第五十八話
「七彩謡精か、やはり来おったのお! いつぞやの竜の時と同じか!」
かつて、永き歴史を持つ砂漠の国にて。
姿を表した旧き神、泥濘竜の前に現れたのも同じ妖精だった。それは巨大な鉄の柱を出現させ、竜を地の底に埋めんとした。
空間に、黒い点が。
「ユーヤどの!」
声の一瞬前に体を掻っ攫われる。意識が頭蓋骨から引き剥がされるような感覚、脳が揺れて三半規管が悲鳴を上げる。
轟音。
元いた場所を鉄の角柱が撃ち抜いている。
ヒクラノオオカミは避けたようだ。だが足が震えて、目はほとんど開いていない。肉体的な限界が迫っていると思えた。
「狙いはオオカミのようじゃのお。ベニクギよ、これは逃げの一手じゃろお」
「だ、だが、この炎の渦で外界から隔絶されている。それに、ヒクラノオオカミを置いて逃げるわけには……」
――
「! 今のは……」
ユーヤを含め、全員に同じ言葉が届いたと分かった。
「なんじゃ……刀を抜けじゃと。じゃが、今のわしの刀はただのナマクラ……」
「違う! ヒクラノオオカミの体だ!」
ユーヤが叫ぶ。
瞬間、その頭上に柱が。
「!」
またも意識が後方へ吹っ飛ぶ。ベニクギが腰に腕を回したまま飛んだのだ。
「何たること……妖精が人を攻撃するとは」
「い、いや……」
背骨のきしみを感じつつ見比べる。最初の一撃は土を爆散させつつ突き刺さっているのに対し、二度目の角柱は地面に触れただけでめり込んでいない。
「手加減はしている……おそらく僕たちを殴打して意識を飛ばすつもりなんだ。でも、あの鉄の柱をまともに受けたら間違いなく死ぬけど……」
「細かな力加減は苦手でござるか」
例えるならアリを「殺さない程度に踏む」ような。本来できるはずもない力加減を試みているように見える。妖精と人とでは振るえる力に莫大な差があるのか。
「あったぞ!」
飛来する影。
ベニクギは高速回転するそれを事もなげに掴む。
それは刀。
外見は琉瑠景時に似ている。だがその峰の部分が赤に染まっている。鉄の色とは思えぬルビーのような真紅。そして刃は高貴なる輝き。
――琉羅王景時。
そしてツチガマも刀を持っている。水咒茅よりもさらに長い、火の霊を宿すような炎の刃紋。
――武峯迦津土。
「この……刀は!」
持った瞬間に分かる。それは例えるなら山のような金銀財宝。あるいは大地を埋めつくす溶岩の海。人の世ではありえないほどの価値が刀に込められている。
「来るぞ! 構えいベニクギ!」
無から出現する鉄の柱。それは神の足のごとく全てを踏み潰さんとする。
「魃旭!」
長刃が舞い、完全な円が幻視される。円弧を描く太刀筋が鉄の柱を両断し、二股に分かれた柱がツチガマの左右に突き立つ。
「は! 鉄を斬ったことはなくもないが、この斬れ味はもはや無粋というもんじゃのお!」
「ユーヤどの、オオカミと同じ場所に」
放り投げられる。人間を投げたとは思えぬ速度。一瞬後にオオカミの体にぶち当たって骨がきしむ。
「ぐ、あ、も、もう少し穏やかに……」
「連相の型! 落花游庭!」
刀を抜く。
その刹那に降り注ぐ鉄柱が崩れる。
無数の剣閃が柱を突っ走り、溶けるように形象が崩れる。こぶし大の鉄塊は地面に落ちる前に消える。
「ベニクギよお! やるしかないのお!」
「仕方ない……」
大妖精は果たして動揺などあるのか、さらなる攻撃を加える。これまでで最大、最速の鉄柱。もはや手加減という言葉など消し飛んでいるとしか思えぬ殺意の一撃。
そして、達人二人が跳ぶ。
あろうことか、跳ぶ先で柱が十字に斬られる。柱を刻みながら、柱に打ち込んだ刀を足場に跳ぶ。
「麁噛大蛇!」
「天相の型! 哭竜剣尽!」
七彩謡精は。
感情も知性も持たないと言われる妖精は、果たして表情を見せたのか。
二つの太刀筋をその身に浴びて、切断面から膨大な光を放ち。
液体で満たされた器が割れるように、大量の光の粒を撒き散らして。
空気の中に、かき消えた。
※
「これは……」
観客の多くは意識を失っている。
