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 ケーキにするか、それともクッキーにするか。母が帰ってくる十時くらいまで彰子は迷っていた。ナッキーの場合、味がどうであろうと「食えればオッケー」だと言っているから、特別に気を遣う必要はないのかもしれない。でもできれば、好みに合ったほうがいいではないか。結局、母に相談して、

「クッキーの方がたぶん、みんなで分けて食べられるからいいんでないか」

 という結論に達した。夜中二時過ぎまで、たっぷりバターのきいたクッキー生地をこしらえ、冷蔵庫に入れた。学校に行く前に焼いておけばいい。


 家の中が香ばしいクッキーの匂いに満たされている。食事を焼きたてのクッキー六枚で終わらせたのは、とにかく後片付けが大変だったから。ラッピングして、家に戻ったらすぐ出発できるように準備を整えた。

 昨日は本当にいろいろなことがあった。

 南雲くんには告白らしきものをされてしまうし、時也はなぜか心配してくれて男子たちから愛のメッセージを送ってくれたし、ナッキーにいたっては、まさかの自宅謹慎。

 ずっと悩んでいたことばかりだったけれども、彰子にとっては最後の「ナッキー自宅謹慎事件」で一気に最重要課題が現われてしまったという感じだった。正直なところ、南雲くんがらみで女子たちにささやかれたことなんて、どうでもよかった。

 ──あきよくんとはいい友達でいましょう、でいいよね。

 ──なんか、ナッキーのことを考えると、私のちょこっとしたことなんて、どうでもいいなって気になっちゃうな。ナッキー、どうしてだろう。時也が電話くれたのは、その辺りにも事情があったのかもなあ。

 

 学校に到着した。鈍感だと自覚している彰子だが、なんとなく三年生方面からの視線が突き刺さってきた。いつもだったら「おはようございます!」と挨拶する程度なのだけど、いきなり向こうから、

「ねえ、南雲くんと付き合ってるの」

 と聞かれるとは思わなかった。

「いえ、あの」

 もごもごと言葉を探すと、

「あ、ごめんね、そうだよねそうだよね、違うよね」

 と自己完結して去っていってしまう。彰子の場合、あまりいやがらせとかリンチとか、そういう恐ろしいこととは縁がないらしい。

 南雲くんが全学年の人気を博していることは、よくわかった。

 まずは保健室に向かい、先生に挨拶した。ちょうどソパージュをまとめているところだった。鏡に向かっていたのだが、彰子が映ったのだろう。すぐに振り向いて、

「奈良岡さん、早いねえ」

「昨日はどうもありがとうございました!」

 ちょっと多めに焼いておいたクッキーを手渡した。

「先生こっそり、後で食べてね」

「サンキュー! 奈良岡さん家庭的なんだよねえ」

 ちらっと見た後、彰子を手招きして耳にささやいた。

「なんかねえ、昨日、三年の女子たちがパニックになっていた理由なんだけど、聞いてあきれちゃったよ」

「パニックなんてあったんですか?」

 彰子個人としては結構いろいろあったけれども、他学年まではわからない。

「二年で人気のある男子がいるらしいんだけど、だれかに付き合いをかけてしまったことがすぐにばれて、ファンの子たちがショックを受けてしまったらしいのよ。なあにが、ねえ。奈良岡さん。クラスの男子たち見てて、そんな心ときめく奴いる?」

 一年女子の間では羽飛くんが圧倒的人気らしいけれども、そうか、三年は南雲くんなのか。彰子はさすがに言えなかった。

「よくわからないけど、大変だったんだあ」

「歳を取ればわかるのよ。男は顔じゃない、ハートだってね」

 先生もそれなりに恋しているんだろう。重みあるお言葉だった。


 廊下途中まではクッキーと一緒にハイテンションで軽やかに歩いた。でもさすがに、二年D組の教室へたどり着いた時には妙にフラッシュバックしてしまいそうになった。D組よりも、隣りのC組だろうか。やはり聞こえてくる。もともとC組は女子たちの力が強くて、男子たちがおとなしい。教室の前を通るたび、ざわめくのは甲高い嬌声だ。

「……がねえ、あの太った子」

「……絶対なんかの間違いだよね」

 相変わらずの言葉が飛び交っている。傷つかないわけじゃない。いつもボタンがはちきれそうになるジャケットを、そろそろ買い替えないとまずいなとは思う。

 ──ま、いっか。あんまり暗い顔してると、あきよくんだって辛いもんね。

 気持ちを切り替えて、扉を開けた。

「おはよう! あれ、すい君いたの」

 ちょうど待ってましたとばかりに水口くんが立ち上がった。男子たちの集団はほとんど揃っていた。もちろん南雲くんもこちらを向いた。女子たちだけがそれぞれに、

「彰子ちゃんおはよ!」

と、いつものような声をかけてくれた。答えようとしたら、いきなり水口くんが飛びついてきた。まさに赤ちゃんそのものののりだ。

「ねーさんねーさん、学校やめないよね」

 ──なぜ、すい君そこまで発想が飛ぶわけ?

