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教科書に五月の陽射しが黄色く落ちている。黒い文字で二次方程式の応用問題が綴られている。光のあたり加減により、黒のインクが鮮やかに見えたりもする。新しい教科書になって二ヶ月、彰子のはまだきれいなままだった。
緑色の黒板前で、時間が止まっている。
いつものことだった。立村くんがチョークを握り締めたまま、ぼんやりと黒板に端正な文字を眺めている。問題そのものはきちんと整った字で書き記しているのだが、それ以降が進まない。めったに立村くんが黒板に出て問題を解くなんてことはない。特に数学担任が狩野先生に代わってからは、一度もなかったはずだ。
──確かに、立村くんだけひいきしているって思われてるかもしれないなあ。
──でも、こういうところを見ると、やはりかわいそうだと思う。
彰子は問題の中身をざざっと見直した。
当たりが悪い。よりによって応用問題だ。せめて教科書の例題に、数字をちょこちょこ入れ替えた程度だったら、立村くんだって曲がりなりに形を作ることができただろう。運が悪い。周りの女子たちがひそひそとつぶやいている。
「やっぱりね、立村くん以下じゃないってことは証明されたかな」
「そこまで落ちたら悲惨だよ。よく青大附中に入れたよね」
くくくと声を殺して笑う人々。男子たちはというと、これぞ「いつものこと」と割り切った視線。
「そりゃああいつは数学ペケだからしょうがないよな。ま、立村の場合は人呼んで『全自動翻訳機』だからなあ」
──なんかな、なんで立村くんは男子に受けがいいのかなあ。妙なくらいに。
翳っている横顔を彰子は遠目から見た。席が離れているので細かくは見えないけれど、何かを考えて、何かしようとしているのだけはわかったような気がする。何度かチョークを黒板に当てるようなしぐさをする。すべらせようとする。が、どうすればいいかわからないようにまた外す。文字だけだったら完璧に問題を解いた後に見えるのだけれども、先に進めないらしい。前髪だけが軽く浮き上がり、そのまま襟足にきちんと伸びているのが見て取れる。唇が薄い。何よりも血管が透けそうな顔。採血検査の時は苦労しそうだと、彰子はひそかに思っている。
立村くんが二年連続評議委員に選ばれた時、女子同士からはブーイングが起きたことを、よく覚えていた。むしろ彰子も、立村くんよりも羽飛くんの方がずっと押しも強いし、明るいし、完璧じゃないかと心積もっていたのだが。男子全員の一括した意見に押し切られてしまった。むしろ羽飛くんの命令に逆らえなかった男子たちの態度が謎だった。何を考えているか分からず、無口だし、英語は得意かもしれないけれども、数字が混じったとたん授業が漫才ねたになってしまう。評議委員が必ずしも成績優秀な必要はないかもしれない。でも、人望は必要だと思う。ひっぱっていく力は必要だろう。彰子からすると、どうも立村くんにはそのどちらも欠けているような気がしてならない。
──性格は、いい子なんだけどね。男子はなかなか自分からあやまるとかしないけれども、立村くんは男子女子関係なく、すぐに頭を下げてくれるし、気持ち悪いくらい丁寧に接してくれるからね。ホテルのボーイさんみたいな感じかな。でも、本当に何を考えているのかが見えないから、こちらも一線引いておかないとまずそう。こちらが言いたいことをぽんぽん言っても、「ごめんなさい」の一言で逃げられそうな感じだしなあ。なんか、存在感が妙にないのに、どうして男子たちは立村くんを圧倒的に支持するんだろう。今度、ナッキーあたりに意見を聞いてみようかな。
「立村くん、ちょっといいかな」
三分くらい膠着状態が続いたのに痺れを切らしたのか、白衣姿でじっと見守っていたらしい狩野先生が教壇に上がった。この先生も彰子からすれば「何を考えているのかわからない」タイプだ。ひとりひとりに「さん」付けで呼ぶのは、生徒を「紳士淑女」として扱いたいからだとは聞いている。決して声を荒げることもなく、分からない問題は丁寧に黒板で説明してくれる。また、小テストなどもひとりひとり違う内容の問題を手渡してくれる。彰子の場合は数学が得意なので、高校生レベルの死ぬほど難しい問題を渡されて悲鳴をあげている。 いい先生なのだろう。でも、今ひとつぴんとこなかった。
