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「これが君の魔法だって?」
「ええ。正確には、魔女に依頼してかけてもらった魔法により生まれた存在……ですが。アルベルト殿下と婚約を結んだ当初の私がこうして分離してしまっているのです。魔法で作られた存在で、人間というか生物ですらないようなのですが、わたくしには分かりかねます」
サロンへと場所を変えたものの、色々衝撃的すぎて饗された茶に手もつけられない。
隠しておきたかったようだが、流石にああして見られては誤魔化せないと観念したのか、エレオノーラは今も僕の隣でご機嫌な様子で茶菓子を口にする子供についての説明を始める。
最初は「殿下には関係のない事ですので」と一方的に話を終わらせようとしていたのだが、それで引っ込むのはいくらなんでもできないと私が食い下がったおかげで、渋々といった感じでだが。
私は今言われた言葉を吟味する。現代では魔力を持たないものも多いが、それでも魔法とはささやかに私たちの生活を彩る存在である。花びらを持ち上げたり、種火の勢いをほんの少し強めて火をつけやすくしたり、その程度であるが。魔女だけは別だ。強大な魔力と、ほぼ不可能はないと言えるようなあらゆる事を現実にできる人外の存在。多くの民はおとぎ話の中の存在と思っているようだが、実在する。国や政治とは距離を置いている彼女達だが、気まぐれに依頼を受けることがあると聞いている。
まさか、とは思うもののこうして目の前に実物を出されると魔女殿の関与を受け入れざるを得ないが。
「なるほど、そういった事情が……この子が屋敷にいるから最近私に付き纏えなくなっていたんだな」
「いいえ、それとは関係のない事ですわね」
天真爛漫といった笑顔を私に向けるエレオノーラと視線を合わせながらそう言うと、温度の籠らない声でピシャリと否定されてしまった。それが嫌に面白くないと感じて、自分でも理由の分からないまま胸の底が重くなる。
気まずそうな顔をしたエレオノーラの専属侍女、ミチルが椅子の背越しに自分の主人の耳に何事かをつぶやいて、フォローのつもりだろうか説明を追加した。
「いえ、関係がない……わけではありませんね。この子がこうして私と別の存在になったおかげでアルベルト殿下と過ごす時間を持たなくなったわけですから」
「……と言うと?」
「この子は、私の初恋なのです。私の中の初恋を……アルベルト殿下への恋心を消して欲しいと魔女様に依頼してかけてもらった魔法ですの」
言われた言葉を理解すると同時に私の頬は火照ったように熱くなった。しかしそれと同時に、なんの恥ずかしさもなく、感慨もなく、ただ事実を述べるように口にした内容に私は驚愕する。
流石に……エレオノーラが私に向ける感情に特別なものがあるとは、私も気づいていた。ただそれを、貴族に生まれついた女性の義務や権力欲ではなく恋だと……初恋だと臆面もなく言ってのけた彼女に少々怖気付いてしまう。
「……君が私にしているのは、ただの歪な執着だと思っていた」
「いいえ。恋をしていましたのよ。ただ一人の少女として、ちょっと無鉄砲なところもあるけど優しくて笑顔の素敵な幼馴染の王子様を慕っていましたの」
そんな風に思ってくれていたのか、とさらに頰が熱くなってしまう。そう、確かに幼少の頃は私たちの仲は良好だった。まだ自分の事を「僕」と呼んでいた私から、一つ下の婚約者であるエレオノーラに「アビー」「ノーラ」と呼び合おうと持ちかけたのだった。
女の子の方が成長が早いというが、淑女教育が始まって、私の好きな笑顔を浮かべなくなった君に不満を覚えた事もあったなと思い出す。
正式な茶会に出席する歳になった頃にかしこまって「殿下」と呼ばれるようになって、寂しいと思っていた。しきたりで固められた付き合いしかできなくなったのを不満に思って、エレオノーラより一年先に入学した学園で「身分にとらわれない交友を持ちたい」と発言したそのきっかけは彼女との仲だったのに。
「エレオノー……」
