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真理がその告白を「本当にあったこと」として思い出すのは、決まって頭痛の前触れがあるときだった。


 ――昭和六十何年だっけ、と彼女は毎回そこでつまずく。


 日付の数字はいつも曖昧だ。けれど場面だけは、異様なくらい鮮明だった。



 その日、鴨志田邸の裏庭は、やけに静かだった。


 前線の状況が悪いとき、屋敷は逆に静かになる。大人たちが声を潜め、無駄な物音を嫌がるからだ。真理はそれを「空気圧が高い」と呼んでいた。


 空気圧が高い日の裏庭には、誰も来ない。だから彼女は、そこを自分の喫煙所と決めていた。もちろん本当に煙草は吸えないから、代わりに安物のガムを噛む。あのくそ坊ちゃまが寝ているあいだだけの、ささやかなサボり時間だ。


 今日は、その裏庭の端にある、PAKKOMANN由来の金属片の近くに座っていた。


 銀色とも黒ともつかない、不愉快な色をした塊。表面には、帝国科学研究所が彫った管理番号が刻まれている。触れてはいけない、と厳しく言われている。だから真理は、いつもその三センチ手前まで近づいて座るのが癖になっていた。


 彼女はそこが好きだった。


 理由は単純だ。あの金属片の近くだけ、世界の輪郭がわずかに緩む気がするからだ。音が遠くなって、色が一段薄くなって、人の気配が後ろに下がる。


 ――ここだけ、帝国のルールが弱い。


 そんな感覚があった。


「真理さん」


 背中に声が落ちてきた。


 振り返る前から、誰かは分かっていた。足音で分かる。足音のうるさい家臣は、出世しないか、早く死ぬ。静かな足音の男は、だいたい生き残る。だから、こいつは多分しぶとい。


