる。
それは竹を編んだ大きめのカゴであり、中には万年筆ほどのエビ、一口サイズの剥き芋、ブロック状の豚肉に野菜など、すべて串に刺した状態で入っている。
「ではごゆっくりどうぞー」
と、残されたユーヤの前には煮えている鍋とたくさんの食材。
「あの、これどうするの、エビとか生だけど」
「そのまま鍋に浸せばよいのじゃ。一分ぐらいじゃな」
言われるがまま、エビを鍋に差し入れてみる。するとエビから大量の気泡が上がってきた。小芋や豚肉も同様に気泡をあげる。
「これ……もしかして、蜂蜜の揚げ物」
「うむ、ユーヤは初めて見るじゃろうな。これが香油炸じゃ」
ぱしり、と扇子を閉じて顔をそらす雨蘭。
「ノルモークというのはある種の蜂が果実に寄生することで作られる。蜂は果実を蜂蜜で満たし、その果実を圧搾機で搾ると蜂蜜が取れるのじゃ。これは油に近く、240度ほどに熱するまで蒸発せぬ。それを揚げ油の代わりに使えるのじゃ」
「オリーブオイルみたいだな。蜂蜜を絞れる実、そんなものが……」
引き上げる、表面でぱちぱちと気泡がはじけるような音がして、エビの全身が甘い匂いを放散している。サウナ上がりのような、という比喩が浮かんだ。
するりと口に入ってくる。食べようとしたというより、手が勝手に動いた感覚。
「……!」
甘い。
しかし蜂蜜の甘さではない、例えるならカツオダシのようなうま味の甘さ。そしてエビの甘さ。これまで食べていたエビとは比較にならないほど甘い。
ユーヤはけして甘党というわけではないが、その美味さは個人の味の好みなど超越するかに思える。複雑玄妙なようでいて、言葉にすれば甘いとしか表現できないのがもどかしい。
確かにこの黄金色の液体は蜂蜜であり、人間の舌ではそれを察知できず、カロリーも吸収できないそうだが、それでもこれは蜂蜜だと分かる。概念だけで感じられる甘さ。途轍もなく甘いものを食べる夢を見て、目覚めてからにやけ顔で夢を思いすような官能。ユーヤのいた世界では、その甘さを表現できる言葉がまだ存在しない。
「ノルモークは昔はとんでもなく高価じゃった。蜜の匂いがする果実を人間が嗅ぎ分けて探しておったのじゃが、今は人工的に寄生させる手法が確立したので安くなったのう」
「ユーヤ、これにつけてみろよ、ちょっと泡が弾けるけどうめーぞ」
陸が差し出すのは、先ほど石板で焼いていた白い液体。豚肉を漬けてみればちょうど衣をつけたような塩梅になり、蜂蜜の鍋に投じればやや大きめの泡を立てて衣が膨らむ。
「うわ、あ、熱っ」
熱い蜂蜜が散弾銃のように飛ぶ。ユーヤ以外はメニューでガードしている。
引き上げるとふわふわとしたパンのようなものになっており、豚肉の端だけが見えている。
たまらず齧ってみる。意外にも生地にはしっかりと塩味が効かせてあり、パンの香ばしさが一気に脳天を突き抜ける。中に隠れた豚肉はほろほろと崩れ、ホットケーキに近い生地が豚肉の旨味と甘さをすべて吸収している。豚肉そのものよりも周りのパンのほうが美味く感じるほどだ。
他の具を目が追う。タレに漬け込んだナス。スパイスと塩をまぶした練り物、濃厚な風味のチーズと、味がよく染み出しそうなものばかりに見える。
「そうか……! 揚げ物とは食材内部の水分を蒸発させ、代わりに油を染み込ませる、いわば油と水分の交換現象。蜂蜜で同じことができるなら、油よりももっと濃厚なうまみを食材に染み込ませることができる。揚げ物というジャンルが大幅に進化することに」
と、そこで固まる。
「……何の話だっけ」
「こらこら、しっかりせいユーヤよ」
※
地下の街。
それは遊びと好奇心の街。綺麗なものを詰めた箱のような世界。天井ははるか上にあり、前後左右には岩盤の壁が見えている。内部で怪獣同士が喧嘩できそうなほど大きい。
「ええと……1999年の映画は怪獣映画史上初の屋内戦闘が描かれ、これはその後においてもほとんど類例がない……」
そんなクイズ的な知識が口からこぼれる。
紅都ハイフウの北のはずれ、游星郭と呼ばれる地下の遊興街である。
