20
帝都・市ヶ谷、総参謀本部から二筋裏に入った路地の奥。
煤けた暖簾をくぐると、個室の障子の向こうから、真理の声がした。
「おそーい。エリート様は時間の感覚まで偉くなったわけ?」
与一郎は軍帽を脱ぎ、上着を乱暴に引きはがすようにフックに掛けた。
肩章だけが、場違いに真新しく光っている。
「いや、その……総長に捕まってさ。『鴨志田参謀、さっきのブリーフィングだが』とか延々と」
「はいはい、また世界を救ってたんですね、悪魔さん。」
皮肉混じりに言いながら、真理は徳利を片手で振ってみせる。
「飲む? どうせ今日は潰れるまで帰さないから。」
「……もう始めてるのか。」
座敷の奥、壁際では、ゆりが正座したまま湯呑を両手で抱えていた。
黒髪を後ろでひとつに結んだ姿は、昔とあまり変わらない。
「お帰りなさい、坊ちゃま。」
その一言だけで、総参謀本部の蛍光灯と地図だらけの作戦室が、遠い世界の景色になる。
グラスに注がれた酒を一気に半分ほど流し込む。喉が焼ける感覚が、ようやく現実をなぞる。
「……で。」
真理が、軽く肘で小突く。
「さっきの話、本当に“誤報”で片づけていいわけ?」
与一郎は無言で頷いた。
「総軍情報局の記録上は、“カムチャツカ後退戦における核爆発に巻き込まれて戦死”。
――ただの書類上の処理ミス。
生体反応の確認前に、部隊ごと『喪失』判定にしたらしい。」
「“ただの”って言う?」真理が鼻で笑う。「十年だよ、こっちは。」
ゆりが、そっと徳利を持ち上げて与一郎のグラスに注ぎ足す。
「でも、生きててよかったです。」
言葉だけ聞けば教科書みたいだが、その声には、ちゃんと十年分の重さが乗っていた。
「首都警の黒服に化けて、ずっと帝都地下で仕事してたってさ。」
真理が箸で枝豆をつつきながら、さも面白がるように続ける。
「『鴨志田家の坊ちゃまに心配かけるわけにはいかないから、戦死ってことにしときました』だって。
出征前から変わらないよね、あの人。」
与一郎は乾いた笑いを漏らした。
「……あいつらしいな。」
「怒っていいところですよ?」ゆりが遠慮がちに口を挟む。「坊ちゃま、本気で……」
「怒ってるよ。」
与一郎はグラスを握りしめた。氷がきし、と鳴る。
「三日前までは、俺の頭の中で――
絵里は“核光の中で蒸発した”っていう、綺麗な英雄のままだったんだ。
それで、俺は総参謀本部の机の上で、PAKKOMANNにD弾落とす計画書に判子を押してた。」
真理が、ちらりと横目で見る。
その視線には責めよりも、「やっぱりね」という諦めに近い色があった。
沈黙を、ゆりが拙い言葉で切る。
「でも……絵里さん、生きてて。
坊ちゃまが“悪魔の役”やってるのも知ってて。
それでも、今日あの人、笑ってました。」
昼間、地下連絡通路での、あっけらかんとした声が頭に蘇る。
――「いいじゃないですか、坊ちゃま。
私が勝手に死んだことにして、勝手に生き延びて、勝手に首都警やってただけですから。
ツケは全部、与一郎様に回しますけどね!」
真理が、そこを思い出したように吹き出した。
「“鴨志田家一の家臣”の自己申告、相変わらず強いよね。
坊ちゃまの倫理観がどんだけ歪んでも、『私のせいです』で押し切る気満々。」
「笑い事じゃないだろ……」
与一郎の声には、わずかにかすれが混じった。
真理はグラスを回しながら、少し真面目な顔になる。
「で、どうするの、参謀殿。
“絵里は死んだ”前提で組んでた作戦も、OSも、ぜんぶズレてたわけだけど。」
「ズレてたのは……」与一郎は言う。「たぶん、俺の方だ。」
視界の端で、ゆりが小さく頷いた気配がした。
「絵里が死んだと思ったから、俺は“代わりに世界を救わなきゃ”だなんて、
勝手な正義を始めた。
でも実際は、地下でのうのうと暴れて、ツケを俺に押しつける気満々で……
つまり、“いつもの絵里”のままだった。」
「うん。」真理が笑う。「だから、坊ちゃまも“いつもの坊ちゃま”に戻っていいんじゃない?」
「いつもの……?」
「世界を救う悪魔参謀じゃなくて、
絵里と真理とゆりに振り回されて、
トイレに駆け込んでた鴨志田与一郎。」
「さすがに今は漏らさない。」与一郎がぼそりと言う。「総参謀本部だからな。」
「じゃあ、せめてここではいいですよ。」真理がからかうように笑う。「個室ですし。」
「やめろ。」
ゆりが、くすりと笑った。
ふと、時計を見る。
まだ門限には少し余裕がある。
総参謀本部のエリートも、今だけはただの“坊ちゃま”でいていい。
「……なぁ。」
与一郎は、徳利を手に取りながら言った。
「今度、三人で絵里をここに呼ぼう。
首都警の愚痴でも、地下の噂話でもいい。
俺が作戦地図の上で考えてる“世界”と、
あいつが地下で見てる“世界”と、
真理とゆりが見てる“世界”。
全部一回、同じ卓に並べてみたい。」
真理が、少しだけ真顔で頷いた。
「いいね、それ。」
ゆりも、湯呑を両手で持ち上げる。
「その時は、私……ちゃんと怒ります。
『勝手に死んだことにして、十年も放っておいて』って。」
「それは、俺の役目じゃないのか……?」
「坊ちゃまは、その隣で黙っててください。」真理が笑う。「どうせ絵里さん、『全部私の判断です』って言うから。」
与一郎は、観念したように肩をすくめて、グラスを掲げた。
「じゃあ――絵里が死んでなかった誤報と、
悪魔参謀の減給と、
俺たちがまだ三人で飲めてることに。」
真理「かんぱーい。」
ゆり「……かんぱい。」
グラスと湯呑が、個室の薄暗がりで小さく触れ合った。
外では、帝都のサイレンが遠くかすかに鳴り続けている。
PAKKOMANNも、D弾も、総参謀本部も、
今だけは、障子一枚の向こう側の話だった。




