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保健室に寄ってから教室に戻ると、水口くんが待ち構えていた。
「ねーさん、ねーさん、昨日さ、僕、解剖したんだよ」
「解剖って、何々? 蛙を捕まえたりなんかしたの?」
いきなり問われた。以前理科の授業中に蛙の解剖が行われていたとは聞いていたけれども。
「ううん、にわとりなんだけどさあ」
よく話を聞いてみると、水口くんの家で七面鳥を手に入れたらしく丸ごと焼くのを手伝わされたとのことだ。よくアメリカのドラマで見かけるクリスマス料理用七面鳥。彰子の家では見たことがない。
「なにかドラマチックなことでもあったの? すい君」
「うん、僕の誕生日だったから、作ってくれたんだ。注文してもらったんだ」
そばで聞きつけた羽飛くんがにやりと覗き込んだ。
「水口、お前、五月が誕生日なのかよ、まじで」
「そうだよ、ほんとだよ」
「おおい、立村。水口の方がお前よりも四ヶ月、年上だってさ」
真ん中あたりの席でふたり話をしている立村くんが、振り返って答えた。
「悪かったな、どうせ俺は九月生まれさ」
一応五月生まれの彰子にとっては衝撃的事実ではあるけれども、まあ頭の出来からしたら当然かもしれないと思い直した。
「じゃあ、こんどから、『お兄ちゃん』って呼んであげようかな。すい君」
「僕、本当にお兄ちゃんなんだぞ。弟が二人もいるんだよ。双子だよ」
男子の間では当然知られているらしいが彰子は初めて聞いた。たぶん女子連中も初耳の子が多いだろう。朝の自習課題プリントをいじりながら、
「うっそでしょお」
と、つぶやく声がしきりに聞こえた。
こんな和やかな連中の中にまさか悪意持って
「奈良岡さんに付き合っている奴いるのか」
という質問をかます奴はいないだろう。彰子は確信した。
人を簡単に信じやすいというのが彰子のよくないところだという人もいる。けど、疑うよりも信じた方が何倍も楽しいし、楽だと思う。仮に裏切られたって、その人がずうっと裏切ったままとは限らない。いつでもいい人になって戻ってくるのを待てばいい。
──どの辺でかまかけてみようかなあ。
水口くんのお兄ちゃん発言で盛り上がる男子集団を横目に、彰子は近くの女子たちとテレビアニメの感想を語り合っていた。「砂のマレイ2」の続きがどうだとか、新しい美少年キャラクターが登場したらしいとか。美里ちゃんとこずえちゃんが熱く盛り上がっている。原作ファンだけに、年季が入っている。
事件が起こると身体が砂として解けてしまい、一体化するという三人の男子中学生が主人公の、SF学園アニメだった。話そのものは単純なのだけど、登場人物がかなり、ふたりの好みにぴたりと合ってしまったらしい。キャラクター名を呼びながらきゃあきゃあ騒いでいる。聞き流しているとふられた。
「ねえ、彰子ちゃんはあの中では誰が好き?」
「私はやっぱりマレイくんかなあ」
こずえちゃんもあっさりと頷く。
「だよねだよね、やっぱりマレイが一番何考えてるかわかるからいいよね。ほら美里、あんたくらいだよ。キーンが好きだって言ってるの。あんな何を考えてるかわからない、神経質なだけの奴のどこがいいのよ。顔はいいかもしれないけどさ!」
「いいじゃない。私には私の好みがあるんだから」
彰子にはわからない何か、共通する意味があるらしい。
にやにやしたままこずえちゃんが美里ちゃんを見下ろす。
「ふうん、そうだもんね。美里ってそういう趣味だもんね。男好み」
「やらしい言い方しないでよ! なにさ、知らないうちに物壊して、大騒ぎして、それで怒られてるマレイよりもずっといいじゃない! キーンの方がずうっと真面目だし、見えないところで一生懸命努力してるってとこが、私好きなんだもん」
