完太郎の日記~密告
今日は朝から外回りの仕事だった。
完太郎が業務用のバッグに法令集とか仕事のためのアイテムを詰め込んでいると、背後から上司の佐々木瑞穂主任が声を掛けた。
「あら、高橋君。今日は確かヨコハネタクシー本社だったわよね?」
「そうですけど」
「あそこの社長は曲者だから覚悟しといてね(はぁと)」
明るい声でそう言った。
高橋完太郎は、横浜にある労働基準監督署に勤務する労働基準監督官である。
今、佐々木主任に念押しされたヨコハネタクシーに関しては、完太郎はすでに先日労働時間調査の名目で、立入り調査をして労務の担当者に会い、書類関係を確認していた。
今日は社長にアポを取ってあり、先日の調査の結果を踏まえて監督署としての考え方について話をしたい、つまり法令に照らし行政機関としての勧告指導をしたいと言う訪問の目的を伝えてあった。
実は今回のヨコハネタクシーへの立入り調査には裏があった。
ヨコハネタクシーに勤務する運転手を名乗る人物から匿名の投書があったのだ。会社で法令の基準を大きく上回る時間外労働が行われていると。
いわゆるタレコミなのだが、ヨコハネタクシーについては最近電話による匿名情報も何件か寄せられており、それらはどうも投書と同じ人物によるものと思われた。
もちろん会社側にはタレコミがあったことは隠している。
あくまでもたまたまお宅が調査対象になり、調査の結果違反事実が発見されましたと言う事にしたいのだ。
でないと密告した社員が社内で特定された場合、当人が不利益な待遇を受けたり、最悪の場合首になったりする可能性があるからだ。
まあタクシー会社の勤務時間なんてどこも似たり寄ったりだが、ヨコハネは特に酷かった。
労務担当者という事務員に見せられた書類からは、会社で違法な長時間残業が行われている事実が丸わかりだった。
とにかく運転手の運行時間が長い。1日の勤務が終わった後、次の勤務の開始までに睡眠時間も満足に取れないケースが多々ある。休日が碌に取れていないドライバーもいる。
これは完全な確信犯だ。
ヨコハネタクシーは、他のタクシー会社と比べて安価な料金設定で売り上げを伸ばした。
それも社長の強引な経営手腕によるところが大きかった。
佐々木主任が言ったようにかなりの曲者であり、監督署の言う事にはこれまでも耳を貸さなかったと言う話を聞いている。
完太郎は憂鬱な気分で会社を訪れた。
受付で来意を告げると、すぐに社長室に通された。
形だけ名刺を交換した後、完太郎はソファーを勧められたが、佐々木瑞穂主任の言うとおり、社長の態度は最初から非協力的だった。
「本日はお忙しいところ、お時間を取っていただきありがとうございます」
「そうだね」
社長は40歳を過ぎたくらいの、筋肉質で脂ぎった風貌の男で、ワンマン経営者というのはこういう人物なのかと思わせた。
この運転手は1ヶ月の労働時間がかくかく、この運転手は連続して乗車する時間が基準を超えており云々…と言う、完太郎が何日もかけてまとめた立入り調査結果についての説明を、社長は聞き流し、平然とした態度でこう言った。
「そもそもタクシー運転手は客を乗せてナンボだろう。客を乗せれば乗せるだけ運転手の実入りはよくなるんだ。うちではそのへんも踏まえて運転手の自由にさせているんだがね。十分な報酬も払っているつもりだ」
「しかしですね」
運転手にかける負担にも限界がある。
長時間労働が続き、疲労がたまれば交通事故を起こしかねない。
業務体制の改善が必要であると、完太郎はさらに熱弁を振るった。
「お聞き届けいただけなければ、こちらとしては行政処分、最悪の場合司法処分の手続きを取らせて貰う事になります」
「私は一向に構わんよ。好きにするといい」
取り付く島がない。
こういう態度を取る経営者は少なからずいる。
完太郎は経営者として法律を守る事の重要性を切々と説明したが、社長はどこ吹く風である。
実のところ、裁判所の命令を受けた場合、支払う罰金は残業代の差額に比べれば微々たるものだ。とはいえ、起訴される事による社会的信用の失墜など、企業にとっては損失が大きい。
しかし、監督官にしてみれば、事件送致するには膨大な手間と時間を要する事になり、簡単に事件捜査に踏み切る事は得策ではない。
粘り強く説得してことらの言い分を認めさせる事が肝要なのだが、社長はそうした事情を知ってか知らずか、開き直る態度を崩そうとしない。
「あのねえ、悪いんだけどこのあと人に会う約束が入ってるんだ」
社長が言った。出ていけと言う意味らしい。
いったん退くしかなさそうだ。完太郎は溜息をついた。
「わかりました。改めてまた窺います」
「何度来ても私の考えは変わらんよ」
けんもほろろであった。
完太郎は憤懣やるかたない気持ちを抑えながら、部屋を出た。
