第二十四話
蛇畳の間、声が独特の反響を見せる円形の空間、そこに問い読みが流れる。
「秋から冬にかけ/て――」
刹那。
ユーヤが黒板を取り、凄まじい速さで文字を刻む。白墨が砕けて畳に散る。
「な……」
慌てたようにカナナギも黒板を取る。そのしなやかで長い指が白墨を操る。
「沿岸部に吹き付ける――」
ぴんぽん
「ユーヤどの、回答を」
【乾貝雪】
「……ええと、乾……貝、はい、間違いありません、正解です」
かなりの殴り書き、字体も崩れているが、かろうじて判読可能である。
「……まったく、優雅さのかけらもないね」
カナナギは渋面を作って言う。
「贅月は武士の素養。その贅月にもあるだろう。字の美しさは武士としての美徳であり……」
「そこのお小姓さん」
ユーヤはカナナギを無視して鋭く発声する。呼ばれた小姓は少し固まる。
「は、はい」
「ちょっと筆圧を強くして殴り書きになる。消しにくくなるから黒板の予備が欲しい。ありったけ持ってきてくれ」
「わ、わかりました」
そしてすぐさま用意される。10枚ほどの黒板がユーヤの左右に配置され、カナナギの側にも3枚ほど置かれる。
「まだ必要でしょうか」
「できるなら頼む」
小姓たちは衾を開けて出ていく。観客たちはいったいどんな戦いが始まるものかと固唾を呑む。
「……」
カナナギは目を細めて顎に指を添える。優雅さは保とうとしているものの、目の前の男に対し警戒の色を濃くする。
「問題、馬術競/技の」
ががが、と黒板が振動するような筆致。ユーヤが猛烈な勢いで書き始め、カナナギが数瞬の動揺を示す。
それはユーヤの背後にいたベニクギも同じ。
(まさか……! 馬術に関する問題は20以上あるでござる。まだ特定など)
あるいは、想定される答えをすべて書いていくつもりか、その考えがカナナギにも浮かぶ。
「くそっ!」
カナナギも白墨を走らせる。極めてゆっくり読むというルール、詩吟のように朗々と響く声、時間が引き伸ばされるような感覚が場の全員を襲う。
「一種であり、手綱を持たずに馬を引き回す――」
ぴんぽん
「カナナギどの、お答えを」
【橋返し伴連廻】
「正解です、カナナギどののポイントとなります」
からん、とユーヤは黒板を投げ置いて別のものを取る。
「まだ遅いか……」
呟くような言葉、だが周囲の人間に緊張を走らせる不思議な響きがあった。単に速く書くという宣言に過ぎないはずが、白刃を抜き放つような剣呑な気配が。
勝負は激戦の様相を呈する。
手をわななかせ、砕ける寸前の力で白墨を握る。黒板の上での手の動きは凄絶、踊るようにとはとても言えない、荒れ狂う野犬のような乱雑さ。
黒板を消すのももどかしいのか、書きかけの黒板を次々と左側に積んでいき、右側から新しいものを取っていく。
「ユーヤどの、正解です」
「カナナギどの、正解、ポイントを」
カナナギの流麗な筆致に対して、ユーヤは可読ギリギリの乱雑さ。
そして細かな技も入る。ユーヤが示す回答。
【草湖】
「はい、正解でございます。草麻上人というのが正式回答ですが、画号の草湖でも正解です」
【水庵】
「正解です、水庵居士が正解ですが水庵でも結構です」
ズシオウが、手に汗を握りながらつぶやく。
「ユーヤさん、回答がギリギリ正答になる書き方まで研究を……」
「た、確かに、贅月には回答例が複数存在する問題も多いでござる。それは副読本などにまとめてあるでござるが、まさか、それが意味を持ってくるとは」
「くっ……」
あろうことか、カナナギの息が上がっている。ただ黒板に答えを書くだけの動作が、まるで全速力で走り続けているような疲労をもたらす。
それはむろん、ユーヤも同様である。顔は紅潮し、肩で息をしている。カナナギと違うのは、ますますその速度を上げるかに思えることだ。
「参ります! 第36問!」
グンベツもまた二人の熱気にあてられるかのようだった。腹筋に力を入れ、声を張り上げる。
「劇作家、光来春秋によ/り書かれ」
ぴんぽん
え、と全員の目がユーヤに向き。
そして全員が気づく、ユーヤはまだ書き始めていない。
「ゆ……ユーヤどの? どうなされ」
「答えは」
そして、積んでいた黒板から1枚が抜き出され――。
