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 母が昨日の夜勤で疲れて寝ている。しいっと人差し指を立てて、ナッキーに合図した。「やきん」と、大きく口を動かした。

「なら先生は?」

「まだいないみたいだよ。応接間を使おうか」

 父が戻ってくるのは六時近くだろう。ナッキーだって、「大好き」な先生とはいえ放課後まで顔を合わせたくはないだろう。彰子も制服のままでまずはお菓子を用意した。母の趣味で部屋の中は小花模様の嵐。男子たちには非常に評判が悪い。なぜか男の子好みの超合金ロボットや、時代遅れの怪獣モビールが転がっていた。もちろん自分が使うのではない。ナッキー、時也を始め、しょっちゅう遊びにくる男子たちのために提供するものである。お付き合いで彰子も組み立てやらいろいろな遊び方を教えてもらったけれども、さすがに中学二年となった今は使うこともない。母がこしらえた花柄のおもちゃ箱の中に投げ入れられていた。

「いやあしっかしさあ、すげえ怖い目つきした奴だったぜ、あいつ」

「あいつって誰?」

「ほら、玄関で彰子が声かけていた奴」

 南雲くんのことだろう。納得だ。

「あの子は大丈夫。立場的に規律委員だからちょっとだけ明日注意されるかもしれないけどね」

「ああ、なんかあいつの顔むかつくぜ」

「顔が良すぎるから?」

 からかってみたくなった。覗き込んでみた。ナッキーの浅黒い顔と唇がとんがっていた。「人間は顔じゃないよ、ナッキー。確かにあの子は『パール・シティー』のボーカルに似てると思うけど、やっぱり人間を顔で決めちゃあいけないよ」

「なんだよ彰子、やたらかばうよな」

 笑ってくれない。落ち着かない。機嫌を取り結んでみる。彰子としては思いっきり笑いこけたいのにだ。

「だってさ、私がそんなこといえるご面相だと思う?」

 答えないのは納得しているってこと。ケーキを手づかみで口にほおりこんでいる。口の周りは白いクリームでひげ状態だ。口が利けないのをいいことに、彰子は話を続けた。

「それよりも、本日ナッキーに相談したいことってのはね」

 自分のお菓子は、母の厳命でしょうゆせんべいのみ。ナッキーがうらやましい。手でぱちんと二つに割った。

「時也、もしかしてクラスでいじめられてるかなにかしてない?」

 咽を詰まらせそうになり、咳き込むナッキー。素直だ、時也もそうだけど、ナッキーも考えていることが素直にわかる。こういうところが彰子は大好きだ。なんも考えないで、いいことばっかり話ができるから。

「うちの父さんも全然、そういうこと話さないよ。でもね、なんか時也に電話してみたら、なんか、ね」

 言葉を濁して反応を待つ。グラスをかじるようにくわえる。ナッキーが上目遣いに見つめてくる。

「さらに、いきなりの飯盒炊爨計画でしょう。うちの父さん、そういうの得意じゃないからね。気になってはいたの」

「そりゃあ、切れるよな」

 バンダナが少し額に下がってきている。ぐいっと上げて、口を手首でぬぐった。

「時也ももう少しちり紙を机の中に詰め込むのはやめろよなって言いたい」

「ちり紙?」

「ほら、あいつ、鼻たれてるだろ。いつもさ。鼻水すすってはちり紙でかんで、使い終わったのを全部、ポケットや机に詰め込むんだ。捨てれ、って俺も言ったりするんだけどなあ」

 言いたいことはだいたいわかる。彰子も番茶の冷えたものを飲みながら答える。

「風邪引いてることが多いのかなあ」

「あいつ年がら年じゅう鼻たらしてるだろ。彰子も知ってるだろ」

 ひまあるとティッシュの使い捨てで机の中に山をこしらえていた、時也のことを思い出す。そうだ、面倒をみてやっていたのが、同じ「な」行の苗字を持っていたナッキーだった。

「うーん、でも、時也の場合はしかたないよ。鼻が悪いんだって、時也のお母さんが話してたらしいもん」

 耳鼻科にまだ通っているというのが証明だ。いつも鼻詰まりしないように、プッシュ型の小さな薬を鼻の穴に突っ込むように言われていたのも見たことがある。

「俺とか、まあ小学校で一緒だった奴だったらまだその辺もわかるぜ。ただな、問題は他の学校の連中がそんなこと知らねえ状態だってことだ。汚い以外、なあんも思わない奴らってことだ」

