第五十四話
※
「正解だ、クロキバに得点を」
勝負は完結しつつあった。
複雑な数式が一つの答えに向かうように、場の流れが皆にはっきりと見えてきている。
ユーヤ:43点 お手つき誤答48
クロキバ:75点 お手つき誤答39
「おそろしい御仁ですな……あのクロキバという埋は」
「ご隠居さん、そんなにすげえかい?」
「ええ、ここ100問ほど、ただの一度もお手つきをしていない。おそらく始めの方のお手つきは戦略的なものだったのでしょう」
「まだ逆転の目はあるかねえ」
「難しいでしょうな。問題が減るとカルタでいう「字切れ」が起こる。より贅月を知り尽くしている方が勝つ、ですが見たところ、勢いを増しているのはクロキバの方です」
クロキバが勝てば何が起こるのか、そもそもこの戦いはどのような派閥のぶつかり合いなのか。
それは観客には判らないが、歴史的とすら言える勝負なことはひしひしと伝わる。居並ぶ侍たちの放つ空気で、戦っている二人の気のぶつかり合いで。
(心を)
ユーヤは、むろんまだ諦めてはいない。
この男が何かを諦めた瞬間が果たしてあるのかどうか。そして諦めなかった何かを手に入れたことがあるのか。
出会ってきた王たちのことを想起する。王道なる強者、異端なる凶手、研ぎ澄ました者、天性の者、博覧強記なる麗人、土豪劣紳なる荒くれ者も。
(心を、塗りつぶせ)
視野が狭まる。
視界のほぼ中心しか見えない。後頭部をえぐられるような突発性の頭痛。
――もうダメだろうな。
――よく頑張ったほうさ。
――えらく必死だが、早押しクイズってのはそこまで消耗するような。
そして観客の一言一言が聞こえる。必要な音の取捨選択ができず、すべての音を受け入れる感覚。意味不明な連想が百鬼夜行となって背中を横切っていく。
「問題、わらWОあNでTSUくRA/れ」
ぴんぽん
「セレノウのユーヤ!」
「かっ……かきわら紙」
「正解だ、ポイントを」
「はっ……」
クロキバが、口の中だけで完結するほどの声でつぶやく。
「正気ですか? 自らに強烈な精神負荷をかけることで神経の高ぶりを引き起こし、聴覚過敏症状を生み出す。司会者の口腔内で生まれかける音すら拾って早押しを行う。そこまでの集中を何秒やれると言うのですか。おそらく三問が限界、このルールで繰り出す技とは思えない。いや、それはもはや技術とは言えない」
それは本来ならユーヤに聞こえるはずもない声。だがユーヤは言葉を拾ってしまう。その状態であることを見切られている。
「真似できぬこともありませんが、さすがにご遠慮願いますね。三問やそこら、差し上げましょうとも」
「ぐ、う……」
まさしく、それはユーヤですら使うことをためらう奥の手。精神を発狂寸前まで追い込むことで生まれる魔技。かつてこれを使っていた王は、結果として何も手に入れることなくどこかへ消えてしまった。
(今のポイントは44、今の状態を、あと56問やれるか)
(やってやるとも、命、など……)
トウドウの視線と目が合う。
彼もユーヤの様子に気づいている。彼が命を火にくべるような状態にあることに。
「つ、次だ、問題!」
ぴんぽん。
何かが一斉に裏返るようなどよめき、押したのはクロキバ。
「く、クロキバ、答えを述べるか」
「おっと失礼、勘違いいたしました。お手つきです」
「ぐっ……」
ユーヤのうめきが嫌でも聞こえてしまうが、トウドウはそちらは見ずに宣言する。
「わかった、今の問題の答えは真座屏風、では次の問題――」
ぴんぽん
※
「そ、それで……」
ズシオウは半信半疑のていで尋ねる。
「「消える手」とは、どのような技なのでしょうか」
――想座を組むのだ。
想座とは瞑想のための姿勢。あぐらになって両手を膝頭に当て、指先を自然に垂らす姿勢である。ズシオウはその通りにする。
「神さま……これは、もしや」
――想念に行きつけぬ場所はなし。
炎が、いつの間にか消えている。
九十六枚の動物画に囲まれた蛇畳の間、耳がきんと鳴りそうなほどの無音。ズシオウは目を閉じて瞑想に入る。
「……?」
ベニクギはわけが分からぬながらも、数歩下がって瞑想の邪魔にならぬ位置につく。
ふと、足になにか触れた。
振り返れば草の芽吹きである。双葉をつけている。
「……? 馬鹿な、日も差さぬ、水気もない蛇畳の間で」
馬のいななきが。
「!」
何もいない。しかし遠くに獣の匂いがする。畳は草原に変わり、部屋が何倍にも広く感じる。
若芽は育って若木となり、成木となり、枝葉を伸ばして千万の葉を繁らせる。そして歳月の果てに枯れ、老木となり、朽ちて倒れ、葉とともに土へと還り、また草が生い茂り、春の日に芽吹きが。
(これは)
時が無限の速さで流れるようでもあるし、完全に止まっているようにも思える。自分が時の流れから切り離されたと感じる。
「……ヒクラノオオカミ、まさか、この事象は」
