第四十二話
※
曇天が朝を覆い尽くす。
雲の流れは重々しく、西から東へ届く巨大な鯉の鱗のようだった。大気のすべてが可視化されるような大きなうねり。
島の片隅、うろうろと歩き続ける影が一つ。
黒い羽織りを着たユーヤが、さほど広くない範囲を歩き回っている。一つの石灯籠を中心として、右へ左へと。
「ユーヤは何をしておるのじゃ?」
離れたところから見ていた双王に、やはり見ていたベニクギが答える。
「瞑想のようなものでござるな。ああして歩き回ることで何かを考えているのか、あるいは昔のことを思い出しているのでござろう」
「「消える手」じゃったか、早押しを得意としたクイズ王の技らしいの」
「ユーヤも習得できなかったとか、それを思い出しておるのかのう」
「おそらくは……」
歩き回るユーヤの目は虚ろで、ここではないどこかに意識を飛ばしているように見える。世捨て人のような、という喩えがベニクギの脳裏に浮かび、心の中で打ち消す。
「凄まじい集中にござる。高徳なる僧か、あるいは狼の気配に耳をそばだてる牝鹿のような……」
「どんな技なんじゃろうな? ベニクギは何か聞いておるか?」
「聞いてはござるが……説明は困難にござる。今はそれでご容赦いただきたい」
「ふうむ?」
ベニクギとツチガマは、その技について説明を受けた。
だが聞いてなお、そんな技が実在することが信じられない。
ユーヤですら信じていなかった。より正確に言えば、実在を確信しようとしていた。再現できないながらも、達人の二人なら、と説明したのだ。
「ユーヤどの……」
今もああして思い出そうとしている。かつて彼が出会ったというクイズ王。
その人物は、ロニである自分よりも強いのだろうか。剣の腕は立つのか。多くの知識に通じるのか。
――そんなはずはない。
(拙者とツチガマにできぬなら、おそらく世界の誰にもできぬ)
(ユーヤどの、そなたが思い出そうとしているのは、本当にこの世の者なのか……)
「おーい、ユーヤの旦那ー」
港の方から走ってくる影がある。胴丸鎧の青年、タケゾウだ。
「あの埋が先触れを出してきたぞ。一時間後に上陸するってよ。ナナビキの旦那が話し合いたいってさ」
「わかった、すぐ行く」
遠間にそう答える。双王はそのことに少し驚く。
これ以上ないほど忘我のていで歩き回っていたのに、彼の心はすぐに現実の世界に浮上してくる。この人物は夢とうつつの狭間にいても、社会性というものを決して失わない。
ユーヤが坂を降りて村の方に向かい、双王がその後をついて降りていく。
ベニクギは、彼を呼びに来た青年の方に声をかける。
「タケゾウ、ツチガマはどこにいる」
「師匠ならラジオ聞いてるぜ、向こうの岩の多いあたりで」
「立ち会いたい、と伝えてくれるか」
タケゾウがふと固まる。声に聞き慣れない響きがあったからだ。
「木剣を持ってくるよ……」
「いいや」
全身の細胞を奮い立たせるように、声に芯を入れる。今までの自分は眠っていたのだと言うかのように。
「真剣を用いて」
※
「船の引き渡しと島の明け渡し、拒むお考えに変わりはありませんか」
前日と同じ、精悍な顔つきで日に焼けた男である。埋としてユーヤと戦った人物だが、けして名を名乗ろうとしない。
場はナナビキの屋敷。
だが奇妙なことには、ふすまが開け放たれて丘が見えている。頂上へと目を凝らせば、そこに双王たちがいるのが分かるだろう。
パルパシアの王である二人はこの会談に直接臨席することは難しい。だが会談の内容は把握させておきたい。そんな思惑が絡んだ結果、異様に開かれた場となっていた。
「船は渡せぬ、だが」
ナナビキは一度ユーヤを見る。交渉については話し合っているが、さほど画期的な案が出たとは言えない。
「ズシオウどのの身柄を引き渡すなら条件を出してもよい。ハイアードの鋼鉄船を三隻渡そう。その条件を持ち帰れ」
ズシオウは顔と体格を隠されている存在。いざとなれば偽物を仕立てても構わない、とは埋のほのめかした部分である。その点を突いた提案だった。
「飲めませんな。船を引き渡すとはすなわちハイアードの造船技術を渡せという意味。水軍衆が鋼鉄船の技術を持つことは後顧の憂いとなります」
「鋼鉄船はすでに構造を学ばせている。妖精や油脂燃料を動力に変える機構も図面に起こした。船があろうと無かろうと大差はない」
「ナナビキどのの水軍衆ならば、おそらく3年もあれば再現するでしょう。船があれば1年。この差となる2年を渡せぬと言っております」
台本を読むようだ、とユーヤは感じる。声に動揺はなく、こちらを揺さぶる重みもない。
すべて想定済みの問答ということか。それともこの会談は彼のものではなく、誰かの真似をしているだけなのか。
