12
朝五時半に目を覚ました。母が起きだして食事の準備をしている。
「あれ、どうしたの彰子、あんた珍しいねえ」
「お母さんの方こそ、どうしたの」
スクランブルエッグとトーストを出してくれた後、燃えるごみ、燃えないごみをより分けていた。
「なんかまた変な手紙とかがきててね、ほら外の鉢植えが盗まれちゃった。捨てておいたから平気だけど。まったくねえ」
朝のもやがまだ外に満ちている。風が冷たい。ふうっと立ち上る冷気。
「学校の委員会?」
「ううん、ちょっと出かけるとこあるんだ」
「ははん、あの彼と、朝のデート?」
ちょこんと額をつつかれた。
「違うってば」
そんなこと言ったらまた、どふりふりの洋服を着るように言われてしまう。だから制服に着換えたのだ。まだまだブレザーを羽織ってもおかしくない外の風。彰子は時計を覗き込みながらまず、腹ごしらえをした。ごくんと野菜ジュースを飲み干した。
玄関でばさばさと気配がした。行こうとした彰子を、母が止めた。
「あんたはここで待ってなさい。お母さんが見てくるから」
用心だろうか。時也のお迎えだと彰子にはわかっていたから何も言わなかった。脳天気な声に変換されて、母が呼んでくれた。
「彰子ちゃーん、時也くんよ。いつもありがとうね。しかし早いねえ。薬効いてる? もしあれだったら遠慮なく言ってね。あら、でもだいぶ鼻の調子よくなったみたいねえ」
ここで薬の効果を確認するのが母の医師たるところだ。だ。
彰子の目からするとあまり芳しくないのだが。良くはなっているのだろう。
時也も学生服姿だった。何度もこっくり頷きながら、彰子に目配せをする。言いたいことは伝わっている。指で答えた。
「でもどうしたの? 朝早いねえ」
「ラジオ体操に」
思いっきり吹き出したのは彰子と母、同時だった。時也だけ真面目だった。
「夏休みならともかくなんで今の時期に?」
母に聞かれると彰子もでまかせを言わなくてはならない。時也と目を合わせて、「どうする? どうする」と合図をする。時也が続けた。
「鼻を直すために、朝早く起きて運動するようにって言われてるから。それで誘いにきた、んです」
一度言葉をとぎらせたのは嘘を言ったからではない。鼻が苦しくなったのだろう。ティッシュで鼻をかんだ。即座に彰子と母が手を差し出し、燃えるごみ入れに捨てた。
「そうなんだあ。時也くん、偉いねえ。彰子、それはあんたもこれから行かなくちゃだめよ。で、どこでやってるの?」
「念上寺の境内で、熟年クラブの人たちが毎日やってるとこあるからそこで」
知らなかった。ずいぶん遠くである。
「じゃあそこまで彰子をジョギングさせなくちゃね。あんたも少し運動して贅肉落とさなくちゃ。これからも時也くん、迎えに来てくれるの?」
時也は大きく頷いた。思わぬことになってしまった。明日以降、時也は真面目に彰子を迎えに来るだろう。母のお墨付きでちゃんと、ラジオ体操に通わなくてはならなくなるだろう。運動は苦手だ。
でもしかたない。自然な顔して家を抜け出し、ナッキーと南雲くんの「決闘」現場に向かわなくてはならないのだから。
「じゃあ彰子ちゃん、ジャージで行った方がいいんじゃないの」
「ううん、まっすぐ学校に行くからいいよ。行ってきます」
これ以上嘘に嘘を重ねるのはごめんだ。かばんと体育着が入った手提げを持って、彰子は急いだ。
時也と並んで歩き、小さな声でささやいた。
「決闘って、時也、何があったの? ナッキー、まさかまた殴ったりしたんじゃ」
「それはない」
時也が断言した。
「ただ、奈良岡のことを決着つけたい、そう言ってた」
「誰と? 南雲くんと?」
「そうだ」
まさか刃物を持ち出すなんてことはないと思うけれど、でも、もし、ばれたら大変なことになる。
「時也、もうひとつ教えてください。土曜日に、うちの父さんが、私を迎えに行くようにって言ってたのはどういうこと? 父さんも、私が南雲くんと会う約束してたのは知ってるんだよ。洋服買ってくれるって言ってたし」
