番外編 無月の城と満月の王 1
ざく、と、雪を踏みしめる。
雪は深く、道の左右に綿のように積もり、周囲が森なのか岩山なのかも分からない。
寒さは心臓を掴まれるようで、背中を丸めて首を詰め、襟を立てて少しでも風を防がんとする。
歩く。
雪は靴を柔らかく飲み込み、何かを決意するように足を引き抜いて、また一歩を刻む。
己の姿を意識する。仕立ての良いタキシードだが、コートすら羽織っておらず、山歩きには向いてないなと思う。
先導しているのはメイドである。銀髪に雪色の肌。この世のものでは無いような美しさのメイド。カル・キという名前を思い出す。
メイドが持つのは大型のカンテラ。てろてろと燃える火は今にも吹雪に呑み込まれそうだったが、かろうじて道を照らしている。
「城が見えました」
夜の吹雪の中で、そのシルエットは夜に佇む魔王のよう。
おぼろげに見えるのは無数の尖塔。堅牢な城壁。高さ4メーキほどの壁に囲まれ、ぐるりと堀が囲んでいる巨大な城塞。
「古いお城ですね……。大乱期に見られた様式です。こんな立派な堀を構えた城はセレノウの古城にもほとんど残ってません」
「訪ねてみよう」
背後の人物。セレノウのユーヤはそう言って、メイドを追い抜く形で前に出る。
大きなドアベルをがんがんと鳴らし、大声で呼ばわる。
「すまない! 誰かいないか!」
吹雪に声が散らされる。分厚い金属製のドアは中の気配を伺わせない。
だが同じことを繰り返す必要はなかった。巨大な城門がぎぎぎと開き、中から明かりが漏れてきたのだ。
それは大変な光量であり、ユーヤたちの体に積もっていた雪がさっと逃げ出して身を隠すかに思われた。
中にいたのは、それもまたメイド。内部には無数の燭台とカンテラがかけられており、光が満ちている。
「お待ちしておりました、どうぞ」
メイドは中へと案内する。ユーヤは体の雪を払い落としてついていき、カル・キがそのあとに。
「あの」
「ずいぶん贅沢に蝋燭を使うんだね」
カル・キが口を開きかけたところで、ユーヤの問いかけがかぶさる。
「はい、パルパシア産の最高の蜜蝋を使っております」
大変に明るい蝋燭である。目算では一本あたり80ルーメンほどだろうか。ユーヤの知る一般的な蝋燭の5倍は明るい。明るさを目算する技術は仕事の延長で身につけた。
「妖精は使わないのか」
「主は妖精の光を好みませんので」
メイドが案内したのは客間の一つだった。メイド用の控えが隣接している貴人用の客室である。暖炉にはすでに薪が燃えており、温かな空気が部屋を満たしている。
「こちらでお寛ぎください、主に知らせてまいります」
「わかった」
ユーヤはそうとだけ答え、案内してきたメイドは一礼して去っていく。
カル・キはほとんど分からないぐらいの嘆息を漏らし、まずユーヤの服を脱がせた。
上着と靴下をテーブルに置き、インナーが濡れてないことを確認すると、部屋の隅にあるアイロンを手に取る。木炭式のようだ。
「すぐ乾かしますので、お待ち下さい」
「分かった」
その作業は数分で終わり、アイロンをかけられた上着と靴下を身に付けさせると、カル・キはようやくといった様子で口を開く。
「あの、それでユーヤさま」
「うん」
一流の調度と高い天井。壁で燃えるのは高価な蜜蝋燭。そんな部屋を見回して、メイドは声を潜めて言った。
「ここ……どこですか?」
しばらくの間。
「僕にも分からない」
ユーヤはそうとだけ言って、寝台に腰を下ろす。
「とりあえず外にいたら凍死しそうだったから、城が見つかって良かった」
「良かった……のは、そうですけれど」
カル・キには、なぜ雪山を歩いていたかの記憶がない。
「確か……我々は隈実衆の里にいて、エイルマイル様とユゼ王女のクイズ対決を見守っていたはず……」
声に出して確認してみる。それはユーヤに同意を求める意味もあった。だがユーヤは反応が重い。
「たぶん、ね」
「た、たぶんではありません。間違いなく我々はヤオガミにいたはずです。ヤオガミにこれほど雪の深い山はそう多くないはず。まして西方風の城だなんて……」