朱色のオオカミは伏せている。
己の腕を枕として、無警戒に、無造作に。
「答えを乞う。この事象に終わりはあるのか。ズシオウ様の主観ではいったい何時間が過ぎた。それほど長時間の瞑想でお身体に影響はないのか」
――あまねく。
声が響く。だが、それは質問に答えるような響きではない。
――あまねく大地は我が力の。
――王は剣を、ヤオガミの鉄と炉。
――盟友は笑いて山を囲む。
――ああ、口惜しい。
――なぜにあのようなものが生まれた。
――王を奪うな。
――この大地と、熱、余さず我のものと……。
(……思考が乱れている。しかも、どんどん細っているようでござる)
ユーヤの話によれば、ラウ=カンの旧き神も精神が狂気に落ちかけていたらしい。力を削がれることは精神の乱れも引き起こすのか。
「……」
オオカミにどのような思惑があれど、力を貸してくれたことは事実のようだ。それは感謝すべきだろうか。
「……だが、解せぬでござる」
王と神、かつては今より強く結びついていた。王とは、神の身に何かが起きた際の意思決定機関。
それはヤオガミとロニの関係と同じだろう。意思決定機関とはつまり、神の見張り役という意味も持つのではないか。
神と人は互いに補う存在、どちらかが心乱れた時は、もう片方が助言をしたり戒めたりする、そんな仕組みがあったのだろうか。
だが。では自分は何だ?
ベニクギはなぜこの場にいるのか。神の力ならば、ベニクギとズシオウを引き離すこともできると考えるべきだろう。
今の場面でベニクギが必要不可欠だったとも思えない。
(なぜ拙者はこの場にいる?)
(拙者がズシオウ様の瞑想を守る必要がある? しかし、この瞑想は必ず行うという流れでもなかった)
周囲の景色は移り変わる。春から冬までがまたたく間に過ぎ、天の星は車輪のように回転する。
それは身体にも訪れた。ズシオウの髪が床にまで伸びている。
「御免」
鍔鳴り、髪は先刻までの長さに切られ、大地に落ちて土の一部となる。
ここは神さびた森。木漏れ日と動物たちに囲まれて瞑想するのは白装束のズシオウ。
虹がまたたく。雨が降ったのかと思うがそれは一瞬のこと。空もまた昼から夜へ、たまに虹がかかり、それが明滅して見えるほど何度も、何度も――。
「ベニクギ」
名を呼ばれる。素早くその場にかがみ込み、畳に拳をつける。
「ズシオウ様、お身体の具合は」
「おそろしい技です。神業であるとか奇跡的なひらめきであるとか、そんなことでは表現しきれない。これは二つの信じがたい技の複合なのです」
声には震えがある。そしてベニクギははっと気づく。声の様子が。
「ズシオウ様、体が」
「これはいっときの幻です。いずれ戻るでしょう」
気がつけば森は消えている。動物たちは衾絵の中から動いておらず、渦を描く畳も変わりはない。
だが、ズシオウだけは。
「私は無数の世界を旅していました。私の想念の世界です。その中で多くの人と出会い、無数の知見を得て、そして「消える手」のことを考え続けた。数え切れないほどの昼と夜を過ごしました」
「そのようなことが……」
「会場に行きましょう」
立ち上がる。そしてずっと手足を隠していた白装束を、顔を半分隠していた木彫りの面を、無造作に投げ捨てる。
「ユーヤさんに伝えなくては」
※
観客はいやがおうにも熱狂している。
たとえ勝負の趨勢が見えていても、それはそれで劇的なクロキバの勝利に向けて盛り上がっていると言えた。背景を知らぬ観客はどこまでも公正であった。
トウドウは得点状況を確認する。
ユーヤ58点 お手つき誤答56
クロキバ83点 お手つき誤答53
「む、この得点……」
頭の中で計算する。100問を超えてから意識していなかったが、丁度250問を過ぎたところか。
「15分の休憩とする。その後は最後まで」
「トウドウ」
首すじにあてられた刃のように、冷ややかな言葉を向けるのはクロキバ。
「いま思いついたような休憩ですね。それはどうしても必要なことですか?」
「無論だ。観客も歓声は上げているものの、疲れている者もいるだろう」
「セレノウのユーヤは明らかに疲弊している」
声の響きでそちらを示す。ユーヤは立っており、解答台を支えにするかのように両手をついている。
いつものようにポーカーフェイスで偽装してはいない。呼吸はネズミの走るように早く、目元に苦痛が見える。
わざと疲れを見せているのか、それとも偽装する余裕もないのか。
「彼の回復を促すための休憩なら、公平とは言えないのでは?」
「そうは思わぬ」
クロキバの視線は鎌首をもたげた蛇のことく、トウドウはそれを受け止めつつ言う。
「例えて言うならば、どちらかが負傷したなら手当を許すのが当然だ。雷問とは知の争い。体力で勝負がつくのならば、侍や埋ではないユーヤが勝てる道理はない。休憩を挟むのは妥当な判断と考える」
