第五十二話
※
「「消える手」というのは、僕の出会った王の一人、早押しを得意とした王の技だ」
ナナビキの隠し港にて。
ユーヤが語る相手は二人の達人。ベニクギとツチガマである。板張りの練兵場は狭く、運び込んだ机には紫晶精が置かれている。
「彼女は早押しの技術を極めていた。問題文の分析と、押し方の技術。誰も彼女には勝てなかった」
正確には、彼女が誰かと競ったことは一度しかない。そのような過去の記憶を語るとき、七沼の舌はいつも重くなる。
この王については特にそうだった。語れば語るほど、正しく語れているのか不安になる。言葉を制御できているか分からなくなる。
「それはええがのお、どんな技じゃと言うんじゃ」
「……分からない」
そう答えるしか無い。そのことに忸怩たる思いがする。
「彼女はこうやって、手を少し早押しボタンから離して構えていた。20リズルミーキほどか。そして押す時に、手が消えるんだ」
「ほお」
すぱん、とツチガマがボタンを押す、何とも紐づけていないので、木板が打ち上がったりはしない。
「こうかのお」
「違う、それでは手の残像が残っている」
ユーヤも押す。手が沈み込む瞬間、手の残像がくっきりと見える。
「この残像が消えるんだ。だから消える手と呼んでいた」
「……ちょお待てえや」
ツチガマが手を虚空に据え、一呼吸。
「ふっ!」
刹那、雷撃の勢いでボタンが押され、机それ自体が飛び上がる。がっしりとした肉厚な机がバウンドしたのだ。ここが樫材の床でなかったら床が割れていただろう。
「……駄目でござるな、まだ残像が残っている」
ベニクギが首を振る。
「んん……散らし、っちゅうもんかのお」
「いや、これは剣術ではござらぬゆえ」
二人はボタンを押す身振りをしながら言葉をかわす。ユーヤがそこへ割って入る。
「散らしというのは?」
「剣術の概念にござる。相手の意識を剣の先から逸らし、その隙をついて打ち込む。あるいは相手が視線をそらした瞬間を見極める技術。剣の達人は己の姿を消す技を持っているでござるが、そのような隠密術も散らしの応用でござる」
「視線誘導……ミスディレクションというやつか、ベニクギのそれは本当に消えたかと思えるほどだが……」
ベニクギもボタンを押す動作をする。やはり凄まじく速いが、目を離さずにいれば手の残像は見える。
「残像を消すなんぞ不可能じゃろお……」
「そう、彼女も正確な原理は分かってなかったようだった。ただ、この技を見せた時の早押しはまさに神速だった。クロキバに勝つ道があるとすれば、この技しかない」
ベニクギは腕を振って試行錯誤しているが、ツチガマの方は試す気もないようだ。考えるまでもなく無理、そんな冷静な判断が下されている。
「のおセレノウのユーヤ……わしが思うに、手を高く構えることに意味があるとは思えんぞ。手はボタンに乗せておくのが当たり前じゃあのお」
「……そうだね」
「思うに、わざと動作を派手に……これが「散らし」ではないかのお。つまり大きな動作で注目を集めておいて、何かしらのイカサマを仕掛けとおるのよ」
「ツチガマ、雷問にどんなイカサマがあるでござるか?」
「わしも雷問を磨く中でいろいろ聞いたわ。多いのはボタンを第三者が押すやつじゃなあ。確定ポイントを知っとる者が脇におって、ボタンを押す」
そんな事はあり得ない、彼女と七沼はいつも一対一でクイズをしていた。
だが、イカサマは本当に無かっただろうか。
例えば七沼が用意した問題文を何らかの手段で読む。これならば最初の数音でどの問題かを見極められる。
あるいは七沼が気づいてない問題文の癖を見極めているとか、問題を予想しているとか。
「手が消えるのはどう説明するでござる?」
「ボタンは押しておらぬのよ、手は袖の中にでも隠せばええわのお」
今のユーヤならば。
光と闇、クイズ界の裏の裏まで知り尽くした彼ならば、「消える手」を手品で説明することもできる。
それが仕事だったから。
魔法じみたクイズ戦士たちの技を、すべて喝破してきたのだから。
