第一話
潮の匂いに何かを思い出しかける。
それは錯覚だと感じる。彼は海町の出身ではないし、海は苦手でほとんど行ったことがない。
あるいは塩素の匂いだろうか。夏が近づく頃のプールの匂い、水道水の匂い、雨上がりに急に陽が照ってきたときにアスファルトから立ち上る匂い、そのどれかに近いと感じているのか。
「飛行船では行けないのかな」
三本マストの帆船。ラウ=カンの高速帆船に乗って、船べりにいるのはタキシードの男。
いつも疲労の気配を絡みつかせ、それでいて眼差しに油断がない。透明なつっかえ棒で常に自分を支えているような男。
異世界からの来訪者であり、様々なクイズに通じる職能を持つ人物。今は昔の名を捨て、セレノウのユーヤと名乗っている。
このときの彼には少し気ぜわしさも見えた。東を見つめて身を乗り出すような印象がある。潮風のため、オールバックに固めていた髪も少し乱れていた。
「ラウ=カンから東は風が安定しておらぬからのう」
「海流も複雑に渦巻いておって、暗礁も多い。安定した航路を見つけるまでには苦難の歴史があったのじゃ」
同乗しているのは蒼と翠。
色違いのタイトワンピースに身を包み、羽根扇で口元を隠した双子である。ふわりと波打たせた髪に様々な色のつけ毛を足しており、風に吹かれて深海生物のようにきらめく。
彼女たちは大国パルパシアの王女。ユギとユゼである。ラウ=カンからユーヤに同行していた。半ば無理矢理にではあるが。
「妖精の力で飛ばす飛行船もあったはずだが……」
「灰気精じゃな。残念ながら無理じゃ。大陸を離れると妖精を喚べなくなるからのう」
「これから向かうヤオガミでは喚べるが、妖精が定着するまで十年以上かかったそうじゃぞ」
妖精。このディンダミア妖精世界と呼ばれる土地に息づく存在であり、おもに蜂蜜で呼び出せる。力の強い妖精を呼ぶには貴金属も必要となる。
「それにユーヤよ、あれを呼ぶには大粒のアクアマリンが必要じゃぞ、持っておるのか」
「む……」
ユーヤはある事件を通じ、大陸の華セレノウの王女と結婚した。現在の身分としてはセレノウの王位継承権者である。まだ実感はないが、書類上はそうなっているようだ。
だがセレノウは小国であり、ユーヤに動かせる金銭もあまりない。というより自分はセレノウにおいてどういう扱いになっているのかが分からない。先に帰国した彼の妻、セレノウの王女は国内で地盤を固め、ユーヤの国入りの準備をすると言っていたが、うまく行っているだろうか。
「まあ心配するでない。宝石でも札束でもいくらでも融資してやろうぞ」
しなだれかかってくるのは翠のタイトワンピース。第二王女ユゼである。体のラインがくっきり出る、いわゆるボディコンシャスな服。ユーヤの感覚だとお立ち台で踊ってそうだが、この世界ではフォーマルなものと認められている。このスカート丈で公的行事に出ていることがいまだに信じられないが。
「融資されても返せないぞ。セレノウの名義で借りるわけにはいかない」
「そんなものいくらでも返しようがあるじゃろ。何だったら家も建ててやろうぞ。ユーヤは庭にプールとか欲しいタイプか? 寝室は防音にしておくか? ガラス張りとカガミ張りだとどっちが好みじゃ?」
「ユゼ、ちょっとくっつきすぎじゃぞ」
と、間に割って入るのは蒼のユギ王女。二人をぐいぐいと左右に押す。
「よいかユゼよ。我らがヤオガミに赴くのはあくまで王としての公務のためじゃぞ。大将軍クマザネどのにはまだご挨拶しておらんかったからの」
「うむ、もちろんじゃ。ヤオガミとの交易ルートの確保は長年の目標じゃからのう。良好な関係を築きたいものじゃ」
「そ、そうか……ならよいが」
ユギ王女は何となく座り心地が悪いような、微妙な感情の揺らぎを残した顔になる。
