第五十三話
※
城内は騒然としている。
普段は私語を慎まねばならないが、誰もそれどころではないようだ。布袋から漏れてくる水のように勝負の話が交わされている。
ベニクギはどこか休めるところを探すが、城内は普段より人の往来が激しく、どこへ行ったものかと悩ましく思う。
「ズシオウ様の私室はかなり上でござるな……」
「私はどこでも構いません、少し、座りたくて……」
背後のズシオウを見れば、よろめいて壁に手をついたところだった。
「ズシオウ様!」
「大丈夫です……たぶん、勝負の熱気にあてられただけです……」
ベニクギが体を支える、熱はない。しかし筋肉に力が入っていない。
(これは……風邪をお召しになったでござるか? 朝にはそんな兆候は無かったでござるが)
脱水だろうか。それとも人に酔ったというやつか。もし病気なら医師に見せるべきか。
「大丈夫です……本当に大丈夫」
「ズシオウ様、失礼」
その体を抱えあげる。
普段はゆったりとした白装束で隠されているが、抱えてみればその線の細さが意識される。同時に、幼年期から成長期へと差し掛かる時期の、骨が太くなってくる印象もある。
「階段を登っていては時間がかかる……」
ふと、思い当たる場所があった。
ベニクギは音も立てずに廊下を掛け、一階の奥、白桜の城の重心とも言える中央付近に。
その広間の中心にズシオウを寝かせ、途中で調達した濡れ布巾を額に当てる。
「ふ、う……」
やはり熱はなく、汗もかいていない。脈を取ってみるが、おかしなところもない。
「これは……まさか毒物? しかし、拙者がすべて毒見したはず」
「大丈夫、です」
ズシオウは何度目かの言葉を繰り返す。
「病気ではないと思います……。ただ、なぜか、体が重くて」
「……疲れたのでござろう。もうしばらく休んでまだ思わしくなければ医者を呼ぶでござる」
ズシオウは仰向けになったままで目を動かす。広々とした空間に目を向ける。
「ここは……蛇畳の間」
円形に並ぶ九十六枚の衾に、九十六の動物画。遊大陸動彩図という巨匠の傑作である。
畳はすべて特注の多角形、渦を描くように敷かれている。斬新なようでもあり、古式ゆかしいようでもある独特の世界観を感じる。
「ご容赦を、急ぎお連れできる場所で、人の気配が遠い場所はここかと」
「構いません……」
この広間は白無粧がみそぎの儀式を行い、元服を迎えるための場所である。かの御前試合では開放されたが、本来はめったに人の立ち入らない場所であった。
「少し落ち着きました……きっと、ここが神聖な場所だからですね」
幾分はにかんで言う。
ベニクギも、確かにここは静謐な場所だと感じる。ふすまで隔てられただけなのに外の音がまったく聞こえない。
「知ってますかベニクギ、渦巻きとは永遠の象徴であり、神に近づくという願いがあるそうです」
「はい……渦壺墳墓などでござるな。渦巻きは閉じていない輪、永遠の広がりとか永遠の収縮を意味するという」
「はい……シュネスにもありますね、廻牢型墳墓というものです。この蛇畳の間は幼年期の私が埋葬され、新たな人間として生まれる場所です。不完全なものが、死を経ることで完全なものになる……ラウ=カンにも似たような考え方があるそうですね……」
あまり歓迎できない話題だと感じる。ベニクギはズシオウの足元にまわってふくらはぎを揉む。先ほどふらついていたためだ。
「ズシオウ様は何も変わらぬでござるよ。やがて成人を迎えるとしても、これまで各国で見てきた経験が血となり骨となっているでござる」
「ありがとうございます、ベニクギ……」
ズシオウは。
この少年とも少女とも明かされていない、本来の名前すら秘された存在は、広大な空間の中で宙に浮くような心地になる。
どこにも足がついていない。自分を自分だと証明できるものは何もない。自己が霧散するような感覚。
「正体が」
しゃぼん玉を吐くように、言葉が浮上してくる。
「正体が明かされるとは、恐ろしいことですね……」
「……ズシオウ様」
「わ、私は、父上の本当の心を知ってしまった。この国の本当の形を。私という存在の卑小さを。そしてユーヤさんは、もう、あのクロキバに勝てないことも、分かってしまった」