だから、振り返りたくなかった。
彼女の技が幻となって溶け消えることが怖かった。もし彼女の強さが幻想なら。幻想を追いかけて生きてきた己はどうなってしまうのか。
あの時の流れの彼方にかすむ、薔薇の館での日々は――。
※
「正解! クロキバに得点を!」
一対一のクイズを眺める観客は、クイズを知らぬものであっても実力差を感じ取ることがある。
そして場の流れもだ。二人のクイズ戦士がやり取りする無数の駆け引き、それを観客は空気の密度として感じていた。
「おい……こりゃ決まったかな」
「ああ、あのセレノウのユーヤってのもかなり食い下がってるが……」
ユーヤ:26点 お手つき誤答19
クロキバ:41点 お手つき誤答39
得点差もさることながら、目に見えてユーヤの消耗が激しい。
前傾姿勢の背中は水樽でも背負うかのよう。勢いをつけると言うより、己の体重すら支えられないように見える。手の先は細かく震え、眼尻に強い力が込められて荒い息を吐く。
これまで消費された問題は125問。むろん、ユーヤはそのすべてを覚えている。クロキバもそうだろう。クイズの世界に足を踏み入れて幾星霜。そのように何百問ものクイズを覚えられる脳を作ってきたのだ。
(おおよそ分かった……トウドウが選択するクイズの傾向。ジャンルの好み。問題文の平均的な長さと言葉遣い)
ユーヤは己の力を総動員している。常人なら卒倒しそうなほどの思考の量。歯噛みしながらそのすべてを処理する。
そして見極めようとしているのは、トウドウという人物のこと。
彼の性格、来歴、家族や友人、職責の重さ、クイズ戦士としての実力、そのすべてを。
「正解! ユーヤどのにポイントを――」
(16ある贅月のジャンルをどのように循環させているか、どのぐらい贅月を読み込んでいるか、読み間違いのないようにイントネーションの置き方に気をつけている言葉は、区切りとなる問題にどのようなものを出すか!)
「第150問/」
ぴんぽん
「!」
その音に最も驚愕したのは、観客でもトウドウでもない。
他ならぬセレノウのユーヤが、驚きを顔面に貼り付けて。
「く……クロキバ、押し間違いであるか」
「いいえ、答えは、水銀」
トウドウの全身が張り詰める。横隔膜が思い切り下がって息を吸い込み、そして大きく腕を振る。
「せ――正解!」
喝采が、もはや圧力に思えるほどの大きさ。
その波紋は観客席のみならず、白桜の城に、フツクニの都全体に広がるかに思える。
「素晴らしい技術ですね、セレノウのユーヤ」
クロキバが言う。耳がおかしくなるほどの歓声なのに、その声は針で刺すかのように明確に。
「トウドウの思考を読み、次に出される問題を当てる。と言っても区切りである150問目を当てるのが精々ですね。早ければこのあたりで勝負がつく可能性もあった。水銀はまさに会心の問題です。良い問題文でした」
「う、ぐ……」
それは、ユーヤという人物を知るものならば極めて珍しいことだと判るだろう。彼が苦痛のうめきを漏らすのは。
「あなたは素晴らしい。あなたの前では私は路傍の花のようだ。さあ、もっと色々と見せてください。そして私に水を撒いてほしい、私はきっと美しく咲くでしょう」
「そ……そこの君!」
クロキバの粘ついた視線を断ち切って、隅で控えていた小姓を呼ぶ。
「は、はい」
「協力してくれ、机を……」
「し……出題を続ける、第151問」
観客が揺れ動く、感嘆とも困惑ともつかない声の高まり。
ユーヤは白州の地面に片膝をついている。その横に机が立てられており、ユーヤは耳のそばで紫晶精のボタンを押し付けている。
「あ、あの構えは何だ? 見たことないぞ」
「あの方が早く押せるってのか?」
「とてもそうは見えねえが……」
ぴんぽん
「セレノウのユーヤ!」
「う……五脚香」
「正解、ポイントを……」
「なるほど、それは一種の思想ですね」
クロキバはその構えの真似はしない。ただねぶるような視線を落とす。