「……なに、持ち場は」


「交代してもらいました。少し、話が」


 そこまで聞いて、真理はうんざりしたようにガムを噛みなおした。こういう前置きをする男に、ロクなのはいない。


「座れば?」


 彼女はPAKKOMANN片の反対側を顎で示す。


 少年――いや、年齢だけ見ればもう立派な青年のはずの彼は、素直に腰を下ろした。鴨志田家家臣筋、高遠隊所属の下級士官。名前は、たしか……。


「……佐原、だっけ」


「佐原じゃなくて、佐久間です」


「ああそう。似たようなもんでしょ」


「似てませんよ」


 苦笑いをしながらも、どこか緊張でこわばっている顔だった。真理は、そういう顔を見ると反射的に殴りたくなる自分を知っている。だから、意識して手を膝の上に置いた。


「で、なに。説教なら坊ちゃまにしなよ。私よりむこうがよっぽど問題児でしょ」


「説教じゃありません」


 彼は一度だけ息を吸い込んだ。軍隊式に肺いっぱいに空気を入れて、それから吐かずに言葉を出す。


「俺、明日、前線に出ます」


「あっそ。で?」


「帰って来られる確率は、あまり高くありません」


「知ってる。あんたらの小隊、昨日、如月司令のとこの予備枠に組み込まれたでしょ。あそこ、志願した人間しか入らない」


 佐久間は驚いたように目を見開いた。


「どうして」


「女子メイド部隊を舐めないでほしいな。厨房と洗濯室の噂網、情報部並みに優秀なんだから」


 真理は肩をすくめた。彼女自身、なぜそんな情報を集め続けているのか、深く考えたことはない。習慣になってしまえば、それはもう「自分」そのものだ。


「で、遺言?」


「――好きなんです」


 唐突だった。


 真理の頭の中で、三つくらい違う返しのパターンが同時に起動して、互いに衝突した。結果、口から出たのは、ただの一音だった。


「は?」


「真理さんのことが、好きなんです」


 彼は、信じられないくらい真正面からそれを言った。視線を逸らさない。そこだけは評価してもいい、と真理は思った。殴りやすいからだ。


「……あんた、私のどこが」


「ちゃんと坊ちゃまを殴ってくれるところです」


「褒めてる?」


「褒めてます」


 真理は、思わず笑ってしまった。喉の奥から出た笑いは、自分でも聞いたことのない音だった。


「いい趣味してるじゃん」


「自覚はあります」


 少し間が空いた。裏庭を吹き抜ける風が、PAKKOMANN片の表面をかすめていく。その瞬間、世界が一ミリだけズレたような感覚がした。


 真理は、ふと既視感を覚えた。


 ――この会話、前にもやったっけ。


 同じ場所、同じ金属片、同じ男。違うのは、自分の年齢だけ。前回はもう少し幼くて、もう少しだけ残酷だった気がする。


「真理さんは、俺のこと、どう思ってますか」


 質問が飛ぶ。ありきたりな、脆い問いだ。


「どうって……」


 真理は、言葉を探した。


 武芸はそこそこ。成績もそこそこ。酒も女も借金も、致命的な問題はない。上司として見れば、可もなく不可もなく。家臣として見れば、「普通」という評価に集約される。


 ――普通の男が、一番早く死ぬ。


 戦場に出たことのある者なら誰でも知っている事実が、真理の頭をよぎる。


「悪くはないんじゃない」


 やっと、それだけを絞り出した。


「それって、どういう」


「“嫌いじゃない”って意味。もっと悪いのはたくさん知ってるから」


 たとえば、帝都保全省の連中とか。首都警の装甲服を着た男たちとか。PAKKOMANN実験部隊の研究者とか。名前を挙げればきりがない。


「じゃあ――」


 彼が何かを言いかけたときだった。


 視界の端で、世界が二つに割れた。


 真理は、唐突な頭痛に顔をしかめる。PAKKOMANN片の輪郭が二重にぶれる。


 一つ目の世界では、佐久間が「付き合ってください」と言おうとしている。


 二つ目の世界では、佐久間は言わない。代わりに、彼女の前に端末を差し出す。そこには、帝国軍情報局の“同意書”が表示されている。女子学徒の感情変動パターンとPAKKOMANN接触時の脳波の相関を調査する実験。対象:鴨志田家侍女頭見習い・真理。


 ――どっちが本物?


 真理は、瞬間的にそんなことを考えた。


 アシモフの小説なら、ここで「ロボット三原則」が何らかの決断を強制する。けれど、ここはフィリップ・K・ディックの領分だ。現実は常に複数あり、そのどれもが自分一人分の重さを主張してくる。


「真理さん」


 佐久間の声が、二つの世界から同時に届く。


 一つは脆い告白の声。もう一つは、事務的な実験説明の声。


 真理は、どちらかを選ばなければならなかった。


 選ばなければ、頭が壊れる。


「……悪いけどさ」


 彼女は、ガムを噛みなおした。甘味の抜けたゴムみたいな味が、口の中に広がる。


「私、坊ちゃまの“保全対象”なの。たぶんどっかのバカが決めた、システム上の役割ってやつ」


「え?」


「だから、誰かの恋人になるって選択肢、多分、最初から組み込まれてない」


 言っていて、ひどく冷静だった。


「もし、あんたが死んだら、私はちょっとだけ悲しむと思う。でも、次の日には坊ちゃまのパンツの心配してる」


「……それは」


「そういうふうに作られてんのよ。私の中身」


 真理は、PAKKOMANN片を見た。


 あの日、この金属片の母船から持ち出された“技術”が、どこまで人間の中身を書き換えているのか、詳しいことは知らない。ただ、帝国はとっくに「心」の一部を設計可能な部品と見なしている。それぐらいのことは、メイドでも気づく。


「でもさ」


 そこで彼女は、少しだけ視線を上げた。


「選択肢に“ゼロ”って数字を追加するくらいなら、私でもできる」


「ゼロ?」


「“絶対にない”候補を一個だけね」


 真理は、言葉を選んだ。どの言語で喋るか迷った結果、一番素朴な日本語を選ぶ。


「私は、あんたのこと“嫌いじゃない”」


 それだけを残して、彼女は立ち上がった。


 佐久間は、意味を理解するのに数秒かかったようだった。顔の筋肉が、混乱と安堵と絶望とを、順番に素通りしていく。


「それって、返事としては」


「曖昧すぎ?」


「はい」


「……まあ、そうね」


 真理は背を向けた。これ以上ここにいると、別の世界の台詞が混ざり始める。


「明日、生きて帰ってきたら、もう一回言いなよ」


 自分でも驚くくらい自然に、その言葉が口から出た。


「そのときも同じこと言ったら――たぶん、それは本物」


「本物って」


「“実験ログに残らない方のほう”って意味」


 佐久間は、理解したのかしていないのか、ただ強く頷いた。


「分かりました」


 彼の足音が遠ざかる。


 真理は、しばらくその場に立ち尽くしていた。PAKKOMANN片の近くは、相変わらず世界の輪郭が緩い。さっきまで二重に見えていた視界が、ゆっくりと一つに戻っていく。



 ――その後の記憶は、いつもそこで途切れる。


 真理が思い出そうとすると、頭の奥で何かが「ここから先は閲覧権限がありません」と囁く。帝都保全省のシステムログを、そのまま脳に焼き付けたような感触。


 佐久間が生きて帰ったのかどうか。

 再び告白があったのかどうか。

 彼女が、同じ言葉をもう一度返したのかどうか。


 どれも、決定的な断片が抜け落ちている。


 たまに、夜中に目を覚ましたとき、頭の中に別の映像が割り込んでくることがある。


 白い部屋。蛍光灯。鉄製の椅子に縛られた自分。目の前のガラス窓の向こうには、白衣の群れ。誰かが言う。


「被験体マリ=ユニット3。恋愛刺激に対する反応パターン、異常なし。対象男性兵士はPAKKOMANN戦線にて戦死。記憶の一部を削除、残渣は日常ノイズとして処理」


 その声は、男女どちらとも分からない。


 映像はすぐに消える。


 ――ディックなら、ここで「それでも彼女は確信していた」と書くだろう。


 真理は、朝、いつものように坊ちゃまを起こし、パンツを履かせながら、ときどき思う。


 あの裏庭で、PAKKOMANN片の前に座っていたのは、本当に自分だったのか。


 それとも、誰かが設計した「真理OS」のテスト用シミュレーションだったのか。


 どちらにせよ、世界は今日も続いている。


 坊ちゃまは今日も馬鹿だし、ユリは今日も優しすぎる。


 そして真理は、相変わらず「嫌いじゃない」の意味を、誰にも最後まで説明しないまま、黙って殴る役を続けている。

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