第十話 (過日の2)
※
過日。
少年期は陽炎の彼方にある。
世界中の水がすべて干上がるような陽射し。
木の影は深い穴のように濃く、どこかから祭り囃子が聞こえるような錯覚。
ぎしり、とサビが削れる音をたてて門を開く。
紅円がそこにいた。真鍮の如雨露を持ってバラに水を遣っている。
「あれ、七沼くんだあ」
黒いワンピースの裾は長く、背は高く体つきはふくよかで、唇は目が覚めるほど赤い。
「ここに来ちゃいけないって言ったのに……」
「今日はお客さんで来たんだ」
正門の脇には青銅の看板がかけられている。見学自由のバラ園との看板。しかしバラ園の名前だけは、その後何十年経っても思い出すことはできなかった。
町の片隅にある、誰も知らないバラ園。
七沼の他のお客はほとんど見たことがなく、何かを販売している様子もない。紅円の正業とも思えないが、では何の仕事をしているのかも知らない。それを聞いた記憶も無かった。
「そうかあお客さんかあ……ううん、じゃあ紅茶、飲む?」
「うん」
「えへへ、じゃあ淹れてあげるよ。美味しいアップルパイがあるんだあ」
お茶とお菓子を挟んで雑談をする。話題はテレビのこと、昨日見たクイズ番組のことだ。紅円もまたクイズの愛好家であり、七沼の熱っぽい語りを微笑みながら聞いてくれる。
話題は過去の番組のことに移り、去年の「ミラクルクイズ」のことにも。
そこからは紅円が話をした。早押しのことが多く、あのときの押しは適切だったか、あのクイズ王の押し方はどうか、そんな話だ。
「紅お姉さんは早押し好きだよね」
「うん、大好きなんだあ。秘密もたくさん見つけたんだよ」
「秘密って?」
「早く答える秘密だよお。あのね、クイズって、このバラみたいなものだと思うの」
「バラ……」
「おいでえ」
つと手を引いて立ち上がる。彼女の手は小さく、ひんやりと冷たく、庭仕事をしている割に繊細そうな手だった。
それでいて腕は長く、やはりとても背が高く思えた。七沼の頭は紅円の腰ほどしかない。
「これがダマスク、こっちはブルボン、この白いのはマダムゾイットマン。どれも綺麗だよねえ」
「バラはあんまり知らないよ」
何となく花びらが多くて仰々しい様子に思えた。白や紫もあるが、全体的に圧倒的に赤が多い。
「じゃあ、そこに咲いてる黄色いのは?」
「これはタンポポだよ」
「それはどうして分かったの?」
「? ええと、それは、見たらすぐに分かるというか」
「そうだよねえ、それが秘密なんだよお」
紅円はペンを取り出す。金で装飾された万年筆で、白木のテーブルにさらさらと言葉を刻む。
問、シチリア島はシラクサの石工であり、フィロストラトスという弟子を抱え、親友の代わりに人質になった、太宰治の「走れメロス」の登場人物といえば誰?
解、セリヌンティウス
「ちょっと長く書いたけど、こういう問題があるとするよねえ。これ、答えはどこで分かるかなあ?」
「ええっと……それは「シラクサの石工」かな?」
シラクサの石工で他に偉人や、物語の登場人物がいれば別だが七沼は知らない。
「うん、そうだねえ。でも、こう変えたらどうかなあ」
「走れメロス」の登場人物であり――
主人公の代わりに人質となった――
フィロストラトスという弟子のいる――
「あれ、どれも同じだ」
紅円ははにかむように笑い、万年筆をゆらゆらと振る。
「早押しクイズはねえ、問題文が寄り道しないんだよお」
「寄り道……」
「そう、最初に答えを一つに絞り込めるようにできてるの。そういう問題は、言葉を並べ替えても絞り込める長さが変わらないのお」
そんなはずはない、と七沼は理性の部分で反発する。
例えば「このセリヌンティウスはシチリア島の何という都市に住む人物?」などと変えれば答えは「シラクサ」になるはずだ。
紅円という人物が自己流で至ったクイズの捉え方。だから必ずしも正しくないし、実際のクイズシーンで通用するとは限らない。
しかしその柔らかな話し方。優しげな微笑み。そんなものを浴びていると何となく納得させられてしまう。
「早押しクイズはね、言葉の積み木なの」
万年筆の文字がさらさらと流れる。
太宰治、人質、シラクサ、走れメロス、石工。
言葉を縦横に重なり合わせ、全体にセリヌンティウスという言葉を上書きする。
「いくつかの言葉が合わさると、必ず答えが見えるんだよ。私はこう呼んでるの。花を見て名を呼ぶごとく。ってねえ」
(花を見て名を呼ぶごとく……)
