第二十九話
※
多くの者が、夜の深みに目を凝らす。
暁の七つ、すなわち午前四時。
深い眠りを象徴するような濃藍色の夜。草も木も、大地も空も眠るような時刻において、人間だけが眼を爛々と輝かす。
舞台となるのは白桜城。謁見の広間。
百畳敷の大広間に居並ぶのは各国の豪族たち。絢爛豪華な羽織りを纏う者、貴族風の礼服や衣冠束帯で固めた者。熊の毛皮を着た大男もいる。
城下からは地響きのような人のざわめき。その数は三万人あまり。
彼らは勝負の仔細を知ることはできない、どのようなクイズが行われるかも知らず、選手の顔など見えるはずもない。それでいながら興奮を押さえきれぬように集まっている。
「なあ八っつぁん。城だけ眺めてても意味ねえんじゃねえか?」
「いや、うちの棟梁が仕入れた話だと、なんでも進行がわかる工夫があるとか」
そして目の良いものが気づき始める。白桜城の屋根に篝火台が設置されている。
けして倒れぬように瓦の土台に針金で固定され、すり鉢状に薪を設置された篝火台、それが60基あまり。
「なんだなんだ、火でも焚くのかい」
そして二人の侍が、それぞれ一つの篝火台に火をともす。
城下から、梅雨時の蛙のような声のうねり。
その篝火は、一つはルビーのような深い赤に。
もう一つは、目にも鮮やかな青い炎であった。
「勝負は雷問。30問先取にて行う」
視点を謁見の間に移せば、その上座にはクマザネ。
畳が一段分高くなっており、太刀小姓が後方に控える。一段下がって八の字に並ぶのは侍たち、彼らはフツクニの要と言える重鎮である。
続いて様々な衣装の豪族たち、最後に謁見の間の手前側には、大臣級とまでは言えぬが身分の高そうな侍たちが集まっている。
「……」
ユーヤがわずかに視線を動かす。
ズシオウは部屋の手前側にいた。ふすまに背をつけるようにひっそりと座っている。ベニクギの姿は見えない。ユーヤはそれだけを意識して視線を前に戻す。
中央。勝負の場にはセレノウのユーヤと、やや地味な印象の若い男がいた。2メーキほどの距離を隔てて、互いに正座を組んでいる。
そして、クマザネがゆるゆると述べる。
「さて……そろそろ暁の七つか。司会進行は町奉行預り方、トウドウに行わせる。トウドウ、始めよ」
「はい」
トウドウと呼ばれた人物は身の丈2メーキを超える大男であり、正装に身を固めていても分かる丸太のような手足。胴丸鎧よりも頑丈そうな腹筋、眉は太く顔は四角く、融通というものを知らぬ実直一路な印象、そんな人物である。選手はそちらには視線を送らない。
「では始めさせていただく。予選より一万人あまりの手練れを下し、よくぞ勝ち上がってきた。千里に音をなす剣客も、博覧強記なる俊傑も、そなたたちは超えてきた。その栄誉をまず讃えよう。セレノウのユーヤ、そして月羅塾のランゼツよ」
「違うな」
背後からの声。トウドウが振り返ると、クマザネは朱塗りの盃で酒を呷っている。
「大殿、違うとは」
「そやつはランゼツではない、クロキバだ」
「な……」
ばり、と、特徴のない男は顔に爪をかける。そしてばりばりと顔を剥がした。
「何だと……」
「あの男が……」
周りの豪族たちは動かない。すでに知らされている。
高度な技術によって作られた人工の顔、それを剥がして現れるのは、今の小男に比べれば精悍な顔立ち。しかし特徴がうまく言い表せない。その人物の内面から溢れ出す個性のようなものがない。まるで、人間という種族を知らない生き物が、写真か何かを元に造形したような。
クマザネが座椅子にもたれつつ言う。
