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「いやあっ」
保健室に入ってみると、白いカーテンの後ろ側では修羅場の展開中だった。相手の顔は見えない。保健の先生および、他の先生がそばについているらしい。悲鳴じみた泣き声が聞こえた。何かがあったらしいけれども、カーテンで隠さなくてはならないくらいのことらしい。なだめる声、落ち着かせようと叱りつける声。自分が割り込んだらお邪魔虫になりそうなのは目に見えていた。
ちょこんと顔をのぞかせた時の、保健の先生は穏やかだった。彰子だと気づくと突然笑みを浮かべた。切り替えが早い。
「あら、奈良岡さん、どうしたの」
「ちょっとおなかが痛かったから、寝たかったんだけど、無理そう、ですね」
「あらめずらしい」
直前まで
「ほら、もう三年なんだから大人なんだから!」
とわめき散らしていた先生とは違う。もともと保健の先生はそんなに声を荒げない人だった。「今のうちにベット占領しちゃいなさいな。胃腸に来る風邪なのかな? 季節の変わり目は風邪引きさんが多いからねえ」
「かも、しれないです。今日は患者さんになっちゃっていいですか」
健康体そのものだとわかっているから、嘘をつくのも罪悪感あり。
おなかが痛いと念じてみると、なんとなく横っ腹がちくちくしてきた。
全く嘘、ってわけではないよね。と言い聞かせた。
彰子はカーテン越しの修羅場に耳を済ませながら、横たわった。保健室のベットは全て白いけれども、ところどころパイプのペンキがはげている。人が見ていないことをいいことに、ちょこっとだけ乾いたペンキ跡を爪ではがしてみた。ぱかっと、落ちた。
どうやら三年の女子が、授業中に何か騒ぎを起こして保健室に連れてこられたらしい。いささかパニック状態。でも彰子が来てから五分くらいで落ち着きを取り戻したらしく、ばさばさと何か物音の後静まった。たぶんベットに寝かしつけられたらしい。白いカーテンのシルエットが、人の形したままゆっくりと倒れていくのを彰子は見ていた。
──保健室って、自分で使ったこと初めてなんだよね。よく、クラスで貧血起こしたりした子を連れてきたりしたけどね。こうやって、みんな天井を見上げてるんだ。緑色なんだ。 鶯色の天井に、明るい陽射しが陰をこしらえ、ふらふらと丸く揺らめいている。天気がよくても教室・保健室の中では電気をつけなくてはいけないらしい。明るすぎる空気に、彰子は少し目を被いたかった。
──あきよくん、どうしてあんなこと、言ったんだろう。
何度も「俺は本気だから」と繰り返す南雲くんの顔と口元が忘れられない。
「付き合ってください」と二回も口にした南雲くん。
──私があきよくんと友だちだって分かってるのに、どうしてだろう。
──わかんないよ。どうしてだか。どうしよう。
あらためて天井の丸い揺らめきを追ってみた。ひとつ、ふたつ、みっつと灰色の勾玉がさまよっているようだった。夜中に見つけたら、きっとこれは人魂だ、どうでもいいことを考えた。
彰子にとって、まだ南雲くんは「子」と呼べる相手でしかない。同い年の男子で「人」と呼べるのは羽飛くんしかいない。入学式の時初めて、羽飛くんと話をした時は確かに、「こいつはすっごくいい奴だ」と思い、もっとおしゃべりしたいと願ったものだった。南雲くんと口を利いたのはいつだっただろう。ずっとずっと後のはずだ。たまたま「秋世」という名を「あきよ」と呼んでしまった時に、
「いいよ、俺、ガキの頃からずっとあきよっていわれてたから」
と、ぱっかり笑顔で返してくれてからだろう。
青大附中に入学してから、自分が小学校時代いかに男子に人気あったか、いかに自分がそれに甘えてたかってことがよくわかった。母が口癖のように、
「あんたは愛嬌で生きていく子なんだからね」