 だんだん彰子にも流れが見えてきた。ナッキーの方にレースのケースに入ったティッシュを押し出した。口の周りが真っ白だ。

「汚くないとは言わないけど、でも、時也だって自分でしたくてしてるわけじゃないのになあ。また『鼻垂れ小僧』とか言ってからかわれるの?」

 ぶんぶんと首を振るナッキー。口を拭かないで大急ぎで飲み込むだけ。

「いや、それはねえ。俺とか小学校からの持ち上がり連中が黙っちゃいねえってこと、わかってるだろ。野郎連中については問題ねえ。ただな、女子だぜ問題は」

「女子?」

「だから彰子、どうしてお前こっちに来なかったんだよ」

 いつも話はそこに行き着く。答えるのに困る質問はあっさりと食べ物でごまかすことにする。

「もう一個、ケーキをあげようか? それともなんか飴とかにする?」

 母からの厳命

「あんたは決して不細工じゃないけれど、でももう少し体重を減らさないと成人病の恐れがあるんだからね」

で、クリームのたっぷり入ったお菓子類は厳禁なのだ。未練たっぷりだけどしかたない。ナッキーの血と肉になっていただこう。チョコレートケーキを冷蔵庫から取り出した。


 時也が相当、クラスで追い詰められていたことはだいたいナッキーの話でよくわかった。

 確かに小学校の頃から、青い鼻をたらして「きたねー」とさんざん揶揄されていた。小学校中学年くらいまで、上手に鼻がかめなかったというのも問題だったのだろう。時也が「過保護野郎」と馬鹿にされていたのも、その辺に理由がある。ただ、男気たっぷりのナッキーを始め、一部の男子連中が時也のことを仲間に入れてやるようになってから、だいぶ状況は変わったように思う。「なつき」と「なぐら」。ふたりとも同じ「な」行で始まる苗字だ。五年のクラス替えでたまたま近くの席になって、今までの態度があまりにもあんまりだと憤ったナッキーが、時也のことを面倒みるようになった。体格的には圧倒的にナッキーの方がちっちゃいけれども、誰も格下だなんて思いやしない。

 五年、六年の時はそれでうまく乗り切っていた。中学に入ってから父のクラスに、ナッキーと時也が一緒になったと聞いた時は、時也のためにもほっとしたものだった。今でも、ある程度プラスには働いているのだろう。しかし、誰もが小学時代と同じく、ナッキーに頭を下げるとは限らない。「時也をいじめるな」とか言っても、「はーい」と頷く連中ばかりではないだろう。父が懸命にかばったとしても、素直に納得する連中でないことは彰子も想像がつく。

 

「と、いうわけで、はっきり言っちまうと、俺はクラス飯盒炊爨なんかやったって意味ねえよってこと」

「女子もそうとうなの?」

「問題は女子だぜ。ったく、時也がたまたま通ってぶつかったくらいで、『いやーん、きたなーい』なんて良く言えるよなあ。お前ら、鼻かんだことねえのかって俺は言いたいぜ」

 ここだ。

 彰子はじっくり聞こうと決めた。

「女子が、なの?」

「時也も黙って引っ込んじまうから悪いんだ。もっと堂々と、ああそうだ、なにが汚ねえんだっていえばもっとあの女どもも退くだろうになあ」

「言えないよね、時也には。結局代わりにナッキーが?」

 頭を掻いて、さっそく次のケーキに取り掛かる。白と茶色のクリームが口の周りにひっついて、微妙なマーブル模様を描いている。笑える。早くティッシュを使えばいいのに。彰子は言いたいけど黙っていた。

「けどさ、俺の言い方がいじめているように見えるとか、女子を馬鹿にしてるように思われるとか、さんざんで、結局つるしにあうのは俺の方。なんだよ時也だって好きで鼻たらしてるわけじゃねえよな。気にしてるから、いつもティッシュを丸めてポケットに隠してるんだよな」

「わかった。ナッキー。とりあえず、父さんに飯盒炊爨ツアーはやめとくよう言っとくわ。だって、飯盒炊爨となったらカレーとか焼肉とか現地でやるわけでしょ。時也が料理の手伝いするとなると、またみんなばい菌扱いするに決まってるよ。ナッキーだっていつもいっつも、時也のめんどうを見るわけいかないもんね」