「どふりふりでいいなら、俺が今度持ってくる」
「お願い、それだけはやめようよ!」
時也は大真面目だった。時也のお母さんが着古した洋服をこっそり持ち出すに違いない。彰子の趣味じゃないとわかっていても。
歩きがてら、時也が話したのは以下の事情だった。
ナッキーがクラスの女子を殴りつけ、その母親に罵られて止められなくなったのは知っている。自宅謹慎となり、非を認めないナッキーは部屋にこもりっぱなしだったのも父から聞いた 。
そこで原因の発端だった時也が、「自分から」夏木家に向かうことを言い出したという。父が連れて行ったのではなかった。
「時也が、言ったの?」
「俺の鼻が悪いのが、夏木を怒らせた原因だってわかってるから」
──気にしてるんだ。
「それに」
何度か立ち止まり目をこすると、時也が例のどふりふりブランドハンカチを取り出して手に押し付けてきた。新品のままだ。使うのになんとなくためらいがあったけれども。握り締めることで感謝を伝えた。
「なら先生のことを悪口言ってたこと、前から知ってたし、奈良岡のことをばかにする奴がたくさんいるって言ってたのを、伝えないと、夏木が怒る」
塾から電話をかけてくれたのはその時のことだろう。
小学校時代の友だちを集めて、留守電に応援メッセージを入れてくれた時のことを、彰子は忘れない。
奈良岡彰子危機一髪の話を扉越しに聞かされ、ナッキーはぶちっと切れた。奈良岡先生……彰子の父である……も絶句するほどに、ナッキーは彰子の立場の辛さおよび気づいていない親に対してまくし立てたという。時也もその内容は「長すぎて」ほとんど覚えていないと言うから、相当なものだったのだろう。
しばらくナッキーの言い分を聞いていた彰子の父は、
「わかった。彰子さんに直接、お前の言いたいことを伝えてほしい。ただな、人に暴力をふるってしまったということは、どういう事情があっても言い訳はできないんだよ。宗くん、お前が先にすることは、傷つけてしまった人のところに出かけて、あやまることだ。許してもらえるとは思うなよ。それが人間として最初にしなくてはならないことなんだよ。お前のお父さんは立派な人だけど、すべての人がそう思うわけではない。そう思うのも自由だ。だからその分、お前がお父さんを大事に思っていればいい」
「殴ったことだけは重罪だ」ということを伝えたらしい。
ナッキーもその辺りで納得したらしく「彰子を呼んで説教する」ことを条件に、その女子のところへ頭を下げることを決心した。彰子の家に電話をよこし、ハイテンションなままに呼びつけたのは、この時だろう。
当然、時也は彰子を自宅まで迎えに行くことを「自分から」申し出た。
昨日父から聞いたところによると、あやまったナッキーに対して相手の両親は一切聞く耳をもつどころか、さらに屈辱的な言葉を浴びせたらしい。
「犯罪者の子ども、とか、寄ると怖いとか」
時也は正直に、おそらくナッキーからの口伝えをつぶやいた。
「失礼だね。反省している人にぶつける台詞じゃないよ」
「それで、なら先生がかばったらしい。なら先生が、夏木のことをあまりひどく言わないでくれと頼んだらしい」
──それで。まさか、そういうことで。
初めて納得した。
「でも、相手はさらに怒って、追い出したらしい。夏木、ぜんぜん、言い訳しないで手も出さないで、うちに帰ったらしい」
「その後で、私に、説教したわけね」
ナッキーはすごい。強い。偉い。
ずっとなごやかにことを片付けたとあの時は思っていた。父も笑顔だったし、ナッキーも真面目にことを論じてくれていたし、想像なんてしてなかった。
──まさか、お父さんとナッキーに、そんな屈辱的なことが起こっていたなんて。
「奈良岡、泣くな。はやくハンカチつかえ」
「だめだよこれ。時也、これお母さんのもの、こっそり持ってきたんでしょう」
泣き笑いしながら、彰子は丁寧にたたみ直して返した。
