第三十二話
何らかの樹脂で作られた顔を剥ぎ落とし、ベニクギに似せた髪を落とせば、現れるのは青年風の男。
「何者だ、あの男」
「クロキバと名乗っていたが、拙者が知っている顔とは違う……」
謁見の間の手前側にいた侍たちが声を交わす。ユーヤはそちらは見ずに、耳だけで情報を拾う。
(この人物……)
年の頃がよく分からない。性格も、体つきも、感情も感じ取れない。クロキバだと言及されたが、凄腕の隠密だと示すような要素は何もない。
まるでマネキンのように無味乾燥な顔。ユーヤは知っている、それは己の素性を消す表情だ。
この場で最も注目されるべき人物のはずが、目が焦点を結ばない。注視していないと見失いそうになるほど気配を消している。
「べ……ベニクギは!」
ズシオウが上ずった声で言う。
「ベニクギはどうなったのです! 私の護衛についていたはず!」
「自明なことです。私がここにいるのだから」
クロキバの声にもまた特徴がないが、その声に応えて二人の男が出てくる。
その二人は侍の格好をしており、赤い着物の人物を畳の上にどさりと投げ出す。黒いゴム状の帯で縛られている、それは緋色の傭兵。
「ベニクギ!」
「薬物で眠らせています、ロニでも半日は目覚めない」
ズシオウが駆け寄り、そして周囲のふすまがバンと開かれる。
この階層の外周は外廊下になっており、360度ぐるりに赤と青の篝火がある。
それを管理していた侍たちがずかずかと入ってきたのだ。裃が液体のようにするりと落ち、黒一色の装束へと変わる。
「! 埋たち!」
「おのれ! 近づくな! 我が太刀の錆となりたいか!」
「……ま、まさか、この篝火を焚くという演出、埋たちをこの階層に集めるための策か」
豪族の側近たちが刀を抜く中、真っ先に動く者がいた。
侍の一人、足先に限界まで力を溜め、火を噴くほどの勢いで畳を蹴る。
それは居合の達人。人間離れした速さで十歩の距離を踏み込み、クロキバの真後ろへ、そして鍔鳴りから斬撃、納刀まで5分の1秒とかからぬ神速の技が。
放たれる瞬間、それを見ていた人物がまばたきをして。
まぶたが開く瞬間、居合刀がクロキバの手にあり。
斬りつけんとしていた人物は半回転し、廊下の手すりを飛び越えている。
「な――」
だあん、と背中から瓦屋根に落ち、勢いのままに転がり落ちる。いくつかの瓦を割りながら階下の庇へ、その下へと、叫び声が尾を引いて流れる。
「刻刀」
そうとだけ言い、手下らしき黒ずくめの男に刀を渡す。
ばたり、と数人の男が倒れる。
「! テキサイ! どうした!」
「イットウ!」
その首筋には、円錐型の針が。
「眠りの毒です」
クロキバが言い、忍者たちは吹き矢筒を捨て、短めの忍者刀を抜く。側近を一斉に失った豪族たちは、己も腰帯から刀を落とすよりない。
「う、ぐ……」
「何という手際だ、これがクロキバ……」
「ベニクギ! ベニクギ起きてください! なぜあなたが不覚など!」
ズシオウが懸命に呼びかけている。それに興味でも引かれたのか、クマザネが声を投げる。
「ズシオウ、あまり責めるな。上には上がいるというやつだ。クロキバに勝てるわけがない」
「そ――そんなはずはありません! たとえ相手が埋でも、大勢でも、ベニクギが負けるはずがないんです!」
それは、傍目には盲信としか見えない言動であっただろう。
だがユーヤは異なる感想を抱いた。あの砂漠の地で、神業のようなベニクギの戦いに触れた彼だけは。
(ズシオウの言葉は正しい)
(ベニクギが実力で負けるとは考えられない。たとえ不意を突いても、多勢で仕掛けても、罠にかけたとしてもだ)
(彼女に勝つには、人間を超えるほどの力が必要なはず)
(クロキバにそれがあるのか? 剣技か、あるいはそれ以外の何らかの力が……)