「セレノウのユーヤよ、取り決めは何も変わっておらぬ。お前もよくここまで勝ち上がった。あとはクロキバに勝てばよい、簡単なことであろう」
「……月羅塾のランゼツという人物は実在するのか」
「ん? ああ、途中で入れ替わった可能性を言うておるのか。実在せぬよ、そんな塾など存在せぬ。私塾も公的な塾もすべて台帳にまとめられておるから確認は可能だ。クロキバは私のそばで働きつつ、予選から勝ち上がってきたのだ」
「わかった」
「さて、豪族のお歴々」
クマザネはぱんと手を叩く。すると左右のふすまから小姓が出てくる。
それらが捧げ持つ四脚の盆。それに多数の刀が乗っている。槍や薙刀も。懐紙の巻かれた短刀も。
「最後の賭けといこう。私はそちらのクロキバの勝ちに賭ける。豪族の方々はセレノウのユーヤに賭けるがよかろう。賭け率は四十半とする」
おお、と豪族たちが騒ぎ立てる。ユーヤには言葉の意味がわからない。
「四十半とは色札という賭け事での言葉であり、雷問を賭けの対象と見なしたときも同じ言葉を使う、賭けの倍率のこと」
クロキバがそのように言う。果たしてユーヤに説明しているのかも分からない。彼の言葉は誰かに向けているような意識を感じさせない。
「胴元であるクマザネ様は私に賭ける。子はすべてユーヤどのに賭け、ユーヤどのが勝てば40割、すなわち4倍の返金がある。四十半の半とは、同点でも子の勝ちという意味」
「……あの刀は何だ」
「豪族たちが賭け札として差し出したものだ。一本の刻刀を千両、約2000万ディスケットとして賭けを受けた。刻刀であってもそこまでの値をつける刀はほとんどない。豪族たちは喜び勇んで刀を賭けた」
「……」
「よ、よし、一船関を賭けよう」
言うのは豪族の一人、何やら書き付けのようなものを叩きつける。
「クマザネどの、約束はもはや違えられぬぞ」
「勿論だともヒヨロギどの、おお、それなら負けを一気に取り返せるな」
「ぐっ……」
「わ、私は500両だ」
「で、では1200両」
紙片が並び、小姓たちはやや緊張の面持ちでそれを回収していく。
「ふむ、賭けの熱と囲炉裏端は熱ければ熱いほど良い。お歴々より集めたこの刀たちもさぞ楽しんでおろう」
豪族たちの中には、刀を食い入るほどに見つめている者もいる。おそらくは賭けの代償として奪われたものか、かなり思い入れのあった刀と思われる。
「……そんなに大切な刀を、なぜ賭けたんだ」
「私が交渉した」
ユーヤのつぶやきに、クロキバの無味乾燥な声が返る。果たして会話が成立しているのか、互いに相手の声など聞いていないようにも見える。
「豪族たちに刀を吐き出させるなど造作もない。倍率を上下させ、うまく負けさせることも」
「……そして金銭まで奪うのか。おそらくは天文学的な額に達している。豪族たちが素直に払うと思うのか」
「払うか払わぬかなど……」
クロキバはやはり空虚な声で、感情のこもらぬ声を吐く。
「問題ではない」
「……」
(わからない)
もうクイズに集中せねばならない。それ以外の思考は許されない。
ユーヤは際々まで考えていた。この国で起きている不可解な事象、理解の及ばぬクマザネの暴走。
それら全てをつらぬく、一本の柱のような「何か」があるのか。
(それはやはり鏡なのか?)
(この性急な御前試合、開国論、雷問に力を入れながらも軍事力を増強する気配、それらはあまりにも無茶苦茶だ。人の世の理では説明がつかない)
(だからこの世ならぬ何かが、例えば妖精の鏡のようなものが関わっているのか?)
