第五十六話
※
――同時刻。
フツクニの洋上、白桜城が米粒ほどに見える距離にて、ナナビキの鋼鉄船は扇状の陣形を組んでいる。
その周囲には小舟が百艘あまり、役人や捕手の乗る船が多いが、野次馬の船も多い。とっくりを取り出して半ば宴会のようになっている船もある。
「……睨み合いだな、目的の通りか」
ナナビキはつぶやく。役人たちは特に退去を呼びかけるでもなく、ただ港に近づけぬように舟を並べているのだ。具体的な行動の指示が与えられていないのか、それとも指揮する人間が戦闘を嫌ったのか。
「暇じゃのお、何艘か沈めてきてやろうか」
ツチガマは甲板の端に座り込んでいる。
「いざとなれば頼むつもりだったが、その必要はなさそうだ。役人は刀を持っていない。こちらを刺激しないように気を使っているようだ」
「は、わしもこがあなナマクラを振るいたくないからのお」
かつて、ツチガマは水咒茅という長刃を使っていた。
彼女がどこかの豪族から奪ったもの、天下に轟く逸品である。それはベニクギとの戦いで失われた。
今、彼女が所持しているのはナナビキからの預かりもの。刻刀には違いないが、天下の名刀とまでは言えない。
しかしツチガマの強さは刀に左右されるものでもない。彼女も戦いは望んでいないのだろうか、そんなことを思う。
「戦いは最後の手段だ。現状は睨み合いで十分だ」
「はっ、城の連中も腰が引けて……」
言葉が止まる。
数秒後、ナナビキが振り向くと、彼女はそこにいない。
ふと、彼女が真横に立っていることに気づく。
背中を歪めて立つことが多いので分かりにくいが、彼女は非常な長身である。
「どうした?」
「この気配……」
ナナビキはツチガマの見ている先を目で追う。視線は真っすぐ白桜の城へと伸びている。
「何か異変か」
「そんなはずはない……いや、あれとは違うのかのお……あれほどドス黒くはないが、穏やかでもない……」
ナナビキには何も感じない。フツクニの都と蒼天が見えるだけだ。
「のおナナビキ、にらみ合いならわしは必要なかろう」
「……そうだな、お前がいるから攻めてこない、というわけでもなさそうだ。どうする、小舟を出してフツクニまで行くか」
「は、必要ないわ」
ツチガマの姿が消える。
1秒後、海上で声が上がる。一隻の船が数十リズルミーキも沈み込んだのだ。巨大な波紋を立てて船が揺れ、乗っている人間が叫ぶ。
「何だ!? 沈みかけたぞ!?
「サメにでも当たったか!?」
「おい! 船底に穴が空いてないか調べろ!」
波紋は飛び石のように続き、港まで伸びていく。
「ツチガマ……行くがいい。何か異変が起きているなら、お前もその場に立つ資格がある。お前もまた、世界を変えるほどの達人なのだから」
ナナビキは城を遠く眺め、そこに集いし稀代の人物たちを想う。
達人と埋、そして異世界人たちの物語に思いを馳せる。
「そのために、お前を山賊の世界から連れ出したのだから……」
※
「――動きが変わった」
まっ先にそれに気づくのはユゼ王女、貴賓席のテラスから身を乗り出さんとする。
「む、確かに腕を高く構えておるな。あれがベニクギたちが検討していた「消える手」というやつか」
「しかし……ほとんど早くなっておらぬ。腕の振りは確かに……残像が薄らいでいるように見えるが」
「やはり未完成なのかのう」
「うむ……」
(ユーヤ、何を見ておる?)
ユーヤとクロキバの回答席はトウドウを挟んで向かい合っている。ユーヤの視線はトウドウの肩を通り過ぎて、その奥に向けられていると感じる。
(誰かが観客席におるのか?)
二階から見下ろす程度の距離とはいえ、大勢がひしめいている観客席は個人の特定が難しい。
(そしてなぜ、未完成な「消える手」を使っておるのじゃ、ユーヤ)
オペラグラスを覗き、ユーヤの表情を伺う。
そこには追い詰められている男の姿はなく。喜怒哀楽のいずれでもあるような、複雑な気配がある。
そして、ひたすらな集中が。
全神経を凝らして、何かに集中している男の姿が。
※
(あと数問で決着か)
三時間あまりの長丁場の勝負。しかしトウドウにとっては一瞬にも感じた。できるならばあと何時間でも勝負を続けてやりたいとも思った。ユーヤの逆転の目が見えるまで。
(おかしなことだ。やればやるほど点差は開くに決まっている)
ユーヤを片目で見て。
(……?)