「焦っても仕方ない、なるようになるさ」
カル・キはプロ意識から慌てふためくことはなかったが、ユーヤのはまた別種に思えた。落ち着いた姿には困惑も警戒も見られない。
「ユーヤ様、これは神隠しと言われる現象ではないでしょうか? もしかして……ご経験が?」
「ないよ。まあ……目が覚めたらちょっと危ない組織の事務所だった、みたいな経験あるけど」
(……ユーヤさまの性格というより、これは……)
いきなり吹雪の雪山の中に現れたとしても、特にそれについて言及することはない。
それはもはや人間味というものを超越している。彼はこの世界に呼ばれた時も、同じように冷静に振る舞ったのだろうか。
「吹雪が止んだね」
ユーヤはカーテンを開けていた。窓の外は漆黒の闇である。城から漏れる明かりで雪が積もっているのは見えるが、遠方は何も望めない。
「雲は切れてるけど……星だけか、月は出てないな」
「ユーヤ様、私はもう何が何だか……」
ノックの音に振り返る。
「セレノウのユーヤ様、よろしいでしょうか」
「いいよ」
(ユーヤ様の名を知ってる……)
現れるのは先程のメイドとはまた違う。似たような黒髪でやや古風なスタイルのメイドである。ヘッドドレスやエプロン、各部のフリルがカル・キのそれより大きい。
「我らが主人がぜひお会いしたいと申しております」
「分かった」
カル・キはユーヤの落ち着きぶりに引きずられる心境だった。
そして、どうやら何を尋ねて、何を尋ねないかは主人に任せたほうがよさそうだと、気配を消すことにする。
案内されて城内を歩く。
廊下の何処にも蜜蝋の燭台か、大型のカンテラがあかあかと燃えている。何気なく飾られている名画や陶器、額に入れられた指輪や首飾り、書籍なども飾ってあった。
「……?」
カル・キの眉が怪訝な形になる。飾られていたのはセミヌードの写真集である。隣には樹脂で作られた人形もある。しかもそれは蒼と碧、双王のものだ。
やがて、たどり着くのは城の中央と思われる大広間である。
そこはさながら、世界中の宝物を集めた展覧会のよう。
大きな鳥籠の中には七色の羽を持つ鳥が。全身が黄金の毛並みで覆われた狐が。甲羅が琥珀色に輝いている亀がいる。
そのような檻が10あまり。それとは別にあらゆる時代と様式の名画がモザイク画のように飾られ、細工物や彫刻などもずらりと並んでいる。黄金の板を打ち伸ばした剣や、古代の甲冑なども何気なく置かれていた。
ユーヤはそれらをざっと観察するが、無表情を貫いており、どんな感情かは伺えない。
「ようこそ、我が城へ」
岩をひっかくようなだみ声。奥側の扉から入ってくる人物があった。
それは、端的に言うならば球体。
これ以上ないほど肥満した体。頭は禿げ上がっており、顎も頬も肉がたるんで二重になっている。その上から分厚いびろうどのマントを羽織っているものだから、肩のラインが消えてますます丸く見える。
瞼までが分厚く重く、半ば目にかかっており、皮膚はてらてらと油に濡れるように光っている。果たして老人なのか、それとも太っているだけでまだ壮年の頃なのかも分からない。
「僕はセレノウのユーヤ、こちらはメイドのカル・キ。吹雪の中で途方に暮れていたんだ、城に招き入れてくれて感謝する」
「いえいえ、礼など結構。むしろ私があなたをお招きしたのですよ、ユーヤどの」
カル・キが警戒を示す。この人物がユーヤを呼んだのか。
どうやって。いつの間に。おそらくそんな疑問は意味を持たない気がする。何か、人智を超えたことが起きている。
「私のことは……そう、満月王とでも呼んでいただければ結構」
「満月王……それで? 僕を呼びつけて何の用なんだ?」
ユーヤの態度から気遣うような色が消えた。すでに駆け引きは始まっているようだ。
「ええ、ぜひ私のコレクションをお目にかけたいと思いまして」
「コレクション、ここにある絵画とか動物とかか」
「はっは!」