しかし、なぜユーヤはあれほどに疲弊しているのだろうか、とトウドウは疑問に思う。勝負が始まって二時間半あまり、その間ずっと走り続けたかのようだ。
「わかりました、認めましょう」
クロキバとしても都合の良かった部分がある。これまでに出された250問から導き出される、トウドウの出題傾向の検討である。
どのような問題を選ぶのか、どのような問題を重複と見なすのか、問題文をどのようにアレンジするのか。時間はいくらあっても足りるということはない。
(これで、より一層に勝利が盤石になった。そう考えておきますか)
ユーヤを見る。
彼は解答台に手をついた姿勢のまま、どこかに移動するでもなく、なにか食べるでもない。クロキバですら、彼が死んでいるのかと思ったほどだ。
(折るなら、今でしょうか)
「セレノウのユーヤ、よくここまで戦いました」
ユーヤは動かない。聞こえているだろうか。聞こえているはずだ。ユーヤは常に場の人間に注意を払っている。重要人物にもそうでない者にも。
「もう命を取るなどとは言いませんよ。あなたはセレノウの王族でもあるのです。この勝負が終わればセレノウへ送って差し上げましょう。あの国の王室に入って目まぐるしい日々を過ごすうちに、こんな小さな国のことなど忘れてしまう」
反応はない。だが聞こえていると確信する。
「セレノウのユーヤ、あなたのやっていることは、真っ当なことでしょうか」
けして棘を見せず、素朴な疑問のように言う。
「あなたは贅月を暗記しているだけだ。背景としての知識を持っていない。対して私はどうでしょう。この勝負において何ひとつ負い目はない。私は真っ当にクイズを戦っている。あなたはそれを曲げようとしていませんか? 邪道が正道に勝つ、それはあなたの価値観と合致するのでしょうか」
反応はない。言い抜けのひとつも浮かばないか、と心のなかで冷笑する。
「私が勝とうとあなたが勝とうと、ヤオガミの行く末は大して変わりませんよ。いずれこの国は開国し、大陸もまた、東の果てにある妖精のいない国と触れ合うでしょう。時代という大きな流れの前に、人の争いなど些末なことです。ならばクイズの道理に準じるべきではありませんか? そのように疲れ果て、心身を削ってまで抗うことは正しいと言えるでしょうか」
「クイズは」
口を利いたことが一瞬、不自然に思えた。
それほどに唐突な印象。
「何の役に立つのだろうか。僕たちはずっと考えている」
「ふむ」
「結論は出ない。クイズはクイズの役にしか立たないのではないか、その事実を認められないだけかも知れない」
呼吸は収まってきているようだが、まだ根を張るような疲労が全身を支配している。クロキバは冷静に観察する。
「僕たちはなぜクイズで争うのだろう。早押しクイズは知識自慢とは異質なものだと大勢が気づいている。押し勝ったとしても賢者とは認めてもらえない。そもそも勝負の競り合いを理解できる人が多くない」
「何が言いたいのです?」
「君と同じだ」
矛先が向けられる。クロキバはさっと心を閉ざし、舌鋒に動揺するのを防ぐ。
「クイズ戦士たちは何も持ってない。極まるほどに他のすべてを投げ捨てていく。クイズで強くなるというのは、クイズ以外の全てで弱くなっていくことだ。だからこそ争う。クイズで何かに成ろうとする。賢者や達人にはなれなくても、クイズ王にはなれるのだから」
「何も持ってない……私はそうとは言えませんね。力も金子も、優秀な部下も持っている」
「いいや、同じだ」
ぐ、と、奥歯を噛む。この男は何を言おうとしている。
危険だ。
何か、自分ですら気づかなかった、致命的な部分を。
「君は何者でもない」
姿勢を変えぬまま、しかし声だけがはっきりとこちらを向いている感覚が。
「自分が何者なのかわからない。だから弱いのに何者なのかが定まっているクマザネが羨ましかった。時代を見極め、王子という枠すら超えようとしているあの男に憧れた」
「――やめなさい」
「自分は全てから自由だって? それは根無し草と言うんだ。忍者の頭領という立派な役職があるのに、自分の本来の姿はこれではないと感じている。君は何者にもなれず、どこにも根を張れない。あるのは卓抜なる摸倣の技だけだ」
「私を侮辱するか」
「クイズだけは」
はっと気づく、ユーヤの気力がいつの間にか充実を見せている。どこにこんな力が残っていたのか、あるいは絞ってはいけない臓器まで動員しているのか。
「クイズだけは負けない。クイズに勝つことが世界のすべて。僕たちはそんな価値観で生きている。クイズを極めた先で世界が変わると信じている。僕が成すべきことは、君にクイズで勝つことだけだ」
かつて出会った王たちも。
最初に出会った、あの人も。
クイズに捧げた生き方は、けして幻想ではないのだと。
「馬鹿げている……たかがクイズで何が変わるというのか」
「変わるとも」
「クイズ王の玉座には、世界を変える力が……」