「きっと、ものすごく高い、プレミアムものだよ。時也、気持ちだけ、いっぱいもらったから、もう私泣かないからね」
石のかたいのを踏んづけてしまい、転びそうになる。
「土曜日、教室すごかった。なら先生が来たとたん、女子たちが教室を出て行った。その後、校長室になら先生が呼び出されて、ほとんどあの日、自習だった」
つま先の小石がごろごろした。もう動けなかった。時也はじっと彰子の横顔を見詰めながら続けて、淡々と事実をつなげていった。
「なら先生、女子たちの親につるし上げられてた。ずっと、授業終わった後昼間でずっと、親たちに文句言われてた。だから終わってから、俺が」
「時也、あんたから?」
口篭もるように、もう一度鼻をかみ直し。今度は自分のポケットにたたんでしまった。平べったくなっていた。
「このままだったら奈良岡も帰り道、あの女子たちの親になにかされるかもしれないから、迎えに行くって言った。なら先生、頼む、って言ってくれた」
──あの、いつもおとなしくてなかなか言い出せなくて、みんなから「鼻垂れ小僧」だとか言われていた時也が、私のために自分から、迎えにきてくれたんだ。ナッキーの命令でもなんでもなかったんだ。
──ただ、南雲くんのことが気に入らないからじゃなかったんだ。私って本当にうぬぼれやの性格悪い、魔女みたいな奴。こんな子を、どうしてみんな好きになってくれるんだろう。時也ごめんね。
時也もきっと、ナッキーと組になって南雲くんに文句を言いたかっただけなのだと思い込んでいた。心のどこかで、「私ってもててるかも」といううぬぼれがあったのも否定できない。意識していなくても、そんなことないと思っていても、でも彰子の態度にそういうところが見え隠れしていたからこそ、女子たちが不快に思ったのだろう。見えてなければ誰も誤解なんてしない。
時也は彰子が危険な目にあうでないかと心配して、自分の判断で、自分の意志で、十五分以上かけて彰子を迎えに来てくれた。簡単にできることじゃない。
「時也、ごめんなさい」
「俺、したいこと、してるだけだ」
立ち尽くしたまま時也は待っていてくれた。
連れて行かれた原っぱには誰も、ラジオ体操している奴なんていなかった。音楽だけがかすかに裏のお寺から聞こえてきた。時也の言ったお寺さんは裏の方なのだろう。公園を作りかけの原っぱには、丸のまま切り倒された木が横たわっていた。ありあわせにこしらえたらしいベンチが幾つか並んでいた。真後ろの陰には大量の廃材が重ねられていた。だいたい、彰子の背丈ぶんよりはるかに高く積み重なっていた。
時也は彰子を案内すると、その辺で拾った板を持ってきて座るように指差した。色が濃い。朝露で湿っていた。
「ここにいるの? ナッキーたちが来るの?」
「たぶん」
短く答えると、時也は黙るよう口を覆って合図した。
「ナッキーたちは、私がいること知ってるの?」
「絶対、知らない」
なら、絶対に口を利いてはいけない。彰子はおとなしく従った。
一分、二分、三分。長かった。朝霧が木々の端から落ちて、小さな音を立てている。背中に落ちた。もう泣かないようにしよう。決意した。
時也が振り返り、もう一度、両手で口を押さえるしぐさをした。自転車の音がかすかにする。二重に聞こえる。木の陰に隠れて彰子は耳を済ませた。きいっと、ブレーキが響く。あれはナッキーの金銀まだらの自転車だ。もう一台、聞き覚えのない響き。たぶん、南雲くんだ。
「待たせたな」
「こちらこそ、どうも」
腰の低い返事は南雲くんだった。
彰子は時也に目で合図され、立ち上がった。木々の隙間に目をくっつけた。細く見えるのは、南雲くんとナッキーがふたり立ったままにらみ合っている姿だ。想像以上に近い。ふつうの話し合いに見える。
「事情は大体理解したんですが、夏木くん」
軽く、へらへらした風に見せている南雲くん。しかし、声が少し作りっぽい。
「俺も、一日考えた」