「ズシオウ様の引き渡しも呑むのは難しい。こちらも危ない橋を渡っているとはそちらの指摘されたこと。お体に万一のことあらば対応は必要でしょうが、本物であるに越したことはない。特に」
と、視線はナナビキに据えたまま、ユーヤに意識が向くのが分かった。
「かの鏡は今はこの島にある。鏡は幽鬼のように所在定かならざれども、ズシオウ様はそうではない。身柄を確保するに越したことはない」
「……」
ナナビキは袖で口元を覆って構える。そこまでは想定問答にもあった流れだ。
ヤオガミの鏡の効力。分身を持つものの厄を本体のそばにいる者に押し付ける。
個人としての利便性はともかく、戦略的に大した意味があるとは言えない。クロキバにとって、ユーヤの側にズシオウと鏡が揃っても脅威ではない。
だが選ぶなら、鏡とズシオウのどちらかを選ぶならば鏡だろう。
すなわち、鏡と引き換えならばズシオウを渡しても良い。
そのような言外の交渉が交わされている。ナナビキはそこまで数秒で読み解く。
「やむを得ぬな、では鏡と引き換えならばズシオウ様を」
「ユーヤどの」
現れるのは緋色の影。
ベニクギである。しかし、彼女の全身からうっすらと湯気の立ち上るかに思える。体温が高まっており、頬に血の気が濃かった。
「ベニクギ、どうしたんだ、そんなに汗をかいて……」
「しばしツチガマと戯れてござった」
ずかずかと部屋に踏み込み、埋の前に立ちはだかる。
「その埋と交渉など無用。ズシオウ様は拙者がクイズにて奪い返す」
「ほう」
埋の男はかるく笑ってみせる。ユーヤとベニクギを素早く見比べるように目を動かし、ゆるりと手を開いた。
「よろしいのですか。いかに妖精の鏡が貴重なものと言えど、人の命には替えられない。ズシオウ様と鏡を交換する契機を無駄にされるおつもりですか」
「クロキバの意図のままには動かぬ」
どかりと、ユーヤの斜め前に座る。
「応じればずるずると交渉を繰り返され、産毛まで抜かれるは必定。どうあってもここは勝負にて奪い返さねばならぬ」
「ベニクギどの、今は私とユーヤが交渉している。そなたは控え……」
ごとり、と、畳に置くのは短刀。漆塗り金蒔絵の鞘に収められた、宝物のような刀。
「聞けぬ。拙者は王とも対等なロニであり、ヤオガミをあらゆる災厄から守る刀。名もなき埋よ。語られざる影の狼よ。もしクイズにて拙者が勝てば、お前の権限でできる限りのことを譲歩すると約束せよ。もし拙者が負ければ」
もろ肌を脱ぐ。
さらしの巻かれた肌は水につけた手ぬぐいのように汗をかき、皮一枚が斬れた傷跡が無数にある。今の今まで、どこかで百人の手練れと斬り結んでいたかのような。
「拙者はクロキバを含め、フツクニすべての侍を斬る」
「な……」
驚愕するのはユーヤである。
「しかるのち腹を切って死ぬ。それが王権の見張り役、国を断つ刀、ロニの務めにござる」
「はっ……できると思っているのですか。いかにロニとは言え、人間の器をはるかに超えている」
「できる、できないは関係ござらぬ。貴様ら埋をここまでのさばらせたのは拙者の不覚。ここまで総身に病が回れば、フツクニの国体そのものを断つより術はなし」
「ま、待てベニクギ、いくらなんでも」
「持って」
ナナビキを押し止めるのはユーヤ。彼の細い腕が、この大海を渡る豪族を黙らせる。
名もなき忍者は薄く笑って言う。
「ベニクギ、あなたの宣言は受け取るとして、正直なところ私には何の権限も与えられていない。あなたが勝ったとして、自由にできるのは我々すべての身柄ぐらいしかない。それでよろしいか。おお、これは何とも不可思議な賭けですね。ベニクギどのが勝てば我々は一人残らず斬られる。負けても我々すべてを斬るという。だが我々はおそらく負けませんがね」
ユーヤが見るに、声に偽りの響きはない。忍者たちは実力に自信があるのか。それとも最初から命など投げうつ覚悟でいるのか。
「ベニクギ……」
「ユーヤどの、拙者は度重なる醜態を晒してきた。もはやこの身のいつ果てるとも已む無し。さりとても今のユーヤどのには預けられぬ。そなたはハイアードの王子という巨大な影に怯えている」
ベニクギはユーヤから意識を外し、じっと埋のみを見る。
「元よりこれはヤオガミの問題であり、この世界の問題にござる。もし止め立てするなら、ユーヤどのでも斬る。拙者はその腹を決めてきた」
「……」
その建物を、遠眼鏡で見下ろす数人。
各国のメイドに水軍衆の若者、そして双王ら。会話の内容は双王が同時通訳的に実況している。
「これは意外な展開じゃな、あの侍が意地を見せてきよったか」
「我らは口を出せぬ問題じゃが、本来はユーヤも同じじゃからのう」
その背後ではタケゾウとツチガマ。
ツチガマもまた全身から熱を放散し、タケゾウが手ぬぐいで汗を拭いていた。
