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「昭和54年4月」

昭和54年4月

当時、米、独の核の脅威にさらされていた。我が帝国は新たなる兵器を模索していた。

当時の我が国の核戦力では、全面的な勝利は掴めないという内務省統合情報部からの報告も、軍部には届いていた。また、我が国は、世界にも珍しい、未だ封建制を残した非合理的な国だ。

今のままでは、ダメだ。

これは、事情をよく知る、本土や、外地のインテリに共通した認識だった。


当時、我が版図であった、高遠辺境伯領カシュガルに落下した物体、それを最初に調査したのは、高遠辺境伯と、その縁戚にあたる、鴨志田侯爵領調査団だった。


私は今でもよく覚えている。

その黒く銀色に光った物体を、彼らは自然落下などしていなかった。

彼らはおそらく、意思的に落下したのだ、この大陸に。


しかし、それにしては、不可解な事に、調査団が近づいても反応を見せなかった。


調査は数日後、爆破による、内部侵入という決定と実行に至る。


様々な爆破方法が試された。私には未だによく分からないが、化学的、物理的、あらゆる手段を使ったがダメだったようだ。


最終的に、ケイ素炭素複合生命体による、浸食によって、穴をあける事が出来たのは、新京満州軍の化学部隊を呼び寄せた結果だ。


問題となったのは、おそらく、中にいるであろう、知的生命体もしくは、機械式演算機との対面だった。


満州軍第五師団、高遠騎士団、鴨志田調査団の中から志願者を募り、4月8日、侵入を開始。


調査団は、知的生命体と接触を果たした。


彼らが何を語らったのか、いや、意思疎通できたのかは知らない。しかし、その物体、つまり、現在で言うところのPAKKOMANN-Eの乗員は、ほぼ、息絶えていたようだ。


我々は、彼らを外に連れ出し、半ば強制的に新京にある満州軍病院へと移送した。


調査は、それから、年単位で行われた。しかし、主導したのは鴨志田家であった。私たちは、新技術を独占し、新しい産業を興そうという野望を持っていた。


そして、その問題となる膨大な新技術は、鴨志田家だけでなく、大日本帝国を飛躍させることになる。


一番に注目すべきは、そのエネルギー源である。それは、所謂、「反物質」と類されるものであった。


我々は、帝国の講義を無視し、その「反物質」PEBを独占しようとしたのだ。


それは、結果的に成功し、また、失敗したともいえる。しかし、対価として得た金は膨大であった。


軍事産業に特化した企業として誕生させた、KTIは、早々に反物質爆弾を帝国に納入した。


実験は、アッツ島で行われた。極微量なPEBは、島を吹き飛ばした。本土が津波や地震の被害にあったのは、もう、お笑い草だ。


こうして、我が帝国は、他国に力を見せつけた。PEBは、帝国しか所有していないからだ。


ドイツ帝国や、米帝が、巨大粒子加速器を相次いで開発し始めたのもその頃である。


まぁ、我が帝国は、そのずっと先を行っていたわけだが、


有限なるPEB資源、しかし、元々のPAKKOMANN-Eに積載されていた量は大量であったし、当面問題になることはなかった。


その後、米帝西海岸サンディエゴに集結した、艦隊を消滅させた、PEB爆弾は、ABC兵器に次ぐ兵器として、D兵器と呼ばれた。


太平洋に既に敵はなく、ドイツ帝国は東進を止めた。


しかし、不可解な事が、それも飛び切りのことが、この初期に起きていたことを帝国はまだ知らなかった。

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