「それでね……クイズの答えになる言葉は、花の名前のように綺麗なの」
書き記していく、流麗かつ繊細な筆跡。
箱入り娘、ゴーストライター、三平汁、パパラッチ、チェアマン、角隠し、きびす、ノーベル平和賞、アンクレット……。
七沼遊也は、紅円の美しい筆致をまじまじと見る。
「この言葉とこの言葉が出てきたら、言葉がぱっと頭に浮かぶ、それが早押しだと思うの」
「……」
何と言っていいのか分からない。それは紅円だけの哲学であり世界観。理屈や道理とは少しずれた場所に存在していた。
「……ねえ紅お姉さん。「ミラクルクイズ」のゲームやらない? その早押しの秘密ってやつ見てみたいよ」
「ううん、でもあれ、三人いないとできないんだよねえ」
問題の読み手が一人、解答者が二人の三人が推奨される最低人数である。付属の問題集には◯✕や三択問題もあるので、回答部分を定規で隠せばやれなくはないが。
「僕が読むよ、お姉さんは答えるだけでいいから」
「いいの? えへへ、じゃあ、奥の部屋でやろうかあ」
少年の日の思い出は、いつも美しくそこに在る。
少しの妖しさと、危うさを秘めて。
※
時間は少し巻き戻り、珠羅の屋敷にある厨房。
「お夜食ですか?」
「ええ、話し合いたいことが多くて大変なんです」
人当たり良く人畜無害、そんな空気を放つのもユーヤの職能のようなものか。使用人づてに起こされたベニフデは薄紫の襦袢の上にうわものを羽織って応対する。
「ベニクギが、母の作る夜食が食べたいと言っているので」
「あらあらまあまあ、うふふ、そうですかあ。ロニになったっていうのにあの子ったらもう、ふふふ」
ベニフデという人物はそれなりに年齢を重ねているはずだが、おっとりしていて無垢な印象がある。きっと良家の子女として、下にも置かぬ育て方をされたのだろう。他者へ向ける深い愛情と思いやり、そんなもので出来ている人物に思えた。
「それで、ついでと言っては何ですが、料理するところを撮影させてもらってもいいでしょうか。ヤオガミ料理は初めてなもので」
「ああ、ユーヤさんは見識を深める旅をなされているんでしたね、メイドさんから伺っています。あらあら、でも困るわあ、こんな薄着で、うふふ」
言いつつも、戸棚から調理具を取り出し、収納庫から野菜などを選ぶ。冷気を放つ氷晶精の冷気が足元を這う。
「あの子は子供の頃からやんちゃでしてねえ。一人で馬の遠乗りをしたり、男の子たちと相撲を取ったり、そんなことばかりしていましたねえ」
「……剣の才能はあったんでしょうか」
「さあ、近所の剣術道場に通ってましたけど、町人が行く道場だから夫は反対していましたねえ。でも傷だらけになって帰ってくるあの子はとても楽しそうで、笑顔で稽古のことを話すあの子を見ると、好きにさせてやりたくなりましてねえ」
鍋に水が張られ、かまどに火が起こされ、料理が始まるという段階でユーヤは妖精を構える。
「では撮影させていただきます」
「ふふ、照れますねえ。さあ、あの子に食べさせてあげるならこれかしら……」
藍色の妖精が、額の目を開く。
夜の底で、包丁がまな板を打つ音だけが。
※
「ルールを確認する」
三つ目の妖精を構え、ユーヤが告げる。ガラスに銀メッキした記録体は使用されない。ごく短時間ならば妖精それ自体にも記録できるためだ。
ベニヅキとベニクギ、その父娘は手元に半球型のボタンを持ち、クイズ帽をかぶっている。知恵の象徴たるヘビの木板が、今にも打ち上げるかと控えている。
「勝負は何ができるかクイズ。これから流れる映像で、ベニフデさんが何を作っているのかを当ててもらう。手元にある早押しボタンを押して回答すること、ボタンが押されると映像は打ち切られる。解答時間は五秒、懐中時計をかざして正確にカウントする」
漆塗りに銀蒔絵の装飾がなされた時計、時刻は深夜一時になろうとしていた。
(ユーヤどの……いつもより間を取っているように見える。一問限りの勝負だからではない。おそらく映像が始まる前にどれだけ思考できるかを問うている)
ベニクギは外からそれを察せるほどではないが、ずっと思考を続けていた。この勝負にどんな可能性があるか。母であるベニフデは何を作るのか。
(夜食であれば握り飯や饂飩。頭の疲れを取るために甘いものという可能性もござろうか。野菜を刻み入れた汁物、母上の得意料理であった肉そぼろの万農焼き……)
「ベニヅキさん、準備はいいか」
「構わない、早く始めてくれ」