「そうっか。美里ってそうなんだよねえ。実際のところも」
男子グループに目を向けてすぐに逸らした。どこかと辿ってみたら、羽飛くん、立村くんのふたりが窓辺でシャープをつき合わせながらしゃべっている。こずえちゃんはどちらとも仲がいい。羽飛くんに対しては恋する乙女そのものの行動だけど、立村くんにはかなりの「下ネタ」をかましては相手を赤面させることに情熱を燃やしている。隣りの席の相手だからなおさら、らしい。
「こずえいったい何が言いたいのよ! ぎゃあぎゃあ騒いで馬鹿丸出しで、センスない格好して歩いているタイプは合わないの!」
「私も、いわゆるうちの弟みたいなタイプは、彼氏としておよびじゃないけどね。美里と違って」
「こずえ!」
余裕たっぷりのこずえちゃんに対し、美里ちゃんの方は今にも泣き出しそうだ。頭を激しく振りながら、口を一文字にして、ぱっと言葉をはじき出す。
クラスの評議委員二年目で、言いたいことはすぱすぱ言うし、男子たちにもひけをとらない。それでいてあどけない瞳とおしゃれのセンスが抜群なところ。ひそかに男子たちから人気があるっていうのもわかる。もてるだろう。
ただ、女子たちからは一部、
「なんか清坂さんって自分のやりたいことばかり自分で引っ張っていくって感じで、ちょっとむかつく」
声も聞かれる。
やきもちだろう。羽飛くんとは小さい頃からの仲良しで、いつも「貴史、貴史」と呼び捨てにしている。入学式当時からそうだったことを、彰子は覚えていた。
羽飛、清坂の人気最強コンビが揃えば、そりゃあ、やっかみも出てくるだろう。いわゆる「羽飛命」のこずえちゃんが、そういう美里ちゃんと仲良しだというのが不思議だけど、でも女子同士の仲良しっていうのはそういうもんだろう。
「ほらほら、こずえちゃん、この辺でやめておきなさいよ。私もマレイ派だけど、キーンも嫌いじゃないからね。表向きは何もできない振りしてるけれども、いざという時はきっちりと勝負をかけるところって、私も嫌いじゃないしね。美里ちゃん」
あまりテレビアニメの登場人物に感情移入しないタイプの彰子である。
──物語の登場人物だもの、そんなに本気になってどうするの。
「だよね、彰子ちゃん、キーンいいよね」
美里ちゃんが手を握り締めて、何度も頷き返した。やっぱり、熱い。
女子たちの言い合いが落ち着いたところで、もう一度水口くんの席に近寄った。どこぞの誰かに、わざと聞こえるように何気なく話しておくつもりだった。
「すい君、昨日ね、私が話したこと信じてなかったでしょう」
「何?」
自慢話を連ねていたところに腰を折った形となり、ちょっとふくれている様子。
「ほら、私がね、昔すっごくもてもてだったってことを話したでしょ」
「だって、信じられないよ。だって今、もててないのに」
なんて単純。なんて素直。思いっきりなでなでしてあげたくなる。
さすがに教室でそんなことすると、
「奈良岡のねーさんは男子の頭を撫でまわすのが趣味だ」
と誤解される恐れがあるので、やめておく。
「しょうがないよね。そうだよ。すい君は素直に信じているからま、いっかなんだけど。でもね」
この辺り、じっくり聞かせるように話をする。女子の声だけが響いているけれども、男子グループはおとなしい。羽飛くんは無関心、立村くんを相手にしゃべっているのが見えるだけ。
「昨日、私の友達に言われたんだ。『奈良岡さんに彼氏いるんですか』って質問されちゃったって。青大附中の男子に聞かれたって。もう、思いっきり笑っちゃったよ。きっと私のもてもて伝説が嘘だと思っているからなんだろうなあ。前から話していたことだし、まあいいんだけどね」
「うわあ、ほんとほんと」