ナッキーはやはり学生服姿だった。が、バンダナも離さない。
あと一日謹慎期間があるはずなので、学校には行かないはずだ。
「だが、お互い、共通した目的は一緒だっつうことは理解した」
「御意」
含み笑いを交わすふたり。背中が寒くなる。時也の方を見ると、じっと真剣な顔をして、目をくっつけている。鼻水の音が聞こえないよう、必死にティッシュで鼻を押さえているのが痛々しい。
「要するにだ。南雲、自分のやらかしたことへの責任をとりたい、そういうことなんだな」
「そういうことっす」
南雲くんの表情を伺うと、そこには真剣な中にも勝ちを意識したような落ち着きすら感じられた。制服姿で、ネクタイもゆるめだ。しかし、髪がちょこっとてかてかしているのはポマードか何か塗っているからか。南雲くんは、軽くうつむいて息を整えるようなしぐさをした後、笑みを浮かべつつ続けた。
「俺が奈良岡さんにベタ惚れだっていうのは、まあこの前の話を聞いてもらったらわかるでしょうな。俺はみなさまが思うほどに女たらしでもないし、軽くもないつもりだが、世の中人が判断することだから、その辺の言い訳はしませんぜ。ただ、俺が軽い過去を清算しないでこういうことをしたために、奈良岡さんに迷惑をかけていることは確かなんですよ。夏木くん」
「自覚してるじゃねえか」
「たぶんこのままだと、奈良岡さんは俺の軽い行動のためにさんざんひどい仕打ちされるでしょう。今だって大変ですよ。俺が元の彼女にきちんと話をして、断ったつもりでいたのに、周りへの配慮が足りなかったゆえに、奈良岡さんにはいろいろな辛い思いをさせている。そういう風に見せないのが、彼女のいいとこだし、俺が死ぬほど惚れぬいているとこですが、夏木くん、君も嫌でしょう。好きな子が苦しんでるのを見るのは。だから、徹底してこれからは」
指先で魔法をかけようとするかのように、くるくるっと回して指差した。
「青大附中においては、奈良岡彰子さんを守ろう、そう決めたわけです」
隣りの時也は息を止めている。口で呼吸したくなるのがわかる。彰子の口も開いたままだった。
──あきよくん、そんな。
一言一句、南雲くんの言葉を頷きながら聞いていたナッキー。ポケットに手を突っ込みながら、ぐるぐると南雲くんのそばを一周した。見たことのない、計算高そうな瞳が見え隠れした。
「まあな、南雲、お前が彰子に惚れぬく気持ちは、よおくわかる。それ以前によく青大附中の野郎どもは、彰子に熱を上げなかったんだ。そっちの方が俺には腑に落ちねえ」
──ナッキー、それは違う。勘違いだよ。
「俺の知っている限りでも、たくさん彰子に惚れぬいていた奴がいるし、女つきでありながら彰子の親衛隊だと名乗る連中も倍はいる。お互いの目的はひとつ、彰子を守るためだ」 「御意。おおせの通りでございます」
「南雲、今の話で、青大附中においても彰子がかなり厳しい立場にあることはよおくわかった。責任とりたいという気持ちに嘘はない、とは信じてやろう」
「ありがたいことでございます」
いやに腰が低い。
「だがな、南雲。土曜にも話したとおり、現在俺のやらかしたことが原因で、彰子、彰子の父ちゃん母ちゃんがとんでもないことに巻き込まれる可能性がないとも言えない」
──ナッキー、まさか。
さっき時也から聞かされた話が蘇り、耳を覆った。聞こえてしまう。
「俺は生まれ持って右翼の息子だ。日の丸だか君が代だか、そんなのはどうでもいいが、俺の父ちゃんのことを馬鹿にされるのだけは許せねえ。怪我を相手にさせたのはまずかったと思うし、その辺は反省している。だがな、これは俺の問題であって、彰子やなら先生たちにまで火の粉が掛かるのは許しちゃおけねえ!」
小さく、「そうだ」とつぶやく時也の声。
「学校の中でだったら俺は、徹底してなら先生、彰子の悪口を言う奴を粛正してやるんだが、青大附中ともなったら手が届かねえ。わかった。南雲。これから、契約を結ぼう」
──契約?