(……いや、違うでござる)
違和感がある。これはただのクイズではない。
(そう……競い合う相手はクイズ戦士でもない父上。それを下して何かを証明できると言うのか)
(ユーヤどのが問うのはそんなことではない。拙者が家の問題を、己に絡みつくしがらみを振り切れるほどのクイズ戦士なのかを問うている)
(では、拙者の成すべきことは)
(ロニのロニたるべき早押しとは……)
「ベニクギ、用意はいいか」
「問題ないでござる」
観客と言えば、遥か遠くから見ている使用人が数人。母の作る夜食を当てるという他愛もないクイズ。
それでいながら、このクイズは確かにヤオガミの命運が関わっている。それを知るのはほんの数人のみ。
「では、映像スタートだ」
妖精の3つ目の眼が開き。
そして風景が塗り替えられる。
出現するのは厨房。
まな板の脇に転がる野菜、かまどの火、襦袢に上ものを羽織っただけの母の姿、やや背を丸めて包丁を握り――。
手が。
――ぴんぽん
ベニクギに走る筋肉電位、自分で自分を押すような感覚。無意識の衝動がボタンを押させる。
「何……!」
驚くのはベニヅキ。風景が夜の庭園に戻る。
(今、わかったでござる)
映像は一秒にも満たない。そしてきっちりと妖精を止めたユーヤもさすがと言うべきか。
(拙者が考えるべきは答えではない、肝要なのはいつ押すか)
(これしかない)
(拙者がロニでいるためには、この押ししか)
「ベニクギ、答えを……五秒前」
頭の中で言葉が巡る。
それは正確には言葉ではなく情報である。一瞬の光景から見出される無数の情報。背を向けていた母の表情、空気の色、音の形。小さなものと大きなもの、妖精の気配。
「4……3……」
大過去への回帰、感情の同調、あの場に自分がいたらという感覚。
「2……1……」
「答えは、柔夜椀」
沈黙。
世界に落とされた答えを丁重に扱うかのように、ユーヤがゆっくりと手を振る。
「では回答は、ベニフデさんから」
その動作は合図だったのか、やや遠くから小走りでやってくる人影がある。盆の上に三つの椀を捧げ持って。
「あらあら、何かやっていたの?」
「その椀は……!」
そしてがくりと腰を落としかけるベニヅキ。素早く駆け寄ったベニクギが支える。
「正解だ、答えは柔夜椀。ベニフデさん、これはどういう料理なのかな」
「はい、冷やご飯を潰して団子にして、細かく刻んだ野菜を衣にして胡麻油で揚げて、お芋のすりながしを汁にしたものに浮かべた料理ですねえ」
手が込んでいると感じる。団子を浮かべた汁はのっぺりとしていて、とろみがついていると分かる。温かく、滋養がありそうだ。
「父上の好物にござる」
その言葉に、ベニヅキははっと娘へ顔を向ける。
「覚えていたのか……最後に食べたのはもう何年も前なのに」
「天地のすべて、時の流れにあるすべてが拙者を育てた。それはこの家もでござる。出会ってきたすべてを心に留めておく、それもまたロニたる責務」
ユーヤはといえば、音もなく歩いてその場を少し離れる。家族の会話に自分は邪魔だと考えたものか。
メイドはめざとく後をついてきた。
「ユーヤ様、今のはベニクギ様の実力なのでしょうか? それとも何か仕掛けたことが……」
「何もないよ。ベニクギはロニとして最高の結果を残した、それだけさ」
ベニクギは明らかに答えが分かる前に押していた。最初の一瞬で答えを見いだせるはずと判断した。
それこそが理論上の最速。絶対不敗を目指すべき人間の押し。
(ならば、読み切られたのはこの僕か)
早押しクイズの約束。
早押しクイズにおける問題文とは、冒頭からまっすぐ答えに向かうべきであり、途中で寄り道をしたり、最後に裏切りを入れるべきではないという考え方。
ユーヤもそれを実践していた。すべての食材が見える状態で録画を開始したのがそれであり、ほとんど無意識の行動だった。
「花を見て名を呼ぶごとく……」
「? 何かの詩ですか?」
「いや……」
(では、この国は?)
ふと振り返る。遠目に見れば三人の家族。そこへ大勢の使用人たちが駆け寄っている。
きっとユーヤが何もせずとも、この家はいつか黎明を迎える。家族のわだかまりなどいつか解決できる。そう思わせる象徴的な場面だった。
(この国で起きてることを、クイズとして捉えたなら)
(最後にある答えとは、いったい……)
ヤオガミの謎という深淵なるクイズ。
無数の思いを飲み込んで、問い読みは今、この瞬間も続いているかに思われた。