──もっと腹が立った時ははっきりと言えばいいんだけどな。去年の石原先生なんてすごかったなあ。今、立村くんがこうやって立っていたら、まず出席簿で思いっきり叩いて、「これはな、基本として解き方がこうなって、ほら、立村聞いてるのか。しっかと目ん玉開いて見てろよ。ほら、手を黒板に当てて、それで考えてみろ」って体で教えていたのにね。ちょっと乱暴かもしれないけれど、わかった時には思いっきり頭なでなでしてくれたし、拍手もしてくれたしなあ。今でも石原先生の所に質問しに行くと、「彰子えらいなあ。医者かあ。じゃあ俺も将来お前の世話になるかもしれないから、がんばって教えなきゃあなあ」って燃えてくれるんだけど。どうも、狩野先生って、問題そのものだけを教えてくれるだけで、それ以上の深みがないって感じ。あまり生徒と深くかかわりたくないって感じなんだよなあ。
狩野先生は粉で白くなった指を立てた。手付かずの方程式を押さえるようにして、何かの言葉を発した。
「……」
英語とは違う発音だった。咽を鳴らすような、舌を巻いたような、響きの硬い言葉だった。
立村くんの目がくいっと上を向いた。横顔にはありありと戸惑いが見え隠れしている。唇がかすかに動き、自分で何かを言おうとしているのだが、やはりこちらも聞き取れない。 「……」
もう一度、ゆっくりと狩野先生は方程式をなぞりながら、立村くんに問い掛けた。
「ねえねえ何言ってるの、狩野先生」
「英語?」
いや、英語じゃないだろう。「ノッホ」だとか「イッヒ」だとか、数回聞き取れない言葉が混じっている。ドイツ語だろうか? なんとなくそう思ったけれども、断言する自信はない。英語関係の能力が天下一品だとは、立村くんと同じクラスの人ならみなわかっていることだ。でも、ドイツ語まではわからない。
「……」
小さな声で、うつむいて何かをつぶやく立村くん。やはり「言葉」が「何か」としか、判断できない。
「ヤー、……」
語尾を上げて、次に狩野先生は黒板に問題の答えを綴り始めた。かなり小さい神経質そうな文字だった。
「……?」
プラスとマイナスを重ね、丁寧に同じ部分をなぞりつつ、出てくる言葉はやはり聞き取れないものだった。返す立村くんも、小さく頷きながら滑らかに答えている。内緒話をひそひそするような感じだった。
「おいおい、ここでいきなり英語のヒアリングかよ。やってくれるぜ立村ちゃん」
「てかさあ、なんか立村らしいっていうか、なんというか」
やはり男子たちの反応は好意的だった。一番の仲良しである羽飛くんがにやにやしながら黒板のふたりを眺めている。
繰り返された異国の言葉のやりとり。十分くらい行きつ戻りつしながら、教室内がしゃべりの嵐に満たされた中、やっと立村くんは席に戻った。隣りの古川こずえちゃんが身を乗り出すように、
「ねえねえ、立村、いったい何話してたのさ。なんか、内緒の相談とかしてたんだ? 英語?」
「違うよ。ドイツ語だって」
短く答えて、すぐにうつむいてノートを開いていた。
──やっぱりそうか。でもどうしてだろう。確かに立村くん、二年に入ってからドイツ語の講習を受けているって聞いたことあるけれど。ま、いっか。人それぞれ、得意なこと、苦手なことってあるもんね。
その後数学の授業は静かに終わった。居眠りの多い授業だった。狩野先生の話す言葉があまりにも細々しているので、みなも騒がない代わりに自分のやりたいことを勝手にやらせてもらっている、という感じだった 授業が終わってからは、時也とお約束の「耳鼻科へデート」の予定だった。青大附中よりも授業は早く終わると言っていた。玄関での待ち合わせと、すでに公園で約束済みだった。
公園で三人ケーキを食べまくった後の展開は聞いていない。父にも「飯盒炊爨じゃない方いいんじゃないの?」とは言えず、委員会関係の用事があるとごまかしてその件はお流れにした。特に残念そうな顔もしていなかったところみると、父なりにかなり無理をしていたのだろう。きっと。
直後の日曜に時也のお母さんと一緒に超どふりふり服を買いあさってきた母に言わせれば、