「スケジュールはびっしり組むからの。遊んでおる暇はないぞ」
「うむ当然じゃな。ヤオガミに行く機会は多くはなかろうし」
と、ユーヤがそんな二人を見て問いかける。
「公務って、向こうで会う相手がそんなにいるのか?」
「いや、せっかくヤオガミに行くことじゃし、新曲のプロモーションビデオの撮影をしたい。あとラジオの収録もせねばならぬし、ブロマイドの撮影にコラムの執筆」
「雑誌のゲラチェックに今度出る新刊のサイン入れ、ついでにパルパシア産の農産物の輸出のために向こうの商人と会わねばな」
「最後のをついでに言うなよ」
この世界の王族は芸能人のような側面も持ち、パルパシアの双王は特にその傾向が強い。
そんな文化に触れるのももう何度目かであるが、この世界に流れる独特の空気。平和で浮かれていて、永遠に続く祭りの中にいるような感覚には懐かしさもある。かつて少年時代、ユーヤのいた国にもあった狂乱の時代。それがまだ続いているかのような。
「たいーーーらいきーよーそろーーー」
三人の視線が動く。
見事によく通る船乗りの声。見ればラウ=カンの船員たちが船の片側に集まり、頭を下げる動作をしている。
「何が……」
「軍船じゃな」
ユギが示す先にはいくつかの船影。水平線に下半分が隠れているが、かなり大型の船だ。
「フツクニの軍船じゃ。六隻が縦隊を組んでおる。こちらは泰礼旗と呼ばれるラウ=カンとフツクニの友好旗を上げるのじゃ。戦意のないことを示すためにな」
「軍船……軍船がなぜラウ=カンへの航路に」
「ヤオガミでは軍船は沿岸を通らぬのが常識らしい。海流を利用した複雑な航路で目的地へ向かうのじゃ」
「……そうだったね。ヤオガミではまだ国同士の戦乱が続いてるとか」
「うむ、しかし戦はだいぶ治まってきたと聞いておるぞ。クイズでの決闘も浸透しつつあるようじゃ」
ぱしり、と扇子を閉じてユゼ王女が言う。
「ユーヤよ。クイズの方も任せておくがよいぞ。いざとなれば我らを頼るがよい」
クイズと妖精に支配されし、ディンダミア妖精世界。
かつて妖精の王は人々から争いを奪い、人と人との揉め事はクイズで解決すべきと教えたと言う。
その文化は海を越えてヤオガミにも伝わり、雷問と呼ばれる早押しクイズの文化が根付きつつあるらしい。
「ああ……いざという時には力を借りるよ」
「おお、そうかそうか、素直にそう言えて偉いぞ。どーんと任せるがよい、ユーヤはいつも通りメイドの乳でも揉んでおれ、いやメイドの乳を揉むとは何事じゃおまえ」
「こんな理不尽な怒られ方はじめてだ」
ユゼ王女はユーヤと並んで船べりに寄りかかり、どしんと腰をぶつけてくる。
「ところでユーヤよ、ラウ=カンでは我の試合を最後まで見んかったじゃろ。今度はちゃんと見るのじゃぞ」
「ああ、まあ、うん」
「何だったら今から練習するかの? 負けたら服を脱ぐやつが良いか? それとも牙を抜いたヘビに甘噛みされるやつがよいか?」
「二択がひどい」
ユーヤが少しずつ横にずれるのに合わせて、ユゼも追いかけるように動く。
「それとも映画でも見るか? 用意しておるぞ、史上初の試みなのじゃが、パルパシアの都市に全裸の男女を二千人ほど解き放って」
「ユゼ、ユゼ」
ぐいと背中から緑のワンピースを捕まえ、ゆっくり引き剥がす。
「あまりくっつくでない、ユーヤも迷惑しておろう」
と、数秒の硬直。
「こらユーヤよ。ユゼを迷惑がるとはどういう了見じゃ。もっと有り難く思わぬか」
「何が何だかわからない」
ふう、と息をついて、ユーヤはまた東に視線を向ける。
「独特の早押しクイズの文化がある国だよな……雷のような問い、雷問と……」
「うむ、ユーヤは早押しクイズにも通じておるのかの」