善後策を考えなければならない。頭が痛かった。
郊外のファミレスの駐車場にカローラを停めて、完太郎は昼食を取った。
あまり食欲がなく、ただ噛んで、呑み込むだけの食事だった。
だがここでくじけてしまうわけにも行かないのだ。午後からも外回りの仕事が待っていた。
派遣関係の会社に勤めていると言う女性から、労働条件の事について相談があったのだ。こちらはきちんと名前を明かしているが、相談者は外で会いたいと言う。
仕事の都合や何やらで監督署の窓口には来られないらしい。
向こうから時間と場所を指定して来た。
車を10分ほど走らせ、川沿いの土手が続く一帯に出た。
携帯に入ったメールによると、この場所から見える5階建ての白い建物が待ち合わせ場所なのだが…。
何だか周囲の景色から浮いた洒落たデザインのビルが…。
ホテル・ティファニー…ってこれラブホじゃん!
もしかして騙されたのかもしれない、と完太郎は思ったが、着いたら携帯の番号に架ける事になっている。
気を取り直して番号をプッシュした。
「はーい、ミユキでーす」
「…? 横浜中央労働基準監督署の高橋と言います」
「あはっ、来てくれたんだ」
若い女の声だが、妙にウキウキしたような調子だ。
「301号室に来て。鍵は開けておくから」
非常に危険な匂いがしたが、ここまで来て後戻りするわけにも行かない。車は河川敷に停める事にして、誰にも見られないようにホテルの入口をくぐった。
階段を昇って、「301」と表示してあるドアをノックすると、中から「入って」と声がした。
部屋の広さはビジネスホテルのツインルームと大差ない。ただ、窓が封鎖され、外の明かりが差し込まない部屋の中央に、大きなダブルベッドが置かれている。
そしてベッドの端に腰掛けた女が、完太郎に向かって無邪気に笑いかけた。
「君がミユキさんかな?」
「そだよ、よろしくね」
まだ若い。20台の半ばくらいか。つまり完太郎と同じくらいの年恰好だ。
きわどいミニスカートを穿いており、ブラウスの胸元が大きく開いて、胸の谷間があらわになっている。
「で、こんなところに呼び出して何の用かな? 会社の労働条件の事で相談があるって話のはずだけど」
「それが聞いてよ。うちの社長ったらひどいんだよ。
あたしは真面目にお仕事してるのに、お客さんが来ないのあたしのせいにするし」
お客さんねえ…。
どうやら察しが付いて来たが。完太郎はミユキに訊いてみる事にした。
「で、君の仕事って?」
「うん、お客さんにここに来て貰う事もあるし、あたしがお客さんのところまで行く事もあるし――。お話したり、一緒にシャワー浴びたり、いろいろサービスしたりするよ」
デリじゃねーか!
派遣関係の仕事ってそういう事かよ?!
「君のところの社長って風俗の経営者ってこと?」
「ふだんは普通に会社勤めしてるよ。デリは副業でやってるんだってさ」
彼女はどうやらデリバリー風俗の仕事をしているが、店長に対して金のことで不満があるらしい。
客からの電話を店長が受けて、女性を割り振るが、思ったほどに客をあてがって貰えず、収入が少ないとミユキは言いたいのだ。
ミユキは自分から話し始めると止まらないタイプらしく、やれ気に入らない客ばかり付けられるとか、衣装代やボディシャンプーなどのアイテムが自分持ちで、と言った話を延々と続けた。
「この前のお客さんなんてあたしが嫌だって言うこと無理矢理しようとするんだよ」
いったい何をしようとしたんだよ、と完太郎は思った。
だがもし売春防止法とか、その手の法律に触れるのならこれはもう労働基準監督官の出番ではない。
「法律に反するようなら警察とか、保健所に話をする手もあるかもしれんばいけど」
「あ~警察はちょっとマズいかな――」
自分も警察みたいなものなんだがな。
労働法規に違反するなら経営者に罰則を与える事もできる。
ただこういう風俗関係のお仕事は勤務時間も曖昧だし、報酬も出来高払いとなっている事が多く、一般的な労働者とは事情が大いに異なるのだ。
完太郎はそのへんを彼女にやんわりと説明した。
「もういいよ、言いたい事話したらどうでも良くなっちゃった。今日はありがとね」
「どうでも良くなったって…」
完太郎は力が抜けていくのを感じた。
こういう言うだけ言ったらスッキリするというタイプの相談者も結構いる。
上司には相談者が取り下げたって報告しておけばいいか…と完太郎は考えた。
すると、
「そんな事よりさ…」
ミユキが身体を寄せてきた。
部屋には椅子がないので完太郎は彼女と隣り合わせにベッドに腰掛けている。
女が身体を密着させてくると、自然と大きく開けた胸の谷間が目に入ってくる。
「あたし、お兄さんとなら嫌じゃないよ」
ズボンの上から股間に触ってくるし…ヤバい、これはヤバいよ!