(分からない、ついに分からなかった、クマザネ氏は、どうして……)
「ではクイズを始める」
瞬間、脳のスイッチが切り替わる。
「先刻述べた通り30問先取、お手つき誤答は一回休み、ルールはただ其れのみ」
それはユーヤの職能として、あるいはクイズ戦士として人格レベルで備わっている習性。
全身全霊を、ただクイズのために。
ユーヤとクロキバがクイズ帽をかぶり、そして一瞬、フツクニのすべての音が消え去るような、息を呑む気配が。
「問題、積年の恨みを焼けた/鉄」
ぴんぽん
「クロキバ、答えを」
「泥刀」
「正解である」
ぼう、とどこかで火が灯される音がする。
謁見の間は最上階に近く、建物の外の音も聞こえてくる。
だが関係はない、クイズに没頭するのみ。
「問題、妙尊坂、矢那/坂」
ぴんぽん
「セレノウのユーヤ」
「沓払いの孔」
「正解」
ごお、と風が城に吹き付ける。六層七蓋、90メーキに達する白桜城が、海より吹き付ける風にてわずかに揺れる。
視点は急速に引き、城下の人々へ。
「おい! すげえぞあの炎!」
「あの赤とか青はどうやって出してんだ!? 妖術か何かか!?」
白桜城に灯される、真紅と青のかがり火。
この時代、文化成熟を極めんとするフツクニの都でも、まだ大陸より遅れている部分はある、化学的知識もその一つ。
その炎こそはハイアードより輸入した特別な薪、炎色反応を利用した燃焼剤である。
二つの火は天守閣の西側と東側に生まれ、隣のかがり火、またその隣へと、徐々に勢力を広げていく。
しかし、どちらがどの色かは分からない、そもそもセレノウのユーヤも、月羅塾のランゼツも、群衆全体の数からすれば直接見たものは多くない。
だが、確かにそこには激闘があると。
一進一退、勝負の熱が燃え上がろうとしていることが察せられる。
東の果てには、まだ日は昇らない。
※
「ユーヤさん……」
ズシオウは謁見の間の後方。重鎮らの中に控えていた。
白装束と木彫りの面。町民の中にはズシオウの姿形を知らぬものもいるが、この場ではさすがに全員が承知している。
ズシオウは首を巡らせる。ベニクギの姿は見えないが、やはり近くにいるのだろうか。あの緋色の傭兵が隠密術を使うことは珍しくないが、この時は普段よりも不安がつのる思いだった。
「ズシオウ様、もう少し前でご覧になられますか」
「いえ、ここで結構です」
「パルパシアの国王も来訪していると聞いておりますが、いずこに」
「わかりません……あのお二人は自由な方ですから」
(そういえば変ですね……城下も含めてこれだけの騒ぎになっているのに、あのお二人が関わってこないなんて……)
だがそれを気にしてはいられない。勝負はすでに10問を終え、5対5の競り合いとなっている。
「トウドウさん」
と、ユーヤが話しかける。
「む、いかになされた」
「どこかでかがり火を焚いているのかな、火がはぜる音がする」
「うむ、城下の者に見えるように、薬石にて色をつけた火を焚いている」
「そうか……今日は風が強いみたいだ、すまないが、もう少し大声ではっきり読み上げて欲しい」
「む……分かった、気をつけよう」
町奉行のトウドウは、そうとは見せないが内心で少しの憤懣を覚える。
町奉行とはフツクニの全体を管轄する、事実上の最重要職。警察機構、消防、金融、教育機関、その他あらゆることが職務である。並大抵の人間には務まらない。
そして、今宵はそれほどの人間であっても生涯に何度とない大勝負である。これ以上ないほどはきはきと、腹筋を総動員して声を出していたつもりだ。
だが選手の声が何よりも優先されるべきだろう、トウドウはそのような度量も持っていた。深く息を吸って声量を高める準備をする。
「セレノウのユーヤ、小細工は意味を持たない」
ユーヤの眼前、虚無をたたえた顔立ちが声を発する。
あるいはこの人物には本来の顔というものが無いのか、そんな考えが浮かぶ。かつてユーヤを模倣したように、誰かになりきることが彼の本領なら、本来の顔など邪魔でしかない。
とりとめのない考えに落ちそうになるのを、意志の力で踏みとどまる。つぶやきの声は続いている。
「贅月での早押しクイズに魔法は存在しない。贅月をどれほど読み込んできたか、早押しポイントを見極めたか、それだけが勝負を分ける」
「どうかな……」
おそらく、ユーヤが何かを仕掛けてくると思って探っているのか。そのように理解する。
「早押しクイズには魔法はない……本当にそんなことが断言できるのか。君が早押しクイズの何を知っていると言うんだ」
「贅月は検討しつくした」
「そうかな……僕はまだ終わってない。「1077」で始まる問題は「カノッサの屈辱」でいいのか。「ホワイトハウスと」で始まる問題は「アルゼンチン」でいいのか。確定ポイントを追求し始めると夜も眠れない。ごく基本的なベタ問ですら人生が何度あっても足りないんだ」
「……」
「クイズは、一生をかけても終わらない」
姿勢を変える。
正座の状態から片膝を立て、紫晶精のボタンにのしかかるように構える。明らかに攻撃的な構えだ。
「技術もそうだ。極めたと思ってもまだまだ先がある。終点などあるのかどうか。そして……」
火のはぜる音、風のうなり声、その中でユーヤの意識は過去と交差する。
「ある一点から先、それはきっと、人智を超えた事象であると……」