その目が遠くを見ているのをいぶかしむ。彼はどこかを見ながら、何かを高速でつぶやいている。
手を高い位置に据えて指を動かしたり、手首や肩に力を込めていると分かる。
そして表情。
なんと複雑玄妙な顔であるのか。無数の感情がその目立たぬ顔立ちの上を通り過ぎていく。それでいながら顔の筋肉は大きく動かない。気配だけが七彩に変わり続ける。
「次だ」
唐突に音が生まれる。一瞬、トウドウには音声の意味が分からない。
「何だ?」
「次の問題だ、早く」
己の役目を思い出す。この人物が挙動不審なことには慣れたつもりだったが、それでも少しだけ気配に呑まれていた。気を引き締めて問題用紙を構える。
「で、では次の問題だ!」
そしてユーヤは。
(次の一問で、答えを出す)
経験の箱をひっくり返して思考を続けていたユーヤは、今こそ答えに辿り着こうとしていた。
(だが、なぜだ)
あの若侍が何者か。なぜ「消える手」を使えるのかはどうでもいい。
一つだけ、大いなる疑問が。
ユーヤの人生において何度か目にした、あの顔が。
(なぜ、あの顔をするんだ)
「問題、机の脚の数――」
(まさか、「消える手」とは……!)
※
「「消える手」を構成する要素は二つあると言いましたね」
少しだけ時は戻り、二人はまもなく城の外に出ようとしている。
出口に近づくと人の海になりつつあった。城じゅうの人間が通用門に集まっているのだ。
ここからは選手など見えない。観客席の背中しか見えないはずなのに、人々は去る気配がない。
ズシオウは人の波をかき分けつつ、ベニクギに説明する。ベニクギの他には一人としてその若侍の言葉を聞いていない。
「聞いてござる、一つは、無段階加速」
「そうです、そしてもう一つは、宙に浮かせたその手にあります」
通用口から外へ出る、長丁場のために屋台には人が集まっている。日陰でへたり込んでいる者もいる。
「手、でござるか」
「手には無限の可能性があります。手とは神経と筋肉の集合体であり、あらゆる複雑な動作を可能にする絡繰です。ハイアードの機械でも、セレノウの職人技でも遠く及びません」
「それは確かに……」
円形の客席へ。
さすがにそこは盛り上がっている。クイズ勝負なために歓声は控えめであるが、どちらかが答えるごとに大きな拍手が上がっている。
「そして、なぜ手が消えるのかの原理ですが、剣の世界で言う「散らし」の概念です」
「散らし……意識を他のものに向けさせ、視界から消えたように見せる技術でござるが……」
ツチガマもその可能性を指摘していた。しかし、そんなことをする意味がどこにあるのか。これは戦闘ではないのに。
「人間がボタンを押すとき、それを観測している者は全身を見ています。肩の筋肉、胸筋、あるいは表情、全身の体重移動、ボタンを押すという動作でも全身が連動しています」
「左様にござる」
「しかし「消える手」はそうではない。他の部分は押す気配を出していないのに、手だけは押す動作をする、それが認知を歪める。手の動きを見失ってしまうのです」
「……ど、どういうことでござるか?」
「手が、自動的に動く」
客席に立ち、ズシオウが手を構える。
仮想のボタンより30リズルミーキほどの高さに浮かべる。
皮膚は大気のふるえを感じ。
筋肉は極小の電気信号でも動くほど鋭敏に。
そして神経が。
思考を。
「手がクイズを考える」
「なっ……!?」
押す。
ベニクギですら一瞬、その動きを見落とした。
「脳を経由しない思考、それが神域の早押しを生むのです」
けして高速ではない。しかし意識からこぼれ落ちた。まるで、腕だけが別個の生き物のように。
「それが「消える手」の真相です」
※
(間違いない)
ユーヤはその一挙手一投足を見ている。あらゆる観察がその事実を告げている。
(「消える手」とは、手が問題を考えるという事象)
あまりにも常軌を逸した思想。ユーヤですら、仮に思いついたとしてもすぐに打ち消していただろう。
しかし、いま眼の前に答えがある。
実在するのだと、あの人物が証明している。
では、自分にできるのか。
(……できる!)
