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――午後十一時を少し回ったころ、台所の蛍光灯は、世界の終わりを待っているみたいな色で光っていた。
絵里は、磨き上げたステンレスの作業台に背中を預けて、空になったアルマイトの鍋を指先で叩いていた。乾いた音が出る。その音は、この屋敷のどこにも届かない。
「明日の六時三十分、トラック集合。七時、出発。九時、演習場着。十時、PAKKOMANN殲滅戦についての説明」
紙の上なら、そうやって整理できる。計画はいつだって滑らかだ。問題は、人間のほうだ。
「で、あんたはその通りに動く、と」
真理が言った。湯呑み茶碗を片手に持ち、ぬるくなった番茶をひと口飲んで顔をしかめる。苦いだけだ、と言いたげな顔だ。
「そういうふうに作られてるからね、私たち」
絵里は、乾いた笑いを一度だけ喉の奥で転がした。
「作られてるって、誰に」
シンクの前にしゃがみ込んで、布巾を絞っていたユリが顔を上げた。指先は赤くなっている。水が冷たいのではなく、今日一日ずっと何かを握りしめていたからだ。
「ここにいる三人のうち二人は、鴨志田家と帝国軍に。もう一人は、ほぼ坊っちゃまに」
絵里は、指を三本立てて見せた。
「工場出荷時設定ってやつよ。自分で好き勝手に生きてるって思ってても、実際はあんまり選択肢はない」
アシモフなら、きっともっと上品な言葉で言うだろう。第一条、第二条、第三条。ロボットに課された基礎法則。でもここは研究所じゃないし、ユリはロボットじゃない。
「じゃあ、絵里さんは、出征するって選択肢以外、なかったんですか?」
ユリの声は、やけに静かだった。茶碗のふちに水滴が残っているのが妙に気になる。視線がそこに逃げかけて、それでも無理やり絵里の顔に戻す。
「なかったわけじゃない」
絵里は、少し考えるふりをしてみせた。実際には、とっくに答えを出している。
「逃げることもできた。診断書を偽造してもらって、肺が悪いふりして、病院のベッドに寝てることだってできたかもしれない」
「しなかったんですね」
「しなかったわけじゃないわ。できなかったの」
絵里は、作業台の上に置いてある軍帽を指先で叩いた。パコ、と鈍い音がした。安物のプラスチックみたいな音。
「ここに『鴨志田侯爵家付属 女子学徒隊』って書いてあるでしょう。これを被るってことは、あの子たちの前で一番先に歩くってこと。先頭に立つ顔が、逃げたらどうなるかぐらい、想像できるでしょ」
真理が苦笑を漏らした。
「英雄幻想、ね。あんたらしい」
「英雄なんかじゃないわよ。単に、後ろで石を投げられるのが嫌なだけ」
絵里は、少しだけ声を低くした。
「それに、合理性もあるのよ。PAKKOMANNの侵蝕速度は指数関数的だった。あの数学の先生が熱心に黒板に描いてたじゃない。あれをそのまま現実に適用するとね――」
「はいはい、また始まった」
真理が手を振った。
「最悪のケース、“何もしない”が一番コスト高、って話でしょ。だから女子学徒まで動員して前線に送る。帝国の上の人たちは計算が得意だ」
「そう。誰かが兵士にならないと、坊っちゃま達みたいな“後方のブロック”を維持できない」
絵里は、ユリを見た。
「そして、誰かが残って、坊っちゃまのパンツの履き方を監視し続けないと、この屋敷は五日で崩壊する。そういうシステムなのよ」
「……褒められてる気が、全然しません」
ユリは、タオルをもう一度絞った。水滴が飛び散って、薄い床板に小さな円をいくつも描く。
「褒めてないもの」
絵里はあっさり言った。
「でも、あんたの役目は重要よ。私よりずっと」
「どうしてですか」
ユリが即座に聞き返す。そこだけは、本当に知りたかった。
「簡単。私が戦線で死んでも戦争は続く。でも、坊っちゃまがここで壊れたら、この家系全体の『脳』が潰れる」
絵里は、アシモフの論文でも引用するみたいな口調で続けた。
「帝国っていうのは、巨大な分散処理システムみたいなものよ。各地に貴族っていうローカル・プロセッサを置いて、情報と暴力を管理している。その一個が吹き飛べば、その領域はPAKKOMANNの餌場になる。だから、あの人は守らなきゃいけない」
「守る価値があると思います?」
真理が、茶碗を指で回しながら言った。挑発でもあり、確認でもある。
