第三十六話 (過日の5)
※
夏の日々は煎られる豆のように過ぎる。
その時期が夏休みだったという確信はない。記憶が曖昧だが、学校に行っていた記憶がないから、きっと夏休みのことなのだろう。
七沼少年は朝早くから家を出て、陰影の濃い道を歩いてバラ園に向かう。
通りには誰もいない、この付近で通行人を見たことはほとんどない。錆びついた鉄柵をよじ登って庭園へ、そして洋館の中へ。
建物に入ると、七沼はまず掃除をする。電気は生きており、大きな掃除機を使っていくつもの部屋を掃除。
そして二階の寝室の一つへ。
そこには毛布をかぶった人物がいる。フランネルの真っ赤な毛布。被っている人物の顔は見えない。
人物の前にはいくつかの皿がある。七沼はいくつか声をかけてから食器を回収し、一階で洗う。
それからは買い出しである。一階ロビーにあるアタッシュケース。そこから一万円札を1枚だけ持ち出し、家族も、校区の生徒も行かない遠くのスーパーまで歩いていって買い物をする。
往復で90分ほど、何キロも歩いてやっと帰り着き、それから料理を行う。
いくつかの保存の効きそうな料理を作って、容器に保存して、天井に届きそうなほど大きな冷蔵庫に仕舞う。
料理は稚拙とは呼べないものであったし、己の行動を知人に気づかれぬように気をつけていた。年齢を考えれば誰もが驚愕するほど全てをこなしていた。
そして七沼少年は歯を食いしばるような心境だった。死にものぐるいと言っても過言ではない。やったこともない料理を必死で勉強し、栄養なども考えた。手を切ったことやフライパンで火傷したことも数知れない。
少しでも気を抜けば、二階のあの人物は砕け散るのではないか、そんな危機感があった。けして病気であったり、やせ衰えてたわけではない。七沼が手を抜けば、この家に来ることを忘れれば、彼女はガラスのように砕けてしまう、そんな強迫観念が彼を突き動かしていた。
「七沼くん」
はっと振り向く。台所の入口に彼女がいた。
かつてのドレス姿ではない。裸足にスリップのようなものを着て、毛布をかぶったままの姿だ。服はあるのだが、あまり着ようとしないし、七沼には着せてやることもできない。
「どうしたの」
「あれをやろうよ……ねえ、あれを」
その目が七沼を見ている。充血したような赤い目。乱れた髪。その奥には退廃的な、何もかも投げ出したような虚無の目。
「いいよ」
七沼は逆らえない。それとも、逆らおうとしていないのか。
「えへへ」
彼女は笑う。擦り切れた布が風に舞うように。
二人は一階ロビーに移動して、彼女はそこが定位置なのか、使われてない暖炉の前に座る。冷房もないのに屋敷は不思議と涼しい、緑に囲まれているからだろうか。
彼女は。変わり果てた紅円は、それでも美しいと思えた。
半年ほど合わない間に変貌し、赤子のように笑うことが増えて、四肢にいつも力が入ってなかったけれど、無垢な愛らしさがあった。
彼女が早押しボタンに手をかけ。そして七沼が読み上げる。
「『で/は」
ぴんぽん
※
『なぜ彼女は保護されていないんですか』
電話ボックスからの通話、かつてのボックスは現代のように全面ガラス張りではなく、中に人がいるかどうか確認できる程度の窓が開いていた。七沼はボックスの中でかがみ込み、身を隠して通話する。
「彼女は見つからなかったらしい、手入れの日にどこかに逃げていたか、隠れたかしたんだろう」
週刊誌記者の灰田は騒々しい場所にいるようだ、競馬場であったが、七沼には音で判別はできない。
『しかし、彼女は大金を持っています、犯罪に加担していたのでは』
「そのことだが、ハッカーのグループが警察に語った話があってな、警察内部の懇意にしてるお人から聞いてる」
どこか気がそぞろという様子で灰田は語る。