「ズシオウ様、よからぬ言葉を放てば、それはよからぬ未来の呼び水となるでござる」
「わ、私は、すべてを失う。そうなればベニクギ、あなたの主人である資格もない。だから、あなたは、好きに生きてください。この国のために命を擲つなど、考えずに」
すべては露見してしまった。
あらゆるものが暴かれてしまった。この国はすでに埋たちに支配されている。つまりはハイアードの王子に。
「私は、父上の心を知りたかった。開国論を唱え始めたことの真意を。なぜ知ろうとしたのでしょう。知らぬままでいれば、この国はもう少し永らえた。い、いえ、違います。正体はいずれ暴かれる。不確定な夜はいつか明ける。それこそが絶望なのでしょうか。人生が死という正体を暴かれて終わるように、私の体が、いつかは男か女かに分化して、二度と元には戻らぬように……」
「ズシオウ様……!」
おのが体をかぶせ、ひしと抱きしめる。
この小さな体を己は守ってやれない。ズシオウの抱える絶望に何もしてやれない。あるいは何かしようとあがくことが、さらなる悲劇への扉を開く。
正体が暴かれる。
それは宇宙の真理のごとく、どうにもならない事なのか。ロニである己の力をもってしても……。
「ベニクギ……」
「ズシオウ様、どうか、どうか拙者に最後まで付き従う許しを。何があろうと、最後まであなたのために戦えという命令を……」
「ベニクギ、炎が……」
じり、と畳の焦げる音。
はっと振り向く、まさか行灯が倒れでもしたのか。
だが、それどころではなかった。蛇畳の間で炎が踊っている。
「な……!」
あらゆる動物の描かれた衾絵が燃え、畳が燃え、天井も燃えている。だが熱はない。
炎は生き物のように這い、ズシオウの白装束へ、ベニクギの緋色の裳裾へと這い上がる。払いのけようとしても消えない。
そして、これほどの事象なのに恐ろしくない。
「これは、何ごと……」
本能的に分かる、この事象には敵意がない。そよ風に敵意を感じないのと同じこと。
「ベニクギ、あれは……」
炎の奥に、何かが。
それは全長10メーキあまりの巨体。
その体毛の朱は炎のごとく。
漏らす吐息は鉄錆の匂い。
だが、老いている。
落ちくぼんだ目、苔むしたようにまばらに伸びた体毛。足取りは弱々しく、足先はハの字に開き、背中側の肉がだぶついて見える。
かつては猛々しい獣であったはずが、全盛期からは見る影もないほど老いさらばえ、この世ならぬ存在だけが持つ高貴さをかろうじて残す。
ヤオガミの旧き神。
「ヒクラノオオカミ……」
※
懐中時計を開く。
「あと5分で再開とする」
場外からは潮騒のごとき歓声。城壁を囲むように民衆が集まっている。
しかし、円形の観客席を埋める人々はあまり賑わってるとは言えなかった。勝負がはっきりと傾いているためだ。
「やっぱりクロキバで決まりかねえ」
「そうだなあ、外国人に雷問は厳しかったかもしれんねえ」
「おいおい若いの、あいつは御前試合の優勝者だぞ」
「そうかも知れんが、見ろよ、とても最後まで戦い抜ける様子じゃない……」
セレノウのユーヤは用意された椅子に腰掛けている。当初はその場に座り込もうとしたところを、小姓が椅子を用意したものだ。
一方、クロキバは毛ひとすじの疲れも見せない。彫像のように解答台に立ち尽くす。
「一人、耳を」
つぶやく、水滴が落ちるほどの小声だが、近くにいた侍装束の男が近づく。
「ここに」
「貴賓席にいるパルパシアの双王に気をつけなさい。セレノウのユーヤの奪還をたくらんでいる」
侍装束の男はむろん埋である。貴賓席へうっかり視線を向けるような真似はしない。
「警戒いたします」
「豪族たちにも見張りを、有力者は離れた場所に置いていますね」
「はい」
「それと、ツチガマはどこにいますか」
「ナナビキの鋼鉄船に乗っているのを確認しました」
「タケゾウという若者は」
「は……それも確か、船に」
「あれはまだ未熟だが伸び代は大きい。男子三日会わざればという言葉もある。戦闘になれば遠巻きにして吹き矢を使いなさい」
「はい」
面倒なことだ、とハイアードの王子の部分が思う。