「すぐにお母さんと一緒に病院に行ったんだって」
とのことだった。紹介状であって、診断書じゃないから医者としては気軽に書ける、というのが言い分だ。とにかく時也の場合は病気をきっちり治して、それからだろうと彰子は思っている。外見の嫌悪感とか不潔感とかをなくしたら、もともと時也はいい子なのだからすぐにもてもてになるだろう。怖いナッキーだってついているのだから。寡黙だけれど、頼まれた仕事はきっちりこなすし、荷物を押し付けられた子を見ると、無言で半分以上持ってくれたりもする。
──時也みたいな子はわかりやすいんだよなあ。むしろ、立村くんみたいなタイプって、どうもわからないなあ。男子たちはみんな立村くんを評議委員としてあっさり認めているけれど、そこのところも正直なところ、なぜ?って感じだもん。すれ違っても気づかないっていうのかな。
「どうしたっすか、奈良岡のねーさん」
後ろを振り返ると、南雲くんがにこにこしながら立っていた。腕には銀のアームバンドのようなものをつけている。ブレザーを脱いでいるので、腕がふたつに区切られた感じ。少女めいた袖のラインに見えた。たぶん細いんだろう、うらやましい。
「ううん、別になんでもないよ。それより、あきよくんさあ」
下手なこと口にしたら立村くんへの悪口になりそうで、言葉をくっつけるのが大変だった。
「どうして、規律委員になんてなろうって、思ったの。何か似合ってないなあって、いつも思うんだけど」
「そんな俺っていいかげんに見えるかなあ」
目を細めて南雲くんは頭を掻いた。銀色の光がちらっと光り目に入る。彰子も目を細めた。
「いやそういうんじゃないよ。ただ、今日もこういう銀色のわっかみたいなの付けてるし。きっとあきよくんは思いっきりおしゃれな格好で決めたいんだろうなあって、想像はつくよ。規律委員の場合だと、厳しい規則がどうたらこうたらって言うのを決めるわけだから、本当にあきよくんのやりたい格好なんて、できないんじゃないかな。それならむしろ、評議委員とかその辺りに立候補したらよかったのにね」
「このクラスで評議に立候補するってことは、自殺行為ですって、ねーさん」
思った通り南雲くんはさらりと答えた。
「立村に勝てるわけないもん。俺だってそのくらいのことはわきまえてますって」
「そうかなあ」
ふと表情が変わった。猫が獲物を見つけた時の輝きだろうか。身をかがめてきた。かすかに匂うのは柑橘系のコロンの匂い。こいつ、男子のくせに香水なんてつけてるんだ。あきれる以前に思わず笑ってしまった。
「俺が評議できる器だと、もしかして思ってくれてた?」
もちろん誰にも聞こえないように気を遣ってはいるようだ。立村くんおよび羽飛くんは、廊下に出ていて何かを話している。たぶん聞こえないだろう。
「うーん、難しいところだなあ。あきよくん。でも、あきよくんが評議委員に立候補したら、きっとクラス女子の半数は、賛成の手を挙げてくれたんじゃないかと私は思うよ。立村くんとの決戦投票になっても大丈夫。ただ」
まだまずいことを言ったとは思わなかった。
「羽飛くんだとどうかな、ってとこはあるけれども、あきよくんは人気者だからね。その辺大丈夫だと思うんだ。二年はこのままだろうけれども、もし三年になって考えるところあったら、チャレンジしてみたら?」
素直に口にしただけだった。羽飛くんと南雲くんとだったら、人気度からしてたぶんとんとんだろう。どちらも明るいし、考えていることがすかんとわかり、もっと言うならルックスも雰囲気も、女子好みだ。少なくとも立村くんのような、明治時代の書生さん的雰囲気よりは、ずっと受け入れられると思う。
「わあ、ねーさんに誉められたぜ。まじで。すげえうれしいよ」
笑顔が満開になる寸前、突如唇がとがった。なんか気に障ること口にしたのだろうか。言ってくれればいい。すぐにごめんなさいとあやまるから。
「俺は立村には勝てねえよ。羽飛には勝てるかもしれねえけど」
「なあに自信なさげなこと言ってるのよ。ほんっと、実は自信あるくせして!」
はっと気づいた。この前、ナッキーたちと会った日の帰りがけ。
──あきよくん、わあ、そうだよ。とんでもないこと言っちゃった!