【心中柳氷無湖手本足摺切口】
「なっ……!?」
驚愕するのはグンベツ、そして、勢いのままに言葉が。
「せっ……正解です!」
どよめき、これまでで最大の、広間が撹拌されるかと思うほどの。
「ば――馬鹿な!」
叫ぶのはカナナギ。
「今のは反則だ! 問題を読んでから書き始めるのが当然だ!」
「審判! どうする! そんな取り決めがあったか!」
カナナギとユーヤ、二人が烈しい視線を投げるのを受け、グンベツが一瞬、激しい葛藤を見せてのち言う。
「と、取り決めはございません。今のはユーヤどののポイントです。しかし、今の一度きりとさせていただきたく思います。今後は、使い終えた黒板は小姓らにより消させていただきたく……」
「ぐっ……あ、ありえない、こんなことが……」
カナナギは混乱の極地にいる。
あるいはただ一問だけのこと、不運の極みとやり過ごすこともできたはずだが、それにしても今のは劇的に過ぎた。この華やいだ人物をして、言及せずにはおれないほどに。
「贅月の収録問題数は6400問……。多少、ジャンルが絞られてるとはいえまだ5000問以上ある! その中から一つを当てるなんて不可能だ!」
「分からないのか」
ユーヤが、白墨の粉で白くなった人差し指を眉間に当てる。
「この心中柳氷無湖手本足摺切口は贅月で最も長い回答だ。当然、早書きが得意な人物にとって有利な問題と言える」
「……? それが、何だと……」
「今までの流れは偶然か?」
はっと、カナナギが周囲を見る。
単純にきょとんとしている者が大半だが、その中に数人、怪訝な視線を向ける者が。
「全体的に君に有利になるようにゲームが進行していた。書き問題ができる黒板の用意があったこと、こちらのルール追加が却下されていたこと、そして何より、回答の言葉が比較的長かったこと。そういえば金毛塾とは書の道で知られ、とても裕福な者が通う私塾らしいな」
すなわち、司会のグンベツはカナナギと内通している。そう暗に言おうとしている。
あるいはグンベツが私情を抱き、密かにカナナギを勝たせようとしている。
その発想が伝播している。グンベツは慌てたように声を上げる。
「ち、違います! セレノウのユーヤどの、私は寄改方を預かる身、けしてどちらかに肩入れなど……」
「別に僕は何かを糾弾してるわけじゃない。試合を続けてくれればいい。ただし」
二人に。あるいは場の全員に釘を差すように言う。
「妙なことは考えないことだ……これからは観客の全員が見張っているぞ」
「う、わ、私は何も……」
「ベニクギ、どう思いますか、本当に内通があったと……」
「……分かりませぬ。拙者の知る限り、グンベツは汨州の出身でもないでござるが……」
あるいはこれも心理戦のうちなのか。ベニクギは客観的に現状を見ようとする。
(今の流れ……)
カギとなっているのはユーヤが「心中――」の問題を当てたことだ。あの衝撃のあまり、周囲の人間がユーヤの言葉を疑えなくなった。
(つまり……あれはポイントを稼ぐというより、あの離れ業を機に場を支配することが目的なのでござろう。1ポイントの獲得など、無くてもよかった……)
内通のほのめかしは8割以上ハッタリだろう。要はカナナギを衆人環視の状態に置きたかったのか。
しかし、ではユーヤはなぜ「心中――」の回答を用意できたのか。
(……グンベツとカナナギの内通という可能性とは別に、「心中――」の問題が読まれることが分かっていた? ではどんな方法が……)
(早書き勝負となれば、猛烈に文字を書きなぐっていく姿が見せ場となることは明らかでござる。それがグンベツに影響を与え、用意していた問題から「心中――」を選ばせた……そう考えられぬこともないが……)
例に漏れず、用いられているのは贅月を書き写したもの。
問題文にアレンジが加えられているが、ルール追加によるジャンル制限などが起こりうるため、数百問は用意されていてもおかしくない。
(そう……理系問題を削除したり、答えに数字が入る問題を削除するという追加ルール、あれは問題を文学歴史に寄せるためのもの、答えとなる単語は長くなりがちでござる)
試合は続く。