 五年生当時のナッキーは、人気も絶大ならば面倒見もいい、身体は小さいけれどけんかも強い。お調子ものに見えるけれど、人を差別する奴には容赦しない。時也を「洟垂れ小僧」だからという理由でいじめる奴には、男女問わず鉄拳制裁を加える。それが裏返って、「ナッキーは暴力的な奴」と思われているきらいもないわけではない。幸い、なら先生こと彰子の父は、ナッキーの小さい頃から現在にいたるまですみずみまで知っているから大丈夫なのだが。父や彰子にとってナッキーが「非常にいい奴」なのに対して、女子たちの間では「夏木くんって怖い。寄りたくない」という差が明らかに存在している。

 ──そうだよね。ナッキーとしゃべることができる女子が少ないっていうのも問題なんだよね。

 ──こういう時、私も公立行けばよかったって思うな。

 ──でもでも、父さんが担任で、朝から晩まで気が抜けないっていうのも、辛いよナッキー。


 ただ、時也にも問題がないとは言えないだろう。

 彰子は医師である母から「病気で身体が汚れたり、出てきたりしたものは、汚いと決して口にしてはいけないよ。みんな、身体をよくしよう、なんとかしようとして、押さえたいのに出てきてしまうんだからね」と言われていた。よくなるためには、出したくないものも出さなくてはならない。出したくないのに出してしまう患者さんが、一番辛いのだ。目やににしてもそうだ。血にしても。自分の感覚に必ずしもぴったり合うとは限らないけれど、気持ちだけは重ねていこう。医者を目指すと決めてから、自分に言い聞かせてきたことだった。

 同じ思いをきっと、時也だってしているのだろう。

 でも、もし彰子が母に言われてなかったら、女子たちと同じことを感じていなかったとは、限らない。汚い物は汚い、近くに寄るな、と口にしてしまったかもしれない。反省してしまうけれどもしょうがない。

 どちらの立場も想像がつくから、いい方法が見つからない。

 ──まずは、時也に、鼻をかみ終わったティッシュを処分することを覚えてもらう方が先決かなあ。でもそれは、ナッキーがいつも怒鳴り散らしているんだよね。ああ、もし私が耳鼻科のお医者さんだったら、時也に効果的な薬をあげるんだけどなあ。

「ね、そう思うよね」

 思いつくまま彰子が話すのを、ナッキーはもぐもぐ口を動かしながら聞いていた。

「でもな、どうして時也、鼻が治らないんだろうなあ」

「そうだよね。うちの母さんが耳鼻科だったらいいんだけど、目だったらちょっとね」

 正面で口を動かしつづけているナッキーの視線が、後ろでぱたっと止まった。こくっと、ひとつ頭を動かした。目がまるく、凍っている。

「あ、おじゃましてます」

「ナッキー、お久しぶりね。お菓子、ぜーんぶ食べてっていいからね!」

 母だった。目を覚ましたらしい。真っ赤なふりふりのワンピースに花のコサージをつけて、すっぴんのままで戸口に立っていた。

「彰子、またメディカルな話題につきあわせてるの? ごめんねナッキー。うちのお姫様は色っぽい話にとんとうといのよね」

 言葉を発したくとも口がもごもごしていて何もいえないかわいそうなナッキー。答えに困るだろう。目の前に「お姫様」がいるんだから。一番「お姫様」というイメージに合わない人がいるんだから。

「お母さん、ナッキーが呼吸困難になること言うのやめようよ。私に色っぽい話なんてあるわけないって、お母さんがよおく、わかってるじゃない」

 自分で笑いがこらえきれず、彰子は椅子の手すりをたたきながら答えた。ナッキーよりも息が苦しくなりそうだ。ようやく飲み込んだらしく、ジュースをがぶ飲みし、ナッキーはあらためて頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