歩んできたすべてが、そこに結びつく。
かつて、限界まで指先の感覚を研ぎ澄ました。
指が高性能のセンサーとなり、大気の震えすら感じられるほどに。
かつて、声を音程でとらえる訓練をした。
空気に溶け込むような音程の上下、それを言葉に変換する訓練を。
かつて、極小の音から楽曲を見出す訓練を。
司会者の癖を読む訓練を。
問題文を先読みする訓練を。
そして膨大な数を繰り返した、短文基本問題。
生涯を捧げてきた技術のすべてが、己の腕に宿っている。
そして。
もう一つ。
――そうです、もう一つです。
ユーヤはその人物と対話していると感じる。20メーキ以上離れているのに、まるで差し向かいで話しているかのような。
――この技は、もう一つの可能性を示唆しています。
「そうか……」
ユーヤは理解する。
そして彼は、笑っていた。
口の端から漏れるような笑いは、次第に大きくなる。
司会者も、観客たちもぎょっとしてそちらを見る先で、笑い声はますます大きくなる。
「愚かだ! 黎明が真実の暴かれる時だって? 僕はなんて愚かだったんだ!」
距離を置いて対峙するクロキバも、さすがにけげんな眼になる。
「本当の意味での真実など簡単には暴けない! 暴いたと思ってもさらにその奥がある! 神ならぬ僕たちにはたどり着けないほど遠くにある! いいや、神様ですら真実など分かるものか!」
「……本当に気がふれたのですか? ユーヤ」
「何もかも真似できるだって!?」
ユーヤは甲高い声で叫ぶ。矢のような声がクロキバへと飛ぶ。
「クイズをなめるなよ! 人生をかけた僕ですらその一部を知るに過ぎない! 百人のクイズ王がいれば百人の人生があり、他人には絶対に行けない百の到達点があるんだ! クイズとは競い合いだけじゃない! その人物が生涯をかけて磨き上げる哲学! 唯一無二の宝石だ! それが分からないのか!」
「な、何を……」
「司会者! さあ次の問題だ!」
言われて、トウドウはさすがに戸惑いを見せるものの、同時に場が動いているとも感じる。
今のユーヤはけして捨て鉢ではない、何かが彼に起きていると。
「で……では次の問題だ!」
司会者の声が間延びして聞こえる。
司会者がクイズを読もうとしている。
答えなければ――大丈夫、「僕」ならば押せる。
「問題」
無限のような一瞬。
「う/」
ぴんぽん
「……っ! セレノウのユーヤ!」
ユーヤは問題を考える。
なぜ「う」で押せたのか。自分の手は何を読み取ったのか。この問題文の完全な形は。
問題、「疑いこそ人の世のはかなき泥」という出だしで始まる、400年前に成立した悲恋ものの傑作とされる物語と言えば何?
「――答えは」
出だし問題。
かつて彼女も見せた技。指先の皮膚感覚が、文学作品を読み上げる時の独特な響きを感じ取る。
「乙橘物語!」
沈黙。
「せっ……正解!」
驚愕。
観客の理解を超えた早押し。それだけではない。
疲れ果てていたはずの男が目覚めている。蒸気を吐くかのように勢いを得て、目をらんらんと輝かせている。そして己の早押しに歓喜している。
「馬鹿な……今のは早すぎる」
理解できなかった。
クロキバの名を持つ男ですら。
「さあ、真似してみろ」
ユーヤがつぶやく。
だが彼はクロキバを見ていない。もっと遠くの、どこかを。
(そして、もう一つだ)
(すべてがそうじゃないかも知れない)
(でも、もしかして、僕の見てきた、いくつかの事が)
夢想の中で若い侍と見つめ合う。
侍は「消える手」の再現に微笑したように見えた。
そして神妙な顔になり、ひそやかな言葉を。
――この技は、手がクイズを聞き取って思考します。
――つまり、この技を行うとき、その人物は。
――外見上は、考えずにクイズに答えているように見えるのです。
――ほんの時おり、そう、彼の数多い出演歴の中でもほんの十回ほど。
――「考えずに答えている」ことに気づいた。
――その人物が、ある一瞬、考えて答えていないように思えた。
――あのクイズ王は、考えて押していない。
そのすべてが「消える手」だったとは言えないだろう。不正もあったはずだ。
でも、そうでない可能性も。
あのクイズ王たちも「消える手」を。あるいはそれ以上の超技術を、使っていたならば。
過去の意味は塗り替わり、確定していた「正体」はまた不確定なものとなる。
それが喜ばしい。
すべては今、ここから。
過去も未来も、今この瞬間から始まるのだと――。