と言い聞かせていたのも、今なら通じた。
何があっても、自分は笑顔を忘れてはならない。
自分の武器は、それだけだったと知ったから。どんなに逆立ちしたって、彰子は美里ちゃんやこずえちゃんたちのように可愛いとは思われないのだからと。
そう、羽飛くんの視界には入ってないのだからと。
羽飛くんの好みが「アイドル歌手鈴蘭優」的幼い感じの美少女だと知り、それ以上に幼なじみの美里ちゃんを大切にしていることにも気づいた時。
たぶんこの段階であきらめてしまったのだろう。
辛いとか哀しいとかは思わなかったけれども、かつてのように男子たちがガチャガチャのおもちゃを貢いでくれたり、電話をしょっちゅうかけてきたりとかする友だち付き合いはできないと覚悟した。
──そうよね、私ってすっごく、いやな性格してたのかも。
──もし、黄金時代が続いていたら、もっといやな子になってたかも。
例の二大悪口「ブス」「デブ」の洪水は浴びなかった。「ビール瓶」とのお言葉を水口くんから温かく頂戴した程度。自分の容貌がおかちめんこだとは彰子がよくわかっている。小さい頃から気づいていた。でも、それで辛いと思ったことなんてなかった。みんなが彰子のことをお姫様扱いしてくれたからなおさらだった。魔法のかかったまま、小学校を卒業し、初めて解けたのが青大附中だった、それだけのことだった。
なら、魔法のかからないままで、精一杯笑顔を振り撒いていこう。
今までの自分は魔法でげたを履かせてもらっていただけなんだもの。
その分、みんなが楽しくいられるように、気持ちいいことで補おう。
一年半、彰子はそれだけを考えていた。
うつらうつらしているうちに、隣りのベットで騒いでいた女子の親が迎えに来たらしい。なにやら娘をしかりつけている。ヒステリックに悲鳴をあげる隣りの影。
「だからあんた三年のくせにどうして!」
「だって、だって」
しばらく泣き崩れるものの、この場において置けないとわかっていたのか、母親らしき人の声で「ご迷惑をおかけしました。申しわけございません」と二回繰り返し、娘を引っ立てるように出て行った。
──すぐに迎えに来ることができる家の子だったんだ。
──うちのお母さんは今ごろ、手術かな? 毎日手術のない午後はないって話してるもんね。
南雲くんに実験道具を押し付けて逃げ出してきたことって、やっぱり「逃げ」だったのだろうか。
隣りのベットを整頓しているらしい保健の先生に、カーテンを開けて一声かけた。
「先生、保健日誌に私のこと書くんでしょ」
「そうだ、そうそう。奈良岡さん、熱を測らなくちゃね」
体温計をもらい、脇に挟んだ。たぶん平熱だとわかりきっている。右肩に手を置いて中世の騎士がポーズを取るような格好で上半身を起こした。
保健の先生はまだ若い。二十代後半で恋人ありとの噂あり。よく保健委員会の帰りに「先生の彼ってどんな感じ?」とからかったりすると、真っ赤にして、でも語ってしまう。明るい人だ。彰子もたまに、いわゆる一般論で「恋愛」について聞いてみたりする。自分と重ねる話題はなかったけれども、
「もし、彼、彼女が出来て困ったら、すぐに相談しなさいよ」
と言われている。保健委員、男女問わずそれは何度も耳にしているはずだ。
「先生、いい?」
「あら、平熱ね」
「やっぱりそっか」
ため息をつく。すぐに気づいてくれたのか、薬を一袋取り出して水を用意してくれた。
「勉強のしすぎ? それともストレス?」
「ストレス、かもしれないなあ。これでも結構落ち込むことあるんです」
さすがに「クラスの王子様に告白されて逃げ出した」なんて言うつもりはない。変に口にして、さらに話が膨らんでいったら大変なことになる。いい先生だとは思うけれども、秘密を守ることはできそうにないだろう。この人は。
言われてもかまわないことだけ聞きたかった。
「先生、あのね、自分の顔とかを意識したのって、どのくらい?」