時也と顔を合わせて、もう一度目を近づける。驚いているのは南雲くんの方だ。口をあがあがさせて、小さく「契約?」とつぶやいている。ナッキーは落ち着いている。
「俺たちの目的はひとつだ。奈良岡彰子を、日夜守りたい、その一点だろう」
「ごもっとも、でも」
「だからだ。俺も本当だったら青大附中に侵入して、彰子のことをブタブス扱いする女どもをしばいてやりたいところだが。仕方ない。俺はこの町で彰子のことを守るべく命を賭ける。だから南雲、お前は青大附中の近辺において、彰子に手を出す奴をしばいたれ。いいな。同じ女に惚れた男の、約束だ。ただし」
「ただし?」
注意深く言葉を継ぐ南雲くん。なにか、まずそうな感じらしい。
「決して、お前に彰子を渡したわけじゃねえからな。彰子がお前を選んだという確証はまだないわけなんだからな。あいつは南雲、お前のことをまだ『友だち』としか思ってないみたいだし、もし付き合うなんてことになったら、なら先生本当に怒るだろうなあ。俺、なら先生には一目置かれてるから、もしなにかすけべなことやらかそうとしたら、すぐに報告するからな」
「あの、夏木くん、ちょっとまった」
「待たねえよ。今は緊急事態なんだ。俺だって、お前みたいな『パール・シティー』もどきの優男に彰子を任せたくねえよ。きっと、色気のある女が出てきたらふらふらっとそっちになびいちまうんだろうな。けっ、どこまで本気だか、じっくり見せてもらおうじゃねえか」
時也が顔を木から離し、するっと前にまわってナッキーの背中にたった。驚いているのは南雲くんだ。まさかこいつまで来るなんて言いたげだ。ナッキーも振り返るや、
「時也、なぜこんなとこ来てるんだ!」
「俺もその契約結びたい」
ぼそっとつぶやく時也。
「今の話、お前聞いてたのかよ!」
「俺は、親の方を受け持つ」
南雲くんがそっと顔を覗き込んで、
「親?」
とつぶやく。
「もう奈良岡のうち、鉢植え盗まれたり、いやがらせのチラシ入れられてる」
「どうしてそんなこと知ってる?」
「さっき奈良岡のうちの前に、クラスの女子たちの親がチラシ書いていた。悪口ばかりだ。そういうことされているかどうかの情報は、うちの親つかって聞き出す」
彰子はもう動けなかった。
──ナッキー、時也、南雲くん、私、そんな守る価値のある子じゃないよ。
見ると辛くなる。顔を離してひざを抱えた。かばんに顔を押し付け、声を押し付けた。
どのくらい時間が経ったのだろうか。水を弾くかばんの上に、小さな涙の染みがついていた。
顔を上げると、いつのまにかナッキー、時也、そして南雲くんがしゃがみこんでいた。
「おい、彰子、泣くなよ」
ナッキーがほおの触れそうな側に一緒にいた。顔を上げた。顔が百倍二百倍、不細工に見えてるだろう。いつも笑顔でいたかったのに。声がつまってしまう。時也がもう一度、花柄のハンカチをかばんに載せてくれた。
「今の話、全部聞いてたのかよ」
「うん、盗み聞きなんて、ごめんね」
「どっちにせよ、俺も話すつもりだった。なら先生にも」
南雲くんだけが立ち上がって、じっと見下ろしていた。何も言わなかった。