身を乗り出してくる水口くん。もっと大きい声で続けた。
「そこで、誰かわかんないけど、ここでお答えしときます。私は確かにね、小学校の頃男子と仲良しだったんだけど、でも、『お付き合い』なんてとんでもないんだからねって。ご安心ください。いつでも彼氏募集中ってとこかな」
「あ、でも変だよ。それ。もてもてだったら、選り取りみどりだろ?」
話が混乱してしまったらしい。一部の教室空間内で冷たく耳を澄ませている気配を感じた。反応しているらしい。
自信もって彰子はほっぺたをやわらかくして笑った。。
「あのねえ、男子と仲がいいってことイコール、『お付き合い』じゃないんだからね。すい君、バレンタインデーの時、女子からチョコとかもらわなかったの?」
「いっぱいもらったよ。お菓子ほしいっていったら、女子が机に置いてくれたんだ」
明らかに、いわゆる「バレンタインデー」の意味とは異なる。
思うに、水口くんはクラスの「マスコット」だったのだろう。
紐をつけてぶら下げてやりたい、そんな可愛さを持つ子だったのだろう。
さすがに中学入学後は、紐も切れそうな男子っぽさが強くなってきたけれども、性格はそれほど変わっていないように見える。彰子の経験と、共通するものがある。
「そうそう、私もおんなじよ。私も小学校の時、誕生日、なんかわかんないけど机にたくさん、ガチャポンのケシゴムとか、蛇の置物とか、『ダイエット中の貴女にも大丈夫なチョコレート』とかたくさん置いてあったもん。みんなよく見てるなあって思ったよ。今でも男子が誕生日にくれるものって、やたらと動物の模型おまけとかが多いんだよね。なあんだ、すい君、私と一緒じゃない。もてもてだったんじゃない!」
ちょっとまずかった。水口くん、すねた。
「違うよ。ねーさんと違って僕の方はずっと、愛されてたんだよ」
愛と「もてもて」の差の違い。
まあ、いっかってことだ。
「わかったわかった。すい君は本当に女子に人気があったけど、私はただ、仲良しだっただけ。もう、これでどこぞの誰かに誤解されないですむかな? 聞いてるかなあ?」 ぐるっと見渡してみる。にやにやしながら数人、男子と女子がふたりを眺めている。中には羽飛くんもいた。立村くんが無表情で席についたまま朝自習のプリントに向かっている。 「別に犯人探しする気はないから、これでこの話はおしまい! 私もがんばって、彼氏募集しちゃおうかなあ。すい君、一緒にがんばろうね! お医者さんになるのも、彼氏彼女作るのも!」
ぽんと背中を叩いて自分の席に戻った。力一杯たたくと、背骨が折れちゃうかもしれない。彰子からしたら、軽く撫でた程度だ。でも机にうつぶして、
「痛いよう、ねーさんに叩かれたよう」
と情けない声を出すのはやめてほしい。体格の差で、いじめたみたいに見えたらいやだ。
数学の時間中、いきなりの抜き打ちテストが行われた。たまったもんじゃない。みなぶつぶつ言いながら、席をあいうえお順に並び替えて座った。ふだんは二列ずつ、机をくっつけているのだけど試験の時はカンニング防止のために半分、離す。彰子の苗字は「ならおか」だから、窓際の真ん中あたりだった。後ろには古川こずえちゃんがいる。隣りは南雲秋世くん。残念ながら羽飛くんはそのふたつ後ろだった。どういう顔して問題を解いているか見たかったのに。「は」行以降の女子がうらやましい。
「あのさあのさ、奈良岡さん」
「どうしたの、あきよくん」
「消しゴム、半分分けてほしいんだけどなあ、いいっすか」
襟を半分あけたまま、前髪は軽く膨らませる感じで今はやりの狼カットにしているところ。おしゃれだ。ちょっと髪の毛が赤茶けているのはドライヤーの熱だろう。いや、染めているかもしれない。