「え? 顔?」
可愛い感じでソパージュに髪の毛を膨らませている。もちろん保健室にいる時は一つにまとめているけれども、帰り際見ると思いっきり解いているのを保健委員はみな知っている。「そうね、五年生くらいかなあ。その頃になると、顔というよりも身体が、みな変わってくるでしょ。だから身体検査の時に胸見たり、おなかが出てないか見たり、結構チェックしまくってたなあ」
「あの、うちの中学の身体検査で全然そういうの気にしなかった私って、やっぱり変ですか。体重だけはうちの母に怒られるのでちゃんとチェックするけど」
「ああそうか、奈良岡さんのお母さん、お医者さんなんだもんね」
げらげらふたりで笑い合う。
「奈良岡さんは天真爛漫だもんね、無理に意識したくないなら思わなければいいことであって、自然に任せるのが一番よ」
「そうかなあ」
天井の人魂ゆらめきをもう一度見上げた。こまこまと動き回っている先生に、もう一声かけた。
「先生、もうひとつだけ。私みたいに太ってて、不細工な顔って、いるだけでむかついちゃいますか?
」「なんで?」
「うっとおしいとか、そう思いませんか」
口に出していくと、本当の傷口がぱっくり開いてきて、泣けてきそうになる。南雲くんの「俺、本気だから」という言葉が全く耳に入らなかったのも、最初に染み込んだざわめきがあまりにも、濃かったから。
「そんなこと全然。誰がそんなこと言ったの」
「言われたわけじゃないけれど」
本当のことなんていえるわけがない。C組の女子が口にしていた言葉、
「見るだけでもいや」
南雲くんの元彼女と友だちだったから、慰めるために言っただけなのかもしれない。できればそう思いたい。それに誤解なのかもしれないと彰子がまだ受け入れてない。
どんなに笑顔でみんなに接しても、この顔、この体型だけは変えられない。
もちろん母の言う通り、甘いケーキをあきらめておせんべいだけにすれば、もう少し体重そのものも減るるだろう。でも、整形でもしない限り変わらない自分の顔立ちを否定されたら、どうすればいいんだろう。
「奈良岡さんにそんなこと、真っ正面から言う奴いるの? やだねえ、それって。そういう奴は無視よ、無視。見る目ないねって笑ってやればいいのよ。男子? 二年生くらいの男子ってねえ、はっきり言って生意気だから、無視してけっと笑ってやればいいのよ」
──違う、男子じゃないよ。先生。
「女子は、どうなのかなあ、先生」
保健日誌に名前を書き込みながら、もう一度先生は顔を上げてじっと彰子を見つめ直した。「女子? はっきり言って自分に自信のない子ばかりだと思えばいいのよ。でも、そう言われるようなきっかけ、何かあったの?」
こればかりはいえない。彰子は首を軽く振って、にっこりと微笑んだ。
「ううん、なんでもないです。じゃあ、ちょっと患者さんの気持ち、感じて寝てていいですか」
薬はおなかのすく胃散だった。これなら副作用がない。おなかが猛烈にすくだろうけれども、あとでこっそりおせんべいをくすねよう。
二十分くらいたった頃だろうか。
三年女子の大騒ぎが終わって、先生と語った後、ぼんやりとゆらめきを眺めていたときだった。
「せんせー、悪い、患者一人連れてきたわ」
聞き覚えのある、声変わりが完全に終わった奴。反射的に起き上がった。同年代でここまで声が野郎ものに出来上がった奴はそういない。
「もしや、その声は東堂くんかな」
先生が返事をする前に彰子はカーテンを開けた。二年D組の男子保健委員。彰子ともコンビをくんで二年連続。面食いなのが玉に瑕だがなかなか、話の分かる良い奴である。
「よ、奈良岡のねーさん、こんなところにいたんですかい」
「久しぶりに患者気分を味わいたかったのよ。あれ?」