「より脳に近い部分にボタンを置くほうが有利であるという思想。おそらくそのような構えを見せたクイズ王と出会ったのですね。なりふり構わぬ野生のような攻撃性を示す王。きっと強かったのでしょう」
しかし、と三音に酷薄さを潜ませて言う。
「その構え自体が特別な訳ではない、あなたは構えを真似ることでその人物になりきろうとしている。あなたの技術はすべて模倣から生まれている」
「く……」
「そして判る。そのクイズ王は私には及ばない。だから真似る必要もない」
「メイドよ」
視点が上へ。声が生まれるのは白桜城、バルコニーの貴賓席。
第二王女ユゼが周囲の使用人に呼びかける。
「はい、こちらに」
「もしユーヤが負けたなら……あの場に乱入してユーヤを連れ出せ。煙幕でも爆竹でも何を使っても構わぬ」
「はい」
背後には十数人の使用人たちがいる。いつも華美な服で着飾り、酒と美食に溺れているパルパシア風の人々だが、この時は目に冷静さがあった。男は脇のサーベルに手を添え、女性はスカートの下に仕込んであるものの位置を確かめる。
あらゆる場所に伏せているクロキバ側の人間、観客席にも入り込んでいる埋たちの位置を一人ずつ確認していく。
「侍従の職責に否やはなく、侍従の御業に不可能はない、必ず連れ出してみせます」
「ユゼ……」
ユギ第一王女は少しだけ冷静でいようとする。
パルパシアから連れてきているのは国家資格持ちの上級メイドたち。侍たちと戦闘になっても戦えるかも知れない。
しかし、ユーヤがそれに同意するとは思えない。それにパルパシアへと連れ帰るなら、ヤオガミの問題をすべて放置して逃げることになる。あの偏屈な男がそれを受け入れられるだろうか。
その意味深な視線を横顔に浴びて、ユゼは言葉をこぼす。
「……負けたクイズ王のことなど、誰も覚えておらん」
「ユゼ?」
「負ければすべてを失う、ユーヤはそのような死闘を生きておる。じゃがそれは違う。負けて初めて、あやつはクイズから開放される。自分の人生を取り戻せる。そういう考え方もできるはずじゃ」
「……うむ」
ユギは椅子から身を乗り出し、隣のユゼと抱き合う。
濃密に潤沢に、顔を重ねて信頼を確かめ合う。
「そうじゃな、その通りじゃ。あやつが負けたなら、あやつは我々の玩具にしよう。もう二度とパルパシアから出さぬ。ずっと我らと一緒にいる……」
「第170問だ!」
あらゆる場所での人々の思惑、それとは無関係な世界でクイズは続く。
「問題、紫苑糖、黒煙糖/」
ぴんぽん
「クロキバ!」
「上ガラメ糖」
「正解だ! 得点を」
ユーヤ:32点 お手つき誤答25
クロキバ:54点 お手つき誤答39
もはや誰の目にも流れは明白。
点差がさらに開いただけではない。この20問ほどクロキバのお手つきが増えていない。
白州に膝をつき、ボタンを横に構えている男はあまりにも必死過ぎて、観客もそちらを正視できなくなっている。あまりにも、痛々しく。
トウドウはそんなユーヤへと視線を投げて、次に己の懐中時計を見た。
「む……試合開始から1時間だ、ここで一旦休憩を取る」
トウドウはあくまでも中立の立場を取ろうとしており、1時間での休憩も妥当な線と言える。
だが、この休憩がユーヤの助けにならないか、クロキバに傾いた流れに変化が生まれないか、そう期待したことは否定できないだろう。
「ベニクギ……」
と、赤の裳裾を掴むのは、若葉のような柔らかい手。
「ズシオウ様」
「す……少し気分が……で、でも大丈夫。ユーヤさんがあんなに頑張っているのに、私が目をそらすわけには……」
「ズシオウ様、ご無理をなさらずに、休憩の間だけでもどこかで休むでござる」
場は煮詰まろうとしている。
(ユーヤどの……)
クイズの世界に、果たして逆転や挽回などあるのだろうか。
特殊なルールでもない一問一答の積み重ねで、この劣勢を覆すことなど可能なのだろうか。
あるいは今度こそ、ユーヤが負けるのか。
この世界の知識を持たないと露見するのか。その正体が暴かれるのか。
その姿、己の印象すら技術の衣で覆っていた男が、そのすべてを白日のもとに――。