「けど、ま、これでエネルギーを注入されたってことで、俺も明るく生きていきますって!」
言い訳、ごめんなさい、悪いこと言っちゃった、口の中でもごもご言っているうちに、南雲くんは両手を組んで伸びをし、自分の席に戻っていった。
──そうだよ、あきよくん、彼女と別れたばっかりなんだよね。つい最近。まだ傷口ふさがってないよね。C組の彼女とだよね。きっと慰めてほしかったんだろうなあ。仲のいい女子に。でも私くらいしか手が空いてなかったからなあ。もっと、元気出してって声掛けてあげればよかったよ。ああ、まだ私って人の心を受け止めてなんてないなあ。まあいっか。とにかく、今度はあきよくんに別のことで、気持ちよい話してあげようっと。
なんといっても彰子のモットーは、「私の周りにいる人はみんな、いい人ばっかりなんだもの!」である。今までそれを覆す出来事はひとつもなかった。
特別何事が起こるわけでもなかった。担任の菱本先生は五月の遠足について、やけにのりのりだったし、いつものように司会を務める評議委員の立村くんはあいかわらず冷静にまとめていたし、二D女子一丸の意志「影のリーダー」たる羽飛くんは、
「じゃあ、やっぱりさあ、他のクラスと一緒に集団鬼ごっこやろうぜ。ほら、手つなぎ鬼とかだったら、結構燃えるだろ!」
と、いささか楽しい案を出してくれた。ソフトボールとかドッチボールとか、球技系でないところがみそだ。彰子のように、走るとすぐ息切れしてしまうタイプの人間には非常にありがたい。鬼ごっこだったら、捕まればすぐに手をつないでついていけばいいだけのことだ。思いっきり拍手を送りたかったのだけれども、やっぱり慎重派の立村くんが言い出した。
「でも、手をつなぐのがいやだとか、走ったりするのがいやだとか、そういう人がいるかもしれません。どうでしょうか」
──気を遣いすぎるよね、立村くんは。せっかくみんなで盛り上がろうって話をしているんだから、ここで話の腰を折らないであわせればいいのにな。一生懸命、うちのクラスのためにがんばってくれてるのは伝わってくるから誰も言わないんだろうなあ。いい子だからなおさら、こんなずれているところが目立ってしまって、損してるんじゃないかなって、思う。
「なあにまたよけいなこと心配してるんだ、立村。ほらほらあっさりと手を挙げて決を取れ。おーいみんな、遠足のゲームは手つなぎ鬼でいいか?」
羽飛くんが立ち上がり、ばんざいしながら手をひらひらさせる。不意に目が合った。照れることもなく、そらすこともなく、にやっと笑ったままだった。
「賛成!」
こずえちゃんの声と同時に男子女子次々に右手が挙がった。中には数本、左手を挙げている人もいる。左利きの子だ。
すぐに教壇の高いところから指差し式で数えているのが美里ちゃんだった。立村くんは数を数えたりするのが非常に苦手だから、こういう時は野鳥を計算するように素早い美里ちゃんの本領発揮となる。しっかりしている。二年連続評議委員。呼吸はぴったりだ。
「あれ、全員じゃない。立村くん、これで決まりね」
「ありがとう。それでは、全員一致で、手つなぎ鬼をすることにします。特別準備も要らないようなので、あとはバスの席順だけを決めることにします」
今日の美里ちゃんはブレザーの襟に細い矢印のブローチをつけていた。濃いグレイ色に溶けて見えないから、たぶん校則違反にはなっていないだろう。こういうところが美里ちゃんの可愛いところだし、「評議委員なのに嫌われない」ところだろう。彰子も美里ちゃんは大好きだ。
教壇から降りて美里ちゃんは羽飛くんに小さく何かをつぶやいていた。聞き取れないけれど、指先でつんつんつつく真似をした羽飛くん。からかうか何かしたのだろう。
「もう、やあだあ。貴史ってばあ」
ちっとも媚びている風に見えない。物心ついた頃からの幼なじみとは聞いていたけれど、今だにそんな仲良しこよしでいられること。他の人からすれば珍しいことなのだろうけれども、彰子にとっては目の保養でもある。
──しょうがないよね。美里ちゃんにだったらな。