絵里は少しだけ笑った。
「価値で測るなら、あの人はとっくに処分されてるわよ。効率だけ考えるならね」
ユリの肩がびくっと動いた。真理は、口の端だけで笑う。
「でも、処分されてない。何でか分かる?」
「……さあ」
ユリは首を振った。
「世界ってやつが、案外、効率だけで動いてないからよ。物語とか、因縁とか、しょうもない家系の歴史とか。そういう“ノイズ”の上で、PAKKOMANNも反物質爆弾も転がってる」
絵里は、窓の外の暗闇を見た。庭の向こうにあるはずの山の稜線は、今夜は見えない。
「私はね、少なくとも、あの子の“物語”の中では、最初から母親役にキャスティングされてた。この役を途中で放り出すと、脚本そのものが破綻する。そういうのは嫌い」
「それ、立派な自己中心性ですよ」
真理が言った。
「ええ。だから言ったでしょ、英雄じゃないって」
絵里は、そこで初めて少し声を和らげた。
「ユリ」
「はい」
「明日から、あんたが“脚本管理者”よ」
「え……」
「坊っちゃまの頭の中で世界がどういう順番で回るか。誰がどこに立って、どのタイミングでハリセンを振り下ろすか。そういうのを決めるのは、あんたになる」
ユリは、しばらく黙った。
「無理です」
正直な答えだった。
「私、そんなに考えられないし。パンツ一枚履かせるだけでも精一杯で」
「それでいいのよ」
絵里は即答した。
「明日の朝、あの子を起こして、顔を洗わせて、ご飯を食べさせて、ランドセルしょわせて、学校に連れていく。それが“世界の維持”」
真理が、淡々と付け加えた。
「地球が静止しても、チャイムは鳴る、ってやつね」
「何ですか、その変な格言」
ユリが眉をひそめる。
「さっき思いついただけ」
真理は肩をすくめた。
「PAKKOMANNがどれだけ世界を食い荒らしても、小学校のチャイムって意外と止まらないのよ。教師と子供がいる限り。あんたがやるのは、坊っちゃまを“子供側”に固定しておくこと」
「……そんなの、できるんでしょうか」
「できるかどうかじゃない」
絵里は、静かに言った。声のトーンだけが急に冷たくなる。
「やるの。やらなかったときの未来は、計算しなくても、だいたい想像できるから」
アシモフが聞いたら、きっと満足する答えだ。村上龍が聞いたら、鼻で笑って酒をあおるだろう。
ユリは、ゆっくりと頷いた。
「分かりました」
それは、理解の頷きではなく、受諾の頷きだった。理解は、あとからついてくるかもしれないし、こないかもしれない。
時計が、十二時を告げる。乾いた音が、静かな屋敷に散っていく。
「寝なさい」
真理が言った。
「睡眠不足のまま世界を支えるのは、コスパが悪い」
「それ、さっきの先生の受け売りじゃないですか」
「いいのよ、良い台詞は再利用するものだから」
絵里が笑った。短く、乾いた笑いだったが、その中に、ほんのわずかだけ柔らかいものが混じっていた。
「じゃあ、行ってきます」
ユリは立ち上がった。戸口まで歩いて、振り返る。
「……明日、ちゃんと見送ります」
「見送る暇なんてないわよ」
絵里は、わざとそっけなく言った。
「たぶん坊っちゃまが粗相するから、その後始末で手一杯」
「そうですね」
ユリは、少しだけ笑った。それは、泣き顔に似ていた。
戸が閉まる。足音が遠ざかる。
台所には、真理と絵里だけが残った。
「怖い?」
真理が、珍しく真正面から訊いた。
「そりゃあね」
絵里は、軍帽を手に取り、頭にかぶった。鏡も見ずに、指で形を整える。
「でも、明日の朝、ユリが“ちゃんと起こしましたよ”って顔で坊っちゃま連れてきたら、少しはマシになると思う」
「根拠は?」
「そういうふうに、この物語が組まれてるのよ」
絵里は、淡々と答えた。
「作者不詳。改訂不可能。私たちは、ただ台詞を噛まないようにするだけ」
真理は、湯呑みの底に残った茶を飲み干した。渋かった。
「台詞、噛んだら?」
「そのときは――」
絵里は、台所の蛍光灯を見上げた。
「あんたがアドリブで何とかしなさい。そういう役でしょ、真理は」
「ギャラが安い割に仕事が多い」
真理がぼそっと言う。
「世界って大体そんなものよ」
絵里はスイッチを押した。蛍光灯が一度だけ瞬いて、完全に消えた。
暗闇の中で、三人の役割だけが、やけにクリアに浮かび上がっていた。