「まあ良い――」
クマザネは立ち上がり、他の埋は豪族たちを拘束していく。
「いよいよ計画の総仕上げと行こう。セレノウのユーヤ、ズシオウ、私とともに来い」
「……?」
ユーヤは他の埋に腕を取られ、強引に立たされる。ユーヤは腕を振りほどいて、自分で歩く意思を示した。
ユーヤと戦っていたいかめしい顔つきの男。彼はこの場の指揮をするようだ。残って他の侍や忍者たちに指示を出している。
同行するのはクマザネとクロキバ、ユーヤとズシオウ、そして背後から数人の忍者たち。
「おお、見よユーヤ」
クマザネが、開け放たれたふすまから東の空を見る。篝火の向こうには紺青色の空。それが白み始めている。山並みを黄金色の輪郭線が縁取る。
「黎明の時だ」
※
階段を登り、白桜城のさらに上へ。
行きつくのは四方を柱に支えられただけの吹きさらしの空間。
天狼の間、ユーヤが準決勝を戦った場所である。
夜明けの色に染まりかけるフツクニの都。
城下は大勢の人間がひしめいている。彼らは城での異変のことを知っているのか否か。
「知っているとは思うが、私はごく平凡な人物だった」
クマザネが言う。その声には狂気と同時に安堵も感じられる。長い長い仕事をやり終えようとしている人間の声だ。
ユーヤは左右に目を走らせる。数人の忍者が屋根瓦の上に控えており、ベニクギを抱えている者もいる。眠らせているとはいえ彼女から目を離すことは危険と判断されたのか。
「幼少期よりフツクニを継ぐことを義務付けられていたが、己に将軍の器がないことは分かっていた。だが政を行う上では問題はない。家臣たちが優秀だからな」
皮肉を感じる言い方である。ユーヤとズシオウは黙っている。
「そんな私の中で憎悪の火が育っていったのだよ。私の御代が終われば私は誰の記憶にも残らぬ。いや、無能な飾り物として永遠に残ってしまう。それが耐えられなかった。わかるかセレノウのユーヤよ、私にあったのは怒りだ。この閉ざされた国を破壊するほどの怒りなのだ」
「ち、父上……なぜそのような」
ズシオウの声は震えている。
それは困惑のためだ。父親がなぜそんなことを言いだしているのか分からない。
ユーヤは注意深くクマザネを観察しつつ、彼を刺激しないように言う。
「世の中には……恵まれない境遇の人などたくさんいる。あなたの自己評価がどうあれ、フツクニの君主であることを誰もが認めている。少なくとも大勢の家臣に囲まれるだけの人徳がある。陰口など気にする必要はない……」
「私には尊敬や人望が遠かった」
クマザネはユーヤを意図的に無視して続ける。自分の意に沿わない言葉を遮断するような態度、自分の信念を信仰のように抱いている態度だと察する。
「私は破壊者であろうとした。この国のすべてを破壊するのだよ。私は、私を否定するこの国をすべて壊す。それこそがこのヤオガミの真なる夜明け。黎明の時なのだ」
「で、では……まさか」
ズシオウが、恐怖をにじませた声で言う。
「父上、あなたの語っている開国論とは」
「そうだとも、この国に対する破壊なのだ」
(そうか!)
ユーヤは思い至る。同時に、それを理解できなかった自分を猛省する。
(開国論というのが、僕の持っている歴史観では、「よきこと」であるから理解が遅れた)
(クマザネ氏は非常に保守的な人物なんだ)
(彼は自分が「望まないこと」をやっていたんだ。それがこの国を破壊する行為だと思っていたんだ)
(彼は本音では開国を望んでいない。ヤオガミの統一も考えていない。ただ安穏とフツクニを次代に引き渡すことを理想と考えていた)
(パラダイムシフト……ある一点から、そのすべてが逆転した)
(それはやはり、鏡なのか?)
(彼がここまで歪んでしまった、その根本にあるのは鏡なのか?)