どれほど策を巡らせても、圧倒的な強者というのは常に不確定要素となる。たとえロニに並ぶ実力者が10人いようと仕留められる備えをしているが、それでも警戒してし過ぎることはない。
(それはあの男もだ、セレノウのユーヤ)
油断を強くいましめる。
もはや逆転の目などありえず、どんな隠し玉を使ってこようと自分なら模倣できる自信はある。
それでも、なお警戒する。
(技術と知識で凌駕していても、十全とは言えない)
(やはり、心も折っておかなければ……)
「まもなく試合再開だ!」
トウドウが言い、小姓や他の侍たちが舞台から距離を取る。無料の屋台を利用している客などすでに一人もいない。
全員が固唾を飲んで見守っている。果たして、ここからの逆転などあるのか。
完璧とすら思えるクロキバの押しに、セレノウのユーヤはどこまで食い下がるのか――。
※
「う……」
ズシオウは身を起こして震える。
理解できた、己の体が重く感じる理由。この神の放つ強烈な気配のためだ。周囲が燃え上がって見えるのは神の御業なのだろうか。
「べ、ベニクギ、ヒクラノオオカミは太陽の神なのでは」
「いえ……ズシオウ様もご存知かと思われるでござるが、ヒクラノオオカミの権能は広く、大地の神だとか、鉄の神だとか、かまどと火の神だとか……」
――我は、熱を持つものすべて。
「!」
頭の中に声が響く。声というよりは、空中に巨大な文字が浮かんでいるような。
――我は大地の熱、鉄の熱、かまどの熱、陽帝の熱。
だが直感として分かる、やはり神は老いている。
その声とも図形ともつかないメッセージにしわがれた印象がある。文字がぼろぼろに風化しているような。
「ヒクラノオオカミ……な、なぜここへ」
――王よ。
呼ばれて、ズシオウは動揺を見せるも、神の気配はズシオウの揺らぎすら抑える何かがあった。ごくりと唾を呑んで答える。
「わ、私に、どんな御用なのですか」
――我に示せ、我は、何をするべきか。
「何をするべきか……?」
呟くのはベニクギ。
――我は老いを与えられた。忌まわしき妖精の王によって我の思考は鈍麻し、大地の隅々にまで広がった目と耳も失われた。我は何をするべきかを失った。
「やはり妖精の王に……。し、しかし、なぜ私に尋ねるのです」
――ヤオガミの王は我が写し身。
「写し身……?」
――我の身に危難迫りしとき、我が目と耳を失いしとき、身を潜めるべき炉の見張り手、それを炉人という。ヤオガミの王は我が炉人である。
「聞いたことがござる……ロニとはもともともは戦乱の際、陣幕の中に焚いた火の見張り手のこと……」
「神にとっての……非常時の意思決定者。それが、ヤオガミの王である……というのですか」
――神と王は一つである。卑俗なる意思が、妖精の王がそれを切り離した。
「切り離した……」
――王よ、我は千剣の熱を吸ってわずかに自我を得た。だがほんの一瞬の目醒め、我は何をすればいい。
「何、を……」
何でも可能なのか。
たとえば、誰か、特定の人物を。
――できぬ。
びくりと背骨がすくむ。この神にはズシオウの思考が見えている。
いや、それ以前に、自分はいま何を考えたのか。何とおぞましいことを。
――神が人を手にかけるは大いなる禁忌。犯せば我は人の位へと堕する。我らは人の世の営みとは隔絶せねばならぬ。王のみが我らと通じ合うことを許される。
「ご……ごめんなさい。変なことを思い浮かべて……」
では何を願えばいいのか。
神の力、それでどう事態を変えうるのか。
――我の思考は濁っている。もはや一刻の猶予もない。
「……ベニクギ、ユーヤさんが勝つための、特別な技があるとか」
「「消える手」という技にござる。し、しかし、いかに神の力とはいえ、実在するかどうかも分からぬ技を」
――わかった。
その答えに二人ははっとなる。まさか、そんなことが。
――我は人の世の熱、ヤオガミの熱、この世すべての熱である。不可能はない。だが。
言いよどむ気配。ズシオウは控えめに問いかける。
「……何でしょうか、神さま」
――その技には、この世ならざる熱が匂う。
――それを見せた王とは、何者であるのか……。