軽い返事で受けようとしたが、次の瞬間固まった。東堂くんのがっちりした肩にもたれて、今にも死にそうな顔してうなだれているのが約一名。顔は半紙の白さそのまんま。足を引きずっている。
「あらら、立村くん、どうしたの」
一種、保健室の常連化している、評議委員立村くんが運び込まれてきた。
ふわっと顔を上げて、彰子の顔をじっと見た。少し挑戦的なまなざしにも見えて戸惑った。
「実験してる最中にさ、いきなり椅子から滑り落ちて気を失ってやんの。いつもの貧血だろ、な、立村」
頷きながら、それでも足を引きずりつつ保健の先生に迎えられた。立村くんが夏にしょっちゅう貧血を起こして倒れているのは、周知の事実だし、最近はクラスでもみな驚かなくなっていた。かならず誰かが立村くんを担いで連れ込むか介抱するかのどちらかだった。羽飛くんあたりがいつもそうだったのだけども。保健の先生はまず、椅子に座らせて体温計を渡そうとしたが、気が変わったのか、
「あんたは平熱でも貧血起こすこと多いものね。足を高くして少し横になっていきなさいね」 すでに「あんた」扱い。立村くんがいかに「保健室の常連化」しているかがよくわかる。彰子の隣に並んでいるベットに、横たわった気配がした。カーテン越しに映るのは、男子にしてはやたらと細い腕と首だった。影絵芝居を観ているようだった。
「給食はちゃんと食べたの?」「朝は具合悪くなかったの?」「風邪引いてない?」
先生の質問には答えているらしいが、彰子の耳には聞き取れなかった。東堂くんが帰ろうかどうしようかと何度も保健室内を覗き込んでいる。授業をさぼりたいに違いない。起き上がってじっと見つめ返してやると、相手はにやっと笑った。
「ねーさん、教室に戻るか?」
当然のように声をかけてくるのは、東堂くんも彰子がずる休みしているとわかっているからだろう。ここで「やあよ」なんて答えたら、突っ込まれそうだ。どちらにせよ今日の放課後は保健委員会でまたいろいろな話し合いがあるのだから。
「しょうがないか、戻るね。でも立村くんも大変だね。夏苦手なんでしょ」
本音を言わせてもらえれば、隣りに男子が、特に彰子的に苦手なタイプの立村くんが寝ているというのは、どうも落ち着けなかった。天井のゆらめきを眺めていたおかげで、たぶん大丈夫、そう思えてきた。
「奈良岡さん……」
声が、しつけ糸状態で切れ切れに聞こえる。立村くんの話し方はいつも語尾が消えそうだった。彰子や他の女子に話し掛ける時はいつもそうだった。彰子が返事をする前に、東堂くんが答えた。
「ほんと、今日は塩酸とかやばい薬の実験じゃなくてよかったぜ。ま、寝てろよ。あとで迎えに来てやるからさ」
「ありがとう、助かる」
電話が鳴り、先生が受話器を取っている様子だ。東堂くんは最後に彰子へ、
「しかし災難だなあ。ねーさんも。水口泣いてたぞ」
思うに、彰子とまともに話をしている男子はあまり、さっきの話を気にしていないということらしい。
──まあいっか。東堂くんはとりあえず、まともに話ができる人でいるらしいしね。ああ、しょうがないっか。戻ろうっと。
隣りの立村くんに、もう一度声をかけた。カーテン越しなのもなんか悪くて、直接顔をのぞくことのできるところまで戻った。すっかり汗びっしゅりで真っ白い顔。化粧しているんでないかと思うくらいだ。
「じゃあ、私は戻るから、早く元気になるんだよ。立村くん」
「あの、さ、奈良岡さん」
目がだんだんうつろいでいる。口元が半ば開き加減で、言葉を発している。なんだろう、早く離れたいのに。でも顔には出さず、彰子はかがみこんだ。手で招くしぐさをする立村くんは、片目で先生の様子をうかがった。まだ電話から離れられないようだ。やたらとお辞儀をしている。
「どうしたの?」
「さっきの、ことなんだけどさ」
「さっき?」
立村くんの口から出た時はぴんとこなかった。
「あの、南雲のことなんだけど」
──なんで、立村くんがそんなこと言うわけ?