「はいな。半分といわず、一個余ってるから全部あげちゃおう」
テスト中に消しゴムがないというのは辛い問題だ。金魚のプリントが入った、においつき消しゴムをプレゼントしてあげた。
「サンキュー、助かったあ」
「女子っぽい消しゴムでごめんね。恥ずかしいかも」
「そんなことございませんって。数学完璧なねーさんのことですからお守りになるかもなあって、思っとります」
──顔に似合わず、めんこい性格した子だよね、あきよくん。
本名は「しゅうせい」と呼ぶのだが、彰子は入学当時から「あきよくん」と呼んでいた。きっかけは単なる読み間違いだったのだけど、南雲くん当人から、
「いいよ、俺、あきよって呼ばれること多かったし」
とあっさりOKしてくれた。呼びやすい方がよろしい、ということで周りの視線を気にせず、彰子は「あきよくん」と呼びつづけている。一年半近く。
だが、最近になって気がついたのだけど、そう呼んでいるのは彰子ひとりだけだったらしい。
「あのさあ、奈良岡のねーさん」
「なあに、何でも貸し出ししますよ。分けられるもんだったらね」
まだテストが配られる寸前に、手を伸ばしてつんつんと呼ぶ南雲くん。
「今度さ、うちに遊びに来ない?」
「それはそれは、いきなりどうしたの。あきよくん」
軽く流す。同じ学年では南雲くんファンの女子たちがかなり存在していて、現在その一人とお付き合いしているらしいことも知っている。そりゃあもてるだろう。彰子のいう「もてもて」とは異なる。正真正銘の「好き」だ。アイドルグループ「パール・シティ」のボーカルにそっくりだということで、入学当時から人気爆発。そういう話題にうとい彰子ですらも、「こいつは人気あるわ」と思うくらいなのだから、なおさらだろう。
「うちの父さん母さんがさあ、最近うちに帰ってこないんだ。事務所にずうっと泊りきりでさ。うちにはばあちゃんと俺だけ。気兼ねないでお茶飲めるし、ねーさん、どうです、今度」 「やだなあ、あきよくん。あんたがお誘いする女子は別でしょ。私みたいなおかちめんこがのこのこ行ったら大変だよ。あんたのファンに恨まれちゃうよ」
軽く流した。南雲くんに対していつでもすることだ。
まかりまちがっても彰子を誘いたいと思っているわけではないだろう。南雲くんの、女子に対する気遣いが実にこまやかかってことを、彰子はよくわかっている。クラスであきらかに「もてない」系統の彰子にすらこういった誘いをかけるのだ。たぶん美里ちゃんやこずえちゃんタイプの「ちょっと可愛い」感じの子たちにも、いやいや自分の彼女にはもっと丁寧に接しているんだろう
──顔に似合わず、気遣い上手なところが偉いよ。あきよくんは。だからみんなにもてるんだね。まあ、羽飛くんとはうまくいってないみたいだけど、それもしょうがないか。
「俺、そんなにファンなんていないよ」
ぼそっとつぶやく南雲くんの言葉が、妙に真面目に聞こえて、彰子は吹き出した。
「なあに言ってるの。この前だって大変だったんだよ。私とこの前図書館で話してたでしょ。すぐC組の女子が近づいてきて『南雲くんと何話してたの何々』て、すっごく聞かれちゃったんだから。別にさ、『清潔週間』のプリントつくりについての打ち合わせだけだったのに、もうみんな、何考えてるんだろうね。私の顔見ればわかるでしょ、って言っておいたよ」 「ねーさん、何て答えたっすか」
「二年D組の王子さまと、愛嬌で生きる私と、どうつりあうって言うのって。大丈夫、ちゃあんと、あんたのファンには納得していただいたからね。もうあきよくん。ちゃんと、自分の彼女を大切にしなさいよ。他の女子たちに申しわけないっていうのはわかるけれどもね」
さすがに、水口くんとは違って簡単に背中を叩けない。
「うん、わかった」
