私の幼少期の話
絶望した。
全てに絶望した。
何のために生きてるんやろう?
なんで死んだらあかんのやろう?
生きていく理由もなく、かと言って死んだら悲しんでくれる訳でもない。
ただ面倒だと思われるだけやろうに。
私はただ愛されたいと願っただけやのに。
ただ褒めて欲しかっただけなのになんで?。
貴女から出る言葉はいつも私を傷付けるもんばっかりで溢れていたね。
「どんくさいな、さっさと飯の用意も出来ひんのかいな、このノロマ」
「目の前に居るだけでイライラするんや、旦那はあんたを可愛がってるけどあたしはお前なんか嫌いやからな」
小学3年の頃に言われた言葉だ。
私は物心ついた時から、自分を取り巻く環境が異常だと感じていた。
1番初めの記憶は5歳の頃みかんの段ボールを投げつけられた。
畳んでおけと言われた様な気がする。
その時はまだ姉が居たから守ってくれてた。
でも姉もすぐに結婚して家庭を持ってから、うちには中々帰って来なかった。
母や父が嫌いだったらしい。
姉も虐待を受けて育った、私と同じ様に小学生で家の家事を全て担い学校には中々、行かせて貰えない。
その姉も看護師になる為家を飛び出して、病院に勤める代わりに、学費を出して貰える仕事に就くことで、呪縛がとかれた。
そこで今の旦那さんと出会い結婚したが、家に帰って来ない娘は要らないらしく、母親は散々罵倒していた。
「あいつは私を裏切って家を捨てた薄情な子供だや、産むんじゃ無かったわ」
とか他にも色々言ってたけど、バカバカしすぎて聞いてられんかった。
私が1番言いたかった。
姉ちゃんの気持ち痛いほど分かるわ。
こんな家帰たくなんかなるはずないやろ。
最悪な記憶しかあらへんのに。
反対に私はなら何故母親は私を産んだんやと。
その事で何故私がこんなに苦しまなけばいけないんやと、ずっと死にたいと思える世界になど環境になどして欲しい子供なんておるはずない。
でも喉の奥でぐっと出て来そうな、言葉を飲み込んだ。
私も母親から散々
「お前なんか産まなければ良かったわ、ほんまめんどくさい」
よく言われて涙していたがそんな行動もあっちに行けと、怒鳴りつけられて姿の見えない場所でよく泣いていた。
ただ例外もいた。
年下の妹、末娘だ。
母は妹は凄く可愛がっていた。
家事なんてさせないし、学校にも行かせていたし、友達と遊ぶのも許していた。
自分とは何もかもが違いすぎる扱いだ。
私は奴隷なんやろうか?
ぼんやり考えたことがある。
その妹も母のお気に入りは自分だと分かってから、私への態度も酷いものになっていく。
「まずお前は私の姉なんかやない、ただの使用人みたいなもんやん、だってお母ちゃんに気に入られるどころか嫌われてるやん」
私はこの言葉を聞いて心が、どん底まで落ちた記憶が今でも鮮明に残っている。
たまに悪夢で見るくらい。
嫌われている、何でどうして何でも母親の言う通りに家の家事をしてご飯も作って、何でも言う事は聞いている。
それは他でもない何でも良いから褒めて欲しいから、ただ少しの愛情の片鱗でも良いから見たいから。
でも1日1日毎日変わり映えしない、自分への扱い怒鳴り散らされ物で叩かれて、ご飯も抜かれる日もあったり、休む場所は玄関だ。
私の家は団地で玄関だと隙間風が、凄くて冬は凄く寒い。
勿論暖房なんてない。
毛布一枚で縮こまって寝ていた。
ここまでされる様な事私やったんかな?
