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13

夜がゆっくりと薄まって、屋敷の輪郭が色を取り戻しはじめたころ、ユリはまだ眠れずにいた。


客間に敷かれた布団の上で仰向けになったまま、天井の木目を数えては、途中で見失う。それを何度か繰り返して、ようやく目を閉じたときには、鶏の鳴き声が遠くで一声だけ鳴いた。


眠ったのか、意識を失っていただけなのか判然としないまま、肩を軽く揺さぶられる。


「ユリ、起きて」


囁くような声だった。真理が、半分だけ障子を開けて立っている。背後の廊下には、まだ青い朝の光が並んでいる。


「……もう、行く時間ですか」


自分の声が、自分のものではないみたいに細い。咳払いを一つしてから、ユリは上半身を起こした。


「違う。先に、坊っちゃまのところ」


真理は、いつも通りの無愛想な顔をしていたが、目の下に薄く隈ができている。台所で片づけを終えてから、一度も横になっていないのだろう。


廊下に出ると、朝の匂いと、煤けた木の匂いが混じっていた。いつもの屋敷の匂いなのに、どこか居心地が悪い。空気の中に、見えない細い線がいくつも張り巡らされていて、それに触れるたび、胸の奥がきゅっと引きつる。


坊っちゃまの部屋の前まで来ると、真理が足を止めた。


「……起こすのは、あなたがやりなさい」


「え?」


「最後に、絵里さんがやるはずだったことを。今日からは、あなたの役目だから」


そう言って、真理は一歩だけ後ろに下がる。


戸の向こうからは、かすかな寝息が聞こえてくる。子どものころに飼っていた犬が眠るときの音に、どこか似ているとユリは思う。


指先が、戸に触れた。木の冷たさが、肌に移ってくる。


「坊っちゃま。朝です」


戸を少しだけ開けて声をかけると、布団の塊がわずかに動いた。返事はない。


畳を踏む音をできるだけ小さくして近づき、布団の端をめくる。寝汗で湿った前髪が額に貼りついていて、目尻には乾きかけた涙の跡があった。


昨夜、絵里の袖を掴んで、離さないと駄々をこねていたときの泣き顔と同じだ。


「……起きてください。今日から一年生ですよ」


そう言いながら、ユリは頭に手を置いた。なでるのではなく、ほんの少し押しつけるようにして揺する。絵里がいつもそうしていたのを、横で見て覚えたやり方だ。


「……一年生なんて、何回目だよ」


布団の中から、くぐもった声が返ってきた。


ユリは一瞬だけ黙って、それから、淡々と答える。


「今日のは、もう一度はない一年生です」


自分で口にして、言葉の重さに気づく。坊っちゃまが再び呻いた。布団の隙間から覗いた目は、まぶしさと眠気と、それから言葉にできない何かで濁っている。


「……絵里は?」


とうとう、その名前が出た。


ユリは、用意していた返事をそのまま口に乗せる。夜の台所で三人で決めた、唯一の“嘘ではない言い方”。


「支度をしています。出征の」


「ふうん……」


それ以上、坊っちゃまは何も言わなかった。黙ったまま仰向けになり、天井をじっと見ている。


ユリは、そこで初めて、軽く髪をなでた。昨夜、絵里が示した通りのリズムで。眉間の皺が、少しだけ緩む。


「起きてください。朝ごはん、ちゃんと食べてください。今日は……見送らないといけないから」


「見送らないといけないのは、どっちだろうな」


誰に向けたわけでもない呟きだった。ユリには、その意味を深く考える余裕がなかった。


彼を起こしさえすればいい。顔を洗わせて、制服を着せて、食堂まで連れて行く。それが、自分に与えられた線路なのだと、自分に言い聞かせる。


布団から這い出してくる坊っちゃまを見届けてから、ユリは部屋を出た。戸を閉める直前、振り返ると、彼が一瞬こちらを見た気がしたが、確かめる前に木目が視界を塞いだ。


廊下に戻ると、真理が壁にもたれて煙草を手の中でもてあそんでいる。


「吸わないんですか?」


「今日はやめておく。父が出征した朝を思い出すから」


真理は、煙草をそのままポケットに戻した。


「……似てるんですか?」


「空気の色がね。やけに薄くて、音がよく響く感じが」


そう言ってから、真理は短く息を吐いた。


「こっちも支度しましょう。絵里さん、たぶんもう出る寸前ですよ」


二人で廊下を歩いていくと、庭に出る縁側の先が、いつもより明るく見えた。まだ太陽は高くないのに、木戸の外に停まった軍用トラックの塗装が、妙に白く浮かび上がっている。