 頭を撫でながら彰子は答えた。

「やめないよ。でもどうして?」

「よかったあ、それならいいんだ」

 ぴょんぴょん飛び回って喜ぶすい君を誰もからかう奴はいない。いつのまにか近づいてきていた立村くんが水口くんの肩を叩いて、

「さ、すい君席に戻ろうな」

 と促している程度だった。男子たちも、またやってるかとばかりにちらりと見るだけだった。南雲くんだけが黙って彰子を見つめているのが分かる。同じく隣りの席に付いた立村くんが、朝自習のプリントを開いて何か尋ねている。どうやら、数学の文章題が載っているらしい。


 朝ぴっかりの天気は昼間過ぎると一気に下り坂とはよく言ったもの。授業が終わる頃には雷が轟きしばらく外は黒い雲に覆われていた。傘は持ってきているけれども、きっと折れてしまいそうだった。

「しゃあねえなあ、雨宿りしてっか」

 帰りのホームルームが終り、それぞれが教室を出るのを見計らって、彰子は声をかけた。南雲くんがまだ、無言で座り込んでいる。いつもだったら男子同士の仲のいい連中と、レコードを片手にまだしゃべっているのだろうが。たぶん、昨日のことでからかわれたかなんかしたのだろう。表立っての悪口やひがみは聞かされてないけれども、それは彰子が二年D組にこもっていたからだ。元の彼女がいるC組からも顰蹙は買い捲っているだろうし、もっというなら三年生グループもかなり、衝撃を受けているはずだ。告白された彰子よりも風当たりが強いのは想像がつく。

 ──でも、きちんと言わないと。

 ──あきよくんとは友だちですらもいられなくなるからなあ。

 まだ教室には何人か男子がたむろっている。

「あきよくん、ちょっといい?」

 改めて、でも笑顔は忘れないように彰子は顔を覗き込んだ。

「奈良岡、さん。俺、さ」

「いいから、ちょっと隅っこに来てください」

 お願いする時はきちんと敬語を使うこと、彰子のお約束だ。


 窓辺の隅に立ち、彰子はもう一度南雲くんの顔を見上げた。こうしてみると、結構背が高いらしい。羽飛くんと同じくらいだ。「パール・シティー」のボーカルよりはもちろん低いだろうけれども、背景の黒い雲を通して見ると、いかにも舞台受けしそうな雰囲気だ。ネクタイはきちんと結んでいる。髪型も今日はきっちりとまとまっている。ちっとも、だらしなくない。

「あきよくん、あのね。私」

 ここで息を継いだ。今まで視線をきちんと向けていなかったから、その分たっぷり見つめ返そうと決めていた。

「昨日のこと、私はすごくうれしかったよ」

「え、じゃあ、いいの?」 

 いきなり緊張していた表情が笑顔に変わる。まあまあ押さえてと彰子は首を振った。

「でも、今の私はまだ、あきよくんを友だちとしか思ってないんだ。なんていうか、私は男子と『付き合う』ってこと、一度もしたことがないんだ。だからなおさらなのかな」

「でも今は、好きな奴いないんだろ?」

 だんだん彰子もわからなくなってくる。ちらっと、羽飛くんの顔が浮かんで消えた。好きってわけではないのだと、思い直す。

「小学校時代の子で大の仲良しっていうのはたくさんいるんだよ。でも、まだそういう気持ちになれないんだ。あきよくんがしてほしいような付き合いって、私、赤ちゃんだからわかんないんだろうなあ。身体と頭がつりあっていない典型的な例かもね」

 ちょっと自虐的なことを言ってみる。

「そんなことねえよ。あのさ、奈良岡さん、俺のこと、嫌いじゃないんだよな。それだけはほんとだよな。あの、驚かせてしまったのは本当にごめん、って感じなんだけど」

 妙に力がこもっている。身体を斜めに傾け両手を握りしめている。

 彰子の中で、周りの女子たちの言葉を信じなくてもいいという実感が湧いた。大丈夫。この子とは友だちでいられる。よかった。

「そうだよ。私はあきよくんのこと、友だちとして大好きだよ。もし、あきよくんがクラスの中で問題起こして自宅謹慎になったとしたら、すぐにクッキー持って駆けつけるし、電話であきよくんのファンの子たち集めて、電話で励ましの声を送ってあげる。そういう感じで、本当にあきよくんはいい子だと思うんだ。でも、まだ『付き合う』っていうのがね、ぴんとこない」