風船の空気が抜けたような声で、南雲くんはつぶやいていた。聞こえたのはここまでで、さらに何か口にしていたのかもしれないが、彰子はあっさりと無視していた。
さっさと解き終えて、窓の外を眺めていた。連休から一週間、感覚がだいぶ二年の教室になじんできた。視線が真向かいの校舎と窓にぶつかるのも、やたらとすずめが飛んでいるのも、
小テストだしたいしたことはなかった。でも他の連中はまだ時間がかかりそうな感じだった。
みなが背中を丸めて、グレイのジャケットを羽織ったままうつむいている。
向かい側に反射する光がまぶしい。避けるように頬杖をついた。
昨夜父と話した通り、飯盒炊爨でもいいかと思う。ただどうも時也の電話口調がひっかかっていた。
もともとしゃべらない子だ。彰子はそんなに時也がだんまりだとは思わないけれど、男子たちからするとかなり、問題があるらしい。
お母さんがうるさくて大変だというのが共通見解だ。
──時也は過保護だもんね。
女子たちが陰口を叩いていたのも知っている。
──修学旅行の夜にさ、時也のお母さんが電話してきたんだよ。心配だから声を聞かせてって。
──ふつうしないよね。やだなあ。それでさ、帰りも一目散に走ってきて、べたべた触ったり服直したりして、手をつないで連れて帰っちゃったんだよ。わあ気持ち悪い。
でもまあ、他の男子たちが面倒を見ていてやったようだし、中学に入ってからも担任の父がそれなりに気遣いしていたらしいので、いじめられてはいないようだった。
もともと父の担当しているクラスは一年から三年までの持ち上がりだと決まっている。違う小学校の生徒が三校分、入学してくるということで、顔がわからない子もかなりいると聞く。その中の何人かは家に遊びに来てくれた。遠足写真などで彰子も顔と名前を把握している。でも、小学校時代の友だち以外とはそれほど、付き合いがあるわけではない。
──小学校時代の、友だちかあ。
──そういえば。
──そっか、ナッキーに聞いてみるかな。
夏木宗の顔が浮かんだ。
小学校五、六年の時に同じクラスだった。近所でよくサバイバルゲームごっこをした仲である。
彰子の誕生日およびホワイトデーには、かならずピンク怪獣のビニールフィギュアをプレゼントしてくれた奴だ。
この前も玄関ポストに、きらきら光る七色怪獣カード入りの封筒が入っていた。切手はなし。ちゃんと「夏木 宗」と記名されていた。即、感謝感激の電話を入れたら、
「名刺代わりにしろよな」
とけらけら、笑っていた。いい奴だ。
──ナッキーだったら、たぶん時也がどういう状態なのかもっとわかるはずだよ。父さんもナッキーのことは気に入ってるみたいだしね。ただ、父さんには知られないように聞きたいんだけど。ま、いっか。ナッキーならその辺は、お見通しだよね。
ひとりで頷き、もう一度彰子は隣りの男子列をざざっと見た。
隣りの南雲くんは、彰子のあげた消しゴムを握り締めながら、ごりごりとシャープペンシルを握り締めている。たまにシャープのお尻についている消しゴムをひっくり返し、ちゃっちゃと使う。
──せっかく消しゴム渡したんだから、使えばいいのにね。
親指の間にちろちろ見える赤い色は、絶対に彰子の金魚消しゴムだ。
横目でさらに後ろを見る。羽飛くんが鼻をシャープの先でつつきながら、真面目な顔してうつむいている。近くだったら教えてあげられるのにな。心でつぶやいた。
──羽飛くんは面食いなんだもんなあ。鈴蘭優だもんね。およびじゃないか。ま、しょうがないかな。