さっきから彼女に男と女の色っぽい話を聞かされて完太郎の下半身はすっかり元気になっていた。
いや、今勤務中なんですけど!
もし、こんな事が職場にバレたら…特に気の強い佐々木主任にどんな目に合わされるか!
ところが、
「あたしの話…真面目に聞いてくれて嬉しかったよ」
ミユキは急にしんみりした口調で言った。
「あたし田舎から横浜に出て来て、お仕事始めたけど…。田舎には昔あたしの事好きだって言ってくれたクラスメートがいてさ」
照明の暗い室内で、厚目の化粧をしているのでよくわからなかったが、彼女は完太郎が思ったよりも若いのかもしれなかった。
「その男の子が、何だかちょっとお兄さんに似てるんだ。思い出しちゃったその人の事」
ミユキは完太郎の顔を確かめるように、自分の顔を近づけると、両腕を首に回して抱きついて来た。
「だから…これはほんのお礼の気持ち」
行きずりの女性とのキス…。
でもそれは、折れかかっていた完太郎の気持ちを奮い立たせてくれた。
完太郎は目を閉じると、彼女を抱き締めた。
ああ…何だか今日は疲れた。
完太郎はフラフラとした足取りで、無言でフロントの前を通り過ぎ、1階にあるホテルの駐車場に出て目を止めた。おや? 来た時には気づかなかったが、タクシーが1台停まっていた。
これは例のヨコハネタクシーの車だ。
なぜこんなところにタクシーが? 客を乗せてここまで来たのか?
でも車には誰も乗っていないし、変だな。
窓越しに車内を覗き込んでみた。メーターが倒してある…。
完太郎の頭にある疑念が浮かんだ。
完太郎はホテルのフロントにとって返した。
フロントの窓をコツコツと叩くと、こちらに顔を向けたのは60過ぎと思われる婆さんである。
「労働基準監督署だが…」
完太郎は労働基準監督官の身分証明書を見せた。顔写真と名前を覚えられないくらいにさり気なく、すばやく。
ふえっ、と婆さんが驚いた。
「駐車場にタクシーが停まっているようだが…。ドライバーはホテルの客なのか」
「い…一日に何時間かお見えになられます。そういう契約でして…。あ、あの、ご案内するのはちょっと」
監督官が不審車両を取り締まったりしないのだが、適当に勘違いしてくれたようだ。
「その必要はない。なに、タクシードライバーが休憩を取るのは悪い事じゃないからな」
パズルのピースが合わさるように完太郎には真相が見えてきた。
それさえわかればもうここにいる必要はない。
目的を誤魔化すため、婆さんにホテルの勤務時間は何時から何時までだとか当たり障りのない質問をいくつかしたあと、完太郎はホテルをあとにした。
その後、完太郎が向かったのは、再びあのヨコハネタクシー本社事務所である。
今度は社長のアポイントメントは取っていない。
しかし完太郎は監督官の権限行使だと言ってなかば強引に社長の前まで押し通った。
「ひとつだけお伝えしたい事が」
「何だね」
と社長は露骨に嫌な顔をした。
刑事コロンボにでもなったような気分で、完太郎は社長に詰め寄った。
「おたくの車がメーターを倒したまま、ラブホテルの駐車場に停まっていたんです。僕は見ましたよ。どういう意味かおわかりですか?」
完太郎は社長の顔をにらみつけた。
ここで絶対に弱気になってはいけない。
「タクシー運転手の副業は禁止されているはず。これは陸運局への通報事案に当たります」
半分ははったりだった。ラブホテルの駐車場にタクシーが停まっていたとして、運転手が風俗の客を引いていたことの確証にはならない。
しかし、
「……」
社長の目の色が変わったように思えた。
陸運局に目を付けられれば、最悪業務停止処分もあり得る。
ヨコハネタクシーはその強引な営業方針で業界の他の会社から嫌われており、陸運局は何か問題があればここぞとばかりヨコハネへの取締りを厳しくするだろう。