「でもアルベルト殿下、ご安心召されませ。こうしてアルベルト殿下への恋心は綺麗さっぱり取り出しましたから。殿下のお心にそえず申し訳なく思いつつも城や学園で過ごしていましたが、それも不要になります。これからはご自分の望まれたご学友達とお過ごしください」
社交の場で浮かべる理想的な笑みの、温度のないエレオノーラを前に何を言おうとしていたか吹き飛んでしまう。
恋をしていると言われて確かに嬉しく思ったはずなのに、私の口から次に出てきたのはわざと彼女を傷つけるような言葉だった。
「へえ。付き纏って悪いとは思っていたのか。とてもそうは見えなかったけど」
「ええ、だって、ご学友と過ごす時間が婚約者である私が過ごす時間よりも長かったら殿下のご学友の方達の評判に影響が出てしまいますもの。女性もおりますでしょう? 殿下の寵愛が彼女達にあると思われかねないお付き合いの仕方でしたが、アルベルト殿下は私のご忠告を聞いてくださいませんし、彼女達に殿下と過ごす時間を減らせとはとても言えませんので」
そういえば、母上も巻き込んで忠告をされたことを思い出した。あれも嫉妬故の行動とタネがわかると多少可愛らしくも感じるが、いや、やはり友人関係にまで婚約者に口を出されるのはこれからも勘弁願いたいな。
しかしそういった理由があるにしても、学友だと言っているのに頭が固すぎる。母上は仕方ないにしても、エレオノーラは私よりも年下だと言うのに。
理由はまぁちょっとは考えてやらなくもないと思ったところに「今の彼女には私への恋心がないんだよな」と思い出してなぜかまた気分が悪くなる。
「言えないだなんて、何をしたんだ」
「わたくしが何かをしたわけではないのですけど……聞いて笑わないでくださいませね。だって、悋気のようで恥ずかしいでしょう? 殿下がご学友と断言してらっしゃる方達に嫉妬していると、そのご学友の方達に嫌われたらどうしようと思うと……直接注意なんて出来ませんでしたの」
鈴を転がすように軽やかにコロコロと笑う彼女は、まるで別人の話をするかのように口にした。女性が肉親の子供の初恋の失敗談を話すように。「エレオノーラのデビュタントのドレス姿があまりにも可愛かったからと、アルベルトは緊張して一言も話せなかったのよ」とやめてくれと言うのに何度も家族の中で笑い話にする母上の声が思い出される。
「だからわたくしがアルベルト殿下と過ごす時間をご学友方と過ごす時間よりも増やして、皆様が誹りを受けないように立ち回っていたつもりでしたの。アルベルト殿下にとっては大変なご迷惑でしたでしょう」
迷惑だなんて、と言いそうになってその言葉を呑み込む。いや実際に迷惑だと感じていた。言葉にした事はおそらくなかったと思うが、思い切り態度や表情に出していたくせに。何を勝手な事をと自分に腹が立つ。
「その……子供の君をどうするんだ」
「紛らわしいので、ノーラとお呼びください。義務だけの婚約者の愛称を口にするのも悍ましいと思いますが、流石にいちいち『子供のエレオノーラ』などと区別するのが面倒なので、我が家では使用人たちもそうしてますの」
「いや、悍ましくなどは」
「そうですね。このくらいの頃のわたくしはとても無邪気で愛らしく振る舞ってましたからね。アルベルト殿下のご学友の……モニカ嬢に似ていませんか? こうしているとわたくしにもこんな頃があったんだなと懐かしく思いますの」
「え、いやその……」
心底友人としか思っていないのに、このタイミングで話題に出されたせいで、やましいところなどないのになんだか浮気を指摘されたような気持ちになって否定するタイミングを逃してしまった。この頃のエレオノーラは実際私も「ノーラ」と呼んでいたし悍ましさなど感じないと言おうとしていたというのに。
そこで初めて、モニカ嬢に感じていた親しみというか既視感の正体の輪郭がわかる。ああそうか、子供の頃のエレオノーラの姿を彼女に重ねていたのか。私達の仲が良好だった時期の。
モニカは私が10歳の頃、公共事業の査察に行ったときに路上にチョークで数式を書いていた子供だ。そこからスカウトして今は私の友人として、学業に邁進している。本当にそれだけ、学者とパトロンでしかない。
「ノーラは」
