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帝都・市ヶ谷、総参謀本部から二筋裏に入った路地の奥。

煤けた暖簾をくぐると、個室の障子の向こうから、真理の声がした。


「おそーい。エリート様は時間の感覚まで偉くなったわけ?」


与一郎は軍帽を脱ぎ、上着を乱暴に引きはがすようにフックに掛けた。

肩章だけが、場違いに真新しく光っている。


「いや、その……総長に捕まってさ。『鴨志田参謀、さっきのブリーフィングだが』とか延々と」


「はいはい、また世界を救ってたんですね、悪魔さん。」


皮肉混じりに言いながら、真理は徳利を片手で振ってみせる。


「飲む? どうせ今日は潰れるまで帰さないから。」


「……もう始めてるのか。」


座敷の奥、壁際では、ゆりが正座したまま湯呑を両手で抱えていた。

黒髪を後ろでひとつに結んだ姿は、昔とあまり変わらない。


「お帰りなさい、坊ちゃま。」


その一言だけで、総参謀本部の蛍光灯と地図だらけの作戦室が、遠い世界の景色になる。


グラスに注がれた酒を一気に半分ほど流し込む。喉が焼ける感覚が、ようやく現実をなぞる。


「……で。」


真理が、軽く肘で小突く。


「さっきの話、本当に“誤報”で片づけていいわけ?」


与一郎は無言で頷いた。


「総軍情報局の記録上は、“カムチャツカ後退戦における核爆発に巻き込まれて戦死”。

 ――ただの書類上の処理ミス。

 生体反応の確認前に、部隊ごと『喪失』判定にしたらしい。」


「“ただの”って言う?」真理が鼻で笑う。「十年だよ、こっちは。」


ゆりが、そっと徳利を持ち上げて与一郎のグラスに注ぎ足す。


「でも、生きててよかったです。」


言葉だけ聞けば教科書みたいだが、その声には、ちゃんと十年分の重さが乗っていた。


「首都警の黒服に化けて、ずっと帝都地下で仕事してたってさ。」

真理が箸で枝豆をつつきながら、さも面白がるように続ける。


「『鴨志田家の坊ちゃまに心配かけるわけにはいかないから、戦死ってことにしときました』だって。

 出征前から変わらないよね、あの人。」


与一郎は乾いた笑いを漏らした。


「……あいつらしいな。」


「怒っていいところですよ?」ゆりが遠慮がちに口を挟む。「坊ちゃま、本気で……」


「怒ってるよ。」


与一郎はグラスを握りしめた。氷がきし、と鳴る。


「三日前までは、俺の頭の中で――

 絵里は“核光の中で蒸発した”っていう、綺麗な英雄のままだったんだ。


 それで、俺は総参謀本部の机の上で、PAKKOMANNにD弾落とす計画書に判子を押してた。」


真理が、ちらりと横目で見る。

その視線には責めよりも、「やっぱりね」という諦めに近い色があった。


沈黙を、ゆりが拙い言葉で切る。


「でも……絵里さん、生きてて。

 坊ちゃまが“悪魔の役”やってるのも知ってて。


 それでも、今日あの人、笑ってました。」


昼間、地下連絡通路での、あっけらかんとした声が頭に蘇る。


――「いいじゃないですか、坊ちゃま。

  私が勝手に死んだことにして、勝手に生き延びて、勝手に首都警やってただけですから。

  ツケは全部、与一郎様に回しますけどね!」


真理が、そこを思い出したように吹き出した。


「“鴨志田家一の家臣”の自己申告、相変わらず強いよね。

 坊ちゃまの倫理観がどんだけ歪んでも、『私のせいです』で押し切る気満々。」


「笑い事じゃないだろ……」


与一郎の声には、わずかにかすれが混じった。


真理はグラスを回しながら、少し真面目な顔になる。


「で、どうするの、参謀殿。

 “絵里は死んだ”前提で組んでた作戦も、OSも、ぜんぶズレてたわけだけど。」


「ズレてたのは……」与一郎は言う。「たぶん、俺の方だ。」


視界の端で、ゆりが小さく頷いた気配がした。


「絵里が死んだと思ったから、俺は“代わりに世界を救わなきゃ”だなんて、

 勝手な正義を始めた。


 でも実際は、地下でのうのうと暴れて、ツケを俺に押しつける気満々で……

 つまり、“いつもの絵里”のままだった。」


「うん。」真理が笑う。「だから、坊ちゃまも“いつもの坊ちゃま”に戻っていいんじゃない?」


「いつもの……?」


「世界を救う悪魔参謀じゃなくて、

 絵里と真理とゆりに振り回されて、

 トイレに駆け込んでた鴨志田与一郎。」


「さすがに今は漏らさない。」与一郎がぼそりと言う。「総参謀本部だからな。」


「じゃあ、せめてここではいいですよ。」真理がからかうように笑う。「個室ですし。」


「やめろ。」


ゆりが、くすりと笑った。


ふと、時計を見る。

まだ門限には少し余裕がある。

総参謀本部のエリートも、今だけはただの“坊ちゃま”でいていい。


「……なぁ。」


与一郎は、徳利を手に取りながら言った。


「今度、三人で絵里をここに呼ぼう。

 首都警の愚痴でも、地下の噂話でもいい。


 俺が作戦地図の上で考えてる“世界”と、

 あいつが地下で見てる“世界”と、

 真理とゆりが見てる“世界”。


 全部一回、同じ卓に並べてみたい。」


真理が、少しだけ真顔で頷いた。


「いいね、それ。」


ゆりも、湯呑を両手で持ち上げる。


「その時は、私……ちゃんと怒ります。

 『勝手に死んだことにして、十年も放っておいて』って。」


「それは、俺の役目じゃないのか……?」


「坊ちゃまは、その隣で黙っててください。」真理が笑う。「どうせ絵里さん、『全部私の判断です』って言うから。」


与一郎は、観念したように肩をすくめて、グラスを掲げた。


「じゃあ――絵里が死んでなかった誤報と、

 悪魔参謀の減給と、

 俺たちがまだ三人で飲めてることに。」


真理「かんぱーい。」


ゆり「……かんぱい。」


グラスと湯呑が、個室の薄暗がりで小さく触れ合った。

外では、帝都のサイレンが遠くかすかに鳴り続けている。

PAKKOMANNも、D弾も、総参謀本部も、

今だけは、障子一枚の向こう側の話だった。

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