「いいのよいいのよ。少しお姫様もスレンダーになってもらわないと困るからね。明日香ちゃんに持って行ってもいいのよ」

 ナッキーの妹だ。返事を待たずに母は台所に向かってしまった。たぶん包むんだろう。彰子も食べたいなあと思っていたケーキとかクッキーとかチョコレートとかを持っていかせるんだろう。医者の世界とは、上下関係が厳しいとかで、母の後輩からはしょっちゅうお菓子とかがお礼代わりに届くという。届くたびにため息ついているのだけども、分けてくれないのが淋しいものだ。まあ、ナッキーの方がこれからもっと、肥えないとだめだというのは彰子も納得しているから、あきらめる。

「どうしたんだよ彰子、お前も食えばいいのに」

「だから今言われた通り。もっと痩せろってばっかりよ。人のこといえるのか、って言いたいよね。あのどふりふりの服を着るのだって、ウエストがゴムだから楽だって、それだけなんだから」

「彰子は着ないのか?」

「だって似合わないもんね。それに私、あまり洋服とかそういうのに関心ないもん。将来は白衣を着るだけなんだから、それでいいかなって」

 しばらくナッキーはチョコレートケーキをつつきまわしていたが、軽く腰を上げて伸び上がり、すぐに座りなおした。フォークを彰子向きに置いて、

「あと、全部食え」

 押し出した。

「おなか一杯なの?」

「うん、とにかく、お前、食えよ」

 背中越しに母の気配がないことを確認し、彰子は両手を合わせた。

「ナッキーありがと! すっごくうれしい!」

 

 ナッキーの分をいただいたなんて母にばれたら怒られるのは必至。口をしっかりぬぐって、皿を重ね、台所に持っていった。母はいなかった。ちゃんと包みこんだ花柄のケーキ箱が置いてあったっきり。部屋の中で寝ているか勉強しているか、のどちらかだろう。

「ところでナッキー、前から私が思ってたことなんだけどね」

 花柄の箱に顔をしかめている。ナッキーの方をじっと見て彰子は尋ねた。

「時也、ずうっと前から鼻の調子が悪いって聞いてたけど、病院ってどこに行ってたんだったっけ」

「山乃耳鼻科って聞いてた」

「そうか、山乃さんかあ」

 青潟の場合、いい病院悪い病院の情報は結構リアルに伝わってくる。彰子の場合は、母が直接聞いてくるというのもあるけれども、医療ミスの問題などは、学校での噂話で流れてきている。大きい声ではいえないけれど、水口くんのお父さんが経営している病院でもいろいろあったと聞いている。ただ、それが正しいかどうかはわからないし、真相にたどり着くにはもっといろいろな事情を聞かなくてはならないだろう。病院だって、患者さんを殺したくて死なせたわけではないのだから。と、彰子はいつも思っている。

「耳鼻科って関係あんのか」

「うーん、難しいとこなんだけどね」

 言うべきか言わないべきか。自分のポリシー「悪い人はいない」を貫くために迷った。「あそこの病院、うちのお母さんだったら勧めないって言ってるんだよね。ほら、目と耳と鼻の検診ってあるよね。それでこの前、ある人がひっかかって、病院に行けって言われたんだ。うちの学校でなんだけど。たまたまうちのお母さんに聞いてみたら、私の友達だしってことで、ある病院に紹介状を書いてくれたんだ。すっごくいい病院だからって。そこ、山乃さんではなかったような気、するんだけどなあ」

「早い話、そこ、やぶってことか」

 核心を突くナッキー。

 答えられない。人を貶すような言い方にはしたくない。彰子は決して山乃耳鼻科なる病院を詳しく知っているわけではないし、単に母の好き嫌いというだけかもしれない。ただ、あまりいい噂を聞いていないのも確かだった。

「時也がずうっと、山乃耳鼻科に通っているってことで、全然よくならないのだったら、私だったらどうするかなって思ったのよ。一度病院を替えてみて、違うところに行った方がいいんでないかなって」

「けどさあ、彰子。こういうこと、俺たちから言えるのか? 時也の母さん、すっげえ怖いじゃねえかよ。よけいなこと言うなって怒られるだけだぜ」

 そりゃそうである。でも彰子には勝算があった。続けた。

「だからこういうのは、うちのお母さんに言ってもらうのよ。お父さんだったらまずいけれども、お母さんだったら、まあ友だちって感じで話できるでしょ。あの性格だし。あとは時也が自分で、鼻を直したいと思うかどうかだけどね。時也が自分を何とかしたいと思っているってわかったら、あのお母さんだって駄目だとは言わないと思うよ」

