吸血鬼かく語りき
★ブルウッド伯爵の場合★
500年前の月の美しい晩の事だ。
わたしは食事を終えて、紳士服とステッキといういでたちで、恒例の散歩に出た。
すると、橋の欄干に1人の少年を認めた。
華奢な後姿だった。歳の頃は15、6だろうか。
最近の子どもは野菜を毛嫌いしているから、こんなに細っこいのだろうか。嘆かわしい。ため息をついてから、わたしは思い直した。
いや、もしかしたら少年とみまごう少女かもしれない。この前食べた少女だって、声をかける前は少年だと、わたしは思っていたのだ。
今は腹八分目だから特に食指が動くわけでもない。が、その性別は気になる。わたしは橋が渡る川に沿うように繁る森、その闇に溶けるように移動をした。
溶けるようにというか、実際溶けているのだ。
橋の下、月光を遮る影に移動、闇にとけたまま川面から遥か上の子どもを観察。
美しい造形。少女のようだが、のどぼとけがくっきりと見える。ふむ。やはり少年であったか。
この前食べた少女と少し似ている。彼女も美しかったが、上位互換といったところか。ソバカスもない。顎元もすっきりとして、完璧な左右対称である。
わたしの長い生でもあまり見ないタイプの美である。始祖グリモワル卿の少年時代はこのような感じだったのであろうか。
わたしの存在する川面はせせらぎに揺らめいている。この川面の闇を覗く少年の顔は暗い。
今にも飛び降りそうな気配を感じる。
まあ、この世から人体が1つ減るだけの話だ。普段ならほうっておいて散歩を続行するところだが、何となく気になってしまったので、 わたしは声を掛ける事にした。
闇から体を起こし、水面に立つ。もちろん紳士服とステッキもばっちりである。
「少年、少年」
「え」
「何を思いつめているのかね」
「あ、ええと。世の中の全てに意味を喪ってしまったのです」
「ほう。思春期あるあるという奴だね。まあ、一種の病気だ」
「わかりません。が、僕は回復する見込みがありません。というより、この永遠の責め苦を、この橋から身を投げて、終らせたいと思ったのです」
「うむ。中々大した思春期病だ。なあ、少年」
「はい?」
「わたしは実は人ではないのだよ」
「そりゃあ、川の闇からむくむくとわきあがってこちらを見上げるのは、人間にしてはおかしいですよね」
「うむ。わたしはブルウッド伯爵。吸血鬼と恐れられるものだが」
この時、陰っていた少年の瞳が、さらに暗く沈んだ。
恐怖とは違う気がしたが、まあ怖くなって逃げ出しても、わたしは追う気はない。
美しい彼に、死を思いとどまらせたということで、鼻高々になれるだろう。たまにはこういう善行も悪くは無い。
「ちょっとまって下さい」
「ん?」
わたしは首を傾げた。
「吸血鬼って、川が苦手なんじゃないですか」
ああ、不思議に思っただけであったか。
と、納得しつつも愉悦がこみ上げる。とても嬉しい。
こういう事を聴いてくれる少年、中々気がきくではないか。
わたしは胸を張った。
「わたしは最強の吸血鬼なのだよ。神父だって賛美歌だって、たまねぎだって、全部全部私の前には無力なのさ」
「それは凄いですね」
「うむ。苦手なのはお日様位だ。炭になってしまうからね」
「なるほど」
「で、ついては少年。世を儚んで死ぬくらいなら、わたしの眷属になってみないか」
「え」
彼は驚きと共に大きく瞼を開いた。
青が混じった黒々とした瞳が、美しくその存在を増す。
わたしは微笑む。
「中々楽しいぞ。楽しすぎて、思春期の病なんか忘れてしまうさ」
少年はしばし考え込んでから、わたしに頷いた。
「はい。お願いいたします」
「うむ。思い切り良さが素晴らしい。ちょっと待っていたまえ。ちゃっちゃかと牙をたててあげよう」
これが500年前、わたしの弟子、ブラックマン君との出会いであった。ブラックマン君は美しく、色々と気が効いて、中々楽しい年月を共に過ごすことができた。
が今日、別れは唐突にきた。
目覚めるとビーチにいた。青いさんご礁。
写真で見た事がある。ハワイ。ワイキキ。燦燦と照りつける日の下で、わたしは目を覚ました。
頭がガンガンする。ブラックマン君と酒盛りをしたのまで覚えている。
ハリウッドの子役少女を肴に、大いに飲み明かしたのだ。懐かしのハンガリーワインを浴びるほど飲み、ブラックマン君も微笑み、そして……。
白砂に転がるスマホ。
鳴ったので出てみる。
いや、体が灰になりつつあり、それどころではないのだが、着信を見ると、ブラックマン君であった。
「ブラックマン君」
「さようなら、お世話になりました」
「いや、いま起きたらワイキキでね。体が灰になりつつあるんだが」
「手下に運ばせました。貴方の財産は僕のものにしてあります。安心して灰になってください」
「え」
わたしの声は碧い波の音たちに溶けた。
「500年かかりました。この復讐に」
「わたしが何をしたというんだい?」
「妹を殺した。吸血鬼にするなら妹でよかったんだ」
「え」
頭の中が500年分巻き戻る。
ああ、そうか。ブラックマン君を眷属にする1週間ほど前に食べた、あの子だ。
言われてみれば彼に似ている。そばかすが玉に瑕だが、美しい少女であった。
「僕が500年前死にたくなったのは、貴方に妹を殺されたからです」
「ああ、なるほど」
「おやすみなさい。伯爵。500年間、本当にお世話になりまし……た」
