第五十話
※
闇の中で目を覚ます。
壁に寄りかかって座り、肩から毛布をかけただけの姿勢。ユーヤの覚醒はいつも一瞬であり、生まれ落ちた世界を恐れる赤子のように、わずかに身じろぎする。
「誰か来たのか」
ベニクギに問いかける。彼女の前でふすまが薄く開かれ、誰かがそこにいると分かる。
「ユーヤどの……クロキバが」
立ち上がる。
ふすまの近くに寄れば確かに彼だ。暗い色の裃を着て、簡単な結い方で髷を作っている。
「ユーヤさん、あなたと少し話がしたくて」
「この部屋でか」
「できれば外廊下まで出ませんか。夜明けの景色が見られますよ」
「ユーヤどの、行ってはならぬ。拙者はズシオウどのから離れられぬゆえ、そなたの身を守れぬでござる」
「私がついていこう」
廊下の向こうから、大股に歩いてくるのは天井に頭がつくほどの大男。四角い顔に太い手足、鉄板のような謹厳実直な雰囲気を持つ人物、トウドウである。
「君が……」
「会場設営と同時に両陣営の監視も行っている。私の言葉がどれほど保証になるか分からないが、あらゆる暴力行為や工作は許さない。町奉行の誇りにかけて誓おう」
「分かった、行こう」
「ユーヤどの……」
ユーヤはベニクギに向けて笑ってみせる。それは作り笑いでもあるし、安心させようとする気遣いの笑いでもあった。
「大丈夫だ、すでに勝負の約束は交わされた。妖精はクイズでの決着を望んでいる」
「……参りましょう」
外廊下へ向けて、板張りの通路を行く。
ここは白桜の城でもかなりの高層部分であるが、それでも城下からの熱気が立ち上ってくる。万を数える群衆が集まりつつあるという。
「君は、クロキバだね?」
「はい」
外廊下からはフツクニの都が一望できる。都市計画に基づいた四角四面の区画。古い市街地の名残を見せる入り組んだ区画。
大通りには早くも商人や荷馬車が行き交い、そして城の周りには無数の人影が。
「あなたのことは尊敬しております。かの王子を打ち破った方と一度お会いしたかった」
「君は……君の人格はどうなっているんだ? かの王子に支配されてるわけではないのか?」
「体をお預けしているのです。一日の大半は王子にお預けしていますが、ほんの数時間だけ己の意思で動くことを許されています」
トウドウは一歩下がってじっと二人を見つめている。
彼はクロキバに対して奇妙な印象を抱いていた。埋衆の頭目にしては妙に物腰が柔らかい。
いや、言葉遣いだけではない。その体格、線の細さ、声の奇妙な高さ。裃を着ていることに違和感が生まれている。
「驚くべきことです。あなたは天才とは違う。あなたの力は研鑽と経験によるものだ。そんなもので、かの王子を打ち破ったのですから」
「……運がよかっただけだよ。あの王子は本当に強敵だった。まさに世界を変えうるほどの人物だった」
「そう思われますか」
クロキバはひどく嬉しそうに、息を漏らして笑う。朗らかとも言える笑い方。それは何らかの話術なのか、ユーヤを油断させようとしているのか、トウドウには分からない。
「私も同感です。あの御方はまるで天変地異のよう。世に比肩するもののない人物でした。あの御方はそれを鏡の力だと言っていましたが、私はそうは思わない。あの御方は生まれついての怪物。鏡の力がなくとも、ハイアードを牛耳ることにさほど時間の差はなかったでしょう」
「……だから、自分はそれをコピーできてると言いたいのか? かの王子と同等の強さを発揮できると」
その言葉には、心外だと言うように肩をすくめる。
「恐れ多いことを。私がコピーしたのではなく、かの王子が植え付けたのですよ」
「……」
「あの御方は他の方よりも視野が広く、未来を見通し、隠されたものに気づいていた。だから理解していた。クイズと妖精の支配する、この世界のいびつさを」
ぴしり、と音が鳴る。
トウドウがはっと脇を見るが、何もない。今のは乾燥した木材が縮む時の音だろうか。
「あなたはどう思いますか。あなたのいた世界には妖精がいなかったと聞いております。この世界は、あなたの目にどのように見えますか」
「人々は幸せに暮らしている。豊かで、文化も成熟している。それで十分だろう」
あの王子と同じ話だ、それをまた繰り返したいのか、という態度を眼光で示す。
「しかし自然な姿とは言えませんね。妖精が原因で生まれる不幸とて、無いわけではない」
「だから妖精を追い出すとでも言うのか? それは簡単には決められない。少なくとも僕はまだ、それを判断できるほどの材料を持たない」
