第三話 (過日の1)
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時間が積み重なるものとすれば、過去は遥かな深みにあるのか。
時をさかのぼるごとに記憶は劣化し、細部は曖昧になり、変質し土に返り、わずかな化石だけを残すのか。
それは例えば、少年期の夏。
七沼遊也という少年が、とある運動公園に来ていた。
なだらかに傾斜した芝の向こうに土色の野球場、そこに数千人が集まっている。
高校生を対象としたクイズ大会。七沼はその予選を見学に来ていた。
高校生たちの熱気は凄まじく、司会者の言葉を受けて喉も破れよとばかりに叫び、腕を突き上げ、汗の粒を飛ばす。歓声が風圧のように七沼の全身を打つ。
最初は◯✕クイズ。三人一組の大会であるため、相談の声ですら潮騒のようだ。ざわざわと声の波が押し寄せ、人の群れが2つに割れていく。
「マルのほうが多い」
ふと、脇を見る。
長身の男がいる。トランシーバーを持ち、人の流れを眺めながら話している。
「マルのほうが多い、繰り返す、マルのほうが多い」
七沼少年は奇妙なものを見る目になる。
それは実際、その人物が奇妙だったからだ。
足は草鞋に脚絆、鈴懸と呼ばれるだぶついた印象の着物を着て、菊綴じと呼ばれるポンポンのようなものをくくりつけた結袈裟。額には角を隠すとも言われる頭襟。
端的に言えば山伏の格好をしているのだ。
「バツのほうが多い、バツへ移動せよ」
近くにいる七沼を気にもせず、トランシーバーで指示を飛ばしている。まだスマートフォンもなく、携帯電話と言えば肩から掛ける巨大なものだった時代である。
しかし、そのような多数決ですべて突破できるとは限らない。
五問目の指示を終えると、山伏はくるりと体を回して歩み去ってしまう。どうやら指示を出していたチームが敗退したのか。
あれは何だったのか、何度考えても腑に落ちる答えは浮かばず、さりとて幻覚にしてはあまりにも明確に覚えている。
時代をさかのぼるごとに、記憶は整合性を失っていく。
それはあるいは神や妖怪が、人の隣にいたという上古の時代のごとく。
では、あの夏は。
あのうだるように暑かった夏の記憶は、どこまでが本当で、どこまでが幻想なのか。
空気が煮えるような気配、飽和状態にある蝉時雨。
アスファルトの道の果ては逃げ水がきらめき、無地のシャツを着た男がベンチに寝転がり、鈴を鳴らしたアイスクリーム売りが公園で子どもたちを集める、そんなある日のこと。
「そうなんだよ、昨日のはすごかったんだ。5文字ぐらいだったかな、そこまで読まれたところでぴんぽーんって」
「そこもすごいけど連想クイズでしょ、パーフェクト出たじゃん」
「おれ違うの見てたからなあ、昨日はブラジルだったっけ、コーヒー農園からクイズやってたな」
老若男女、それこそ下は小学生までがクイズに熱狂した時代。公園に集まれば皆で昨日のテレビの話をする。
「おれ、ぜってークイズ戦士になるぜ、テレビ出るから見とけよ」
「はいはい、あたしモデルになるから、芸能人枠でクイズ番組に出ちゃうからね」
「じゃあ僕は司会者になろうかな。フリーのアナウンサーになるとすごく稼げるらしいし」
「なあ遊也」
ふと、自分に水が向く。文庫本を読んでいた七沼遊也は本をぱたんと閉じる。
「お前もクイズ王になるだろ?」
「そんなに簡単になれないよ」
七沼は言う。
「クイズ王って呼ばれてる人は10人ぐらいだし、クイズが好きな人で割ったら数万人に一人だよ」
「んだよ、夢がねえなあ」
ガキ大将風の少年はあきれ顔になって、足で押さえていたサッカーボールを転がす。
「クイズ好きなんだろ、ビデオ何度も見てるって言ってたじゃん」
「見てるけど……ちょっと、思ってたのと違うなあって」
「ふーん? まいいや、サッカーやろうぜ」