「うわあ、彰子、やること思いっきりプライバシーの侵害って奴だよなあ」

「うん、そう。私も思う。でもね」

 たぶんナッキーだったらわかってくれる。だから、続けた。

「今のナッキーの話聞いていて、クラスの女子たちがいくらうちの父さんやナッキーに怒られても、簡単には言うこと聞けないような気、するんだ。時也がおとなしいけど真面目で一生懸命な性格だって、男子たちはわかっているだろうし、だからみんなでかばってあげてるんだと思うんだけど。でも、女子からすると別のところで、ちょっといや、って感じるんじゃないかな」

「なんだよ、ちょっといやって。あいつら人のこと貶せるほど、ご立派な奴なのか」

 怒気がこもる。まあまあ、押さえてと手をかざす彰子。

「ナッキーは別だと思うし、だから私もこういうこと言えるんだよ。ね。でも、やっぱり中学に入って思ったのは、人間外見でみな判断されるんだなってことなんだ。私が小学校の時に、あれだけみんなとうまくいってちやほやされてたってのは、私の顔とかがね、どうでもよかったからなんだと思う。前にも話したと思うけど、青大附中ではもう私、ビール瓶のねーさんだもん。みんな私のことがきらいじゃないから、そう言ってからかうってのはわかるけど、でも最初はショックだったなあ」

 黙っている。もうほとんどついていないフォークをなめている。笑えない雰囲気を作りたくなくて、彰子はほっぺたをさらにやわらかくしてみた。

「だから、私のできることとしては、クラスのみんなと仲良くして、いつも笑顔でいようってことくらいだったんだ。うちのお母さんにいつもいわれていた「あんたは愛嬌で生きていける」って意味がよくわかったよ。可愛い子とか美人さんとか、たくさんいるクラスだからなおさら、私がそっちで対抗しても勝ち目ないもん。特別に誰かと仲良くなりたいってわけじゃないけれど、みんなで楽しくおしゃべりできればそれで十分だったからね。ナッキー、知らなかったでしょう。私だって青大附中で結構苦労してるんだよ」

 どこまで父が「花散里の君」についての情報をクラスで流しているのかわからない。ナッキーが電話で口をすべらせたのを聞いて初めて知った程度だ。たぶん彰子が父と母に、ずっと青大附中のクラスが外見重視で結構大変という話をしたことはばれていないと思う。「だからよ。時也の性格がいいとは頭でわかっていても、女子としては、鼻をいつもすすって、ポケットにティッシュを溜め込んで、っていうのが不潔に思えてならないんじゃないかなあ。おとなしくて言い返さない子だからなおさら、悪口が飛び交ってしまうんじゃないかなあ」

「けっ、最低な女たちだよな」

「だからまずは、時也が変わらないとどうしようもないって気がする。別に性格を変えろとかそういうことは言わないけど、できればポケットにつっこんだティッシュは定期的に捨てるとか、鼻水をたらしたままにしないとか。でもできないよね。直さないと。うちのお母さんも話してるけど、病院によってよくなるならないが極端に違うって話してるからね」

 しばらくぼんやりとフォークをくわえ、舌をぺろんと出してナッキーは顔を上げた。

「病院の話は全然わからねえけどさ、彰子。時也がもっと女たちに文句言えばいいってことだな」

「鼻垂れ小僧だなんていわせないように、まずは鼻を直そうよっていうのが私の提案なんだ。でもこればっかりは、大人の話だし、私が割り込むのもなんだしね。で、相談なんだけど」

 ナッキーは身を乗り出した。

「おおさ、言えよ」

「これから時也の家に行こうよ。時也を呼び出して、ちゃんとこの計画を話して、自分からうちの母さんが紹介した病院に行くように説得するの。どんなにいい病院紹介したって、時也がうんと言わなかったらしょうがないもんね。私はこれからお母さんに、時也の家に電話をかけてもらって大人の話してもらうね」

 なんだか腑に落ちない顔をしつつも、ナッキーは立ち上がった。

「ごちそうさま。うまかったあ! じゃ、彰子行くぜ」

 

 たぶん父から、時也を代表とするクラスの荒れた状況を耳にしてはいたのだろう。

「わかった。どうせ時也くんのお母さんともお買物に行きたかったしね。何気に聞いてみるから。でも、病院がどうのこうのっていうのは人のうちのことなんだから、あまりよけいなこと言わないようにね」