毎日毎日泣いていた。
生き地獄だ
逃げ出すことなんて、小学生の自分に出来ないし、今ほど福祉も機能していなかったから何処に相談すれば良いのかなんて、子供の私に分かるわけが無かった。
隣人の人もまさか隣で虐待されてる、子供がいるなんて思ってないだろうし、そう言う教育方針なのかなって、思う人も居るだろうから。
突然だが私は火と水が怖い
何故かと言うと、水は母に浴室に沈められて殺されそうになったから。
火はライターで火傷をされそうになったから。
殺されそうになった時は、たまたま2番目の姉が居たから助かった。
母に物を投げて私を浴槽から抱き上げてくれたらしい。
でも私には記憶がない。
人は恐怖が限界を超えると、記憶から無くなると何かで読んだ記憶があるが、身体は覚えてる様で、顔をつけたり身体を沈める行為などは身体が震えてしまってその場から動けなくなる。
プールや海などは入れないから、初めて大人になり友達と行く機会があった時に、この状況になり初めて分かった。
これは一生治らないだろうなと、今は半ば諦めている。
ライターの時はズボンを下げられ四つん這いにさせられて、お尻にライターの火を近付けたり離したり、私の泣き叫ぶ顔を妹と2人で笑っていた。
今でも夢で見るくらい怖い体験だ。
起きてからも震えが収まらない時もあるくらい、今もまだ昔のトラウマが私を苦しめている。
もう30年以上も前の話なのにずっと今だに苦しい、いい加減に楽になりたい、生きていて何が楽しいのだろう。
ずっと苦しいだけで楽しいことなんて無くて、屍みたいにその日1日を何とか過ごす。
なんて無情な世界。
結婚もしたが男運がないと言うか、ろくでもない男に当たってしまって、余計に辛い体験をしたり私の人生はなんなんだろうと、今もふと思う。
小学生だった私だったが、父に学校から私が学校にほとんど来ていないと、知らされた時母に凄く怒っていた。
母も言い返しては居たが、父は私に学校には明日から毎日行く様にと言われて、これで普通の子供に戻れると喜んでいたが、考えが甘かった。
翌日から学校には行かせてもらえたが、今度は学校でいじめにあうことになった。
そらそうだ、今までろくに来なかった同級生がいきなり来てるのだから、私も馴染むのにどうしたら良いか分からず、そういった態度で標的にされた様だ。
そして母の方は私の学校が終わる時間が分かっているので、ベランダから帰ってくるまでずっと監視している。
帰るのが少しでも遅いと、物差しで身体を打たれたり、ご飯を抜かれたり色々された。
学校にも居場所はなく家に帰っても居場所はない。
絶望だった。
この時はずっと死にたい、楽になりたいと常に思っていたと今になって思い返す。
今私は良く生きてたなぁと思い返す時がある。
ある時もう限界を迎えたのか私は、手に包丁を握り親の寝室に立っていた。
父と母、妹がベッドで寝ている。
寝室に立つ前に遺書も書いた。
拙い字で
今まで愛情を貰えなかった辛さ、居場所がない苦しさ、でもいつかは自分にも妹と同じ様な扱いが待っているのでは無いかと、希望を抱いて頑張っていた事、でも結局毎日同じ繰り返しでどんどん、自分の中の心がすり減っていった事、でも産んでくれた感謝と親不孝を許してほしい旨を、書いて自分の毛布に置いていた。
寝室に立つが中々決心がつかない。
何故だろうもう疲れた、明日も同じ毎日なんて嫌だから今ここに立っているのに、足を一歩前に出さない。
何で躊躇ってるんやろう。
親や妹を憎んでいるのは確かだ、心が疲弊して壊れてしまってもう治せないだろう。
一緒に逝くのが1番良いはずなのに、迷っている自分に驚いて暫く固まっていたが、気づいた時には寝室のドアを閉めてベランダに立っていた。
包丁は元に戻した。
家は9階落ちれば確実に死ねる。
結局親や妹を連れてはいけなかった。
そんな度胸自分には無かった。
良かった、自分だけ逝けばいいんや。
あの人達の人生を奪うのは、何か違うと考えていた。
他人を傷付けるなんて私には無理やわ。
暗い空を見上げて泣いている私
私が死んだら少しは悲しんでくれるんかな?
それとも厄介払い出来て喜ぶんかな?
もし叶うなら前者がええなぁ。
頬に流れる涙は次々と出て来て、ベランダの柵に手を掛けて、足を上げて跨いだ。
このまま横に落ちるだけ、一瞬だけだ怖いと思うのは、後は楽になれるこの地獄の様な人生から逃れる。
その時ある人の言葉が頭に浮かんだ。
祖母だ、母方の祖母で年に数回会って私をとても可愛がってくれる。
その祖母がある時私の手をさすって
「すまないね、ごめんね、私にはこんな事しかしてあげれないけど」
何かを察していたのか涙声で言われて戸惑ったその時は。
おばあちゃんは分かってたのかな?
私の家での扱い、他の兄弟もおばあちゃんには会いにいってるもんなぁ。
耳に入ってたんかな?
そんな事を考えながらまだ暗い空を見ながら、考え込んでいた。
おばあちゃん絶対悲しむよな。
自分のせいだと思ったらどうしよう。
それは嫌やな。
だっておばあちゃん大好きやし。
そう考えがまとまると、柵から降りてベランダに戻ると、その場でズルズルと座り込んで泣きながら声は手で押さえて部屋の中には聞こえない様に
、しばらくそのままそこに居た。
空が少し明るくなってきてから、私は部屋の中に戻り遺書を親の分からない所に隠した。
もしまた同じ気持ちになる事があったらその時はこれを置いて死のう。
私の気持ちは手紙に書いた。
何だか少しだけ前向きになれた気がする。
祖母の言葉、手紙という遺書
これ以降小学校時代は何とか乗り切る事が出来た。
だが問題は中学に上がってからだった。
この続きは次回にしようと思います。
読んでくださりありがとうございました。