第三十話 (過日の4)
※
過ぎ去りし記憶は肌に刻まれる。
じりじりと皮膚を焦がす日差し、いつまでも鳴り止まぬ蝉の声、日付というものを曖昧にする。
実際にはそれは半年ほどかけた大仕事であったし、雨の日も雪の日もあったはずなのだが、七沼少年の中でその記憶は強い日差しと、色濃い影に結びついている。
七沼はとある神社の入口にいた。塀に腰掛けて野球帽をかぶり、ぬるくなったサイダーを脇に置いている。
その前を黒い高級車が通り抜ける。獣が吠えるようなエンジン音、七沼少年を威圧するような道幅いっぱいの威容で走り抜ける。
「……13時、27分15秒」
七沼は目覚まし時計を脇に置いていた、そう呟いて立ち上がり、手元のメモ帳に色々と記す。
その足で市民図書館へ。夏休みは子供が多く、クーラーのきいた閲覧室では小さな子がソファに寝そべっていたり、小声でお喋りをしていたりである。
七沼は2時間ほど調べ物をして退出。駅前まで歩いて電話ボックスに行き、どこかに電話をかける。それらの行動が終わる頃には夕方に近くなっている。
たまにはバラ園にも行った。
紅円はいつもおっとりとした様子でバラの世話をしており、七沼に紅茶とお菓子を振る舞ってくれる。
ぴんぽん
「はい、後楽園」
「正解」
そしてクイズも行う。
「ミラクル列島縦断クイズ」の問題集はもう何周もしているけれど、紅円は楽しげな様子でボタンを押す。
「紅お姉さん、ますます早くなってるね」
「えへへ、そうかなあ、嬉しいよ」
「今のはどうやって分かったの?」
「うん、七沼くん、「日本三名園といえば、兼六園……」の後で、口が「あ」の形になったでしょう? だから「兼六園、偕楽園、あと一つは?」という順番だってわかったんだよお。「お」の形だったら後楽園が先だって分かるよねえ」
「そっか、なるほど……」
クイズをひとしきり楽しんだあとはビデオでクイズ番組を見たり、ボードゲームをしたり、音楽を聞いたりして過ごす。
日によっては昼寝をすることもあった。七沼はソファの上で、紅円はカウチにもたれて眠ってしまう。だらりと垂れ下がった腕とゆっくり上下する胸。
ふいに七沼は目を開き、まどろみの欠片もない顔で紅円に近づく。
じっとその顔を見て、眠りが深いことを確認してから部屋を出る。
一階の奥。ガガ、ピーという電子音の鳴っている部屋。
鍵はかかっていない。そっと押し開ければ食器棚のような大型のコンピュータと、ワープロのような端末がある。
机が一つあり、黒電話が3台ほど置かれていた。キャビネットにはたくさんのファイルがあり、色々なサイズの封筒や、公文書のようなもの、どこかの企業の株券もある。
「……」
七沼少年はカメラを取り出す。どこにでも売っている千円のインスタントカメラ。それにタオルを巻き付け、シャッター音を押さえつつ撮影。
引き出しの中、戸棚の中も撮影する、いくつかのファイルの中身も。
時間は大きく飛ぶ。ロングコートを着込んだ男が駅前の商店街をふらふらと歩いている。無精髭の目立つ40がらみの男だ。
ある店に入る。占いの店のようだ。定休日のようだが鍵は開いており、男は手相占いの部屋に入る。
部屋は狭い。カウンターが一つだけあり、そこに半球型の穴が空いた衝立がある。本来はここから手だけを差し入れて占うのだろうか。
なぜこんな作りになっているのか、それは占星術も、タロットカードも、四柱推命も同じ人物が占っているからだが、男はそんなことは気にしていない。やや不機嫌そうな顔で、椅子を引いて座る。
「おい、待ち合わせはここだろ、本当にいるのか」
『お待ちしてました、週刊◯◯の灰田さんですね』
灰田と呼ばれた男は眉をひそめる。機械で歪めた声だったからだ。
『提供する資料はカウンターの裏に貼り付けてあります』
灰田がカウンターの下を覗き込むと、確かに茶封筒が貼り付けてある。ガムテープを二枚使って押さえており、かなり重そうだ。
「なるほどな。だが何故ここまでする」
『私はあそこに住んでいる女性の友人です』
灰田が片眉を上げる。