 超どふりふり服を買うのが好きな母は、なぜか時也のお母さんと好みがぴったりで、たまにショッピングに出かける。バーゲンの時は、忙しくて出かけられない母の代わりに取りおきなどもしてもらっているという。似合わないんだからいいかげん別の服にしろよと、彰子は思うけれどもしょうがない。人は好みなんだし、お気に入りの服を着ていたらご機嫌もいいんだから。

 釘をさされたけれども関係ない。ナッキーの金銀迷彩自転車を追いかけるように、彰子は時也の家に向かった。遠くない。二本通りを隔てた、二階建ての白い家だ。学生さんたちがたむろうアパートの前だ。

「時也の部屋はどこだたっけ?」

「一階の、ほら、左側の窓だぜ」

 直接玄関に向かってもいいのだけれど、過保護で知られるお母さんに顔を合わせるのは抵抗がある。時也だけを呼びたかった。

 ふたりで声を合わせて叫んだ。

「トッキー! 出ておいで!」


 トッキーこと時也がのそのそと玄関から顔を出したのは早かった。

「ナッキーと、奈良岡……」

「昨日はいきなり電話してごめんね。ナッキーもいるから、ほら遊ぼうよ」

 見た目は柔道選手のように、四角い身体つきと頭。目はしっかりしている。鼻の下が赤く擦れているのは、ティッシュでこすりすぎたせいだろう。彰子は手招きして、向こう側の公園を指差した。シーソーが上下しているのが見える。アカシアの木々が擦れているのが聞こえる。

「ほら、彰子がお前のことすっごい心配してるんだぜ。来いよ。いいかげんポケットの紙くず、捨てろよったら」

 ナッキーを手で制した。一番分かっているのは、きっと時也だ。

「飯盒炊爨はやめようかなって思うんだ。それよりね」

 まずは座る場所を探し、彰子はナッキー、時也をベンチに呼んだ。自分は向かいの子供用ぞうの置物に腰掛けた。

 

「と、いうわけなんだ。時也」

 黙ったまま、時也は鼻をすすっていた。青っぱなという言葉があるけれどもまさにその通りだ。黄色い鼻水が遠めからも分かった。袖口もてかっている。たぶん潔癖な女子だったら絶対に嫌がるだろう。女子たちが「菌がつく」とおぞけたつのも、否定はできない。いくら父やナッキーがかばったとしても、無理だろう。生理的嫌悪感というのはどうしようもないものだから。

 ──でも、いい子なんだよ。時也は。

 ──一生懸命、最後まで残って後片付けするのはいつも時也とナッキーなんだよ。

 ──いいところを見てあげてほしいんだけどなあ。

 ナッキーはやっぱり男子だ。どうしても甘い言葉が出てこない。

「だからお前ばかなんだよ! 彰子の言い方は女子だからまだ甘いけどな、お前、自分が変わらないとどうしようもないってことだぜ。わかってんのかよ、時也」

 きつい。言い返せないのはナッキーだからかもしれないし、本当のことだとわかっているからかもしれない。でも、と彰子は思う。

 ──どんなに健康に悪いことだってわかってたって、私もケーキやめられないもんなあ。時也だって、自分の鼻水が不潔あつかいされているって、ちっちゃいころから分かっていて、でもどうしようもないんだもんなあ。

「ナッキー、やめなよ。それよりもさっきの案なんだけどね」

 ゆっくりと繰り返した。

「うちの母さんが、時也のお母さんに、いい病院を紹介するって話してくれると思うんだ。たぶん、今通っているところよりもいいとこね。あんたの鼻がよくなれば、女子たちだって不潔だなんて言わなくなるよ。もし鼻水が止まらなかったとしても、みんなにはっきり『これは病気なんだから、治している最中だ、文句あるか!』と言い返せるじゃない。時也、女子の中にだって、あんたのよさをわかってくれる人が絶対いると思うもん。これほんとだよ」

 しばらく黙っていた時也だが、やがてぼそっとつぶやいた。

「痛いこと、されるのか」

 ナッキーと顔を見合わせた。

「検査……の、ことなの?」

「おいお前、もしかして、それが怖いのかよ! 自分のことだろ!」

 止める間もなく、ナッキーの鉄拳制裁が入った。こう言う時のナッキーは容赦ない。うつむいて両手で後頭部を撫でているのは時也だ。スポーツ刈りのままだから、じゃりじゃりと音がする。