「失礼、それは話の飛躍ですね。私はただ聴きたかっただけです。あなたはこの世界をどう見ているのか」
言われて。
ユーヤは一瞬だけ氷のように固まる。呼吸も、心臓すらも止めるような沈黙の気配。
「わからない」
その五音に、本心だとの響きを乗せる。
「この世界は楽園のように見える。誰もが笑っていて、クイズに親しんでいる。だが、僕はひどく疑い深くて、僕自身の抱く印象すら疑ってしまう。本当はこの世界はひどい絵空事で、グロテスクで、救いがないのではないか。そう疑いかける瞬間もある」
「揺れ動いているのですね。それは、いつか一つに定まるのでしょうか」
「そうかもしれない」
山の稜線に緋線が走る。
赤く輝く太陽が、東の果てから登ってくる。
「美しい夜明けです。日座之大神が顕現なされました」
「……太陽の神、だったな」
「いいえ、ヒクラノオオカミは原初の神。大地の神であり、鉄の神であり、炎とかまど、山に住む人々を守る神でもあります」
「君は……」
ユーヤはぽつりと、無意識のようにつぶやく。
トウドウがずっと感じていた違和感。おそらくユーヤも同じことを思ったのだろう。
黎明の光に照らされる、クロキバの横顔。それを見て惚けたように言う。
「君は、やはり王子のことを」
「ええ、愛しておりました」
胸の高さの手すり、それにもたれかかって言う。
「さすがのご洞察でしたね。負ければ妖精の世界へ行ける。体をお預けしていたのに、その事に喜び勇んで、つい口を開いてしまいました」
「そうか……初めて君から、本音というものを聞けた気がするよ」
「ふふ、そうでしょうか。私ならば「本当の心」というものすら複数持っているかも知れませんよ」
柔らかく笑う。
あるいは最初から、クロキバの表情にも声にも自然なものなど一つもないのでは。そう考えて、トウドウの背中におぞけが走る。
「私でも鏡が使えることは確信しております。いいえ、おそらく妖精は使わせるでしょう。胸が高鳴る思いですよ。私はまた王子とお会いできる」
「……」
「しかし悩ましいことです。わざと負けたと悟られれば、王子の不興を買ってしまうでしょう。ですから雷問においては精一杯、お相手させていただくしかありませんね」
ユーヤはぎり、と奥歯を噛む。
経験上、このような状態の相手は手強いものと知っている。
負けることにリスクの無い者に、クイズの神はいつも味方する。勢い込んで前のめりになり、人生が掛かっているなどと喚く者を簡単に見捨てる。それを何度も見てきた。
トウドウが、たまりかねたように発言する。
「クロキバ、お前は女なのか?」
「は、性別などクロキバに何の意味を持ちましょうか。私は性別はもちろん、体格も、年齢も、経験も、病気の有無すら自由自在。本来の姿など自分でも忘れてしまった。あらゆることから自由なのが私なのです。それはもちろん、勝利と敗北からも自由なのですよ」
「勝つのは僕だ」
「そうですか? あるいはあなたが勝った瞬間、顔をベリベリと剥がして私が現れるかも知れませんよ」
おどけているのか、挑発しているのか。
あるいは勝負など本当にどうでもいいのか。己の人生の目的、宿命のようなものからも自由なのか。
トウドウが見るに、クロキバはユーヤを精神的に凌駕せんとしていた。
事実、町奉行である彼も圧倒されていた。この人物は既に人間ではないのか。定まった姿を持たない、意思を持った影なのか。
だが。
セレノウのユーヤ、この人物だけは。そのクロキバの様子に冷静な目を向ける。
「……間違っている」
「おや、何をですか?」
「君が本来の姿を忘れていることと、君の本来の姿が有るか無いか、ということは無関係だ」
「ほう……?」
ユーヤの声は人生の重大な告白のように重く、その奥には悲痛があった。か細い声なのに、耳をふさいでも染み通りそうな独特の響きがある。
「ものごとの正体が暴かれるとは、客観的な事象なんだ。そして本来の姿もまた、客観的に揺れ動く。本来の姿が鬼か魔であろうと、周りがそう思わなければ、ただの凡夫に堕ちることもある」
クロキバは少し沈黙する。
それはユーヤとの会話がどこかすれ違っていたからだ。周りがどう思おうと、本来が鬼ならそれはやはり鬼ではないのか。
「君の本来の姿も、いつか暴かれる時が来る、夜明けの光は……」
ユーヤは場を終えようとするかのように言い、クロキバもそれは真正面の挑発と受け止める。
「すべての者に、公平に訪れるのだから」