やはりばれているのだろう。立村くんにまで情報が流れているということは、教室に戻るやいなやひゅうひゅう攻撃は覚悟しなくてはならないということだ。思わずため息をついた。「あれは、あきよくんが悪いわけじゃないからね。これから、ゆっくりみんなに誤解を解いていかなくっちゃ。立村くん、あきよくんと仲いいでしょ。ごめんなさいと伝えてくれると嬉しいな」
「そういうんじゃなくってさ、あの」
テレビドラマの臨終シーンを思い浮かべるような、末期の言葉。そんな雰囲気。かなり大げさだけど、真面目に話している以上は無視できない。彰子はもう一度首をかしげて耳を澄ませた。まだ保健の先生が受話器を離していないのを確認し、半身起こしてもう一度、「南雲は、本気だよ。隣りで見ててそう感じた。けど、今戻ったらまだクラスの中、妙な感じになってるかもしれないんだ」
言っている意味がわからない。じっと聞く。黙りこむ。立村くんが咽奥であえぐように、必死に何かを伝えようとしているのだけがみしみしと、染みてくるだけだった。
「だから、奈良岡さん、しばらく大変かもしれない。けど、俺がクラスの方はなんとかするから、とにかく南雲と、直接話した方がいい。大丈夫だから」
──クラスの方はなんとかするからって、立村くんが?
はっきり言うと、彰子には全く理解できない言葉の羅列だった。立村くんが真剣に、彰子へ何かを訴えているのは読み取れる。南雲くんと仲が良いということもあっていろいろ気を遣ってくれるのもわかる。しかし、なぜそこまで言おうとするのか。確かに、理科の実験が始まる直前に見た女子たち、男子たちの言葉には打ちのめされた。特にC組の女子が口にした「いるだけでいや」という言葉。自分をすべて否定された、そんな重みがあった。だから逃げ出してきた。南雲くんに押し付けて保健室に避難した。
でも、それは彰子の責任であり、決して誰のせいでもない。
彰子はただ、自分で覚悟を決める時間がほしかっただけだ。
南雲くんがどうして自分に「告白」めいたことをしたのか、それはわからない。
もしかしたら本気なのかもしれないし、もしかしたら別の事情があるのかもしれない。どちらにせよ彰子は南雲くんを「あきよくん」と呼ぶことに変わりないだろう。教室に戻るということは、南雲くんと改めて顔を合わせること。もう一度、自分のどこがまずかったのか、どうしてほしいのか、話そうと決めていた。
なにも、立村くんが心配してくれることはないのだ。
どうしてそんなことまで気を回してくれるのだろう。いくら二年D組の評議委員だからといっても、少し干渉しすぎなのではないだろうか。もちろん立村くんが人一倍思いやりのある、やさしい子だというのはクラスメートとしてよくわかるつもりだ。男子たちが立村くんを、羽飛くんや南雲くんよりも支持しているのにはその辺にも理由があるのだろう。
どうしてもわからない。立村くんの言いたいことが、彰子にはわからない。
唯一、受け止められることだけ、お礼を言おう。
「ありがとうね。立村くん、やさしいんだね」
めまいがひどいのだろう。彰子の言葉が終わると同時に立村くんは目を閉じた。臨終です、と言いそうなのりだった。いつのまにか後ろに保健の先生が立っていたのに気づいたらしい。
「ほら、立村くんなあに、奈良岡さんを口説いてるのよ。ほらほら、無理しないで。氷枕で頭を冷やしなさいよ。全く、思春期なんだから」
彰子に目配せで、「早く行った方がいいよ」と合図する先生。きっと先生も、立村くんのように気の回りすぎる男子は苦手なんだろう。好みのタイプはさっぱりきっぱりしたサーファータイプ、と話していたことを思い出し、彰子は笑いをこらえた。
天井の揺らめきは、ほのかに続いていた。
階段の踊り場で二回、もう一度二年D組のドアでラジオ体操形式の深呼吸を繰り返した。
──さあ、行くぞ!