「ええ、このノーラは消えてもらう事になると思いますの」
「消え……え?」
またしても言葉を差し込まれて、私が聞こうとしていた言葉が霧散する。私は何を話そうとしていたのか、全て頭から吹き飛んで「消えてもらう」と口にしたエレオノーラをポカンとした顔で見つめるしかできなかった。
「魔女様はどうしろとは具体的には教えてくださらなかったの、したいようにしなさいと。これはわたくしが捨てきれなかった恋心ですから、どう扱うかは何となく分かります」
「……こんな小さい子供を消すだなんて」
「あら、この子は人どころか生き物でもありませんのよ?」
「アビー、お話終わった? お庭でお茶しましょう?」
「ふふ、怖い顔。王子殿下のなさる顔ではございませんわ……ご安心なさって。わたくしが6歳で婚約してから10年かけて学んだ事を教えるだけですから」
怖い顔、と言われて慌ててノーラに笑顔を向ける。エレオノーラ本人への苛立たしさで心がどうにかなりそうだ。
なのにこんなに可愛い、健気な小さいエレオノーラ……ノーラの言葉を無視するようにエレオノーラはそちらに視線すら向けずに続ける。
「教える……何を」
「そうすればこの子は理解して消えるしかないと思いますの。恋心なんてあっても無駄で、邪魔なだけだと」
だって、こんな、実際に子供の姿でそこにいるのに。子供の頃のノーラが。魔法で生み出された偽りの存在だと言われても、彼女を消すだなんて……。
「エレオノーラ、」
「という事情ですので。殿下、わたくしの事は気になさらず。別に何かを企んでいるわけでも、恋愛の駆け引きをしているわけでもなく、ただ純粋に殿下への恋心がなくなっただけですの」
有無を言わさず跳ね除けるその言葉に拒絶を感じた。
「そうか、君がそう望むならそれでいい。ただ私がノーラと交流を持つのを止める権利はないだろう?」
「まぁ、それこそご冗談になさって。このまま歳を取らない、トイレにも行かない、生き物ではない『何か』とこれ以上関わるおつもりですの? この子は外にも出せない存在ですのよ」
「やだ! アビーと遊ぶ! やめて、離して!!」
乱暴な平民の親が子にするように、立ち上がったエレオノーラが小さいノーラの腕を掴む。私は咄嗟に嫌がるノーラの反対の腕を掴んだが、想像していた「人間の感触」ではなくて思わず手の力を緩めて離してしまった。
体温のような温かさはあった。けれどその肌の下。ああこれは人間ではないのだと否応なくわからせる感触をしていた。不気味に柔らかいとか硬いとか、不快だったというわけではないのだが、ただ「人間ではない」としっかりわかってしまって。
ノーラはこんなに嫌がっているのに。
「私が自分の時間を誰とどう過ごすかは君に関係ないだろう?!」
「アルベルト殿下、わたくしお伝えしましたけど。この子は『わたくしの恋心』なのだと。貴方様がこの子をそうして構い続けていたらいつまで経っても想いが残ってノーラという存在が消えませんわ」
「それは、」
「それとも。また一方的な思いを押し付けるわたくしのような女に付き纏われる生活になってもよろしいのですか?」
強い語句で言われて、私はそれ以上手を伸ばす事ができなかった。そう、煩わしいと言っていたじゃないか。確かに心の底からそう思っていたはずなのに。
でも、こんなのは間違っている。何を教え込むつもりかはわからないが……そんな扱いではなくて、きっと何か正しい方法があるはずだ。
ノーラは、私と仲が良かった頃のエレオノーラだ。それと同じ存在が再びこの世から消えてしまうなんて、そんなに悲しいことがあっていいはずはない。あの子が消えてしまうと知っていて、それを見過ごすなんて私には……。
「ああ、それとこれは本心からの、忠臣としての心で申し上げます。アルベルト殿下。どうかご学友の評判には気をお配りください。アルベルト殿下にその気がないとは存じ上げておりますが、女性もおりますので」
「なっ……!!」
まだ言うか、と怒りが湧いてきてしまう。恋心を失っただなんて嘘ではないか、と怒りを無理やり押さえ込みながら、その場では何ともできずにガストル公爵家を後にする事となった。