しかしもはや流れがユーヤにあるのは明らかだった。カナナギは善戦しているものの、周囲の目を気にして意識が散っている。
(あのカナナギという男、周りからの賞賛の視線を浴びて力を発揮するタイプ……この状態になってはうまく戦えぬでござろう……)
「そこまで!」
グンベツはやや肩をこわばらせたまま、ユーヤの方へと手を挙げる。
「ユーヤどの34点に対しカナナギどの25点! ユーヤどのの勝利!」
観客からの拍手。
そこには称賛と興奮の力強さがあった。ベニクギはその拍手に安堵を覚えた気がした。
彼らはあくまで観客であり、今の骨身を削るような死闘も、張り巡らされた権謀術数にも関わりなかった。ただクイズ戦士たちの優れた戦いだけを楽しんでいた。そのことに救われる気がしたのだ。
「次は準決勝となります。ユーヤどのは係の案内を受けて個室にてお控えください」
「わかった」
小姓に連れられ、衾の一つから外へ出る。ベニクギもズシオウも、その背に声をかけられなかった。
「ユーヤさん……」
「ズシオウ様、我々も退出いたすでござる。ユーヤどのには少し時間を置いてお会いいたしたほうが良いかと」
「そうですね……」
そして観客も司会者も、蛇畳の間を次々と出ていく。
本来なら白無粧が元服を行うためだけに存在する神聖な場所。戦いの熱気と、大勢の人いきれによって部屋自体が少し憔悴するかに思えた。畳に落ちた白墨の粉を小姓が掃き清めている。
(この部屋で、私は……)
それは何年後のことなのか。明日のようにも思えるし、永遠にその日は来ないような気もする。
衾絵の獣たち、九十六枚の異国の獣はズシオウを圧倒する存在感であった。獣の輪の中に放り込まれた赤子のように、己が小さく無力になったように思われた。
ズシオウはぎゅっと目を閉じ、逃げるようにその空間を後にする。
世界のあちこちに、獣の吠え声が。
※
「ユーヤ様、お疲れ様でした」
控えの間にはメイドが待っていた。銀色リボンのカル・キである。彼女を見ると銀髪の美少女という言葉が連想されてしまうが、少女と言ってしまっていいのだろうか、とふと思った。
いったい上級メイドたちは何歳なのだろうか、そういえば一人も年齢を知らないことに気づく。
「二回戦も勝利されたようですね、流石でございます」
「ありがとう」
と、メイドは何かに気づいてユーヤの背中へ回る。
「ユーヤ様。かなり汗をかいていますね。襦袢を変えますのでそのまま立っていてください」
そしててきぱきと着物を脱がせ、着替えさせる。ユーヤは着付けができないのでされるがままになる。
「ちょっと大変な勝負だったからね……」
「伺っております。問題を先読みして答えを書いていたとか」
メイドはこの控えの間にずっといたが、勝負の様子はひっきり無しに聞こえてきた。そこかしこで噂が交わされているからである。耳の良いカル・キはおおよそを把握していた。
「ある特定の……」
「? 何かおっしゃいましたか?」
「ある特定の問題を読ませる技術、そういうものに挑んだ人がいた。何が読まれるかを当てるのではなく、何を読むかを回答者側が決めるような技術」
「そんな技術が……さすがはユーヤ様ですね」
「いや、僕にもできない」
え、と銀髪のメイドは手を止める。
「早押しを極めた王。その人はとてもたくさんのことを語っていたけど、僕には半分も理解できなかった。ただ彼女の語っていた言葉だけを、加工せずに丸暗記している。僕はそれを忠実に再現する。とてもたくさんの伏線、執拗すぎるほどの観察、意味が有るのか無いのかも分からない細かな誘導。どれが作用したのか僕にもわからない。まじないに近いものなんだ」
「……」
ユーヤは全身が熱くなっている。脳を酷使したためだろうか。
着替えが終わるとメイドはユーヤを座らせる。彼は糸の切れた人形のようにすとんと座り、そのまま項垂れて全身から力が抜ける。
「ユーヤ様……」
この人物の中に眠る、無数の技術。
それは怪物のようなものだろうか、とメイドは思う。
彼はどれほどの怪物を棲まわせているのか。どのようなクイズ王たちと出会ってきたのか。
異世界のクイズ王。
それは巨大で、恐ろしく、深淵に住まう怪物たちなのか――。