こそっと隙間から顔を覗かせた。班ごとに机をつけたままだった。マグネシウムリボンのこげた匂いやアルコールランプ使用後の臭さがいっぱいだった。日常的理科実験室の匂いだろう。空気入れ替えしたいなあと誰もが思うだろう。
彰子に気づくや否や、一気に女子たち、男子たちがざわめきたった。もう戻ってきたのか?という疑問の雰囲気ではない。そこになにがあったかを探ろうとする、ねめっとしたべたつきを感じる。特に女子たちの視線は、友だちとは違う別のものを見つめているようだった。「奈良岡、具合よくなったか? めずらしいなあ」
「ご心配おかけしました! もう大丈夫です!」
わざと明るく答える。自分の席に戻り際にちらりと南雲くんに目を向けた。向けなくてもぴたっと合った。隣りの席が空いたままなのは、立村くんがいないから。南雲くんは無言でじっと、彰子を見詰めていた。
「やだあ、見てるよ見てる」
「ったく、南雲もやるよなあ」
幸い、彰子に対しての「ブス」「デブ」攻撃は一切なかった。すでに終わった実験の後始末を彰子は引き受けた。後ろから水口くんが、泣きそうな顔で手を振っている。振り返してあげるのはいつものこと。少なくとも彰子だけは、今までと同じに振舞ったつもりだった。羽飛くんが反対側の席から、機嫌悪そうに南雲くんを見つめているのにも気づいた。やはり相性が悪いんだろう。
授業が終りもう一度、おぼんにアルコールランプをを持っていった。たまたま隣り合わせになったのは羽飛くんだった。南雲くんと同じ視線を向けられるかと思ったが、違った。
「奈良岡、ひでえめにあったな。ほんっと、災難だよな」
はっきりと、聞こえるように羽飛くんが言い切った。
「え?」
「やり方がきたねえよな、南雲もな」
──もしかして、気にしてくれてるのかな?
思わずときめいてしまったけれど、すぐに消えた。
「気のない相手をからかうなんて、男として最低だぜ。いいか、奈良岡、これ以上なにかされたら、俺たちが『紳士として』奴を許さないからな。めげんなよ」
「はとば、くん?」
じゃあな、と羽飛くんは勢い良く彰子の背中を叩いて、おぼんを運んで出て行った。
たぶん背中に手跡がのこっているかもしれない。けど、ちっとも、痛くなかった。
あと一時間だけ授業が残っていた。六時間目は国語だったが視聴覚教室にて「明治文豪の歴史ビデオ」で時間がつぶれるはずだった。三階へ教科書だけ持って移動した。立村くんはまだ眠りつづけているらしかった。姿はなし。
「彰子ちゃん、彰子ちゃん」
周りに同じクラスの女子たちが集まってくる。やはり聞き出したかったのだろう。自分が反対の立場だったらきっとそうだろうと、彰子も思う。腹なんて立たない。ただ、羽飛くんが南雲くんへ見当違いの怒りを向けているようすが気になっているだけだ。
カセットレコーダーがセットされている机に、テープを押し込んで、彰子は振り返った。
「さっきびっくりしたでしょう」
「そうよね、彰子ちゃん、驚くよねいくらなんでも」
「おなか痛くなっちゃうよね」
口調はどこか慰めのニュアンスあり。やはり保健室に向かったのは、いろいろな誤解を招いてしまったのかもしれない。クラスの子たちがどのくらい本当のことを知っているのかはわからないけれど、少なくとも女子は彰子のことを嫌っていないらしかった。ほっとして彰子も口を開こうとした。
──みんな、ありがとう。心配してくれるなんていいクラスだよね。二年D組って。