2時間後。
七沼少年はとぼとぼと夕暮れの道を歩いていた。
擦りむいた膝が痛い。少し派手に転んだせいだ。
七沼遊也は暗鬱な気分だった。
ずっと、毎日見返していたクイズ番組、綺羅星のように解答を重ねていた歴戦のクイズ王。
その人物が、ある一瞬、考えて答えていないように思えた。
そう気がついてみると別の録画でも、かなり前の番組でも、あるいは他のクイズ王も、挙動が怪しい部分があった。
思い込みではないか、そう打ち消そうとしても止められない気づき。疑念を通して見ると様々に怪しい要素がある。わざとらしい誤答、狙ったような接戦、解答不可能な段階で押されるカッコつきの「神業」。
心理分析の知識など無いが、それは確信の鎖となって七沼少年の心を縛りつつある。そして今日もまた録画を見るのだろうか。その確信を深めるためだけに。
子供らしくない。そんな言葉が浮かんでくることにも嫌気がさす。
誰よりもクイズが好きだったのに。クイズ王になりたいと――。
「ねえ、きみ」
ふと、足を止める。
脇を見る、目に入るのは赤い薔薇。
鉄柵の向こうに広がる見事なバラ園だ。どす黒いほどに深い赤みのバラが咲き誇っている。
「……?」
「きみ、その傷、消毒しないと化膿しちゃうよう」
声はするが、話している人物が見えない。
「ねえ」
ふいに見つかる。長い黒髪がひとすじ顔にかかっている。鉄柵を両手で持ってすぐ近くにいて、内心すこし驚いた。
女性だが、年齢がよくわからない。背が高いから大人なのだろうか。ゆるやかに波打つ黒髪の向こうに、赤ん坊のような赤ら顔がある。どこか不安げな、怯えたような顔をしており、おずおずと話しかけている。
「ねえ」
「消毒します、あとで……」
そこで気付いた。七沼は割と体を擦りむくことが多く、家の消毒薬はもうなかったかも知れない。
両親に言えば何とかなるだろうか。コンビニもドラッグストアもない時代である。下手をすると病院に連れて行かれるだろうか。じくじくした傷跡を見せることにためらいもあった。
「消毒してあげるよお、こっちおいで」
と、その女性は手招きする。アーチ型の正門のほうへまわり、きしむ音を立てながらそれを押し開ける。世界にノイズが走ったような音に思えた。
入ってみると、やはり広いバラ園である。石畳の道に花びら一つ落ちておらず、どのバラも存分に花をつけている。薄い赤から鮮やかな赤、黒に近い赤まで。
「こっち、こっち」
歩いていくと洋館があった。2階建てで大理石の敷石がある。
中は足が沈み込むような赤い絨毯、彫像に油絵、和風なものでは赤染付の大皿もある。
その女性はとある部屋に案内してくれた。部屋にあった薬箱で、消毒して絆創膏を貼り、包帯まで巻いてくれる。
「ありがとうございます」
「えへへ、何でもないよ」
その人物は赤黒い、分厚い生地のワンピースであり、足元は裸足だった。いつから裸足だったのだろうか。もしかしてずっとかも知れない。敷石の上しか歩いてないなら別に問題もないのか。そんなふうに思う。
「あ」
その時。
部屋の片隅にある箱に目が行く。
「これ、「ミラクル」の」
――列島縦断ミラクルクイズ
それはクイズ番組における伝説、金字塔、唯一無二の綺羅星。その最高視聴率は38.5%を記録し、もちろん七沼少年も欠かさず視聴していた、クイズ黄金時代の大輪の花。
2時間の特番を五週連続で放送するという形態も驚きであるが、数万人をドーム球場に集めての予選会。毎週生まれる人間ドラマ。司会者と参加者たちの濃厚なキャラクター性など、語るべきことは尽きない。
その番組をモチーフとした玩具もまた注目されていた。当時としては入手手段が乏しかった早押しボタンがあることはもちろん、2000問の問題集、番組のルールを再現できるボードなど、豪華な内容である。