──羽飛くんはアイドル好きの面食いかもしれないけれど、美里ちゃんだけは別だもんね。やきもち妬いたってしょうがないもん。こずえちゃんには悪いけど、羽飛くんはもうあきらめるしかないってことよね。
「いい子」「やさしい子」と「子」を使うくせのある彰子が、唯一使用しない相手。「人」と呼ぶ相手。
それが、羽飛貴史くんだった。
水口くんが毎日のように見せびらかしにくる、「人体解剖図」を一緒に楽しみ、お互いに、
「今夜は、カツオの解剖する予定なんだ!」
「そっか、じゃあ私はあじの解剖をしようっと」
約束しあい教室を出た。心なしか水口くんは、医学部への夢を口にしてからというものの、ちょっとだけ大人びた風に見えた。一年の頃みたく、転んでもすぐに泣きじゃくることが少なくなった。彰子が、
「お医者さんはね、身体が丈夫でないとできない仕事だから、今のうちにたくさん食べておかなくちゃね」
と話したのがきっかけなのか、給食を全部食べるようになったとか。
菱本先生にも、
「奈良岡のお言葉は偉大だなあ。すい君、お前大人になったなあ」
と双方にお褒めの言葉をいただく始末。水口くんによけいなお世話してしまっただけなのかもしれないけれど、やっぱり明るい顔してくれていたら、青大附中の生活も楽しくなる。エリートだか優等生だかわからないけれど、とりあえずはみんなが笑顔でいてくれる。もう「もてもての小学校黄金時代」が戻ってこなくたって、彰子は十分満足だ。
「奈良岡さん、奈良岡さん」
──あきよくんだな。
放課後直後の一時間は、それぞれの「委員」顔をしているもの。校則違反の嵐少年・南雲くんも同じだった。まがりなりにも規律委員様。何か、チェックされそうなところあっただろうか。言ってくれたら直すし、まあいいか。
「どうしたの、あきよくん。これから委員会?」
「うん、ほら、これさ」
いきなり抱えているこぶりのスケッチブックを差し出した。ローマ字で、「SYUSEI AKIYO」と綴られている。ペンのイタリック体でだ。凝っている。さすが二年D組の王子さま。
「今度、青大附中のファッションブック作るんだ。ほら、俺、描いたんだ」
「ファッションブック?」
確か規律委員会は、服装を正しくするための一環として、毎年限定でイラスト入りの規定集を作ると聞いていた。あまり興味がなかったので見ていなかった。なにせ彰子は、「どふりふり」ものでなければ十分というタイプだ。要はウエストが入るものならなんでもいい。 南雲くんは前髪を何度も書き上げた。話している最中に三回くらい。長すぎるから邪魔なんだろう。今度、はさみ持ってきて切ってあげようかとふと思った。
「今年から年四回発行になったんだ。んで、俺が今回イラスト担当で、たくさん描かされてるんだ。でも、委員会の連中ばっかりだったら今ひとつぴんとこないから、奈良岡のねーさん、ちょっとだけ見てもらえないかなあ」
「いいなあ、私も見たいな、あきよくんって絵がうまいもんね」
素直に彰子は答えた。せっかくだったらゆっくり観たい。めくりたいとは思う。ファッションについてはよくわからないけれど、きれいなものを見るのは好きだ。でも。
「あ、でも今日はだめなんだよね。ごめんね。今度、教室でゆっくりみんなで見たいな」
独り占めするのは、やはり「青大附中内の南雲くんファン」に失礼だろう。
ようやくフリーになって、たぶん水面下では争奪戦が行われているであろうから。彰子が誤解を招くことをやらかそうものならば、きっと迷惑になるに違いない。
「みんな、って?」
「だから、あきよくんの絵の巧さは私もよくわかってるから、クラスのみんなでじっくり楽しみたいんだよね。あ、できれば、コピーしてほしいな。うちの父さん母さんにも見せたいから。この前話したと思うけど、うちの母さん、レースやフリルがどっさりついた可愛い服が大好きなんだ。よかったら今度、あきよくんに書いてほしいな。もちろん、可愛い女の子の絵でね。まかり間違っても私みたいなおでぶさんじゃなくってね!」
ぽんと、腕のところを叩き、スケッチブックを押し返した。
「今日、これから、だめ?」