『趣味が合ったので何度か話をしていたのですが、彼女がどうもあの屋敷に囚われていると感じました。彼女はあのバラ園を出られないと言っています。私は彼女の隙をついてあの屋敷の中を撮影し、こうして資料を提供しています』
「ふうん、なるほど」
あまり信じたという印象はないが、嘘だと判断する要素もない。衝立の向こうからは探るような声が聞こえる。
『教えていただきたいのですが、あの建物は何なのでしょうか』
灰田は煙草に火をつける。
「一言で言えばハッカーの拠点だ」
『ハッカー……コンピューターに悪さをする人々ですね』
「ずいぶん穏やかな言い方だが、まあそうだ」
衝立の向こうの人物が少し押し黙った気配があったが、灰田は気にせず話をする。
「ハッカーだとかクラッカーだとかいろいろ言い方はあるらしいが、あそこの連中がやっているのは身代金型のハッキングだ」
『どのような方法なのでしょうか』
「最初にある会社をターゲットにする。その会社に取引先からのものを装ってフロッピーディスクを郵送する。そのフロッピーにウィルスが仕込んであり、会社のコンピュータに入力すると内部データを暗号化してしまう。解除してほしくば金を払え、と、まあこういうわけだ。数年前にアメリカのほうで流行った手口だ」
『あの拠点の役割は何なのでしょう』
「企業から抜き取ったデータの保管場所、あるいは企業との交渉を行う場所だ。拠点という言い方をしたが、ほんの窓口に過ぎん。連中の本拠地は海外とも言われている」
灰田はあっという間に一本吸い終わり、胸ポケットから携帯灰皿を出してねじこむ。
『あそこにいる女性の役割は?』
「分からん」
沈黙。
「本当に分からない。ただハッカーの仲間ではなさそうだ。悪党どもがどこかから拾ってきて、屋敷の管理をさせてるんだろう。あんたは友人なんだろ、事が終わったら直接聞けばいい」
『その……』
言いにくそうな響きのあと、枯れ枝のような細い声が。
『彼女が……あの家で、お客を取っていた、ということは、あるのでしょうか』
「客?」
『いえ、客というか、その、何かを売っていたというものではなく……』
「ああ、いや、失礼した、そういう意味か」
灰田は咳払いをして、懐から出しかけていた煙草をしまい直す。
「友人なら、まあ、心配だろうな。こちらで調べた限りはそんな様子はないが」
『でも、彼女は美しいから……』
「美しい……」
時間が停滞する。
居心地が悪いような、何かが噛み合っていないような奇妙な沈黙。灰田は音を上げるように口を開く。
「まあそれは……外部から分かることでもないから。その……あんたが気になるのは分かる……だから、まあ、一刻も早く救い出すことを考えよう」
『救い出せますか』
「ああ、その後の生活も俺の方で口利きをしよう。この資料が確かなものなら……」
灰田は少し考えて、声の主を安心させようと心を砕く様子で、言った。
「おそらく、一ヶ月以内には」
※
とあるアパートの屋上。
双眼鏡を構えてコンクリートに伏せ、そっと屋敷を見下ろす。
古びたバラ園に大勢の人間が入っていく。組み立て前のダンボールを持って入り、中に書類をどっさりと入れて出てくる。
紅円の姿は見えない。彼女は裏口から連れ出されたのだろうか、それとも仲間が危険を察して事前に連れ出したのか、あるいは自分で逃げたのか。
「お姉さん……」
――赤いものが見えない場所に行ってはいけない。そういう罰を受けたの。
――外のことは知りたくないの。知ったら外に行きたくなるから。
それは錯覚であると七沼は思う。あれはただのバラ園であり、古いだけの洋館だ。たくさんの人間が出入りすることで神秘性が剥がれ落ちていく。あそこは特別な場所ではないし、彼女は管理を任されていただけに過ぎない。
スーツ姿の男たちは警察だろうか、それとも税務署か、もっと別の官庁の人だろうか。七沼にはそこまでは分からない。
彼らは書類しか持ち出していないように見える。屋敷にあったティーセットも、お菓子も絵本も、そして「ミラクル」の玩具も持ち出していない。それが当たり前だと実感する。