屋敷の玄関先では、既に絵里が立っていた。軍服の襟元をきちんと留め、髪を首の後ろで一つにまとめている。見慣れたエプロンがないだけで、別人のように見えた。


「遅いわよ、あなたたち」


声だけは、いつもの絵里と変わらない。


「坊っちゃまは?」


「起きました。今、顔を洗っています」


「そう」


それだけ言って、絵里は庭の方に視線を向けた。まだ誰も手を入れていない花壇に、去年のコスモスの茎が、乾いた灰色のまま残っている。


「あの花、今年は咲かないでしょうね」


誰に言うともなく、ぽつりと言う。


「……私、種、取っておきましたよ」


ユリが小さな声で返すと、絵里は驚いたように、少しだけ目を見開いた。


「いつの間に」


「去年の秋です。坊っちゃまが遊んでいる間に」


「優秀ね。じゃあ、来年植えなさい」


「来年……」


ユリは、そこで言葉を飲み込んだ。来年がどうなっているのか、この場の誰にも分からない。分からないことを、知っている。


真理が、わざと間延びした声を出した。


「来年も再来年も、坊っちゃまの世話が続いていたら、そのうち義務教育の年限も超えますね」


「帝国に逆らうのはやめなさい」


絵里がぴしゃりと言う。その鋭さに、三人ともほんの少し救われる。


玄関の戸が開いて、坊っちゃまが出てきた。


きちんと着せられた新しい制服、まだ固い布地。胸元の白い「一年」の名札だけが、妙に幼く見える。足元を見れば、靴紐はやはり少し緩い。真理がさっき直しても、歩けばすぐに形が崩れる。


「……おはようございます」


かろうじて、それだけ言った。絵里の顔は、見ない。


「おはようございます、坊っちゃま」


絵里がきちんと一礼する。その礼は、主人に対するものでもあり、今日限りで屋敷を出るひとりの兵士としての、けじめのようにも見えた。


「行ってきます、とは言わないのかしら」


絵里が、少し意地悪そうに笑う。


坊っちゃまは、しばらく黙っていた。口を開けては閉じ、視線は庭の石畳の上を行ったり来たりする。


「……行ってこいよ」


ようやく出てきた言葉は、子どものものでも、大人のものでもなかった。


「僕はここで、寝たり、起きたりしてるから」


「ええ。ちゃんと寝たり起きたりして、頭を使いすぎないで待っていなさい」


絵里は、そう言ってから、ほんの一瞬だけ手を伸ばしかけた。坊っちゃまの頭に触れかけた指先は、途中で止まり、空中で小さく握られて引っ込む。


代わりに、その手は自分の帽子の庇をつまんだ。


「では、いってまいります」


形式どおりの言葉。けれど、その声には、昨夜の台所では見せなかった硬さが混ざっていた。


門のところには、既に近隣の女子学徒たちが集められていた。皆、一様に同じ軍服を着ているはずなのに、家ごとの生活の違いが、細部に滲んでいる。きちんと手入れされた靴、借り物らしい大きすぎる服、帯紐が少し曲がっているもの。


彼女たちは、鴨志田家の玄関から絵里が出てくると、一斉に姿勢を正した。その視線は、憧れと恐怖と羨望とで、どれともつかない色をしている。


ユリは、ふと気づく。絵里は、屋敷の中にいるときと同じように、彼女たちを「女子学徒」としてではなく、「台所に新しく入った見習い」のように見る癖を捨てていない。誰か一人一人の背丈、肩の線、眼差しの向きまで、無意識に見ている。


それが、これから先、この子たち全員が向かう場所とは、まるで噛み合っていないように思える。


「ユリ」


名前を呼ばれて、ユリははっと顔を上げた。


「坊っちゃまを、任せます」


絵里の言葉は、短かった。


「……はい」


それしか言えない。それ以外の言葉を口にした途端に、自分の中の何かが崩れてしまう気がした。


真理は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ顎を引いてみせ、それが彼女なりの敬礼になっていた。


トラックのエンジンが、ふたたび低く唸り始める。


絵里が荷台に乗り込むとき、誰も泣かなかった。泣くという選択肢が、今朝の空気には最初から用意されていないかのように。


エンジン音が高まり、車体が揺れ、門がゆっくりと開く。


動き出したトラックの後ろ姿は、思っていたよりも小さかった。あれほど大きな存在だった絵里が、その箱の中の一人にすぎないことが、信じられない。


やがて、トラックは角を曲がり、見えなくなった。


静寂が戻る。その静けさは、昨夜の台所のそれとは違っていた。何かが確かに減っている。音でも、匂いでもない、説明のつかない何かが。


ユリは、自分の両手を見下ろした。さっきまで、絵里のエプロンの端をつまんでいたはずの指は、宙をつかんだまま、行き場を失っている。


「……行きましょうか、坊っちゃま」


振り返ると、坊っちゃまは、まだ門の方を見ていた。風もないのに、前髪だけがわずかに揺れている。


「学校、遅刻しますよ」


「遅刻ぐらい、どうでもいいだろ」


口ではそう言いながら、彼はいつものようにユリの半歩後ろへ回り込んだ。視線を逸らすように、玄関の石段を降りる。


真理が、小さく呟く。


「地球が静止しても、チャイムは鳴りますからね」


その言い草が妙に可笑しくて、ユリは少しだけ笑った。笑いながら、胸の奥のどこかが、きしりと音を立てる。


屋敷の門が背後で閉まる音は、今日だけは、いつもよりずっと重く響いた。

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