「しかしまあ、一問一答となれば知識が必須、ただでさえ馴染みの薄いヤオガミの知識じゃからな。こればかりは異世界人であるユーヤには辛かろうな」
「……そうだね」
ユーヤは軽く肩を回し、右を向く。
「そろそろ船室に戻るよ。この世界のことを勉強しないといけないから」
「なんじゃまた勉強か。港を出てから閉じこもりっきりではないか」
「どうせ絵本とか子供向けのクイズ本とかじゃろ」
「それでもかなり難しいんだけどね……。まあ、一歩ずつやるしかないさ」
ユーヤはゆるゆると歩み去る。双王は顔を見合わせて肩をすくめる。
「今から勉強してものう……クイズで勝てるようになるまで何年もかかるぞ」
「我らに全部任せればよいのじゃ。それとも何か。ユーヤは早押しクイズでも勝てる技術があると言うのかの」
「……技術、のう」
その言葉が、蒼の王女の脳を揺さぶる。
少し考える顔になったユギを見て、双子の片割れは首を傾げる。
「どしたんじゃ? ユギよ」
「……いや、大したことではない」
そう答える双子の片割れ、ユギ第一王女の顔には少しの憂いがあった。
どうしたのか、何があったのか、そのような問いかけは、この双子の間では珍しいものだったからだ。何もかも以心伝心、あらゆる感情と経験を共有していたはずなのだが。
そして自分のそのような憂いに、ユゼ第二王女は気づかないようだ。ラウ=カンで再会してからというもの、常に少しハイになってると感じる。いつもより浮かれて見えて、よく笑っているように思える。
「ユーヤよ」
船室へと下る階段、そこに足を下ろしかけていた男が、ふと立ち止まる。周りにいた船員たちも視線を向ける。
「あるのか? 早押しクイズで勝てる技術が。我らの知らぬ土地の技術というものが」
「ユギ……? ど、どうしたんじゃ?」
「あるかも知れない」
異世界のクイズ戦士は、それもまた何かの技術なのか、潮騒の音にも減衰しない、芯の通った声で言う。
「早押しが得意な王もいた。僕はいくつかの技術を学んだ。それがこの土地に無い技術なら、勝負に活かせるなら、君たちにも教えるよ」
そして背を向け、階段の奥へと姿を消す。
「技術……」
(そうじゃ、セレノウのユーヤ。あやつはそれを技術と表現する)
(まるで、それは本当にあるのだと。誰にでも使えるものなのだと印象付けるかのように)
だが、と、蒼の第一王女は思い出す。
あの夜。
今は遠きハイアードキール、七日七晩の祭りに浮かされる夜。第一王女ユギはイントロクイズで彼と戦った。
あるいは淫蕩と文化の都、パルパシアの双子都市にて行われた箱の中身当てクイズ。
それは、今思い出しても夢のような、超常の時間。
(あれが、技術……)
大陸一のイントロクイズの覇者であり、天賦の才を持つと言われた双子は、確かにあの男に負けたのだ。
果たして現実にあったことなのか。
あるいは双王もまた、セレノウのユーヤという男が見ている夢に巻き込まれているだけなのか。なぜかそんな考えが浮かぶ。
「ユギ、どうしたんじゃ、なにか言ってくれ」
「何でもない。少し船に酔ったかも知れぬ」
「そうか? では昼寝でもするかの。その前に香料入りの真水の風呂にでも入るかの?」
「うむ……そうじゃのう。なにか甘いものを食べるのもよいかの」
(……あるいは、お前もそうなのか。セレノウのユーヤよ)
(かつて出会ってきたクイズ王たち。その超常の技に魅せられておるのか。忘れがたく思っておるのか)
船は進む。
波を割り、風を捉えて東へと進む。
目指すは群島国家、ヤオガミ。
神秘の国――。
というわけで新章を始めることができました。
ゆっくりとした連載になると思いますが、またお付き合いいただければ幸いです。