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10月15日

過呼吸に似た苦しさに胸を抑え、京子は渦巻いた感情の中で助けを求める様に八重を見つめた。

「さっきの言葉は気にする必要はない。それから鏡を見てみろ。今のお前は傾いている。真っ直ぐに立って俺を見ろ。話はそれからだ」

珍しい事だと八重は思う。

ここまで取り乱した『荒木 京子』を八重は見た事が無い。

何時も平然と、飄々としている彼女の姿は何処にもない。

そこには年相応に現状と感情に振り回されている少女が居るだけだ。

「八重くんに、私は酷い事を……」

長い髪で視線を覆い隠し、八重と目線を合わせたがらない京子は呻きながら、自分の足下に意識を逸らす。

「さっきも言ったが、敢えてもう一度言う。気にしていない。お前の言った事は事実ではあるがその実、今の俺の現状とは異なっている。俺は此処に生きているし、俺はあの場所で死んだ。それを酷い事だと思えるということは、今のお前が正常な感情を伴っている事を何より証明している。それは誇る事であっても、悔やむ事ではない」

八重の言葉は対当性とは程遠いとも感じる事が出来る言葉の羅列で、京子にとっては耳に心地よく意味を理解する度に自分が惨めに感じるのだ。

「八重くんは全然分かってないさね……」

そして、やはりとも言うべきか熱と体温と混じり合った二人の言葉の数程、京子の思考も、言い訳という名の熱に犯されていく。

「狡いさね、八重くんは……」

どんなに強固な理性を伴っていたとしても無理を続ければ綻びが生じ、何時かは終わりが来る。

緩やかに元の位置からズレるとしても、最後に落ちる瞬間とはとてもではないが知覚出来る早さではない。

だから、落ちて初めて『荒木京子』は気付く事が出来た。

今日は奇しくも秋にも関わらず記録的な猛暑日で、夕方の陽が西の空に居座っている。

これでは、この間の様に夕闇の暗さに誤魔化す事も間々ならないだろう。

電気を消したとて、この頬に差す赤さを、この表情を、溜まった涙の痕跡をきっと目の前の彼に知られてしまえば、きっと八重はことごとく京子が内に秘めているそれらの感情を受け入れて、言葉に昇華してしまう。

だから、そんな事はさせてはいけない。

その行程を踏むのはあくまで京子であって、八重であってはならない。

だが、あんな酷い事を言った手前、背を向ける事だけは京子の真理が赦さない。

少しの矜持と鬩ぎあう感情は、僅かな猶予を持って、答えを出した。

「……なんだ、これは」

八重も、そしてその行動を起こした京子自身も驚いていた。

即ち京子の取った行動とは、八重を正面から抱きしめるという物だった。

腕を八重の背中に回しガッチリとホールド。

ただ二人は身長差がある為、八重の胸元に京子は顔を押し付けていた。

「絶対に!私が良いというまでは、離さないさね!」

突然の宣言に、八重は引き剥がそうとした手を緩める。

「何事だ?俺は捕まったのか?」

「そうさね!現行犯さね!」

此処まで来れば京子のこの行動は最早やけっぱちだった。

それでも……

たとえやけっぱちだったとしても、八重の優しさに縋る事だけはあってはならない。

京子はもう一人の大切な友人と約束した。

これは一人で終わらせる事だと。

手は借りないと……

宣言した

言い切った言葉を覆す訳にはいかない。

今の胸中の感情に任せて、目の前に居る彼に縋れば、きっと迷わず答えが出てしまう。

八年も先を行く八重であるならきっと、この『荒木 京子』が求める答えを知っているのかもしれない。

それでも。

今すぐに知りたかったとしても、今それを聞く訳にはいかない。

「私はねえ!迷って!もがいて!遠回りでも、私が一人で答えを出すまでが!私の芸術さね!それは八重くんでも邪魔はさせないからねえ!」

「なるほど、確かに邪魔をするのは俺の本意じゃない。だがそれは具体性に欠けている。何をしてはいけないのか、具体案を教えてくれ」

「簡単だよ!朝は挨拶をして!一緒の教室で授業を受けるさね!昼はまた皆で此処でお昼を食べて、どうでも良い話をして、グループで夜までちゃんとメールのやり取りを八重くんもするだよ……それで、それで……」

