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帝都の雨は、いつだって安物の油を混ぜたみたいな匂いがする。
絵里はコートの襟を立てて、路面電車の高架下から、首都大通りを斜めに見下ろしていた。灰色のビル群の谷間を、黒い群れが無言で進んでいく。
首都警・機動装甲中隊。
ケルベロス装甲強化服。三眼のゴーグル。背中にはPAKKOMANN技術由来の小型PEB駆動ユニット。帝都の「秩序」を、銃剣と逮捕状で守る犬たち。
「……わんわん、きたわね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、絵里はポケットの中の小さなカードを指先でなぞった。鴨志田家の家紋と、KTIのロゴと、帝国軍の紋章が三つ並んで刻まれた、あり得ない組み合わせの身分証。
鴨志田与一、帝国特別顧問。
そして、その一の家臣――鴨志田家執事長代理・エリザベス。
路地の奥から、小さな影が駆け寄ってくる。
「絵里さま、正面のバリケード、もう封鎖完了してます。学生たち、ほとんど包囲されてて」
真理だった。いつものメイド服の上に、防弾ベストと簡易ヘルメット。妙に似合っているのが腹立たしい。
「ゆりは?」
「後方の脱出口、確保してます。……でも、このままだと誰も逃げられませんよ。完全に“見せしめモード”です」
真理の視線の先では、首都警の装甲車が、学生たちの掲げるプラカードを無言で押し潰していた。「反PAKKOMANN焦土戦略反対」「大日本帝国に恋人の自由を」――“ぬきたし島”みたいなスローガンまで混ざっている。
絵里は鼻で笑った。
「あの手の学生運動なんて、放っとけば勝手に自家中毒で倒れるのにねぇ。……わざわざ犬を連れてくるってことは、別の目的があるわ」
「実験ですか?」
「たぶん。“帝都治安維持特別法・附則PAKKOMANN対策条項”の実地試験。人間相手に」
真理が顔をしかめる。
「絵里さま、どうします。坊ちゃまからのミッションは、『帝都における首都警の暴走ログの採取』と『PAKKOMANN戦線への資源横流しルートの把握』だけでしたけど」
「ええ、だからまずは――」
絵里は一歩、雨の中に出た。
「――きちんと名乗りを上げて、犬小屋の“正面玄関”を蹴り飛ばすのよ」
◆
首都大通り、一番手前の装甲車の前で、黒い雨合羽の隊長格が短く号令をかけた。
「展開。警戒線一〇メートル前進。デモ隊にはまだ発砲許可は下りていない。物理制圧のみだ」
装甲強化服の群れが、ジャリ、と一斉に前に出る。その前に、ひとりの女が歩み出てきた。
黒のロングコート。足元は濡れた石畳に慣れた軍靴。背筋だけが、帝都の灰色を拒むようにまっすぐ伸びている。
隊長は反射的に手を上げた。
「停止。前方、身元不明の女一名――」
「“身元不明”は失礼ね」
女――絵里が、流れるようにコートの内ポケットからカードを取り出す。その仕草は、舞踏会でファンを開く貴婦人のように優雅で、同時に訓練された銃の抜き方にも似ていた。
「鴨志田与一様一の家臣、鴨志田家執事長代理、エリザベス。帝国統合参謀本部およびKTI連絡将校も兼任しております」
カードが雨の中を滑り、隊長の前に止まる。装甲服越しの手が拾い上げた。
隊長の声が、ヘルメットの内側でくぐもる。
「……帝都公安コード照会。身分証番号、KTI-ZE-01――」
背後の通信兵が、小さく息を呑んだのが聞こえた。
「コード一致。優先度アルファ。……“帝都内における一切の行動について、帝王大権に準ずる行動権を認める”……何だこれ」
隊長は思わず顔を上げた。三眼のゴーグルの向こう、絵里の瞳とぶつかる。
「不満そうね」
「当然です。首都警の指揮権は帝都保全省が持つ。たとえ鴨志田侯爵家といえど、現場行動に介入する権利は――」
「あるのよ」
絵里は、ひとつ肩をすくめた。
「PAKKOMANN-Eから得た技術の一部は、帝国じゃなくて“うち”のもの。ね、D兵器に付いてた製造番号、覚えてる?」
隊長の喉がひくりと動いた。アッツ島。サンディエゴ。ホノルル。
PEB爆弾。D兵器。
世界を終わらせておいて、なお飢えている“帝国の牙”。
「あれ、全部、KTI製よ。うちの坊ちゃまの“お小遣い稼ぎ”。だからね――」
絵里は、首都警の隊列全体を見渡した。
「帝都で吠えまわる犬が、うちの坊ちゃまの靴に泥を跳ね飛ばそうとしてるなら、私は止める義務がある。ご理解いただけるかしら?」