「こればっかりはね、私もわかんないけども、でも、今よりはずっとよくなると思うよ。まあ、うちのお母さんがどういう話をするかわかんないけれど、とにかく私が言えるのは、時也。あんたはもっと他の人たちに受け入れられていい奴だってことだよ」

 下から見上げるようにして、時也が彰子の顔を覗き込む。

 

「ほら、青大附中って優等生の集団だとみんな思ってるでしょう。私を除いたみんなエリートだってね。入学するまではどんな奴だろうって思ってたよ。でもね、入ってみて驚いたんだ。みんな成績ってできる子もいればひどい子もいる。変わらないんだって思ったんだ」

 ひとり思いつく相手がいた。時也と重なる一人のクラスメート。

「うちのクラスで評議委員やっている男の子がいるんだけど。ほら、学級委員と同じもの。その子はね、英語とか国語とかそういう文系科目が天才的にすごいくせに、数学がからっきしだめなんだ。いまだに九九の書いてある下敷きを持ち込んでいるくらいだし、複雑な掛け算の問題の時にはすごいことやってるんだよ。真四角に細かく切った消しゴムを筆箱に詰め込んできて、摘み上げては数を重ねて、またひとつひとつ計算してるんだよ。テストの最中にだよ!」

「……そいつ、ばかか」

 かすかに聞こえる時也の声。時也も算数関係は得意だったのだ。

「もっとすごいのはね、やっぱりテスト中、空間図形の問題があってね。たまたまその子の方を見たら、いきなり定規で消しゴムを切り刻んでいるのよどうやら問題に、空間図形の面積を求めるものがあって、それを解こうとしてたみたいなのよ。ずっと、消しゴムでその図形どおりに形を作って、組み合わせたりなんなりしていたみたい」

 前で腹を抱えて笑い転げるのがナッキーだ。

「ね、おかしいよね。ナッキー。もちろんその子は一生懸命やっていたんだと思うし、笑っちゃいけないって思うよ。でも不思議だよね。どうして青大附中に受かったんだろうってほんとに思っちゃった。成績だけだったらきっと、時也だって受験してたら受かったと思うし、公立だから頭が悪いなんてこと、絶対にないよ」

 なんだかクラスの数学できないある生徒のことを悪口言っちゃったような気がして、落ち着かない。聞かれていないとわかっていてもそうだ。言い訳を付け加えることにした。ごめんねと手を合わせて。

「でも、今話した数学の出来ない子、評議委員やっているって話したでしょ。数学以外のことについてはものすごいんだ。私なんか全然わからないような、生の外人さんの言葉あるでしょ。べらべらってしゃべってる。ほら、ヒアリングっていうあれ」

「はいはいはい、へろーんとか、じすいずあぺんとか、そういうもんだろ」

「そうそうナッキー、分かってるじゃない」

 たぶん時也もじっと見返しているところみると、分かるだろう。安心して彰子は微笑んだ。「全然聞き取れないような言葉を黙って聞いて、すぐにノートに書き取って、あっという間に日本語の訳つけてるのよ。びっくりしちゃった。人それぞれ個性があるんだなあって感心したよ。だから時也、あんたをばかにする女子もたくさんいるかもしれないし、あんたが変わらなくちゃいけないとこもあるかもね。でも、ずっとずっと時也のやさしいとことか、知ってる私たちだってたくさんいるんだよ。それをもっと見せつけてやろうよ。悪口言う女子たちにさ。見返してやろうよ!」

 そのために、と彰子は付け加えた。

「ちょっとくらい痛い検査だっていいじゃない。そうだ。もしあれだったら私を一緒にデートに、誘ってよ。病院に行く前にね」

「デート?」

 反応したのは時也ではなく、ナッキーだった。ぼけっと背を伸ばしている時也にくらべて前かがみだ。ギョロ目でちょっと怖い。あまりナッキーを相手にそういうことを言ったことなかったから驚いたのだろう。

