第十八話 (過日の3)
※
過日。
記憶とは過去への遠き眺望。過去とは未来のように不確定な領域。
町のどこかにあった赤いバラ園。古びた洋館。そこに通っていた頃、七沼は問読みというものを学んでいた。
といってもクイズに対する専門的な本はまだ少なく、体系的にまとめ上げた大著などもない。七沼はもっぱらビデオテープを見返すことで、問題の読み方を学ぶ。
「問題、「女」と/いう」
ぴんぽん
「はい、くのいち」
「正解。問題、イタリア語で漁/師」
ぴんぽん
「はい、ペスカトーレ」
「正解」
洋館の一室にて、答えるのは紅円。
館はいつ来ても薄暗く、冷房もないのに建物全体がひやりと涼しい。建物の何処かでジジジという電子音が鳴っている気がするが、それ以外には人の気配もない。
「ベニお姉さん、すごく早いね」
「えへへえ」
「列島縦断ミラクルクイズ」を題材とした子供向け玩具、その早押しボタンに手を乗せたまま、紅円は照れ笑いを見せる。
(なぜそんなに早く押せるんだろう……)
問題は固定されている。「ミラクル」の玩具に付録としてついてくる問題が2000問。それと洋館にあったクイズの本が3冊。合わせて6000問あまり。
それをすべて覚えていることも驚愕であるが、そこまでは七沼の理解の範疇。
だが、問題は一問ずつ七沼がアレンジを入れている。語順を入れ替えたり、答えとなる単語を変えたり。
それでもほぼ変わりない速さで押す。それが解せない。
「ねえベニお姉さん、何かコツとかあるの?」
「うん、あるよお。例えば今の問題、七沼くんは「女」をカギカッコでくくってたよねえ」
え、と声が漏れる。問題文は紅円には見えないはずだ。
「ちょっとした間の取り方で分かったんだよお。カッコつきの「女」が出てくる問題は「くのいち」だけだよねえ」
「そうかあ……」
紅円はさまざまなテクニックを見つけていた。前振りのイントネーションに注目する方法。読む速さから問題文の長さを推測する方法。6000問の中で一度しか出てこない語彙の整理。
「きっとねえ、クイズ王ってこんな感じだと思うんだあ」
「どういうこと?」
「もっともっと、たくさんのクイズを覚えておくの。その一つ一つの一番早く押せるポイントも覚えるの。一番たくさん覚えてて、一番正確に押せる人、それがきっと早押しクイズの王様なんだよお」
「そうだね」
実際には、そんなに理想的な機会は無いだろう。クイズは膨大であり、日々新しい問題が生まれている。
(それに、それはカルタと同じだ)
突き詰めた早押しクイズはカルタと似たようなものになる。
それは、クイズ戦士たちを今後何十年もさいなむ言葉である。
「問題、ベートーヴェンの交響曲第3/番」
「はい、「田園」」
「正解」
第3番は「英雄」ですが、第6番は何でしょうという問題。
七沼はその曲を聞いたこともないし、他にどんな交響曲があるのかも知らない。問題にアレンジを加えるとしても、答えは「英雄」か「田園」のどちらかになる。
そのようなバラバラな知識が大量に蓄えられている。脳の記憶野に散らばる角張った石のような言葉。それは問題文とセットで格納されているだけで、体系的な知識ではない。
(でも……)
あるいはそれがクイズなのか、七沼はそんなふうにも思う。
クイズとは、クイズでしかない。
読書家が知識を競う場でもなく、日々のニュースをどれだけ覚えているかを試される場でもない。まったく別の次元に存在する競技。
ではクイズとは、いま紅円がやっていることの延長なのかも知れない。
(もし……出題される問題が限定されていたら。ある問題集からだけ出題されると分かっていたなら)
(その時のクイズ王の強さは)
「はい、ガニメデ」
――計り知れない。
「ベニお姉さん、テレビに出たらいいのに。きっと活躍できるよ」
何気なく言った言葉であるが、紅円はゆっくりと七沼を見て、そしてどんよりと暗い気配に沈む。
「できないよお……私は問題集を丸暗記してるだけだもの。クイズ王の人たちとは戦えないよお」
「そんなことないよ。お姉さんの技術は普通のクイズにも活かせるはずだよ。勉強すればすぐに、もっともっと強くなれるはず……」
がこん がこん
響き渡る音。七沼は聞いたことがない音だった。洋館の扉にある鉄輪の音だと分かったのは後日のことだ。
「あっ……ごめんなさい、七沼くん、こっちに来て」
紅円に手を引かれて、洋館の二階へ。
がこん、という音は十秒ほどの間をおいて繰り返される。
「この部屋にいて。絶対に、出てこないでね……」
そこはホテルの一室のように見えた。キングサイズのベッドには赤いびろうどの敷布がかかり、部屋の中にトイレの個室があり、サイドテーブルにはお菓子が、小さな冷蔵庫に飲み物も入っている。
「立派な部屋だなあ」
紅円の部屋だろうか。それともこの洋館はアパートのようなもので、二階の部屋はそれぞれ居室として機能するのだろうか。
外国製の本もあった。半分ほどは絵本で、半分は植物の画集のようだ。文字は読めなかったが、美しいイラストを眺めていると退屈はしなかった。
大きなベッドにぼふんと横になる。体がどこまでも沈みこむような柔らかい寝心地。横になった瞬間に眠気が来る。いつも夜遅くまで本を読んで、クイズ番組の録画を見返しているからだ。慢性的な寝不足はこの頃からのものだった。