数字で表すならば縦横600メーキ。高さ40メーキ以上という箱型の空間。巨大な階段が東西南北にあり、引きも切らずに人々が降りてきている。地下空間にはいくつか巨大な岩の柱があり、天地をつないでいるが、そこにも階段が切られ、ラウカン風の建物が絡みつくように建てられている。
時刻は夕方に差し掛かる頃である。街を飾る提灯には赤い紙が使われており、妖精を交えた無数の明かりが街を朱に染める。
奇妙なことには建物はすべて屋根を持っていた。土色に近い暗赤色の瓦。雨など降るはずもないが、そのような合理性など口にしてはならないと、家である以上は屋根を作り瓦を並べるべきなのだと、そのような誰かの意思が聞こえる気がする。
「すごい規模だな……」
「うむ、游星郭とは千年以上前に作られたと言われる地下空間じゃ。天候を選ばんので飲食と遊興の店が並ぶようになってのう、立派な観光地になっておる」
「というかユーヤ、ここを知らねえってどんだけ田舎の生まれなんだよ」
陸はあきれたように後頭部で腕を組む。桃は別行動であり、超力開発団に戻ったはずだ。
陸は指を振り、街並みを指して言う。
「ここは古代の皇帝が作らせたって言われてんだよ。ここらへんは玄星岩っていう頑丈な岩でできててな。ハイフウにはこういう地下がいくつかあるって言われてるぜ」
「ここらへんは海抜より低いはずだよね。排水とかどうしてるの?」
「ここより下にも空洞はあるらしいけど、地下水脈を汚したら駄目ってことで全部汲み上げてるよ。だからトイレは匂い消しの薬が欠かせねえ」
そして手刀を動かし、亀を撫でるようななだらかな曲線を描く。
「海の水が流れ込んでこねえのか不思議だけどよ。大昔からある空洞だし大丈夫だろ。噂だけどハイアードキールにも深い地下があるらしいな。こういう地下の街は昔の皇帝が作らせたらしいけど、その理由は」
「……皇帝は基本的には不死だけど、本当に死んだ時に、魂が地下の街で暮らすため」
「お……おおう、なんだ、それは知ってんのかよ」
三人は屋台街のような場所を歩く。多いのは飲食店であり、それに混ざって細工物や宝飾品、見世物小屋などもある。
格闘技の興行のポスターがあったり、映画館があったり、そこらじゅうに音楽家や大道芸人がいたりと、やたらと騒がしい。
足踏み式の回転する遊具などもあって、コーヒーカップに似た遊具が子どもたちを楽しませている。初めて見るはずなのに、どこか胸が締め付けられるような郷愁がある。
「帰るべき場所ってのは地の底にある、そういう思想があったらしいな」
「……雲の上、とかじゃないの?」
「ん? ああ、そんな考え方もあるよな。そういうのって大乱期の前の考え方だからいろいろ混ざってんだよ。まあどれが正しいってもんでもないだろ」
「死後の国、大昔は地の底にあるという考え方が主流だったらしいのう。死ねば人は魂となり、無限のらせん階段を下っていくと」
遊興街で死を語る。地の底で子供たちの笑い声を聞く。
そのような情景には一種の混沌があった。この地下には生と死があり、この世の憂いと楽しみがある。広大であり密閉された場所。今にも海水が流れ込んで来そうな危うさがどこかにあり、危うさの中でこの世の栄華を楽しむ。
ひどく遠くへ来てしまったと、ユーヤですらそう考える一瞬。
その顔がふいに強張り、周囲に視線を投げる。
「今日は実験やってくださるのかねえ」
「そうだねえ、なんだか楊教授がいなくなったって噂も聞いたけどねえ」
あたりには家族連れはいなくなっている。老人であったり、艶めいた装いの女性であったり、両手を合わせて独り言を続けている男性だったり。人の流れがスムーズになっているのは、ほぼ全員が同じところへ向かっているためだ。
「匂いが……」
「匂いじゃと? 食べ物の匂いかの?」
「いや……これは僕の匂い」
雨蘭が目を細め、扇子で鼻を隠す。鼻の周りの空気を散らすまいとする動きである。
「……なるほど、前も言っておったのう。そうか、まさかこの匂いは」
「急ごう」
急ぎ足になる。その周囲で人は増えていき、そのすべてが、ある一つの建物に吸い込まれていく。
混沌の街は、さらなる混沌に堕ちようとしていた。