「でさあ、彰子ちゃん。私思うんだけど」
突然声をひそめてひとりがかがみこんだ。周りの子たちをこいこいと集めた。
「ほら、南雲くんの前の彼女、C組にいるでしょ。あの子の友だちから聞いたんだけどね」
顔は見たことがある。髪の毛がショートで、目がまん丸で可愛い子だったっけ。
「南雲くんって、遊び人に見えて実はすっごく家族思いなんだって」
それは前から知っている。おばあちゃんっ子らしいことも、向こうが良く話してくれていた。
「彰子ちゃん、知ってるんだあ。そうそう、おばあちゃんのことすっごく大切にしてるんだって。でねえ」
廊下側に南雲くんたちが席を取っている。男子たちの群れもどことなく半分に色分けされているようすだ。遠くから水口くんがおろおろと、彰子へ手を振って合図しているが、無視するしかない。
さらに小さい声だった。みな耳を膨らませている様子。
「で、南雲くんのおばあちゃんって心臓が悪いらしいよね。知ってる? 彰子ちゃん」
聞いたことがある。頷いた。
「だから、前から病気のことについて誰か詳しい人いないかなとか、話していたんだって」
──想像はつく。見た目よりもずっと、あきよくんはやさしい子だからね。
大きく頷いた。ゆっくりと、語る子ひとり、にやっと笑い、すぐに消した。
「私、彰子ちゃんのために言うんだけど、きっと南雲くんは、彰子ちゃんにおばあちゃんの病気とかそういうことを相談したくて、それで、告白した振りをしたんだと思うんだ。これ、C組の女子たちもさっき話してたんだ。だって、そうでなけりゃ、考えられないもん。彰子ちゃんになんで、いきなり南雲くんが変なこと言い出すのかって!」
頷くしかなかった。ばかにされたなんて思わなかった。ほんと、それが一番しっくりくる、考え方だった。そっと南雲くんのグループがたむろう廊下側席を見やると、じっと視線を向けてくるのがわかる。優しく受け止めて、返事をしたかった。
──あきよくん。きっと、そうだよね。
言葉の響きは確かに、「付き合ってください」だった。
もしそうだとしたら、彰子はどう答えていいのかわからなかった。
でも、もし、南雲くんのおばあちゃんに何かしてほしいからという理由が隠れているのならば。
──私は、あきよくんと友だちでいられるはず。付き合うとかなんとかってことじゃない。
「そうよね、彰子ちゃんになら、正攻法で相談すればいいのにね。どうしていきなり告白なんてわざとらしいやり方するんだろうね。納得いかないよ。ね、彰子ちゃん。これは抗議すべきだよ。さっき羽飛もすい君も、他の男子も信じられないって顔してたもん。立村くんなんかいまだに貧血起こしてひっくり返ったままだもんね。ほんっと南雲くんって真面目でいい奴だと思ってたけどね。いくらなんでも彰子ちゃんに告白のまねなんてして、利用しようとするなんてねえ……」
女子たちの会話はまだ続いている。みな、勢いづいて南雲くんのことを謗っている。それに加わりたくはなかったから何度も、
「ううん、あきよくんは私を利用しようだなんて、絶対思ってないよ。でもそれならそれで私はかまわないもの」
と言い返したけれども。
「だって、そうでなかったらなんで南雲くんが彰子ちゃんに付き合いかけたのか、説明つかないもんね」
──やっぱり、そっか。そうだよね。
唇をかみ締めてじっと見つめる視線をほおに感じながら、彰子はうつむいた。