急に、肺から息を吐き出すように笑う。満月王なる人物は小柄であり、肥満の極みではあるが、どこか心の強さと言うべきか、異様なエネルギーを感じる人物である。
「とんでもない。私のコレクションに比べれば、ここにあるものなど塵芥も同然です」
「まだるっこしいな、見せるなら早く見せてほしいもんだ」
「よろしい、では」
ぱん、と手を鳴らす、実際には脂ぎった手のために湿った音だったが、ともかくメイドが数人、盆を捧げ持って現れた。
「コレクションは埃を浴びぬように梱包して、城の地下にしまっております。ここにお持ちしたのはほんの一部です」
まず目に入るのは双王のサイン色紙である。だれ宛てという記名はないが、心持ちしっかりと書かれている。
次に写真集、双王を描いた絵画、公演のチケットは額装されている。
そしてステージ衣装。蒼と碧の布地に、浮き彫りのように細かな刺繍が施されている。
「これは……確かプルニッチ刺繍」
「おお! お分かりになりますか」
満月王はその刺繍のそばに来て、触れるのも恐ろしいというように緊張した面持ちで話す。
「双王のユニットであるポップリップが、一周年公演で身につけた衣装です。その価値たるやもはや値のつけようもありません。本来は双王の記念館など建った時に、その最奥を飾る逸品でしょう。これを手に入れるのにどれほどの苦労があったことか」
カル・キは満月王を観察する。
近くで見るとやはり本当に太っている。どんな生活をすればこれほどの肉がつくのか理解しかねるほどである。溶けた蝋燭のように腹の肉がだぶついており、肌には緑がかった染み、指は太く短く、指の背には体毛がなくつるつるとしている。
メイドはといえばこれは美人揃いである。身だしなみを整えているから、というだけではない。全員が雑誌モデルのように長身で魅惑的なスタイルをしており、少しだけヒールのある靴を履いて明るめの化粧をしている。少なくともセレノウ風の清楚さを求める様式ではない。
「こちらは双王がプロデュースしたペアリングの雛形、双王が造形なされた粘土ですな。こちらは双王の手書き原稿……」
「何が目的なんだ?」
さっと、場に緊張が走る。
手近な檻にいた豹が、さっと耳を伏せるのが分かった。
「双王は芸能の世界にいてこそ華、そうは思いませぬか」
満月王もやや声音を落としている。ユーヤを下から睨め上げ、絡みつくような視線とともに言う。
「双王がパルパシアを出てかなりの時間が過ぎてしまいましたな。ポップリップの新曲はまだ出ず、ラジオも収録ばかり。年明けから予告されていた新作映画の撮影もストップしておるのです」
「パルパシアを出たのは双王の意思だろう。僕に言ってどうする」
「自覚はあるはずですぞ。あなたのせいで双王は芸能に身が入らなくなっておるのです。そして仮に帰国されたとしても、あなたを連れてのことになりましょうな。おお、何という業腹なことか。双王は誰かが独占していいものではないのに」
これだけのコレクションを独占している男が言うのか、とはカル・キでなくとも思ったはずだが、満月王は己の言葉に酔いしれているようだった。腹で反響するようなだみ声のまま、ユーヤに指を突きつけて宣言する。
「セレノウのユーヤ、私と勝負いたしませんか」
「勝負?」
「そうです。貴方が勝てば望むかぎりの富を。負けたとしても命など取るとは申しませぬ。ただこの城で過ごしていただくだけですぞ。寿命が尽きるまで何十年でも、何百年でも」
「……」
物腰は丁寧だが有無を言わせぬ圧力がある。勝負を断ることには何の意味もない、と暗に言っていた。
ユーヤは採光用の大窓に目をやる。雪はないが夜はまだ深く、音のない闇夜がのっぺりと広がっている。
「……今日は新月なのかな」
話をそらすように言う。カル・キの記憶ではまだ新月には遠いはずだ。
「ああ、この地には月は見られないのですよ」
満月王は己の腹を揺すり、声に下卑た色を乗せた。
「私が、食べてしまったのでね」




