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鴨志田与一郎・小学生編 一日目


四月の朝、東京・鴨志田屋敷の門は、いつもより少しだけ早く開いた。


石畳の上に、黒い革靴が二つ並ぶ。まだ新品のそれは、やや大きめで、履き慣れない足を包んでいた。


「与一郎坊ちゃま、靴、痛くないですか?」


玄関ホールで屈みこみながら、ゆりが小さな声で聞いた。

与一郎より一つ年上、小学二年にあがったばかりの少女。制服の紺色のスカートの裾が、わずかに揺れている。


「痛くはない。ただ、まだ“自分の足”って感じがしないだけだ」


与一郎は、少し考えてからそう答えた。

七歳にしては言葉が固い。だが、屋敷の大人たちはそれを「坊ちゃまらしい」と呼んで気にしない。


ゆりは小さく笑った。


「じゃあ、今日一日歩いたら、“自分の足”になるかもしれませんね」


「そうかもしれない」


与一郎は、姿見に映る自分を確認した。

紺色のブレザー、きちんと結ばれたネクタイ。胸には鴨志田家から寄贈された小学校の校章バッジが光っている。


階段の上から、かつ、とヒールの音が響いた。


「与一郎、ネクタイ曲がってる」


鴨志田絵里が降りてきた。

すでに中学生で、総参謀本部に行くだの何だのと屋敷の大人が冗談めかして言う“優等生の姉”だ。

彼女は迷いなく与一郎の胸元に手を伸ばし、ネクタイを一度ゆるめて締め直した。


「ほら。初日は写真に残るんだから、ちゃんとして行きなさい」


「写真はデータになる。データは、いずれ消える」


与一郎がぽつりと言うと、階段の途中に座り込んでいた真理が鼻で笑った。


「出た、与一郎の“ちょっと難しいこと言ってる風”発言」


真理は双子のように絵里と似ているが、どこか柔らかい。

ソファの背もたれにだらしなくもたれ、両手に持ったスマホをいじりながら、こちらに視線だけ向ける。


「写真、ママにとってはデータじゃないからね。“初登校記念”ってやつ」


「データであり、記憶であり、“証拠”でもある」


与一郎は、そこで言葉を切った。


「――“PAKKOMANN-E”の、Eみたいなものだ」


絵里と真理とゆりの視線が、ぴたりと揃う。


「ちょっと待って、それどういう意味?」

「また変なこと言ってる……」

「坊ちゃま、“E”って、この前のノートの?」


声が重なった。


与一郎は、ほんの少しだけ考え、首を横に振る。


「今はいい。遅れる」


彼はそう言ってくるりと背を向け、玄関へ向かった。

その背中を見て、絵里が小さく息を吐く。


「……あれ、絶対まだ続きあるやつだよね」


「どうせ夜になったら、“a〜dは地球と月にもある”とか言い出すよ」


真理が呆れたように笑い、ゆりは少しだけ眉をひそめた。


“警護”という言葉を、大人たちは冗談めかして使う。

だが、ゆりにとっては、ほとんど本気だった。


(与一郎坊ちゃまは、たぶん……普通の小学生じゃない)


そう思っているのは、屋敷の中でも、ごく少数だ。


門の外には、黒塗りの車が待っていた。

運転席には家付きの運転手、助手席には家人の一人。その後部座席に、与一郎とゆりが並んで座る。


「緊張してますか?」


助手席の大人が振り返って聞いた。

与一郎は窓の外、まだ冷たい春の空気を透かして街路樹を眺めている。


「特には。学校という“装置”の仕様を、見に行くだけだ」


「そういう言い方をするのは、あなたくらいですよ、坊ちゃま」


ゆりが苦笑する。


「ゆりは?」


「私ですか? ……一応、二年生として“先輩”なので、恥をかかせないようにしないとって感じです」


「恥?」


「坊ちゃまが変なこと言って周りが固まったら、フォローする係、ってことです」


「それは、“警護”の仕事に含まれているのか?」


「含まれてます」


ゆりは即答した。


与一郎は、ほんの少し口角を上げる。


「頼もしい」


学校は、鴨志田家から車で二十分ほどの場所にあった。

私立の小学校。門の前には既に多くの親子が集まっている。


黒塗りの車が停まると、周囲の視線が一瞬、そちらに集まった。

ブランド物のスーツ、上品なワンピース、スマホで写真を撮る親たち。

その中に、“いかにも旧華族”な雰囲気を纏った鴨志田家の車は、目立たない方がおかしい。


「与一郎、背筋」


車から降りる瞬間、屋敷から同行してきた大人がささやく。

与一郎は言われなくても背筋を伸ばしていた。


ゆりが一歩、彼の斜め前に出る。

視線の流れ、子どもたちの密度、先生らしき大人の配置を、無意識のうちにスキャンしている。


「――あれ、鴨志田くん?」


教師の一人が気づいて近寄ってきた。

校長から事前に話を聞いているらしい、笑顔に少しだけ慎重さが混じる。


「本日から一年一組に入学される、鴨志田与一郎くんですね。ようこそ」


「よろしくおねがいします」


与一郎は、教わったとおりの角度で頭を下げた。

その動きは完璧で、だからこそ少し“子どもらしくない”。


周囲の保護者の中には、ひそひそと囁き合う者たちもいる。


(鴨志田って、あの……)

(本物? いやさすがに“本物”ってもう無いでしょ)

(でも、あの車……)