「ち……あのあほうが、煮えたぎるような殺気を込めてきよったわ」
「師匠、どうなんだろうな、フツクニの侍をぜんぶ斬るなんてできんのか?」
「はっ、できはせんわ、達人とか豪傑と呼ばれとおる者だけで数百はおるわいのお。それがわからんほど間抜けでもない」
「じゃあ、どうして」
「知らんわ、じゃが、まあ……」
ツチガマは空を見る。くろぐろと垂れ込める曇天は、灰色のままその濃さを増すかに思えた。
「ベニクギ、あのあほうは、勝っても負けても死ぬ気じゃわいのお……」
※
「ベニクギどの」
ナナビキが、せめてもの威厳を保って言う。
「ロニが王とすら対等とされる古き法。それがどこまで言葉のままかを知るものはおらぬ。かつてロニと呼ばれた人々も、せいぜいが有力者の側近を務めていたに過ぎぬ。だがそれらは真のロニとは違うのかも知れぬ」
言う間も、ベニクギの剣気、黒装束の男たちに向けられる殺気は強まっている。
ナナビキはふと短刀に視線が惹きつけられた。鞘が八割ほど抜けて刀身が露出している。象嵌で埋め尽くされた白い刀身。誰もその短刀に触れていないのに。
「真のロニならば、国家すら超越する個人が存在するならば、ロニの法は真の意味でその役目を果たすのかも知れぬ。そなたがそれを証明すると言うなら、止める気はない」
「ナナビキどの、かたじけない」
「は、戯れ言もここまで来ると感涙というものですな」
埋の男はそう言うが、それは心からの言葉というより、頭でそう言うべきと考えただけの言葉だった。
国家を覆す個人など存在しない。
その常識というものに、この忍者すら縋っている。
そしてユーヤは。
重く目を伏せ、さらしの巻かれた背中に声を投げる。
「わかった……ベニクギがそこまで言うなら、任せよう」
(僕は……)
ユーヤは、この唐突に現れた緋色の傭兵は、自分たちを助けに来たような、そんな気がしていた。
より正確に言うならば、この場をユーヤから助けようとしていた。普段からあまり安定していない彼ではあるが、今の自分はそんなに危ういのかと、ベニクギに感じ取れる不安定さを放っていたのかと、そう己を恥じる。
「では……不肖ながらこの僕、セレノウのユーヤがクイズを提案しよう」
「提案、そうなると雷問ではないのですね」
「この島で第三者的な人物を用意できない。僕や双王ですらどちらかに肩入れしないとは言えない。だから客観的に公平と思えるクイズを提案する」
「……よろしい」
「では忍者の……埋の君、何か一つ、美しい単語を言ってくれ」
「美しい……? では、硝子」
「ガラス……それから連想される有名な楽曲はあるか。君は西方圏の文化にも通じてるんだろ」
「勿論、ではセレノウのボーカル付き管弦楽団。霧の楽団の「ガラスの王冠」などいかがでしょう」
「双王!」
丘の上の双王に呼びかける。王たちはいきなり呼ばれて身をすくませた。
「「ガラスの王冠」の記録体を持ってきてるか! あるなら手で輪を作ってくれ!」
丘の上の蒼と翠は、一度顔を見合わせてから手で輪を作る。
ぴしゃり、と障子が閉じられた。
「そこの君、記録体を受け取ってきてくれ。蝋読精のラジオも」
と、指示するのは水軍衆ではなく、背後に控えていた忍者の一人。
「わ、わかった」
男が出ていき、足音が遠ざかるのを確認してから言葉を続ける。
「勝負は、時間押しクイズ」
「ほう……?」
「僕とナナビキ氏の懐中時計を使い、今すぐ勝負を始める。懐中時計には高級なものにはストップウォッチの機能があるが、それを使って二人で同時にスタートさせ、文字盤を見ずに「ガラスの王冠」の楽曲の長さと同じと思えるタイミングで時計を止める。つまり近似値クイズだ」
「なるほど……曲の長さの定義はどうされます。売っている状態では演奏時間が書かれた歌詞カードなどが付属していますが」
「楽曲が鳴り始めたのをスタート、最後の1音が鳴ったタイミングをエンドとする。鳴り終わりのタイミングをコンマ以下で掴むことは困難だからだ。その計測はこちらとそちら、両方で行い、誤差0.5秒以下であれば勝負成立としよう」
「ふむ」
忍者は素早く思考を巡らす。
楽曲の決め方に恣意的なものは感じなかった。誘導されてもいない。
部屋の外は双方の手勢に見張らせれば、外部から答えを教えるような真似もできない。
(クロキバ様は、セレノウのユーヤにだけは気をつけろと言っていた。想像もつかぬことを仕掛けてくる男だと……)
(まあ良い。ここでベニクギと我々が共倒れになればまさに巨利というもの。ベニクギを葬れる可能性があるなら、乗るより他に手はない)
そして忍者は。
名を名乗らず、定まった人格すら掴ませない。そしてクロキバのような卓抜の者でもない名もなき忍者は、誰かの真似のようににやりと笑った。
「お受けいたしましょう」