「殿、これを」
クロキバが差し出す。それは液状の真珠のような玄妙なる輝き。
人の顔ほどの大きさの、九角形の鏡。
「妖精の鏡……」
「そう呼ばれている器物だな。将軍家には代々伝わっている」
ユーヤは、飛びかかってそれを奪えないか考える。城下へと投げ落とせば破壊できるだろうか。それとも抱えて飛び降りるべきか。
だがユーヤの前に埋が何気なく出てくる。攻撃的な気配を察したのか。
「その鏡を使う気なのか」
「そうとも」
「使って何をたくらんでいる! その鏡にどんな力があると言うんだ!」
ユーヤの叫ぶような問いかけ。
それを浴びて、クマザネはなぜかぞくぞくするような歓喜を感じているようだった。悪に染まることに酔っているのか。破壊の快楽に身悶えているのか。
風はうなる。階下からは混乱の声が聞こえてくる。埋が侍たちを抑えているのか。
フツクニの都がしらじらと明けそめる時刻。その黎明の光を浴びたクマザネは、巨大な歓喜を吐き出すような声で、言った。
「知らぬ」
「なっ……」
「大した意味はなかろう。起きることは鏡の効果だけではない。この鏡は神の力を引き出す器物。妖精の王に敗れ、老いを与えられたヒクラノオオカミから、さらに力を絞り出すための呪いの器物、そこまでは分かっている」
それは、ユーヤがラウ=カンの地にて神から聞き出したこと。
なぜ将軍家が知っているのか。いや、正確にはなぜそれだけを知っているのか。
「セレノウのユーヤよ、この世界で最大の破壊とは何か分かるか。それは神殺しだ。この世界の旧支配者、弱りきった姿をさらす太陽の狼。あれを殺すことこそ最大の破壊、人の歴史において何度とは訪れぬ最大の名誉なのだ」
「違う! 神を殺すことが名誉などであるものか!」
ユーヤの言葉は果たして聞こえているのかどうか。
クマザネは明らかに興奮しきっていた。技術として身につけていた威厳はどこかへこぼれ落ち、元々の姿、凡庸なる小人物が、燃え上がるような高ぶりを帯びている。
「父上! そんな考えは間違っています!」
「やめるんだ! 鏡を使えばあなたは妖精の世界に連れ去られるんだぞ!」
どん、と背中を蹴られ、ユーヤは顔面から板の間に倒れる。そして二人の埋が背中に膝をあててかぶさる。
「ぐっ……くそ!」
だが、ズシオウは倒されていない。
ズシオウは両側から二人の埋に手を取られ、真ん中に立たされている。
「ズシオウに何を――」
はっとクマザネを見れば、クロキバは彼に弓を渡している。クマザネは火であぶられたように紅潮した顔で、弓に矢をつがえる。
ユーヤが全身の力を振り絞って暴れんとする。だが埋たちに重心を掌握されており、立ち上がることができない。
「やめろ! 何を考えている!」
「ち、父上……」
「ズシオウ、お前はできのいい子だったな。幼少期にあらゆることを覚え、馬術も体術もよくこなした。あと1、2年も経てば麒麟児だの天才だのあらゆる賞賛を浴びるだろう」
(馬鹿な! いくらなんでも、自分の子を!)
ユーヤはクマザネの顔を見ようとする。目も口も人間の表情とは思えぬほど歪んでいる。喜悦、怒り、哀れみ、執念、形容しがたいほど混濁した感情。
(ただ自分が凡庸だというだけで、子が自分より優秀だというだけで、これだけの感情が生まれるはずがない)
(なぜだ、なぜそこまで狂気に振り切っている)
「鏡はお前の血に反応する。その身は10年、妖精の世界に連れ去られる。だが破壊し尽くされたヤオガミをお前に見せるのは忍びない。私の破壊を建て直そうとするお前を想像したくない。お前はここで終わりなのだ、ズシオウ」
「父上、やめてください、何をそこまで……」
ユーヤは、クマザネをじっと見る。
そして気づく。その脇にずっと佇む、黒衣の埋のことを。
「クマザネ! クロキバはお前を――!」
がん、と後頭部を容赦なく殴られる。顎をしたたかにぶつけ、目の奥で火花が散る。
「さらばだ、ズシオウ」
矢が腕を離れ。
空気を引き裂いて飛び。
狙いあやまたず、白装束の中心を。
「やめ――」
撃ち抜く。
矢が背中に抜ける。