最後の方はあまり聞こえなかった。耳が灰になってしまったからだ。
なかなかブラックマン君め。やりおる。と微笑みながら、わたしは灰とかしていった。
※※※
★始祖グリモワル卿の場合★
「いつまで待たせるんですか? グリ様。いい加減わたしは待ちくたびれましたよ」
「待つのもくたびれるのも枯れ果てるのもソルフィ、君の勝手だがわたしの責任問題ではない。そんなことより」
いい加減飽き飽きだ、という面持ちから一転、始祖グリモルワル卿、通称グリ様は微笑んだ。
この人もとい 吸血鬼様が笑うと、部屋全体に月見草が咲き乱れるような錯覚を覚えてしまう。でもこれはこの方の魔力とかそういった類の妖しい何かではない。純粋に 『ヒトだった頃からの魅力』なのだろうと思う。
「そんな事より、なんですか?」
わたしは熱くなる頬をごまかすようにしかめっつらをしながら、言葉を催促した。
「いや、美味しいね。紅茶」
「わたしの血を垂らしましたから……て! なに噴出してるんですか! うっわ! びっちゃびっちゃ! うっわ」
グリ様は胸元からハンカチーフを取り出し、その端正の極みと言える口元を拭く。
が、どんなに仕草が美しくても、紳士服も床もわたしもびしょびしょだ。
「若い子が進んで血など流してはいけないよ」
「手首を軽く切っただけです」
「それは自傷行為だ。やめなさい」
「だって、グリ様いっつまでも! あたしの血を吸ってくれないじゃないですか」
「わたしは永遠にそんな気は起きないね。自信がある。自信がありすぎて地震を起こすくらいだ」
「そんな自信いらないです。処女の血美味しいでしょ? グリ様に捧げるためにずっと処女なんです
よあたし。15で奉公に伺ってからもう10年。あたし25ですよ」
「奉公ではない。君の場合は押しかけというのだ。それに、別に僕に捧げたいわけじゃないだろう。
君がしたいのは復讐だ」
この言葉に、わたしは大きく頷いた。
我ながら、憎悪に瞳がギラギラするのが分かる。
「はい。あたしはグリ様の眷属になって、狼男の野郎どもを駆逐してやるんです。この世から」
「まあ、村を滅ぼされて怒っているのは分かるし、境遇にも同情している。が、なんというかね。
気が引けるんだ」
あたしは首を傾げた。こんなに我ながら、髪も漆黒のさらさらで、声も鈴が鳴るように透き通り、しかも根性は誰にも負けないこのあたしの、どこに気が引ける要素があるというのだろうか。
不満なあたしから、グリ様は目を逸らし、言葉を続けた。
「今晩ブルウッド伯爵と助手のブラックマン君が遊びに来る。饗宴の用意を」
「はい。まずはここを掃除します」
ブルウッド伯爵はロマンスグレーのナイスミドル。何度かグリ様を滅ぼしかけた……ことがあるらしい、実力者だ。ブラックマン君は助手。栗毛がふわふわとした美少年だけど、200歳を越えるらしい。のほほんとしてるけど、色々やらかしまくる伯爵の後始末にいつも奔走している、苦労吸血鬼らしい。
「ソルフィ、彼らが来たら、今回も僕から離れてはいけないよ」
「噛まれちゃいますか? わたし」
「その危険がある。伯爵は美少女の血が好きで、君は美人なだけだから問題がないが、ブラックマン君は大の美人好き……」
その先の言葉をわたしは全く聴いていなかった。
美人評価きましったああああああ!!!!!!!
跳ね回りたい衝動で、視覚も聴覚もてんやわんになったからだ。
いやあ、良かった。確かに15歳で噛まれてグリ様の嫁になったら、彼はロリになるところだった。
今ならぴっちぴちの25歳。そう、噛まれるなら今だ!
吸血鬼になって狼男たちを駆逐しつつ、グリ様とこれでもかってくらいいちゃいちゃラブラブ生活を
送るのだ!
「グリ様!」
わたしはこの上もなく真剣なまなざしで、熱烈にグリ様を見た。
「え」
「噛んで! 今すぐ噛んで! あたしを眷属にしてください! 貴方の眷属ならわたしは無敵です! 主に愛の力で!」
「あ、えっと……」
「待って! 蝙蝠になって逃げないで! 今夜こそは逃がさないんだから! とりゃあ!」
わたしは蝙蝠の群れとなって逃亡したグリ様を追うべく、窓から飛んだ。
で、思い出した。そう言えばわたしは人間だった。つまり、空は飛べない。
………
窓から落下して亡くなったソルフィの墓に、彼女の好きだった月見草を植えながら、私、グリモワル=フォン=ハンブルグは酷く悲しくなった。
永遠の夜は静けさを取り戻していた。
10年ぶりの静けさである。
ソルフィはやかましい子で、夜ごとに美しくなっていく彼女に、私の目は惹き付けられてやまず、逆に視線を合わせることを困難にした。
意志の疎通も。
わたしと狼男族とは平和協定を結んでおり、眷属になった彼女が彼らを襲うのは問題がある。
だが彼女の失望を恐れて、私はこの話をすることが出来なかった。
別の吸血鬼を紹介することもできたが、それも気後れしたのだ。
美しくやかましく陽気で情熱的なソルフィは、私だけの宝石としておきたかった。
彼女の美の頂点で、ちゃんと平和協定のことも説明して、それで彼女を眷属にしよう、と思っていたが、それは問題の先延ばしに過ぎない。
この煮え切らなさの結果が、この月見草、この静寂である。
「まあ、でも。君と私は永遠だ」
そう。永遠が増えただけだ。私はこの子の墓を永遠に守る。何があろうと、永遠にだ。
が、月が美しすぎるせいだろうか。
わたしの涙は止まらず、頬をつたい続けた。