 外の雨は激しい。窓ガラスをぬらしている。南雲くんはじっと彰子を見つめていた。言葉が返ってこない。

「きっとあきよくんには、私よりももっと可愛くて美人さんがたくさん好きでいると思うんだ。私なんかと付き合うとしたら、きっと大変だよ。並んでつりあい取れないし。私はこの顔と十四年間お付き合いしてるから、ま、いっかと思ってるけど、あきよくんに迷惑をかけてしまうのはなんかやだなあ。だから、友だちということで、いかがでしょうか」

 後ろの方で二年D組の男子たちが、様子をうかがっている。ふたりっきりのところで言えばよかったと思う。言い方は悪いけれども彰子が南雲くんを振ったという形にはなるのだから。

「奈良岡さん、俺の言いたいこと、言っていいか」

 笑顔になったり驚いたり、ありとあらゆる感情が顔の中を駆け抜けていた。彰子はそれを眺めていた。やはり、こういう気持ちいい表情にみんな女子たちは惹かれているのだろう。

「いいよ」

「奈良岡さん、ぶっちゃけた話、『付き合った』経験、ないんだろ?」

 は?と口をあんぐりあけてしまった。

「ない、けど。だってこのご面相じゃあねえ」

「デートしたことも、手つないだことも、ないんだろ」

「あるわけないじゃない! もう、あきよくんやだなあ。想像するだけでも大笑いだよ」

 手つなぎ鬼をやるならともかく、俗に言うデートなんて経験なしだ。少女漫画に出てくるような、夕焼けに向かってキスだとか、そういうのを言うんだろうか。誰もいなかったら腹抱えて笑い転げたいところだ。

「キスしたことも、ないんだろ」

 口呼吸はよくないと分かっていても、彰子は完全に凍りついた。

 口で呼吸するしかない。

「あきよくん、あるの」

「うん、経験はあるよ」

 ──大人すぎる。うわあ、なんかすごいこと言わせちゃったよ。

 あやうく「ねえ、どうだったどうだった?」と聞いてしまいそうなのをがまんした。残っている男子たちも同じく凍り付いているらしい。キス経験者、零だろう。きっと。

「うわあ、すごい」

「だから、俺は付き合っているってことのだいたいどんなものかはわかってるつもりなんだ。もちろん、いきなりなんて俺は言わないよ。でも、一度も付き合ったことないんだったら、一度くらい、真面目にそういうことしてみるのもいいと思わないか?」

「いや、あの、キスはちょっと」

「それは例えだって」

 笑い転げたいのを彰子は必死にがまんした。そりゃあ、南雲くんは恋愛経験豊富だから、唇を触れ合わせることの一度や二度はあるだろうし、別にそれがどうとは言わない。だが、相手が自分だと想像するだけで、ほとんどギャク漫画の一コマにしか見えない。

「あきよくん、ごめん、もう限界。笑い死にそう」

 しゃがみこむとしばらく彰子は笑いつづけていた。困ったように見下ろしている南雲くんには悪いと思う。でも、どうしようもない。しばらく落ち着いたところで立ち上がり、もう一度答えることにした。

「あきよくん、本当に好きな子にそういうのは言ってあげなよ。私がそんなことしているなんて想像するだに笑えるじゃない」

「なにもいきなり、キスだなんて言わないけど。でも、もし俺のことが嫌いじゃなくて、付き合ったことなくて、今好きな奴いないんだったら、一度試してみませんか」

「試す?」

「そう。奈良岡さんが『友だち』としてっていうのがよかったらもちろんそれに合わせる。とにかく一度、デート申し込んでいいっすか」

 空気が湿ってくる。彰子は見竦められた。

「デートって、いったい」

「今度の土曜午後、青潟こども公園でどうでしょう」

 また噴き出しそうになった。小学校三年生くらいの子しか喜びそうにないティーカップとか、あっという間に終わるジェットコースターとか、そういうのしかない。南雲くんだったらもっと、大人っぽいライブハウスだとかそういうところに連れていかれそうだと思ったけれども、さすがデートなれしている。彰子の大丈夫そうなところを瞬時に選び取ったらしい。「あきよくん、うまいね。私の受けそうなところ選んだでしょ」