声は、そのまま雑音として与一郎の耳に届く。

彼は、それを“ノイズ”と認識して、意識の端に寄せた。


教室に入ると、空気は別のものに変わった。


まだクラスメイトたちは「家」や「家名」の意味を知らない。

ただ、珍しいものと、おもしろそうなものと、友だち候補を探して、視線が忙しく動いている。


「わぁ……」


前の席の女の子が、与一郎のランドセルを見て小さく声を上げた。

特注品の皮の艶。シンプルだが高価な仕立て。


「それ、高そう」


別の男の子が率直に言う。


与一郎は少しだけ考え、


「値段は知らない。買ったのは父と母だから」


と答えた。


一瞬、間が空く。

子どもたちは“会話としてどう返せばいいか”分からず、わずかに戸惑う。


そのタイミングで、教室の後ろのドアが静かに開いた。


「――一年二組の鴨志田ゆりです。先生に言われて、案内に来ました」


ゆりが姿を現す。

二年生用の制服のまま、少しだけ緊張した顔で教室を見回す。


一年一組の担任が笑顔でうなずいた。


「ああ、ありがとう。鴨志田くん、同じ名字のお姉さんだよ。校舎のことは、ゆりさんがよく知ってるから」


クラスの何人かが「同じ名字?」とざわついた。


与一郎は、わずかに首をかしげる。


「ゆりは、“姉”ではない。同じ鴨志田家にはいるが、役割が違う」


「役割?」


近くの男の子が、すかさず食いついた。


「“警護”だ」


与一郎は、当然のように答える。


教室の空気が、少しだけ固まった。


ゆりは、その一瞬の硬直を見逃さず、すかさず口を挟む。


「えっと、坊ちゃまはちょっと言い方が変なんです。“警護”っていうのは、その……“迷子にならないように見てます”くらいの意味です」


「そうなの?」


「そうです」


ゆりは笑顔を作り、先生も乗っかった。


「そうそう、お姉さんが一緒に見てくれてるってことね。頼もしいわね、鴨志田くん」


空気は、ゆっくりと“普通の小学校”の温度に戻っていく。


与一郎は、その変化を興味深そうに眺めていた。


(言葉一つで、温度が変わる)


(“警護”と言うと固まり、“迷子にならないように”だと緩む)


(――“E”に近い)


彼は心の中でそう呟いた。


“PAKKOMANN-E”のE。

a〜dとは違う、境界面のこと。

外から見れば同じに見えるが、内側で熱の流れ方が変わってしまう薄い膜。


子どもたちの視線が、自分から、ゆりへ、そしてまた自分へと揺れる。

その揺れの軌跡が、教室という箱の中で、うっすらとした膜を描いているように思えた。


午前の授業は、あっさりとした自己紹介と、学校のルールの説明で終わった。


「好きな食べ物は?」

「友だちになってくれる人?」

そんな問いに、子どもたちは嬉々として答える。


与一郎の番になったとき、担任はやや期待を込めて尋ねた。


「鴨志田くんは、何が好き?」


与一郎は少しだけ考え、黒板を見た。


チョークの粉が、光の中で細かく舞っている。


「――“記録”が好きです」


教室が、ほんの一瞬静まり返る。


「き、記録?」


「はい。何が起きたかを、ちゃんと残しておくこと」


与一郎は、そこで言葉を切った。

“PAKKOMANN”や“反物質”という単語が喉元まで出かかる。

しかし、それを言うとこの教室の膜が再び硬くなる、と直感した。


「……それと、パンケーキも好きです」


最後にそう付け足した。


教室に笑いが生まれる。

「パンケーキ!」と何人かが反復し、「俺も」「私も」と声が続く。


温度が、また一つ変わった。


放課後。

昇降口で上履きを脱ぎながら、与一郎はふと振り返る。


「ゆり」


廊下の端で待機していたゆりが、まっすぐ近づいてくる。


「一日目、おつかれさまでした」


「学校は、“装置”としてはよくできている。子どもたちの熱を、外に漏らさないようにする箱だ」


「難しいこと言ってますけど、楽しかったですか?」


与一郎は、少しだけ考えた。


教室のざわめき。

笑い声。

チョークの粉。

自分の言葉で変わる温度。


「……“観測対象”としては、興味深い」


「つまり、ちょっと楽しかったってことですね」


「ゆりは?」


「私は――」


ゆりは、一瞬だけ迷ってから笑った。


「坊ちゃまが無事に一日終えられたので、九十点です。あと十点は、もう少し“普通っぽく”してくれたら満点です」


「普通、とは?」


「今日みたいに、“警護”とか言わない」


「それは、“仕様変更”が必要だ」


「はい、ぜひお願いします」


ゆりが頭を下げるふりをすると、与一郎はほんの少しだけ笑った。


車に乗り込む前、校門の前で親たちの視線がまた集まる。

その中に、今日一日で与一郎に話しかけてきた子どもたちの保護者もいる。


「あの子が、さっきの……」

「意外と普通にしゃべるのね」

「ね、“記録が好き”って言ってた子」


断片的な言葉が風に混じる。


与一郎は、そのすべてを“ログ”としてまとめて心のどこかに積み上げていた。


(Eが、少し見えた)


(この学校、このクラス、この街。この全部の“膜”を、いつか全部まとめて観測できたら)


そう考えかけたとき、屋敷の方角の空に、わずかに違う色の層があるのを見た気がした。


それが“PAKKOMANN-E”なのかどうか、与一郎はまだ知らない。

ただ、“一日目”の記録として、それも静かに保存しておくことにした。


ゆりが、隣で小さく呟く。


「坊ちゃま。明日は、今日より“普通”に行きましょうね」


「検討する」


与一郎は短く答えた。


その返事を聞いて、ゆりはまた笑う。

その笑い声もまた、一日目のログの一部として、どこか深いところに刻まれていった。

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