タイトル未定2025/12/08 22:23
「前夜 —女子学徒出征前・鴨志田家台所—」
夜の屋敷は、びっくりするくらい静かだった。
遠くでだけ、軍用トラックのエンジン音が、海鳴りみたいに低く響いている。
鴨志田家の台所。
ランプの芯を絞った灯りの下で、湯気だけがやけに元気だ。
ちゃぽん、と土鍋の中で湯が跳ねる。
「……味噌、ちょっと薄いですね」
真理が、木杓子でそっと味噌汁をかき回しながら言った。
いつも通りの無愛想な声だが、手つきだけは妙に丁寧だ。
「戦地配給よりは百倍マシよ。贅沢言わない」
テーブルの端では、絵里が自分の軍服の襟をいじっている。
普段のメイド服ではなく、女子学徒用のカーキ色の詰襟。
胸に付いた「大日本帝国女子義勇軍」の徽章が、ランプの光で鈍く光った。
隣でユリが、その徽章をじっと見つめている。
「……本当に、行っちゃうんですね、絵里さん」
「“行っちゃうんですね”じゃなくて、“行ってきてください”でしょ、下級メイド」
「は、はい。行ってきてください、絵里さん」
「棒読みやめなさい」
絵里がため息をつく。
ため息の癖まで、ユリと真理はもう何百回も見てきた。
少し間があいた。
「……坊っちゃま、寝ました」
真理が鍋の火を落としながら言う。
「やっとね。あれだけ暴れてたもの」
「『僕も行く』って泣き喚いてましたからね。あのままだと、本気で志願書書きかねないですし」
「書いても誰も読まないわよ。侯爵家嫡男を女子学徒と一緒に特攻に出すほど、帝国も愚かじゃない」
「……愚か、じゃ、ない……かなぁ」
「そこは黙っときなさい、真理」
絵里が、苦笑とも自嘲ともつかない顔をする。
ユリはまだ黙ったまま、絵里の袖を指先でつまんでいた。
「ねえ、ユリ」
「はい?」
「ちゃんと聞いてる? 明日から、あなたが坊っちゃまの一番近くに付くのよ」
「……はい。でも、麻里さんがいるから、大丈夫かなって」
「安心するのは勝手だけど、坊っちゃまの“例の後始末”は全部あなたよ。私はもう、あの地獄から解放されるの」
「いやいやいや、そこはむしろ“すみませんでした”じゃないですか? 自分だけ出征してトイレ係から逃げるなんて」
真理がすかさず突っ込む。
「黙りなさい真理。私は帝国の命令で前線に行くの。トイレ係から逃げるためじゃない」
「はいはい。“祖国のため”ですね。分かってますよ」
真理の言い方は刺々しいが、声の奥には少しだけ、焦りに似た熱があった。
しばらく三人とも黙った。
外で、またトラックの音がした。
誰かの家族を乗せて、どこかの集結地に向かっているのだろう。
「……怖くないんですか?」
沈黙を破ったのは、ユリの声だった。
絵里は、軍靴の紐を結びながら、ほんの一瞬だけ手を止める。
「怖いわよ。馬鹿言わないで」
「ですよね」
「でもね」
絵里は、結び終えた紐を指で軽く引いて、きゅっと締め直した。
「ここで坊っちゃまの世話を続けるのも、別の意味で怖いのよ」
「ひどいですね、絵里さん」
真理が笑う。
「だってそうでしょ。あの子、放っておいたら“世界全部のスイッチ”に手を出しかねないわよ。
PAKKOMANN がどうとか、D兵器がどうとか、ああいう話を目を輝かせて聞いてる小学生なんて、まともじゃないわ」
「……まぁ、そこは同意です」
「だからね」
絵里は、机に置いてあった湯飲みに手を伸ばした。
まだほんのりと湯気が残っている。
「誰かが前線で、ちゃんと“終わらせる側”に回らないと。
坊っちゃまに“終わらせる役”を回したら、多分、世界ごと壊れる」
「自分の命と引き換えに、坊っちゃまの暴走を止めるってことですか?」
真理の言葉は、生々しい。
「かっこよく言えばそうね。実際は、ただの一兵卒よ。
女子学徒の一人として、PAKKOMANN に食われるか、核に焼かれるか」
絵里はあっさりと言って、湯を飲み干した。
ユリが小さく震える。
「……絵里さん、そんな、軽く言わないでください」
「軽く言わなきゃ、怖くてやってられないでしょ」
絵里はユリの方を見ずに、空の湯飲みをころっと伏せる。
「でもね、絵里さん」
珍しく、真理が言葉を選ぶように口を開いた。
「坊っちゃま、一応分かってますよ。
“自分のために誰かが死ぬかもしれない”って」
「分かってないわよ。あの泣き方は、完全に赤ん坊だったじゃない」
「泣き方は赤ん坊ですけどね」
真理は肩をすくめる。
「でも、さっき薬飲ませるとき、“これ戦地で飲むの?”って聞いたんですよ。