「私も、時也とは最近話、してなかったしね。もちろんお父さんには話さないよ。私だって花散里の君だなんてさんざんクラスでねたにされるのやだもん」

 膝を叩いて笑い転げるのはやめて欲しい。しばらくナッキーがえびぞりせんばかりに笑いこけているのを、彰子はため息交じりで眺めていた。時也もだんだん顔がにやけてきている様子。思い当たる節、あるのだろう。ゆっくり、ぼそっと。

「じゃあ、あのことは内緒か」

「あのことって?」

「奈良岡の付き合い相手のこと」

 笑いこけるのは今度、彰子の方だった。ちゃんと処理済ってことを、本当は最初に時也へ話すつもりだったのだから。右、左と揺れながら、

「ああ、あれね、きっとみんな大いなる誤解してるんだよ。ちゃんとクラスのみんなには、そんな相手いないよって言っておいたから、ごめんね時也」

 立ち上がり、ぽんぽんと時也の肩を叩いた。唇の端でちょこっと、揺れた笑みがやっぱりめんこい。ちょっとくらい鼻水たらしてたって、言葉がぶっきらぼうだったって、ちゃんとこうやって彰子としゃべってくれる大切な友達だ。時也も、ナッキーも、みんな大好きだ。彰子はあらためて、手のひらに伝わる暖かさを確認した。ついでにナッキーの片腕をひょいと持ち上げた。まだえびぞりしたままでいる。

「時也、いいか、今度そういう質問を受けたならばだ。覚えておけよ」

「なんだナッキー」

 一本調子の武士っぽい言葉遣いが時也のお得意だ。

「とりあえず、彰子の相手は俺だって、言っとけ」

 彰子は両腕を持ち上げた。軽い。男子と思えない軽さ。

「もうやだなあ。ま、いっか。ナッキーがかまわないなら、名前貸してもらっちゃおうっかな。でもちゃんと彼女が出来たら、報告すること。誤解を招かないようにね!」

 しばらく三人で、他の連中の噂や漫画の話で盛り上がった後、それぞれ三人分かれて帰った。母が持たせてくれたナッキー用のお土産は、結局三人で半分平らげてしまったことを告白する。心で「明日香ちゃんごめん」と、手を合わせた彰子だった。

 

 家に戻ると、母がにこやかに、Vサインで彰子を迎えた。話し合いあっさり決着がついたらしい。

 なんのことはない、要は時也のお母さんと一緒に洋服のセールに行く約束したかったんだろう。大人は大人が話をすると一番うまく行く。すでに母はテーブルに便箋を用意してすらすらと手紙を書いている。手馴れたものだ。小学校の頃からそうだった。なにげなく世話好きな母は、ちょっと様子がおかしい子や親御さんがいると、

「よかったら私の友達の病院紹介しますよ」

と気軽に声を掛けていた。ずっと見てきたから、彰子もそれが当然のことだと思っていた。みんな楽しく、健康でいられたらいい。どんな人もみんないい人で幸せなんだと思いたい。「時也くんも前から病院替えたらいいのに、って思っていたんだけど、なかなかね。我が家のお姫様のおかげで、またひとつ、うちの家族もいいことできたかな。でもね、彰子」

 念を押された。わかっている。

「あんたが話を持ち出したなんて、絶対に言っちゃだめよ。あんたはまだ愛嬌で世の中渡っていける子だから大丈夫だけど、世の中、人の善意を悪意だと思う人がたくさんいるからね」 母の口癖だった。彰子は愛嬌が武器だと、いつも言われてきた。


 次の日、彰子は二年D組の教室で南雲くんに手を振った。

「あきよくん、おはよ。私の友達みて思いっきり退いてたでしょ」

 じろっと、笑みのない顔で見返した後、南雲くんはうつむき、つぶやいた。

「俺、別れたんだ、昨日」

「え?」

 聞き返す間もなく逃げるように、南雲くんは自分の席についた。教室はまだ揃っていない。ちょっとした声もすっきりと聞こえる。

近くの席にいた立村くんに、はっきりと、

「好きな子ができたんで、別れたんだ」

 と、報告しているのもはっきりと耳に届いた。

 ──ああ、そっか。あきよくん、彼女と。

 ──そりゃ、私になんか笑顔で手なんて振る余裕なんてないよ。

 ──辛いこと、聞いちゃったな。ごめんね。

 みんなが楽しく、幸せでいられるなんてこと、なかなかない。


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