 ──これだけ一生懸命言ってくれてるんだから、ね。友だちなんだから。みんな誘って楽しく行きたいなあ。

 顔に出たのを素早く読み取ったに違いない。南雲くんは最後に付け加えた。

「でさ、デートっていうのは基本として、一対一なんだ。それだけ、お忘れなく!」

「別に、それでもかまわないけど、淋しくない?」

 とんでもないとばかりに手を大きくふる南雲くん。彰子の見る限り、すっかりご機嫌は元に戻ったようすだ。それだけが心配だった。数人の男子たちが沈黙で見送る中、

「じゃあ、詳しくはまたあらためて! これから規律委員会あるんだ。最高っすよ。もう」

 最後に他の男子連中へ「じゃあな」と言い残し、教室を飛び出していった。


「奈良岡のねーさん、あのなあ」

 最初から最後まですべて目撃していた、男子のひとりが近づいてきた。なんとなく南雲くんグループの一派だった。二年D組の男子は大雑把に三グループに分かれていて、羽飛くん、南雲くん、あと水口くんを中心とする派が並んでいる。ドライヤーで髪が枝毛っぽくなっているところみると、どうみても南雲くん派だ。にやにやしながら寄ってきた。

「ああ言ってるけど、南雲って結構まじな奴だぜ。あれでも次期規律委員長だもの」

「え、そうだったっけ?」

 初耳だった。相手も当然のごとく頷いた。

「うちのクラスで委員長がふたり立つってのも笑えるけどさ、でもいいんじゃねえの」

「困ったねえ、あきよくんどうするんだろう。委員長になったらもうおしゃれできなくなちゃうよ」

「ねーさんさあ」

 頭をかきながら大笑いした後、男子三人は手を振って言い残した。

「人間は見た目じゃねえから、そのへんよろしくな」

 ──なんか私のこと、誉めてくれてるのかなあ。

 本当はお付き合いを断るつもりだったのに。なんか負けてしまった。

 こんな気持ちよく笑ってしまえるなんて思わなかった。

 つきあうかどうかは別として、今週の土曜日は彰子にとって初めての「デート」になりそうだった。

 ──だからみんなで行けばいいのになあ。あきよくん。

 彰子はすばやく頭を切り替えて、校門へ急いだ。駆け出した。外はすでに黒真珠色。雷が鳴り響いている。でも帰らなくちゃ。南雲くんと話している間は忘れていたけれど、もっともっと大切なことが待っている。

 ──ナッキー、ごめん。今行くからね!

 

 びしょぬれで家に戻り、髪を乾かした後、大急ぎで冷蔵庫からクッキーの残り生地を取り出した。焼きためたものは缶に入っているけれども、やはり焼きたての方が美味しいだろう。すばやくオーブンに油を引いて準備をし、火が入っている間にラッピングの準備をする。母のお気に入りブランドで配っている花柄の包み紙を拝借し、口が花びらのように見えるべくぎざぎざに切る。焼き上がるころには完全にお誕生日モードのプレゼントが完成した。

 母は昼から学会があるとかで、出かけていった。半分クッキーがなくなっていたところみると、他の先生や事務室のみなさまに配るのだろう。


 しかし、全く電話は鳴らなかった。

 父にもしつこく「絶対行く時は電話してね」と釘をさしておいたのに。

 あいまいに頷いていたから忘れてしまったのかもしれない。

 それとも会議か何かで忙しいのかもしれない。とにかく彰子は待つことにした。ちゃんと制服を干して、カレンダーの「土曜」に丸を付けた。

 待てども暮らせど連絡は来ない。


 待ちくたびれて新聞を読んだり、テレビを見たりしているうちにソファーで軽く居眠りしてしまったみたいだた。気が付くと、電話が鳴っていた。赤ランプが点滅していた。

「彰子さんか?」

 やっぱり父だった。忘れていなかったらしい。

「お父さん?」

 電話の向こうがやけに騒がしい。女の子が泣き叫んでいる声はたぶん、ナッキーの妹だろう。修羅場なのかもしれない。様子を聞きたかった。

「私、行くけど大丈夫?」

「今から時也が迎えにいってくれると言ってる」

「ちょっと、時也もいるの? で、ナッキーは?」

 父はしばらく無言でいたが、口の中をちかちか鳴らして言った。

「彰子さんに、聞きたいことがあるんだそうだ」

 がしゃっと受話器が千切れそうな音。耳が痛くなりそう。だれかが受話器を取り合っているのかもしれない。耳に当てたまま待った。はう、はう、息遣いが荒い。

「おい、彰子いるんだろ?」

「ナッキーじゃない!」

 あれだけ心配させたくせに、声が明るすぎる。クッキーの匂いに包まれて思わず涙が出そうになる。いつも通りのナッキーだ。自宅謹慎なんてへとも思っていない、正義感強いあのナッキーだ。