間違いなく、体の中心を――。
「が……」
「ズシオウ……!」
数秒。
あるいは、十数秒。
時間が止まったような感覚の後。
ズシオウがはっと顔を上げる。
「え――」
今の一瞬、確かに矢が身体を貫通した。骨を砕き、内臓を貫通する感覚が。
だが、何もない。
破れているのは白装束だけ。体には傷がないことが分かる。
「な……」
赤が。
はっとユーヤが前を見れば、そこには尻餅をついて倒れているクマザネが。
その裃は、真っ赤に血に染まっている。
矢羽根が体の中心に見えている。
「が、は……な、なぜ……」
「ヤオガミの鏡は、写し身を生み出す」
クロキバが、床に落ちた九角形の鏡を拾い上げる。
「ズシオウの袖を確認しなさい」
ズシオウを捕縛していた埋が白装束のもろ肌を下ろせば、そこにあったはずの鏡がない。肩に固定していた白紐だけが残っている。
「こ、これは……確かに身に着けていたはず」
「かつてフツクニの将軍は、幼くして世を去らんとしていた王子を贄として写し身を作りました。その効果とは、写し身を身につけている人物に降りかかる厄を、本体の一番近くにいる人物に押し付けること」
「何ですって……」
「写し身を身に着けている人物は怪我や病気から守られる。しかし死の厄だけは一度しか守れない。神の力であってもそれが限界なのです。将軍家の記録にあったことはそれで全て」
クマザネは血の海に沈もうとしている。そしてその場の誰も、その将軍を一顧だにしない。
「お前……知っていたな!!」
ユーヤが、押さえつけられながら言う。もし自由になれば、クロキバの喉笛に噛みつきそうな面相になっている。
「お前はクマザネ氏を洗脳していた! 彼のわずかな劣等感、わずかな妬みの心を限りなく増幅させ、ズシオウへの殺意にまで高めた! 世界への怒り! 神への怒り! それを育て上げて鏡を使う決断をさせた!」
「その通りですよ」
クロキバは柔和に笑う。人工的な、唇を歪めただけの笑い。
だが一瞬、ユーヤの脳裏を既視感が襲った。今の笑い方を、どこかで見たことが。
「クマザネは実に小市民だった。素朴で愚かで、操りやすかった。しかし実の子を襲わせるとなれば数年の下準備が必要でした。つまらない常識にがんじがらめにされた人物でしたからね。ああ、そこの二人、もう拘束の手を緩めても構いませんよ」
ユーヤから埋たちが離れる。ユーヤは身を起こし、立ち上がるもののまだ視界が歪んでいる、頭を殴られたためか。
「何が目的なんだ……なぜこんなことを」
「特にクマザネの進めていたことから変化はありません。開国ですよ」
両手を広げて言う。その慇懃無礼な態度が、顔の印象まで変えるかに思えた。無表情な隠密から、まるで育ちの良い美青年のような。
「……開国してどうする」
「あなたには一度教えたでしょう。セレノウのユーヤ」
瞬間。
ユーヤが後方によろめく。
床がいきなり傾いたような、平衡感覚の喪失。
「まさ、か」
動悸が一気に早くなる。呼吸は浅く短く、思考がまとまらずにその場に片膝をつく。
「すべては新しき世界のため。東の果てにあるという、妖精の支配を受けない大陸。私はそこを調査せねばならない」
「馬鹿、な、君は、あの時、たしかに……」
「クロキバという人物は実に優秀でした。変装の名人と言うだけではない。対象の性格、技術、経験や思考までも読み取り、どのような人物にも変われたのです」
理解できない。
そんなはずがない。
打ち消そうとする思考を、眼の前の人物の圧倒的な存在感が上書きする。
「私はそれを利用した。クロキバを捕獲し、私のすべてを植え付けたのです。これは正確にはクロキバの変装とも言えない。私が、彼に自分の人格をねじ込んだのですよ。いざという時に、私の予備として動けるようにね」
「ありえない、そんなことが、ある、はずが……」
「だが現実です。紛れもない現実ですよ」
クロキバは笑う。
ユーヤの歩んできたすべてをあざ笑うような、破壊者の笑みで。
「私はジウ=ハイアード=ノアゾ第一王子。お久しぶりですね、セレノウのユーヤ……」