『絵里が怖くて眠れない時に飲む薬?』って」
絵里の指が、ぴくりと止まった。
「……そんなこと、言ってたの?」
「はい。“僕はここで待つ薬を飲むから、絵里は向こうで飲めよ”って。
まあ、その後で『やっぱり全部飲んでいい?』って言ったんで、いつも通りですけど」
「いつも通りじゃないでしょ、それ」
ユリが、少しだけ笑った。
笑いながら、目元に溜まった涙を袖で拭う。
「……ずるい子ね、あの坊っちゃま」
絵里が小さく呟く。
「ずるいのは昔からですよ」
真理もどこか楽しそうに言う。
「自分じゃ何も決められない顔して、
気づいたら周りの人間が全部“重い役”引き受けてる。
気がついたら、絵里さんも、私も、ユリも、みんなそうなってる」
「真理さんもですよ」
ユリがそっと口を挟む。
「さっき、坊っちゃまの靴ひも、結び直してました」
「見てたの? あれは……安全管理です」
「はいはい、安全管理」
絵里が笑った。
今度は本当に、少しだけ柔らかい笑いだった。
「ユリ」
「はい」
「明日から、あなたが“坊っちゃまの人間”の筆頭よ」
「……私が、ですか?」
「そうよ。真理は“家”の方を見る。私は“戦線”を見る。
あなたは、ただ目の前の一人だけ見てなさい。
あの子がまた、わけの分からないことを言い出したら――」
「頭殴ればいいんですね?」
ユリの即答に、真理が吹き出す。
「お行儀悪いわね、あなたたち」
絵里も笑いながら、しかしその目は真剣だ。
「……本当に危ないときだけよ。普段は、撫でてあげなさい。
あの子、頭撫でられると、すぐ寝るから」
「知ってます」
ユリが、少し誇らしげに胸を張る。
「今日も、そうやって寝かせました」
「そうね。助かったわ」
絵里は、立ち上がった。
軍服の裾が、ランプの光を受けて揺れる。
さっきまで“メイド長”だった人が、はっきりと“兵士”の輪郭をまとった瞬間だった。
「絵里さん」
ユリが呼び止める。
「何?」
「……帰ってきても、いいんですよ?」
絵里は一瞬きょとんとした顔をして、それからくすっと笑った。
「当たり前でしょ。帰ってきて、坊っちゃまの“例の帳簿”を全部燃やすのよ。
あの子の黒歴史は、私の手で処分するの」
「それは私の楽しみだったのに」
真理が口を尖らせる。
「あなたは証拠写真を撮ってから燃やそうとするからダメなの」
「よく分かってるじゃないですか」
三人の間に、ほんの短い、普通の女の子たちの笑い声が生まれた。
戦争も帝国も PAKKOMANN も、いったん遠くへ追いやられる。
笑いが少し落ち着いたところで、絵里がぽつりと付け足した。
「……帰れなかったら、そのときは」
ユリと真理が、自然と背筋を伸ばす。
「そのときは、坊っちゃまの前では絶対に泣かないこと。
“あの馬鹿なメイド長、またどこかでサボってるんだろうな”って笑ってなさい」
「それ、無理ですよ」
真理が即答する。
「私、たぶんキレます。『勝手に死んでんじゃねぇよ』って」
「私も、たぶん泣きます」
ユリも、まっすぐに言った。
「坊っちゃまの前で」
絵里は、ほんの少しだけ目を見開いて、それから肩を落とした。
「……そうね。好きにしなさい」
「はい」
「はい」
絵里は二人の返事を聞いて、もう一度だけ、ランプの明かりを見上げた。
「じゃ、行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、絵里さん」
「ちゃんと帰ってきてください。坊っちゃまの首輪、まだ外してないんですから」
真理の言葉に、絵里はふっと笑った。
「分かってるわよ。あの子の首輪の鍵は、私の仕事だもの」
そう言って、絵里は台所を出ていった。
戸が静かに閉まる音のあと、
遠くでまた、トラックのエンジン音が重なった。
ユリはしばらく扉を見つめていたが、やがてぽつりと言う。
「……真理さん」
「なに」
「私、明日から、ちゃんと坊っちゃまの頭、撫でられるかな」
「撫でられなきゃ、殴ればいいでしょ」
「え……?」
「どっちも“起きすぎた頭を止める”には同じですよ」
真理は、空になった鍋を流しに運びながら続けた。
「絵里さんがいなくなった分、私たちがやることが増えただけ。
戦地も、屋敷も、大して変わりませんよ」
ユリは小さくうなずいて、ランプの芯を少しだけ絞った。
光が、ほんの少しだけ弱くなる。
鴨志田家の夜は、その薄くなった光の中で、ゆっくりと次の日を待っていた。