「ふ……まあ、ご忠告と受け止めておきましょう。では、此度はこのあたりで」
姿が揺らめく。
トウドウが、その輪郭を捉えかねてまばたきする一瞬、クロキバは消えていた。達人の使う隠密術ではあるが、やはり相当な技量である。
「ユーヤどの、部屋までお送りしよう」
「ああ、ありがとう」
トウドウにはやはり、クロキバは怪物にしか見えなかった。
そしてこのユーヤも、やはり底しれぬものを感じる。
彼らに正体などあるのだろうか。
それが黎明の光に照らされ、暴かれる日が来るのだろうか。
そのすべてが、数時間後に決するだろうか――。
※
まさに雲霞のごとき人の群れ。
白桜の城をぐるりと群衆が取り囲んでいる。およそ信じがたい光景が展開されていた。
昼の四つ(午前10時)まであと10分ほど、集まっている人数はもはや計測不能である。
民衆は屋根と言わず石垣と言わず登り、何となれば城詰めの侍までもが屋根の上に陣取っている。
正面の大門を抜けた先、閲兵広場とされるのは面積にして四分の一町歩(約2500平方メートル)ほどもあり、そこには円形の観客席が組まれている。
「すげえなこの座席……完全な円形だぞ、杉柱みたいだけどどうなってんだ?」
「材木問屋の雁木屋の技だ。高温の蒸気を当てながら木材を曲げて組むらしい」
「そりゃ竹細工とかの話だろ? こんな太い材木を……」
観客席には抽選により選ばれた千人ほどの観客。まったく身分の差異なく選ばれており、商人もいれば職人も、締め込み姿の飛脚までいる。
「あっちの屋台って天ぷらの「明阡」じゃないの? 無料って書いてあるけど……」
「かなり長い勝負らしいから、屋台で自由に食べていいらしいわよ」
「あっちなんか肉饅頭の「銀杢」よ。一つが四分金一枚するっていう五目饅頭じゃないの」
さきの御前試合も大層な大盤振る舞いであったが、今回のそれはまた違う気配がある。
一言で言えば、腹の座ったような雰囲気。
周囲で見張る侍たち。場の中央にいて選手たちを待つトウドウ。いずれもただならぬ気配を放っている。
この勝負がフツクニの、あるいはヤオガミにとって重大な意味を持つと誰もが実感する、そんな場が形成されている。
城の二階にある展望台。すなわち広場に兵士が集まったとき、それを眺め下ろすための場所には貴賓席が作られている。
パルパシアの双王はそこにいた。トウドウが無理に招いたのと、双王が無理に出てきたのが半々である。
「まったくユーヤのやつめ、我らに断りなく城に泊まりおって」
「ズシオウが心配で一緒にいたじゃと? まさか大奥で遊びほうけておらぬじゃろうな。ユーヤのことじゃから大奥の美女らを徹夜で」
「ユギ、それはない」
「ごめん」
二人してワインを煽る。独自の製法で作られるというヤオガミのワインである。ぶつぶつ言う割には酒色や風味などを細かく見ている。
「うむ、これは買いじゃな。とりあえず50ケースほど持って帰るかのう」
「しかしブドウの力強さが少し物足りぬな。パルパシアからブドウの樹を輸入する気はないか交渉してみようぞ」
「なんか我ら王様みたいじゃな」
「両選手、前へ!」
トウドウが声を張る。そのがっしりとした巨体から生み出される声は力強く、ざわめきの海を斬り裂く剣のようだ。
現れるのは、黒と黒。
片方は黒の着物と羽織、蝶の小紋をあしらい、下駄までが黒い。後ろに撫でつけた髪と物憂げな顔立ち。身に着けたすべてが一流のものだと分かるのに、全体として暗鬱として、それでいて眼光だけはするどく光る男。
片方は埋の黒装束。裃を着てないのは己の出自を示すためか。それともわずかでも腕の動きを制限したくないのか。
目は大きくしっかりと見開かれ、その上で性別も年齢もよく分からない。
判断つかないというより、数秒ごとにころころと印象が変わるような人物だった。体型も年齢も、定かなものを何も持たない、不安定さと睦み合うような人物。
トウドウは両者を数秒ずつ見つめ、そしていよいよクイズが始まるのだと、嫌が応にもヤオガミの命運が左右されるのだとの覚悟を持って宣言する。
「これより雷問にての勝負を行う! 競うは心技体。争うは寸毫の極み。賭けるものは互いの身柄。いや、このヤオガミという国そのものの命運! 観客らにそのすべては説明できぬが、間違いなく今日このとき、ヤオガミは大きな分岐点に立つのだ!」
観客席の千人が、その背後に広がる数万人がそれを聞く。
「心せよ! ヤオガミは今日この勝負において! 真の夜明けを迎えるのだ!」




