10月15日
クラスメイトでもなんでもなかった当時の信吾と京子の仲は、他人同然で信吾が声を掛けた開幕一番に警戒を露わにされた事が印象的だった。
『なんで、一人で居残りしてるんだ?』
そんな一声を掛けたのを覚えている。
そうすると京子はもっと不機嫌そうにこう言ったのだ。
『他の人間が、先に帰ったからに決まってるさね』
『絵描いてるのか?』
『見て分かる事を一々聞かないでくれないかい?悪いけど、今は集中したいから用事がないならさっさと消えてくれるかい?』
初めてはそんな短い言葉を連ねた出会いだった。
信吾からすれば印象は最悪とまでは行かずとも、最悪の一歩手前だったと言える。
そして、次の日も、その次の日も彼女は不機嫌そうに居残りをしていた。
だから連日信吾はその横顔に声を掛け、素気無く返される日々が続いた。
『なあ、何でそんなに何時も何時も不機嫌そうに一人で居残って絵を描いてるんだ?』
そんな最中のある日、信吾は何の気無しにそんな質問を投げかけた。
すると京子は珍しく筆を置き、視線だけ信吾を見て……
『あんたみたいなお喋りが、この美術室にも居るからさね。言ノ葉ちゃんに言われて部活に入ってみたけれど、こんな事なら部活なんぞに入るんじゃなかったねえ』
初めてこの時信吾はこの、『荒木 京子』との会話に成功した。
『お前の集中出来る環境があればいいのになぁ』
『なら私の集中出来る環境の為に、今すぐ消えてくれないかい?』
彼女が仄かに、微笑んだ様な気がして、信吾は少しだけ胸の奥に温かさが宿った来たがした。
『へいへい、分かりましたよぅ、今消えますから安心して作業に勤しんでくださいよ〜』
戯けてみせて、何事もなかった様に振る舞ってその次の日も、そのまた次の日も京子ヘ会いに別棟一階にある美術室へ顔を出した。
そしてあの日がやってきた。
忘れもしない、
『太田 信吾』という人間に『荒木 京子』が刻み込まれた日だ。
その日は何故か、何時も見る京子の横顔が何時もより上機嫌だった。
晴れやかだったと言って言いだろう。
いつも通り静かに美術室の扉を開けると、その上機嫌は少しだけ不機嫌になった。
『なんだい、今日も懲りずに来たのかい?まぁ毎日皆勤賞でご苦労な事だねえ』
『もう俺にとっては日課みたいになってるからな!それで?今日は調子がいい感じじゃねえ?つうか何か何時もより上機嫌じゃん』
此処まではいつも通りの『荒木 京子』で……
そして此処からが何時とは違う『荒木 京子』だった。
『そうさね、丁度今これで終わるから、暇なら黙ってそこで見てるといいさね』
いつもなら、二の句を継ぐ事無く、この部屋を追い出されて居たのだが、この日はそうならなかった。
『……居て、いいのか?』
気遣う様に尋ねた信吾に、視線をくれる事無く、京子は筆を走らせながら口を動かす。
『黙っているなら、居ても良いさね』
信吾は入り口、入ってすぐの席に腰を下ろし一心不乱に紙に向かう京子の姿を眺めていた。
アクリル絵の具の匂いが充満する、斜陽のキツくなった美術室に筆を走らせる微かな音と壁掛け時計の秒針が交互にリズムを刻む。
どのぐらい経っただろうか?
しっくりと描く彼女の姿を信吾は永遠に見ていられる気さえしていた。
一分或は一〇分程度だったか?終わりの合図は京子が顔を上げた時。
汗を拭おうと京子は手で顎を擦り、緑の一筋の一線を自身の顔に描く。
『さぁ、出来たよ。感想を聞かせて欲しいねえ、お前さんがこの絵の一番乗りだ』
信吾は今まで見た事の無い無邪気な笑顔と、何時もより強引な京子に腕を引かれて、信吾は絵の前まで引っ張って連れて行かれ……
その絵を見て言葉を失った。
『どうだい?私の子さね。自慢の子供はやっぱり見せたい相手に一番に見てもらいものさね』
信吾にとって『荒木 京子』は特別ではなかった。
だがこの時から『太田 信吾』にとって『荒木 京子』は特別になった。
『これって……すげえよ!俺、美術とか全然わかんねえけどよ!お前のこの絵はすげえ!俺よくわかんねぇから、上手くは言えねえけどさ!多分お前天才だって!』
信吾は、この時自身の語彙力の少なさが何よりもどかしかったのを覚えている。
でもこの感動は……
彼女の苦悩を少しでも知る信吾自身が伝えなければいけないと思ったのだ。
『そうかい?いやぁ照れるじゃないかい……あっ……そういえばアンタ名前なんて言うんだい?聞いていなかったねえ』
『え?俺の名前?そういえば言ってなかったな、俺は太田信吾!バスケ部の一年だぜ』
『そうかい、私も一年生だよ。美術部の一年、荒木京子さね。それにしても身長が大きいから先輩だと思ったけど、同じ一年ならもっとしっかり追い返せば良かったねえ』
しっかり追い返されていらと思うと、怖くも感じる信吾だが、今はそんなこすらどうでもよかった。
『なんだよそれ!つうか、俺が来たから完成した様なもんじゃねえ?俺に感謝してもいいんだぜ?』
『言い得て妙だけれど、でもちゃんと終わったのはアンタのおかげさ。太田くんが来たから私も投げ出さないで此処に居続けられた、完成したのは太田くんのおかげさ。毎日追い返して悪かったねえ』
キュッと両手を包まれ信吾はドギマギしながら迂闊にも見上げて来る京子の両目を見てしまった。
『ありがとう、太田くんのおかげさね』
きっとこれが、全ての切っ掛けだったのだ。