「あの女はどこかの繁華街で道端に座ってたそうだ。古い革張りのケースに何百万か持ってたらしい。詐欺グループは女を拾って屋敷の管理をさせてたそうだが、持ってた金の出どころについては何も言わなかったらしいな。ヤバい金かとも思ったので、詐欺グループはその金に手を付けなかった。ついでに言うが、ハッキング被害の金は口座を抑えられてる、被害額としっかり帳尻が合ってるらしいし、その女が個人的に持ってる金まで奪われることはないだろう」
ヤバい金、という感覚は今ひとつ分からないが、七沼は電話越しの会話を続ける。
『……どこか、彼女のような人を預かってくれる施設はないでしょうか』
「カネはあるんだろ。行政だって本人が拒めば何もできんだろうさ。それとも病院にでも叩き込みたいのか」
『……』
しかし、あの館にずっと置いておくことはできない。七沼は必死で考えて言葉を探す。
『そう……あの洋館は誰のものなんです? 勝手に住んでいていいんですか』
「あの洋館はどこかの資産家の持ち物らしいが、海外に住んでて連絡がつかんらしい。ハッカー集団の一人に金持ちのボンボンがいて、そいつが長期契約で借りてたらしいな、詳しいことは知らん」
『じゃあ……』
「あんた、あの女を追い出したいわけじゃないんだろ」
七沼は黙ってしまう。声は機械で歪めているが、それでも戸惑いの気配を察知されただろうか。
「無理矢理にでも警察に保護させることは出来るだろうが、それでいいのか。別に焦ることはないだろ。しばらく身の振り方を考えたらいい、働き口だってあるだろう」
『そういう……わけには』
「それとも働けない事情でもあるのか、心の病気ってやつかい」
『いえ、そんなことは』
反射的に否定してしまう。否定して良かったのかと短い内省がある。
「いずれにしてももう俺の管轄外ってやつだよ。保護してやりたいなら警察に電話しな、じゃあこれで」
『彼女は』
電話が切られそうな気配に強い声が出てしまう。
彼女は、の後に何と続くのか。
その質問はずっと七沼の中にあって、気の緩む瞬間に外へ出ることを狙っていた、そんな気がする。
電話の向こうから大歓声が聞こえてくる。大勢のがなり立てる声、その中に溶け込ませようとするかのような、七沼のか細い声が。
『彼女は……僕の手には負えないかもしれない。理解を……超えてきているんです』
「何だって? 何の話だ?」
『その……彼女は早い……あまりにも早すぎる、超能力じみてる……わけがわからないんです、彼女にも説明できない……でも、そのかわりに、どんどん、それ以外を、失うみたいに……』
「よく聞こえない、何て言ってる? あ、ちょっと待て、大外から来やがった」
『どうすれば……彼女は早押し以外の……すべてを失ってしまう……あんなにも美しいのに……』
「とにかく身の上を聞いてやれ! 俺はもう何もできんぞ! じゃあな! うわ、こりゃ大穴が……」
電話が切られる。
七沼はボックスの床に座ったまま、疲れ果てたように壁面に体重を預けた。何日も電話し続けていたような疲労だった。
「でも、あの人は……」
今にも消えてしまいそう。
その言葉は呟かれることはなく、世界に存在せぬまま、七沼の心に留まっていた。
※
「問題、193/7」
ぴんぽん
「濹東綺譚」
「……正解」
ゆるやかな構えだった。
獣のような前傾姿勢でもなく、目も閉じていない。
ただ床に足を這わせ、横座りのような体勢でボタンに手をかける。長くなってきた髪が手の甲に乗っている。赤い毛布は彼女の毛皮のようだ。
「問題、長生きの/ひ」
ぴんぽん
「250歳」
「正解」
何一つ、理解の及ぶところはない。
今の問題などはかなりアレンジされている。
問、長生きの表現である「天寿を全うする」という言葉、この天寿とは何歳のこと?