「随分と、俺も一緒にやってもいいんだな。いいのか?一人で答えを出すんじゃないのか?」

「私は一人で答えを出す。でも、それは八重くんが居てくれないと最後の結論が出ないさね」

八重の脳裏に過るのは、京子が言っていた自分の作品との対決の事だ。

未来から来た八重は文化祭展示で出来上がった京子の作品の完成型を知っている。

確か京子は自分の絵にしか興味がなく、それ故に、違う自分の絵を知っている八重にその判断を任せたいという旨を伝えてきていた。

だがきっとそれだけではないのだろう。

「京子が言いたいとしている事は何となく分かった。だがそこまでしてもう一人の自分に勝つ必要があるのか?」

八重の質問に、恐ろしい静寂が場を満たし、全ての表情が抜けた京子と八重の瞳がかち合った。

「……まぁねえ、そりゃ分かってたんだけれどねえ、いざこうして、はっきりと言われると余計に腹が立つものだねえ」

抱きついても眉一つ動かさず、その動作に一つとして揺らぎがない事から、うら若き京子が抱きついた事ですら、八重にとって感情を動かすに足る出来事でなかったのだろう。

だが、京子はそれが我慢ならない。

自分だけがこんなにも乱れているのに、何故八重は平気そうに受け答えができるのか?

あの鉄の様に変わらない表情を壊したい。

笑うでも怒るでも悲しむでもいい、八重が今浮べている、慈しむ様な表情を見完膚なきまで壊したいと願ってしまう。

今の京子では何かが足りないと感じるのはきっと間違いではない。

こんなに近く、体温の分かる距離に居るのに、もう一枚、後一歩が、八重に届いていない。

「八重くん。私は、向こうの私を超えてみせるさね。だから今の私が向こうの私を超えられたら、一つだけ私のお願いを聞いてくれないかい?」

向こうの荒木京子は強敵だ。

そんな事は絵を見なくとも容易に想像が出来る。

なんと言っても親友を亡くした私が相手だ、一筋縄ではいかない事ぐらいは安易に想像がつく。

「……お願いか、お前の絵を見る対価としては、些か差し出す対価としては足りないかもしれないが、俺の出来る範囲で良いのであれば応えよう。ただし条件付きだ」

「条件かい?」

京子は条件という八重の言葉に、小動物の様にちょこんと小首を傾げた。

「大した事ではない。二週間後の文化祭最終日までに絵を仕上げてくれ。でなければ、俺はお前の願い事には応えられないかもしれない」

「スランプだって言ってるんだけれどねえ、全く無理難題を課して来る人さね。まぁ、でもこっちからお願いしているのだから、そのぐらいの条件は飲まなければいけないんだろうねえ」

「なら、約束だ。京子お前は文化祭最終日までに、俺の知る『荒木 京子』を超える作品を描き上げる。そして俺はお前の願いを一つ、俺が叶えられる範囲で叶える」

「異論はないさね、ただ作品の出来に関して嘘だけは付かないで欲しい。それだけ約束してくれるかい?」

八重だけが知るもう一つの絵に感して八重はいくらでも、今の京子を勝たせてやる事が出来る。

だが、八重には最初から不公平なジャッチをするつもりなど毛頭ない。

「約束しよう。お前の作品に関して嘘はつかない。これは絶対だ」

一つ確かめる様に頷いた京子は、広げていた絵を描く為の道具を片づけ始める。

「それじゃあ帰るとしようかね」

「……絵は描かなくてもいいのか?」

京子は、描くと言ってこの場に残ったものの、一度としてその描きかけの絵に筆を乗せていなかった。

「意地悪さね、今日描いても絵の具を無駄にするだけさ、そしたらまた買いに行かなくちゃいけないさね。私は行った筈さ、私は無駄に歩くのが、嫌いなんだよ」

振り返った彼女に、先までの弱々しさはなく、出会ったばかりの頃を彷彿とさせる凛とした佇まいは、何時通りの荒木京子で、一日最後の西日の最後の光が横顔を照らし出す。

夕日の赤とオレンジのコントラストが生み出す幻想的な佇まいに、八重はまた少しだけ広がった左目の視界に彼女の大人びた姿を映したのだった。

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