背後で、学生たちのざわめきが風に流された。
隊長は、ヘルメットの内側で歯を食いしばる。首都警は、帝都の掟そのものだ。どれだけ腐っていようと、そのプライドだけでここまでやってきた。
――帝国の“犬”か。田舎貴族の“メイド”か。
どちらの首輪が重いか、天秤にかけるような沈黙が、数秒続いた。
「命令を撤回する権限は、あなたにはない」
隊長はようやく絞り出した。
「しかし、現場指揮に関する意見具申は受け付ける。……鴨志田家のご意向は?」
「簡単よ」
絵里は一歩、さらに近づいた。隊長の装甲服の胸部プレートに雨粒が弾ける。
「今日ここで、“恋人同士で手をつないで歩いているだけの国民”に、PAKKOMANN対策条項を適用した瞬間――」
その声は、妙に穏やかだった。
「うちの坊ちゃまは、『帝都保全省はPAKKOMANNそのものと同じ脅威』って判断するわ」
周囲の装甲兵たちが、微かに体勢を変える。銃口がわずかに下がった。
隊長だけが、動かない。
「脅しのつもりか」
「事実の確認よ」
絵里は、今度は笑わなかった。
「PAKKOMANNに食われるのと、首都警に殴り殺されるのと、どっちがマシか――帝都の民にアンケートでも取ってみる? それとも、うちのKTIサーバーにある“死亡ログ”をまとめてあなたに送る?」
真理が路地の影から、さりげなく端末を構えている。首都警の無線も、隊員の心拍数も、すべてグラフ化されて絵里の視界の端に流れていた。
隊長の心拍が、微妙に上がる。
そのとき、装甲車の屋根上から別の声が降ってきた。
「やめておけ、犬ども」
首都警とは違う灰色のコート。帝都保全省の高官バッジ。中年の男が、煙草を踏み消しながら屋根から飛び降りてきた。
「舟木補佐官……」
「帝国保全省・帝都局、舟木だ」
男は、絵里と隊長の間に割って入ると、わざとらしく大きな溜息をついた。
「鴨志田家の犬と、帝都の犬が、雨の中で喧嘩か。PAKKOMANNが泣くぞ」
「わたくしは、“犬”ではありませんけれど」
「そうか。“メイド”だったな」
舟木は、絵里のカードを一瞥し、即座に状況を理解したようだった。
「……隊長、この身分証、本物だ。上から通達があった。『KTI連絡将校および鴨志田家執事長代理は、帝都内でのPAKKOMANN関連行動に関して、首都警の上位に位置する』」
「なっ……!」
「気持ちは分かるが、これが“今の帝国”だ。反物質のスイッチを握ってるやつが、一番偉い」
舟木は、わざと学生たちにも聞こえるような声で言った。
「……本日の行動指令を修正する。デモ隊への実力行使は取りやめ。PAKKOMANN条項適用の実地試験も中止。首都警は周囲の警戒に専念」
「しかし――」
「命令だ、犬」
短く言い捨ててから、舟木は絵里の方に向き直る。
「これで満足か、鴨志田家の“ご令嬢”」
「ええ、及第点ね」
絵里は軽く頭を下げた。
「うちの坊ちゃまに報告書を上げるわ。“帝都にも、まだ少しだけ頭の回る大人がいる”って」
「皮肉は聞かなかったことにしておく」
舟木は煙草の箱を取り出したが、雨に濡れた紙がうまく破れず、小さく舌打ちした。
「……鴨志田。あんたらがPAKKOMANNの牙を握っている限り、帝都の秩序は歪んだままだ。俺はそれを是とはしないが、現状では必要悪だとも思ってる」
「奇遇ね。私も、首都警についてまったく同じことを考えてるわ」
二人は、ほんの一瞬だけ笑った。どちらも、まったく楽しくなさそうに。
◆
撤収していく装甲車列を見送りながら、真理が絵里の横に並んだ。
「……本当に、これで良かったんですか?」
「何が?」
「首都警の“犬”を助ける形になりましたよ。あいつら、次は別の場所で殴りますよ」
「ええ。だから、ログは全部取った」
絵里は、耳につけた小さなイヤピースを指で弾いた。
「今日の音声と映像と生体データ、全部KTI本社と、満州の鴨志田本邸に飛ばしてある。坊ちゃまの“お勉強”の教材にするわ」
真理は、半ば呆れたように笑った。
「坊ちゃま、また夜に頭抱えて唸りますね」
「いいのよ。それが“あの子の仕事”なんだから」
雨は、少しだけ弱くなっていた。
帝都のビルの谷間。PAKKOMANNの影と、D兵器の記憶と、首都警の装甲服が溶け合う場所で、鴨志田家の筆頭メイドは、静かに傘もささずに立っていた。
鴨志田与一――世界の終わりを何度でもシミュレートする、あの馬鹿坊ちゃまの“一の家臣”として。
今日もまた、地球がほんの少しだけ静止する。
お昼寝付きで、世界の断面図を抱えたまま。