すべてが一斉に燃えだすような幻視。熱さも痛みもないが、炎の強烈な気配に頭が朦朧とする。
トウドウはかろうじて意識を保っていた。誰か人を呼ぼうと思うものの、体がまともに動かない。城内から人が出てくる気配もないが、果たして周囲の人間にはどこまで影響が出ているのか。
そして、炎の竜巻。
会場の中心にある竜巻に、ユーヤとクロキバが吸い込まれたように見えた。
あと一人か二人、どこかから吸い込まれたか、あるいは飛び込んだようにも見えたが、何が起きてるのか想像もできない。
「ぐ、う……あやかしの仕業か、た、助けに、行かねば……」
「大丈夫です」
ふと、声がかかる。
トウドウはその人物を見る。一瞬、それは元服後の若い侍に見えたが、奇妙なことに、その人物の姿がみるみる縮むように見えた。青年期から少年期へと、時間を巻き戻すように。
その人物は己の手を見て、だぶついた稽古着をするりと抜ぐと、どこからか取り出した木彫りの面を着ける。
「あ、あなたは……!」
「心を安らかに。ヒクラノオオカミの炎はけして生き物を燃やさない。気を失うのは肉体が炎を恐れるからです。心を静かに保てば何ほどでもありません」
その人物は炎の渦をじっと見つめる。わずかに見るだけで眼球が破裂しそうになる光。だがまるで恐れる様子がない。
「そうですか……そういうことなのですね、旧き神よ……」
「な、何が起きて、いるのです……」
トウドウも心を鎮めようとする。だが、細胞レベルで炎に反応してしまう。おそらくは達人クラスの剣客か、老成した仙人のような人物でもない限り意識を保てないだろう。
「新しい時代が、始まろうとしているのです」
炎を見つめる人物は、深い悲しみをたたえた目をしていた。炎の中の誰かに呼びかけるように、そっとつぶやく。
「世に永遠に生きるものなし。万物のすべて流転するのみ。世界はいま、旧き神々の時代を終えて、次なる黎明を迎えようと……」
ある一瞬。トウドウの意識はふっつりと消え。
あとにはただ、炎だけが。
※
「はた迷惑な話じゃのお」
悪態をつくのはツチガマである。
「武峯迦津土じゃと。相手の刀でも鎧でも斬れてしまう刃の何が楽しいものかよ。死合いの興を削ぐというものじゃのお」
「ツチガマ、それ以前に我々は、妖精を……」
「は! 先に手を出したのは向こうじゃろお。責められる謂れはないのお!」
この世界において、いかなる方法でも妖精や、妖精が変化したものに傷をつけるのは不可能とされている。
その前提が崩れた。七彩謡精が果たして死んだのか、それとも妖精の世界に帰っただけなのかは分からないが、世界で初めてとなる事態が起こったことになる。
「妖精を殺せる刀……やはりそういうものを生み出せるんだな。泥濘竜がそんなニュアンスの思念を送っていたけど……」
ユーヤはヒクラノオオカミの毛並みを探っている。刀は体毛から生えるように二本だけ突き出していたらしい。探してみるが、それ以外の刃物は見当たらない。
「ヒクラノオオカミは、寝床にされていた数千本の刻刀から刀を生み出したのかもな……」
「もう何でもええじゃろお、はようこの火の渦を消さんか、のお」
ヒクラノオオカミは、静かに伏せている。
眠っているわけではない。ごくわずかに目を開けて、浅い呼吸をしながら二人の剣士を見ている。
「……どうしたんじゃ? 刀を返せと言うんかい」
沈黙。だが何となく否定の意思が感じられる。
「口がきけんほど疲れとおるのか?」
「いや……これは」
炎の渦は解除されない。
妖精たちはすべて姿を消しており、具現化していた鉄柱もすべて消えている。
では、この場であと、何が行われるというのか。
「……」
ユーヤは、自分がなぜここにいるのかを考える。
ヒクラノオオカミが選択的に人間を入れていたとすれば、なぜユーヤを入れたのか。
もしかすると、己の意思を読み取らせるためではないかと思った。そのために知恵者と見込んだ人間が必要だったのでは。
なぜ読み取らせるのか、ヒクラノオオカミは意思の疎通が可能なのに。
言葉に出せないこと?