解、250歳
問題が限られているため、答えとなる単語はある程度限定される。しかし長生き、の段階で押すとするなら、候補になりそうな答えは「77歳」「白寿」「ダイヤモンド婚式」など複数あるのに。
鬼気迫るというわけではない。むしろ逆に、覇気とか貪欲さが感じられない。
彼女は少し痩せただろうか。外に出なくなったため、肌は色素が抜けて生白くなっている。
「お姉さん……ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、食べてるよお」
彼女には濃い影が差すようになった。いつも脱力しており、あまり立ち上がることがない。テレビもつけず、本を紐解くこともない。
世話をしていないバラ園はなぜか雑草が生えない。妙にツタが太くて大輪の品種だけが生き残り、敷地の隅々まで領土を広げるかのようだ。
「お風呂は、入ってる?」
「えへへ……そこそこ、かなあ」
また帰りに風呂を沸かしていこうと決意する。不潔な印象はないが、髪は外はねが目立つようになった。
「お姉さん……この家にずっといちゃ駄目だよ」
「うん……」
「お姉さん、元気なんだから、お仕事するとか、生まれた家があるなら、そこに」
「私を暴かないで」
硬質な声。七沼は言葉を喉に押し込まれるように感じる。
「……あ、ごめんねえ、驚かせるつもりはなかったよお」
床を這って、七沼のそばに来る。その膝を恐る恐るという様子で撫でる。
「私ね……山の中にいたの」
「山……?」
「うん、何もなくて、退屈で、友達もいなくて、いつも寂しかった。だから都会に出てきたんだよお」
「上京したんだね……」
「でも、うまくいかないねえ。都会の人は怖いし、仕事は難しいし、生きていくだけでも大変なの。私には何も出来ないって思い知らされるの。人恋しいのに人が怖くなるの。どこにも居場所はないの。悲しいものが街にあふれてると感じるの」
「……」
「私が街へ行くことを望んだから、だから罰を受けたんだねえ。灰色の街では生きられない。青い海や緑の森は空気が澄みすぎてる。赤いものが見える場所にしか住めないの。きっとそういう呪いを受けたの」
その話は何度か繰り返されている。
七沼はその話について、自分で自分に与えている「設定」のように感じた。紅円はこのようなとりとめのない話をすることが何度があったが、いつも詳細はぼやけていて、具体的に風景を思い浮かべることが出来ない。
彼女自身、何かを思い出しながら言っている話では無いように感じる。
創作の檻に自分自身を封じるような、と、そこまで明確には言語化できない。
「この家にもいろんな人が来たの。おもちゃ会社の社長さんとか、映画監督とか、スポーツ選手とか、みんなキラキラしてたけど、強さがよく分からなかったの。何が優れているのか、どうして成功しているのか、どんなことに幸せを感じてるのか、複雑すぎて理解できない。私からはとても遠い人たちだったの」
言葉はあまり要領を得ない。七沼に説明してるわけではないように思えた。悲しい気持ちだけを泥に変えて吐き出すようだった。
「私は、誰とも競い合いたくない。戦いたくない。勝つのも負けるのも嫌、でもそういうものと無縁でもいたくない。一人きりになりたくないけど、横に並ばれるのは怖い。矛盾してるの、どうしようもない生き物なの」
「お姉さん、落ち着いて……」
「クイズに出会ったのは、偶然だけど……」
ぱたりと床に倒れて、頬で早押しボタンを愛おしむ。ぼんやりとしていて、わずかに怯えるような顔。息が板張りの床にかかり、1秒だけ白い跡が残る。
「今はこれしかない、これでいいの、誰にも負けたくない。早押しクイズの、単純で絶対なルールの世界にいたい。誰よりも早く押して、誰よりも早く答えたい。でも競い合うのは怖い。七沼くん、分かってほしい、許してほしいよ、私は外には出られないけど、誰よりも強くなるから、考えられる限り早く押すから、私が一番だって信じてほしい、ねえ、そうだよね……」
「うん……お姉さんが一番だよ、間違いないよ」
紅円は、自分の過去など何も覚えていないのではないか。そんなことを考える。
(クイズの、強さ)
紅円は、あえてすべてを捨てたのではないか。
クイズのためだけに。クイズという篝火に自分自身を放り込んで、一つの火になろうとしたのか。
(クイズで強くなることは、クイズ以外のすべてで弱くなること……)
だから、捨てたのか。
自分の過去も、女性らしさも、人間性すらも。
「お姉さん、クイズ大会に出ようよ」
大きな丸い目、充血して赤くなっている目が七沼を見る。
「大会……」
「うん、来週、隣の市であるみたいなんだ。テレビに出てるクイズ王も来る立派な大会みたいだよ、優勝したら10万円だって」
「無理だよお……私、この家にある問題しか、知らないし」
「他にもたくさん持ってくるよ。お姉さんならきっと勝てる。見せてほしいんだ、お姉さんが戦うところ」
だから、どうか日のあたる場所に。
勝利と敗北がある、当たり前の世界に。
「早押しクイズは、競い合うことが面白いんだから」
「うん……そうだねえ」
紅円の頬を涙が伝う。
その涙の意味は複雑すぎて、きっと、この世の誰にも分からないような気がした。