あの玩具は男たちにとっては興味の対象外であり、紅円という女性も興味を持たれなかったのではないか、そのように思った。
すべてが去った後も、七沼は何時間も屋上にいた。
双眼鏡をじっと眺め続ける。窓にはカーテンが降りておらず。内部に動くものの姿はない。
日が落ちて夜になって、明かりの一つもないことを確認して、ようやく安心したように七沼は帰路についた。
彼女はどこに行ったのだろうか。
それはきっと、七沼が知るべきことではないと思えた。
ただ彼女がどこか遠くの地で、多くの知識に出会うであろうことを期待したかった。最良ではないかも知れないけれど、きっと、人生が好転するであろうと――。
※
時は流れ続ける。
七沼は時おりバラ園に来ていた。いつ来ても門扉には太い鎖がかけられ、錆びついた南京錠で封印されている。
奥に見える洋館はツタに覆われ、雨ざらしになったバラ園は荒れ果てようとしていた。
手入れが成されていないためか、いくつかのバラは枯れ果て、しかし別の種は勢力を伸ばしている。
黒に近いほど濃い赤。夕闇のような赤錆のような、暗い色のバラだけが蔓延って見えた。
バラのツタはやがて敷地の鉄柵に巻き付き、石畳の上を這い、枯れ果てた噴水から水を吸い上げようとするかのように群がっていく。それは生命力と言うより、何かの汚染のように見えた。この建物自体が腐っていき、薔薇という汚濁に覆われるような眺めに思えた。
この日も七沼は敷地の奥を眺める。そこに誰もいないことに安堵する。屋敷がやがて風化して、跡形も無くなる日が近づくことを喜ばしく思う。
立ち去ろうと体を町の方に向け、ゆっくりと歩き出して。
――ぴんぽん
「!」
バネ仕掛けのように振り向く。
跳ねるような電子音。「ミラクル」のボタンが押された時の音。
そんなはずはない、と思う。この屋敷に誰もいるはずはない。鎖も南京錠も、いつもの姿と変わらぬままにそこにある。触れてみれば錆がぼろぼろとこぼれる。数日のうちに開閉された気配はない。
錯覚だろうか。仕事に追われている人は、眠っていても電話が鳴ったような気がして飛び起きることがある、という話と同じだろうか。
――ぴんぽん
また鳴った。
極小の音。あるいは七沼少年でなければ、錯覚と決めつけてその場を立ち去るに十分なほど小さな音。
七沼少年は鉄柵に手をかける。磨かれておらず油も塗っていない鉄柵は錆びついており、小柄な七沼少年ならば何とか登れる。
敷地に降りる、やはり荒れ果てている。
庭園のすべての道はイバラに侵食されている。靴底を突き破るほど鋭い薔薇のトゲが意識され、七沼は慎重に歩く。
屋敷の扉。鍵はかかっていない。しかし蝶番は百年を経たように硬い。ぎぎぎと重たい音を立てて押し開ける。
「お姉さん」
廊下には埃が積もっている。カビ臭い匂いもする。
「お姉さん、いるの?」
――ぴんぽん
三度、よく二人で過ごした一階の広間から。
「お姉さん!」
恐怖や躊躇いは無かった。再会の喜びなども無い。
ただ音のするほうに体が動いた。無意識の衝動だけがあった。扉を開ければ、やはり荒れ果てた室内。ソファとテーブルがほこりを被って残されている。
床には口の開いたアタッシュケース、中には一万円札の束がいくつか。
そして、紅円が。
分厚い毛布をかぶって、床の上にうずくまっている、彼女が。
「お姉さん!」
「あ……」
紅円は、かつての姿と変わらないように見えた。七沼の主観では美しいままの姿。ほどよく肉の付いた体に濡れたような長い髪、年かさの女性が持つ包容力や深い慈愛を思わせる顔立ち。
そんなはずがない、ということに七沼少年は気づかない。己の主観で見えている彼女の姿しか分からない。この世のものとは思えぬほど美しく、赤い神秘性に覆われた彼女の姿しか。
紅円は、七沼を見て床を這う。ずるずると毛布を抜け出し、大きく腕だけを動かして、赤いイブニングドレスを床にこすりながら這う。そして取りすがるように七沼にしがみつく。七沼は一歩たりとも下がらない。
「七沼くん、読んで……」
「読む……」
「お願いだよお……。読んで、クイズを、「ミラクル」を……」