「……あれ? でもこれ、まだ発売されてないはず」
「えへへえ、メーカーの人にお願いして、早くゆずってもらったんだよお」
その女性は全身にあまり力が入っておらず、膝立ちのままで餅のように笑う。前髪が何本か顔にかかったままで、それを気にする様子もない。
「お姉さんはクイズ好きなの」
「うん、大好きだよお。ボタンを押すとぴんぽーんって鳴って楽しいし、これだって思う答えを叫ぶのも楽しいの。その問題集も面白くて、全部覚えちゃったのお」
「全部……すごいね」
「ううん、覚え方があるから、すぐだったよお」
これから食べに行く大好物について語るように、胸を弾ませて顔じゅうを喜の感情に染める。赤ん坊のような笑い方に、七沼も共感するより先に何だか可笑しく思えてしまった。
「でもね、一人じゃ遊べないんだあ、これ」
付属の問題集を見せる。単行本サイズの冊子であり、◯✕クイズ、三択クイズ、そして一問一答がびっしりと書き込まれている。
「そうか、読む人がいないと」
「うん……遊びたいんだけどねえ」
「じゃあ僕が読むよ」
何気ない言葉であったが、女性の顔がぱあっと明るくなる。
「ほんと?」
「うん、今日はもう夕方だから帰るけど、また遊びに来てもいい?」
「いいよお、今度はケーキとお茶を用意して待ってるねえ」
「友達にクイズ好きがたくさんいるから、連れてくるよ」
と、そう言った途端、花が咲くようだった笑顔にさっと影が降り、やがてどんよりとしおれてしまう。
「……ああ、ごめんねえ。やっぱりもう来ないほうがいいよお」
「え……」
「本当は、知らない人の家に上がっちゃダメ。君は小さいから、よくないことだよお。それに私、たくさんの人は苦手だし……」
「でも」
「さあさあ、玄関まで送るよお」
のっそりと立ち上がる。七沼がまだ幼いからというだけではない。その女性ははっきりと大きかった。背は高く手足も長く、太ってはいないが全身にふくよかに肉がついており、だぶついた服のために分かりにくいが、モデルもかくやと思われる体型をしている。
七沼にそのようなことは分からない。ただ頭二つほどの身長差が意識され、逆らいがたい空気を感じてしまっただけだ。
玄関まで送られる。その間、この広そうな洋館にまるで人の気配を感じなかった。ただ、どこからかガガ、ピーという奇妙な音が聞こえるような気がしただけだ。
「さあ、暗くなる前に帰るんだよお」
見事なバラ園、その女性はやはり裸足で歩いている。赤ん坊のように柔らかい足を思わせる、ぺたぺたとした足音。
鉄柵の門。手入れの行き届いた生け垣。水をたたえる噴水。こんな館が町にあったことすら知らなかった。
「あの」
何か、離れがたいものを感じた。
その心残りの大半はあのボードゲームだったとしても、七沼は何か言わねばと、わずかに結ばれた縁をここで断ち切るのは正しくないと、そのように思った。
「ぼく、七沼遊也です。お姉さんは?」
「私? 紅円だよお、ベニって呼ばれると嬉しいなあ」
手を振るベニに見送られ、館を後にする。
二階屋の洋館にバラ園、こんな立派な屋敷をなぜ自分が知らないのだろうか。
少し歩いてから振り返る。
すると、そこには蔦の絡まった鉄柵だけが見えた。鬱蒼とした無味乾燥な印象。何かの廃墟のようで、人が住んでるようには思えない。ほんの数十歩離れただけで、こんなにも風景に埋没するものなのか。
「……」
空が茜色から闇色に変わりつつある。
七沼は急ぎ足になって家路につく。
奇妙な感覚だった。
まるで、どこかとても遠いところから、帰ってきたかのような――。
実は山伏のくだりは作者の実体験です。
本当に見たのですが、なぜ山伏の格好をしていたのかいまだに分かりません……。
テレビの企画か何かだったのでしょうか? もし心当たりのある方がおりましたら情報をお寄せください。