「これから予定があるんだ」
「あのさ、もしかして、あの自転車の」
相当強烈な印象だったらしい。ナッキーの金銀まだらのペインティングチャリは。
「いいや、違うよ。これからね、友だちが青大附中の校門に迎えにくるんだ。一緒に病院に行くんだ。耳鼻科にデートなんだ!」
もちろんしゃれである。時也にもちゃんと「一緒に病院でデートしよ」と言った言葉そのものだ。これを誤解する人はいないだろう。
「耳鼻科、って?」
「もう、やだなあ。この前私に彼氏いるかいないかってこと聞かれて爆笑もんだったって言ったの、覚えてる? その子なんだ」
「その子って、男子なのか」
心なしか冷たい響きだ。ちょっと機嫌を損ねたきらいあり。
「うん、そうだよ。でもね、彼氏とかそんなんじゃないんだよ。ちょっといろいろあって、私が母さんにいい病院を紹介してもらったんだ。早く病気が治って、その子が元気になれるようにって。卒業してから離れ離れだけど、やっぱり大好きな友達にはいつも元気でいてほしいからね」
「病院? 紹介? あの、ねーさん、よくわからないですが」
不機嫌はだんだん疑問にすりかわっていく様子。南雲くんは耳にカバーをつけるような感じに手をかざした。たぶん詳しく説明しないとわかりづらいだろうとは思うが、残念ながら時間がない。時也が迎えにくるはずだ。
「ほら、うちの母さん、医者だから、そういうのに詳しいんだ。どの病気にどのお医者さんに行けばいいかってこと、いっぱい教えてくれるんだ。たまたまその子の病気にお奨めのお医者さんが見つかったから、この前新しく行くことになってね。その時にせっかくだったらってことで、一緒にデートみたく耳鼻科に行こうかってことになったんだ」
「なんで? あの、奈良岡さん、病気とデート? 病院で?」
「だって、私にはいわゆるデートって一生ありえないって思うんだ。遊園地とか、喫茶店とかそういう可愛いこと似合わないもん。でも、大好きな友だちと一緒だったら、病院の待合室だって絶対楽しいよ。小学時代の栄光の日々を、せめて思い出させてねってことで」
だんだん混乱の極地に陥ったらしい南雲くん。本当はもっと「紹介状について」「紹介状と診断書とは違うこと」「自分がなぜ医者になりたいか」「友だちがいつも笑顔でいてくれるにはどうすればいいか」などなど語りたかった。南雲くんは見た目よりもずっとひたむきでまじめだとわかっているから、思いっきり話したかった。でも、時間がない。
「じゃあ、また明日ね、ばいばい!」
走らないと間に合わない。彰子は素早く背を向け、後ろ向きに手を振りながら玄関に急いだ。
「彰子、おせえぞ」
靴を履きかえる前から、誰が来ているのかすぐに見分けがついた。
まだ夕日が落ちない黄色い光。まばゆい物体がひとつあり。
「ああ、ナッキーもいるぞ! 時也、今日は私とふたりっきりじゃなかったのかなあ」
時也は無表情で頷いていた。学生服のままだった。白い縁取りをした、一発でどこの中学かわかるというあれだ。
「夏木が、勝手についてきた」
「あったりめえだろ。彰子とデートするんだったら、俺も一緒だろ。な、時也」
頷く時也。もし、これが「デート」ならば、両手に王子様ってことだろうか。これは贅沢だ。思わずにやけてしまうのをこらえつつ、彰子はふたりの肩にゆっくりほおずりした。右、左と頭を乗せただけだけど。さすがに青大附中の連中にはできないけれど、このふたりには許せる。
「検査はどうだった? なんも痛いことされなかったでしょ」
「今は手術できないって言われた」
ぼそりとつぶやく時也のポケットを覗いた。薄い。つぶれている。ちゃんと使用済みティッシュを入れるためのビニール袋を持参しているらしい。ナッキーの提案だろう。
「じゃあ、トリブルデートに出発! でも、待合室が込んでたら私とナッキーは別のとこにいた方いいよね」
「予約だから」
前をずんずん歩き出す時也を追いかけ、彰子は急ぎ足で自転車置き場へ向かった。ひゅうと口笛を吹くナッキー。何もかもがくっきりと見えるふたりの言葉。身体のすみずみまで気持ちよかった。