「ベニお姉さん……何やってる人なんだろう」
この家は自宅なのだろうか。一緒に住んでる家族はいるのだろうか。おもちゃ会社の偉い人と知り合いだと言っていたが、どこで知り合ったのだろうか。
虫の声がする。葉擦れの音も聞こえる。旅の空にいるような浮ついた感覚。ここは住宅街の中のはずなのに、うっそうと茂る森の奥にいるような感覚になる。自分はずっとここで生まれ育って、一度も街を見たことがないような。
ガガガ、と電子音、世界のどこかを走るノイズ。
やがて意識が浮上する。
「……あ」
すっかり寝入ってしまった。何時間寝ていたのかもよく分からないが、とてもすっきりとした気分で、久しぶりに目がぱっちりと開いたような気がする。
この部屋には時計もなく、テレビもラジオもない。天井に蛍光灯すらない。明かりはベッドサイドにあるランプだけなのだろうか。それもコードが繋がっていない。コンセントはどこだろう。
「ベニお姉さん……」
出てこないでと言っていたが、まさか夜中まで部屋にいるわけにいかない。七沼は大きな扉をぎぎぎと押して廊下に出る。
もし来客中だったら引き返そう、そう思ってそっと廊下を歩く。窓の外は夕焼けが赤黒い夜の色に変わりつつあった。窓からは町の明かりも見えて、なぜか少し安堵する。
ガガ、ピー、という音。
階段を降りていく。階下は闇だ。明かりをつけていないのだろうか。液体の中に入っていくような感覚。落ち着いた少年である七沼も恐ろしさを覚えたが、理性を総動員して足を進める。
「七沼くん?」
部屋の一つから明かりが漏れている。その中から紅円の声がした。
「ベニお姉さん、降りてきて大丈夫だった?」
「うん、もういいよ、入っておいで」
紅円は少し静かな声で言う。疲れたような気だるいような声。七沼が入っていくと、テーブルの上に三叉の燭台があった。映画で見るような銀の燭台。その上で蝋燭の炎が三つ、部屋を照らし出している。そして紅円が。
その姿は、美しかった。
蝋燭の揺らめきのせいだけではない。みずみずしい果実のような肌。蜜の詰まっているような唇。大きく丸い瞳。ゆったりとした赤と黒のドレスはたっぷりと空気をふくんで広がり、わずかに体の輪郭を残す。
その全てに凄絶な気配がある。名画の一場面か、あるいは大輪の薔薇のような豊かな美が。
「ねえベニお姉さん。何の仕事をしてる人なの?」
その問いが口をついて、なぜそんなことを聞いたのだろう、と七沼は自問自答する。それを聞くことで必要な線を引いたような感覚。自分はここでそれを聞くべきであるという、無意識の責務。
「えへへ、気になる?」
にこりと微笑みかける。なぜか、とても円満で明るい笑顔だった。作り笑顔であることが分かるのに、そんなことはどうでもよくなるほど華やかな笑み。
「話したくないならいいよ」
「ごめんねえ」
紅円は椅子を降り、燭台を捧げ持って七沼の手を引く。
「さあ、もう帰らないと夜になっちゃう。外まで送るよお」
「うん」
暗がりに近づいている廊下を歩き、燭台を玄関脇に置いて外へと出る。夕闇の中で薔薇はなお赤い。鮮烈な朱もなめらかな紅も、鮮やかで濃密な柘榴色に染まる。
「わあ……すごく綺麗だね。こんなに一斉に咲いてて……」
「私はね、罰を受けてるの」
ふいに、そんなことを言う。
「赤いものが見えない場所に行ってはいけない。そういう罰を受けたの。だからバラ園から出られない。家の中でも蝋燭の明かりを使うの。外のことは知りたくないの。知ったら外に行きたくなるから」
「赤いもの……」
七沼と握り合っている手が湿度を帯びている。まだ夏の名残が残る季節だからだろうか。
「だからテレビには出られないの。ずっとこの館にいるしかないの」
「でも、クイズ好きなんでしょう?」
「好きだよ。でも私はこの館しか知らないの。ちゃんとした知識を持ってないの。世の中にはクイズがいくつあるんだろう。10万、100万、あるいは数えきれないほど? 私はそういう知識は持っていないの、でもね」
紅円はかがんで、ウサギの耳を撫でるように七沼の手を愛おしむ。長い指を絡めて握る。
「それでもいいの……。私はこのバラ園だけのクイズ王。きっと、日本には日本の、大学には大学の、それぞれの家にはその数だけのクイズ王がいるの。私はこのバラ園の王様。私の早押しは私だけのもの。それに満足できれば」
「ベニお姉さん」
ぎゅっと、その手を握り返す。柔らかな手の奥に熱があった。紅円の骨の熱さに触れる感覚。
「僕が連れ出すよ」
「え?」
「僕がお姉さんをここから連れ出す。いろんなところに行って、たくさんのことを学ぼうよ。きっと楽しいよ。クイズの世界が広がっていくよ」
「……えへへ、七沼くんは優しいねえ」
そう笑ってみせるが、彼女の足は前に進まない。これ以上、出口には近づけないのだと意思を示すかのようだった。
「さあ、今日はもうお帰り。また遊ぼうねえ」
「うん……」
鉄柵の扉を押し開け、外に出ていく。
町の夜風が肌に冷たい。夢から覚めたかのような意識の明晰さ。振り返ればツタに覆われた鉄柵があって、紅円の影は見えない。
夜の闇が、世界を鎖す。
彼女はずっとあのバラ園にいるのだろうか。閉ざされた国の王として君臨するのだろうか。
(そうはさせない)
七沼は拳を握った。まだ未成熟な生白い手ではあったけど。
そこには確かに、彼女の熱が残っていた。