自分がお世辞にも「見られるタイプの顔」を持っていないことはよくわかっている。小さい頃から、「ブス」「デブ」の二大悪口を言われても仕方ないとは思っていた。自分が一番自覚している。でも、なぜか小学校時代はそのことで揶揄されたことはない。どうしてかわからない。今だにナッキーや時也を始め、他の男子たちが彰子に電話してきたり、プレゼントしてくれたりする理由がわからない。
──お母さんにも言われてたもんなあ、私は愛嬌で世の中渡っていけるタイプの人間だって。小学校の頃まではそうだって思ったけど、やっぱり青大附中は違うんだよね。 せめて美里ちゃんやこずえちゃんのように、すっきりした格好してて可愛かったら、きっと違っていただろう。今だって男子たちとは仲がいいと思うけれども、小学校黄金時代とは違う。
なにせビール瓶のねーさんなんだから。
いわゆる「もてもて」の対象外だということはよくわかっている。
別にそれでもいい、いいのだが。
──羽飛くんは美里ちゃんみたいな子が好きなんだもんなあ。ま、いっか。おしゃべりさせてもらえるだけ、まだましかな。
六時間目の授業が終り、保健室に寄って石鹸のチェックを行った後、彰子は職員室の前にある赤電話の受話器を取った。手帳にはかつての男子友達、一同の連絡先が記入されている。夏木宗の番号を探す。
「もしもし、ナッキー、奈良岡ですよお!」
「わっ! 花散里の君」
大げさに驚いている。不意を突かれて彰子も絶句だった。
「何その、花散るなんとかって」
「お前のこと、なら先生がそう呼んでるんだぜ。もううちのクラスで彰子のこと知らない奴いないんだぞ。名前は知らなくても『うちの花散里がさ』っていっつも、余談しゃべってるぜ」
──父さん、あんたって人は。
うちで教室の不毛について悩んでいるからいろいろ手伝ってやったのに、自分の娘をネタにしているってわけか。頭が痛い。
「うちの父さんが何しゃべってたっていうのよ」
「お前がさ、青大附中で『ビール瓶のねーさん』って呼ばれてるってこと」
──わああ、とんでもないことになってるよ。もう私の輝けり時代は壊滅ってことだわ。やだなあ。
事実なのだから、彰子としては認めるしかない。
「帰ったら父さんに、ギャラもらうわ。出演料ね」
ぎゃははと笑う受話器の向こう。受けてくれたらしい。彰子は続けた。
「それより、ナッキーにお願いがあるのです。私」
男子にお願いする時は、必ず敬語を使うのが彰子流だ。
「おうおう、なんだよ。なんでも言ってみな!」
どおんと受け止めてやるぜ、といわんばかり。
ナッキーにはしばらく会っていない。父にめちゃくちゃなついていることは知っているけれど。新学期が始まってから全然、遊んでない。
──どうだろう、私より背、伸びたかな。ナッキーの奴。
「今度、そっちのクラスと一緒に飯盒炊爨やろうって案が、某先生から出てるの。あんたの担任ね。面白そうだなとは、思うんだけど、ナッキーは?」
「無理だぜそれは」
あっさり却下された。やはり、と彰子もさらに手繰ってみた。
「のりがよくないクラスだとは聞いてるけどね。やっぱり無理かな」
「女子、むかつく」
短い言葉に全てが集約されている。
「女子がなんかしたの?」
「ありゃあひでえよな。なら先生も怒るけど、全然効果なしだもん。ああ、だからさあどうして彰子、こっちの中学に来なかったんだよ。お前だったらあの汚ねえ女たちを黙らせることできただろうになあ」
「あんた想像できる? もし自分の親が担任になっちゃったら、こっちの方が大変よ。うっかり宿題も忘れられないよ」
あまりにもしょうもない話が続く。ひっぱるのはナッキーだ。家の中だったらこの調子で長電話し、両親に叱られるのが目に見えている。この調子だとナッキーもたぶん暇だろう。ナッキーの家は青大附中のすぐそばだ。彰子の家とは道路一本隔てた距離。
「お願いします、もうひとつ!」
さらに敬語攻撃をかます彰子。
「ほいな、何でも来い」