「とにかく、すぐ来い! 俺もお前が戻ってくる前にけりをつけるからな」

「けり?」

 電話の向こうが父に代わった。何度かナッキーの「なら先生、わかった。うん」と話し掛ける声だけが聞こえている。

「詳しいことはついてから話すよ。それと時也の分のクッキーも、忘れるなよ」

 もちろん忘れてはいけない。彰子は受話器を置いた後、大至急包み紙をそろえた。


 時也が到着したのは十五分後だった。自転車が雨のために使えないというのを考えると、そのくらいかかるだろう。急いででてきたのかもしれない。口ではあはあ呼吸をしている。白いラインの入った学生服姿だった。

「今から連れてく」

 それだけ言うと、また鼻をかんだ。

「ほら、ポケットに詰め込んでる分、うちで捨てていきなよ」

 ためらっているのを彰子は素早く取り去ってやった。かわりにクッキーの袋を詰め込んだ。

「今、焼きあがったばかりなんだよ。あとで食べようね」

「母さんのと同じ紙」

 つまり、時也のお母さんも大好きなブランドの包み紙だといいたいらしい。傘を持って彰子は並んで歩いた。

「昨日、電話かけてくれて、ありがとね。うれしかったよ」

「奈良岡に聞きたいことがある」

「なあに?」

 表情が硬く険しいのに気づいたのは、横から覗いた時だった。

「変な奴に変なこと言われたのは本当か」

「変な奴?」

 一瞬、ぴんとこなかった。

「塾の女子が言ってた」

 ──ちょっとちょっと、もしかしてみんな、あのこと、言いふらしてたなんて言わないよね!

 思い当たるふしはある。もちろん、南雲くんとのあの事件だ。

 でも、三人にしか話していない。青大附中に通っている子もそういないはずだ。

「信じられないって話してた」

「なにが? その変な奴に私が変なこと言われたことが?」

 心がまた、冷たく濡れていく。時也はじっとにらみつけるように続けた。

「『パール・シティー』のボーカルって、あいつだろう」

「は?」

「夏木にも言った」

 今、出かけた時に言ったのだろうか? 話が見えてこなくて彰子はもう一度聞き返した。

「夏木に、奈良岡が変な男に追いかけまわされていること、部屋の前で言った。そしたら、すぐに連れてこいって命令した」

「はああ?」

 最後にとどめ。

「今のうちに夏木、なら先生と一緒に、殴った女子の家に謝りに行くって言ってた。だから先に食べていいと思う」

 ──混乱、しちゃうよ、時也。どういうこと?

 時也の武士を気取った口調が、似合わない。

「何を?」

「これ」

 ポケットを指差した。クッキーを早く食べたい、ということらしい。


 時也の、ぶつ切れ言葉をつないでいくと、大体状況が見えてきた。

 すなわち、担任の奈良岡先生は放課後、まっすぐ生徒夏木宗の家に向かったらしい。彰子を連れて行くという約束はあっさり破ってだ。なぜか時也もついてきていたがその辺のつながりは説明してくれなかった。

 夏木家に到着してみると、そこにはナッキーが部屋にこもったまま出てこないとのこと。そりゃそうだろう。お母さんも妹の明日香ちゃんと一緒に気をもんでいたという。

「でも、言うこと伝えないとあとで、夏木に怒鳴られる」

「何を言ったの?」

 時也の表情は変わらない。寡黙そうでがっちりした、いかにも柔道やら剣道やらやりそうな身体つき。武士に二言はなし、と言いたげだ。

「奈良岡に一大事が起こった。って」

「私に何が起こったってこと?」

 ひたすら質問ばかりしている自分にあきれながらも彰子は尋ねた。

「青大附中で奈良岡が大変なことになったって言った」

 時也は立ち止まり、じっと見つめて、

「ナッキー、それ聞いてふすま開けて飛び出してきた。なら先生に、すごい勢いでくってかかってた。それから、謝りにいくって言い出した」

「あやまるって、ナッキーがけがをさせた子に?」

「絶対悪いことしてないから、あやまらないって言い張ってた。でも、心境の変化あったみたいだ」

 棒読みで、音読するように時也はつぶやいた。

 彰子はそれきり黙った。

 時也のポケットにもう一枚、ポケットティッシュを入れてやった。クッキーの入っていない反対側のポケットにだった。


 やがて目の前に長屋風の木造住宅が見えてきた。だいぶ色あせたその家は、入ると奥に広く決して貧乏くさい雰囲気はしなかったこと。ただ近所の家と違うのは、祝日でもないのに年がら年中日の丸の旗が立てられていることだけだった。

 

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