「……そうか」
あとは連想で引き出せる。なぜツチガマとベニクギを入れたのか、なぜ妖精すら斬れる刀を与えたのか。
「ヒクラノオオカミは、自分を斬ってくれと言いたいんだ」
「……!」
ベニクギが、ぐっと息を呑む。
「だけど言葉には出せない。神が人間に頼みごとはできないとか、神が自殺はできないとか、そんな理由だろうか。刀を与えたのはあくまでも妖精から自分を守らせるため、その後で不測の事態として人間たちに斬られた、そういう形にしたいんだ」
「何じゃあ……面倒なもんじゃのお、神というのは」
ツチガマが、狼の首に刀を添える。
「老いさらばえた姿を晒すのは嫌か。なら仕方ないのお。わしが斬ってやるわ」
「まっ……待つでござる、ツチガマ」
ベニクギは慌てたように言う。
「ヒクラノオオカミが死んだなら、ヤオガミはどうなる。何が起こるか分からぬでござる」
――何も起きぬ。
声が聞こえた。だがそれは本当にか細い、注意していなければ意味を掴めない響きである。
――我は万物の熱の中にある。仮にこの姿が滅びても、時の流れの果てに再び形を得る。
「ヒクラノオオカミ……」
ユーヤはその首筋に手を当てる。現れた時は全身が燃え盛るようだった神の体からは、だいぶ熱が失せているように思える。体毛は艶を失い、紙細工のように乾燥している。
「……聞きたいことがあるんだ。妖精王とは何なんだ。彼はどこにいるんだ。彼はどうして人間たちから争いを奪ったんだ」
――
答えない。神ですら知らぬことなのか。答えたくないのか。それとも体力に限界が訪れつつあるのか。
「答えてくれ。妖精の世界はどんな場所なんだ。他に寿命が迫っている神はいるのか。ヤオガミの鏡は過去に使われたことがあるのか。鏡の「写し身」は他にもあるのか」
――
やはり答えない。
「……大陸は、どこか遠くの場所から運ばれてきたものだと聞いた。それは真実なのか」
――
ひたすらな沈黙。
頑なというわけではない。聞こえていないわけでもない。
ただ、答えない。
答える意味がないとか、答えたくない理由があるというわけでもない。あえて言うなら面倒というだけ。
ユーヤはその沈黙を受けて、後れ毛が逆立つような感覚がある。
ユーヤが読み取ったものは、利己である。
神は最初から最後まで自分のためにしか行動していない。人間たちなど歯牙にもかけない。見下すという感覚すらない羽虫も同然であり、寸言の知識を与えることすら面倒が勝る。
それが神なのか。
隔絶こそが神。
人間とはまったく別個の次元にある存在、それが神であると――。
「もうええじゃろお、こいつからは言葉など引き出せそうにもないわ」
ツチガマが刀を構える。
「どれ、オオカミは何度か斬ったが、急所が同じならええがのお」
「待て、ツチガマ」
ベニクギもまた、刀を腰だめに構えた。
「拙者もやろう。二人で同時に斬るでござる。神殺しの名をそなただけに背負わせることは、忍びない」
「ふん、神殺しか、それを名誉と感じるものもおれば、呪いと感じるものもおろうが……」
ユーヤは思い出す。かつてヤオガミの大将軍、クマザネは神殺しを求めていた。妖精の鏡の使用により、神に引導を渡そうとしたのだ。
眼の前のこれは神殺しだろうか。
そうではあるまい。神は自らの終焉を自分で決めた。ベニクギもツチガマも、そのために使われているに過ぎない。
では神殺しに名誉などあるのだろうか。鏡を使うことも、妖精王の手のひらの上のことなのに。
神と妖精、そして人間。
あまりにも遠い存在に、人は従うしかないのか。立ち向かう時が来るのだろうか。
二人の達人は呼吸を合わせ、撫でるように刀を走らせ。
そして神なき時代の、黎明が。