受けるナッキー、変わってない。
「私を、青大附中の校門まで迎えに来てほしいのだ!」
声がない。 くくくと、しばらく息を押し殺したような声が聞こえたかと思うと、一気にはあはあと荒い息遣いが。
「やだ? 目立つから?」
「いや、違う」
ナッキーらしい答えだった。
「ジージャンにバンダナだったら、青大附中の前で目立つかなあ」
ナッキーには派手にペインティングした自転車に乗って「チャリンコ暴走族」を気取る趣味があった。確かに、青大附中の校門で見られたら目立つだろう。いや、目立ちたいだろう。校門の前で、ナッキーのようにどう見ても中学生に見えない奴が派手に決めても、先生には怒られないだろう。言われたら言い返してやろう。私の友だちなんです。いい奴なんですよって。
「ナッキーらしく決めてきてよね。もちろん、校門前で待ってるね!」
受話器を置いて、すぐに玄関へ走った。
途中菱本先生や、委員会活動に出かける同級生たちと顔を合わせたけれども、手を振っただけにとどめた。
──とにかく、現在うちの父さんと、クラスの女子たちが何でうまくいってないのかをナッキーから聞き出さなくちゃ。
──あとあれよ、時也のことも、やっぱし男子だったらもっとわかるだろうしね。
──頼りはナッキー、君だけだってことよ。
スニーカーに急いで履き替えると、玄関の柱にもたれている男子の影を発見。ブレザーを羽織ったまま、気取った風に髪の毛をかき上げている。
髪の毛が光に輝いている、一目で分かる野郎が一人。
二年D組の男子規律委員様だ。南雲くんだ。ネクタイを緩めて、襟のボタンを外している。さっさと学校から出て、堂々と校則違反の格好をしたいんだろう。「規律委員」という言葉がもっとも似合わない委員だろう。別の委員会にすればいいのにね、本人にたまに言ってあげたりもする。
「あきよくん、お先に!」
きっと彼女を待っているのだろう。いつもC組の女子と帰るのが習慣だと聞いている。南雲くんはちらっと彰子を見て、首の辺りで小さく手を振ってくれた。笑顔がないのが気になるけれど、彼女に待ちぼうけだったらそりゃあ、そうだろう。今日は規律委員会ないのだろうか。
生徒玄関を一歩出たとたん、ちょっとだけ冷たい風としゃらりと擦れる木々のざわめき、最後に油の切らした自転車の悲鳴。ベルまで派手に鳴らしている。砂利道まで突っ込んでこようとするきらめく自転車が視界に入った。
──来たよ来た来た。ナッキーのご登場。
赤いバンダナにかりあげた頭、すい君と同じくらいの背丈だ。どんぐり眼。真っ黒な顔。アフリカ系の濃い顔立ち。どれを取っても青大附中にはいないタイプだった。あえていえば羽飛くんが近い、といえば近いけれども、ナッキーよりもはるかに背が高い。声もかすかに太く聞こえる。
「お待たせしやした、花散里の君」
やっぱりナッキーはまだ、声変わりしていない。顔がふにゃふにゃになりそうだ。ナッキーの顔を見ると、いつもそうなる。
「二人乗りだけはかんべんだぜ」
「私も、貴重なナッキーの自転車、壊すのやだもんね。じゃあ、自転車置き場まで付き合って」
金銀まだらに塗り分けた、ナッキーオリジナル。さすがにこういう系統の自転車で通う奴は、青大附中で見たことない。
もう一度、柱で黙って見ている南雲くんに振り返り、手を振った。
「あきよくん、じゃあね!」
返事がなかったのはたぶん、ナッキーの格好に退いたからだろう。
規律委員様にはやはり、許し難い格好だったのかもしれない。あとで呼び出し食らうかも。
ちょこっとだけ気になったけれど、ま、いっかと切り替えた。
──明日、噂かもしれないけど、ひとつくらい、浮いた噂あってもいいよね。もてもて族のあきよくんなら、見逃してくれるよね!