交通運輸業の許認可権を握る陸運局は、タクシー会社の社長にとって、労働基準監督署以上に恐ろしい相手なのだ。
「車両のナンバーは控えてありますが…」
「いや、もういい。わかった」
それ以上聞く必要はない、と言うように完太郎の話をさえぎった。
もう少し抵抗するかと思ったが、あっさりとこちらの要求に応じる姿勢を見せた。
もしかすると社長にはすでに心当たりがあったのかもしれない。
「で、私は何をすればいいのかね」
「基準に沿った運行計画を策定し、監督署に提出していただきます」
「それだけか?」
「個々の運転手の時間管理については社長におまかせします。信用させてもらっていいんでしょう?」
「で、いつまでに?」
「1か月後でいかがです?」
「……承知した」
やった、と完太郎は思った。
難攻不落と思われたヨコハネタクシーのワンマン社長はようやく折れた。
あとは、ルーチンの手続が残っているだけだった。
完太郎がその場で作成した、指導の内容を記した書面に社長印を押したあと、社長が言った。
「ひとつ聞きたいのだが」
「何でしょう?」
「君はなぜ、そのようなホテルに行ったのかな?」
ギクリ!と思ったが、ここは落ち着いて答える場面だ。
「ホテルも第三次産業の事業所として監督署の取締りの対象になります。これも仕事ですよ」
そろそろ日が暮れる。
署に戻って、署長に一通りの話をすれば、それで今日の仕事は終わる。
完太郎は車のハンドルを握り締めながら、今日はいい日だ、という実感につつまれて行った。
それから何日かして…
「完ちゃーん、ヨコハネの社長に運行計画書の作成、呑ませたんだって? 凄いじゃーん」
佐々木瑞穂主任が相変わらず能天気な調子で完太郎に言って来た。
「私からのご褒美あげちゃおうかしらー…今晩どう?」
「え、いや…あの」
あぶないあぶない。
迂闊に誘いに乗ればどんな目に合わされるかわからない。完太郎は適当に誤魔化して、その場を離れた。
外回りに出かけようとしたとき、先輩監督官の山中が、窓口で相談者の対応をしているのが目に入った。
「…だけどねえ、あなたが会社を解雇されたのは明らかに服務規律に反する重大な問題を起こした事が原因じゃないですか」
会社を解雇されたので相談に来たようだ。40台くらいの小太りの男性である。
「会社は副業を禁止しているんでしょう。まあ、当然ですけど。あなたはそれに反して勤務時間中に副業に手を出したわけじゃないですか。会社のご判断はもっともだと思いますけどね」
懲罰規定に触れて会社を解雇されたので何とかしてくれと監督署に泣きついて来たらしい。
ちょっと話を聞いただけで解雇もやむなしという事案に思える。山中の声もしだいに荒々しくなっていく。
「…俺はね、監督署には協力してきたんだよ」
男が口を開き、弱々しく主張した。
「あのタクシー会社では違法な残業が横行してたんだ。俺は情報を提供してきた。監督署は何かしてくれたかね…」
「残業? 勤務時間中に副業やってて残業代まで貰えると思ったんですか?
あなたの場合、勤務時間中にホテルにいた事もはっきりしているんだよ! 言い訳のしようもないでしょうが!」
完太郎は理解した。
この男は例のヨコハネタクシーの運転手で、監督署に匿名の情報を送り続けて来た人物だ。
そして先日、完太郎にホテルの駐車場に車が停めてあったのを目撃され、その事が命取りとなって会社をクビになったのだ。
おそらくこの男性は、会社に監督署の指導が入れば、かなりの額の残業手当が払われて自分の実入りが増えると思ったのだろう。ところが、自身の流した情報をもとに完太郎が動いた結果、逆に自分の首を絞める結果になってしまった。
皮肉なものだ、と完太郎は思った。
「それに会社はちゃんと30日前の解雇予告をした上で解雇してるし、監督署としてもこれ以上如何ともしがたいですね」
毅然とした態度で山中が告げた。
男はうなだれるしかなかった。