「俺も、父ちゃんのことで、こんなひでえことになるなんて思ってなかったんだ。彰子、ごめんな。なら先生にも、おばさんにも、あやまらないとって思ってる。けど、俺ができることったら、このくらいだ」
すうっと、南雲くんに視線を向け、ナッキーは力をこめてつぶやいた。
「青大附中に用心棒をつけてやることくらいしか、思いつかなかったんだ。彰子」
「私、そんなこそしてもらえるような性格いい子じゃないよ。ナッキー」
こらえきれず涙ぐみ、彰子は三人の顔を見回した。みな、穏やかに、心配そうに彰子のそばにいる。
「私、みんなと仲良くしたかったなんて言ってて、結局、いいとこばっかり持っていこうとしてただけなんだもん、私、二股かけようとしてたってことだよね。汚いよね。失礼すぎるよね」
「そうしてほしいって、俺が思ってるんだ」
後ろで手を挙げているのが、ささやかな存在感を主張する時也。
「俺は、彰子がいつもげらげら笑っていれば、それでいいんだ。とにかく、青大附中で何かいやがらせされちまったら、こいつをとことんこき使え。別の女に走るようなことになったら俺に連絡しろ。もちろん、締め上げる。俺の目が届くところは俺がやる。母ちゃん関係は時也が担当する」
ナッキーは笑みを浮かべて彰子を一秒射た後、時也に振り返った。
「時也、さっきなら先生のうちにいやがらせのチラシ撒いた奴がいたって言ってたよな」
「たぶんそろそろ入っているころだ」
「謹慎が終わってねえから動けねえけれど、なら先生にすぐ報告してくれ。チラシの場合は大抵、誰が作るか見破ることができるってうちの父ちゃん言ってた。捨ててねえかどうか聞いてくれ」
「わかった、すぐうちに帰る」
「俺は、ちょっと彰子のうちの周り見てくる。なあに、花泥棒かよ。簡単だぜ、俺が捕まえてやる」
かばんを叩いて、ナッキーは時也に耳打ちをした。
「じゃあ、帰ったらまた報告するからな。彰子、負けるなよ。それと」
南雲くんに、もう一度指を指した。一緒に時也も真似をした。
「いいな、契約は成立したぞ。破ったら、ただじゃ置かねえからな!」
時也の頭をぶんなぐり、ナッキーは去った。
向こう側からはゲートボールの稽古をするらしい、六十代以上の男女が準備をしていた。でも彰子たちには気づいていないらしい。ちょうど陰だからだろう。ナッキーたちを見送りながら、目にたまっている目やにをティッシュでふいた。泣き過ぎだった。
南雲くんはしばらく身動きしないでナッキーたちを眺めていた。横顔は、クラスの女子たちが「きゃーかっこいい」と騒ぐ、まさに「パール・シティー」そのものの表情だった。冷たくも見え、きざっぽくも見えた。ずっとナッキーがいる間は仮面を被っていたようだった。ポーズを崩して、ふっと彰子を見下ろし、見慣れたすかっとした笑顔に切り替えた。
「あきよくん」
「ああ、俺もほっとした」
ナッキーがいた反対側、左側にそっとしゃがみこんだ。
「あいつこええなあ。彰子さん、やっぱり、俺が思ってたとおりもてもてじゃん」
「そんな、私」
「もっと早く、言えばよかったなあ」
彰子の側にべったりくっついた。お尻がぶつかり合う。
「用心棒でよければ、しばらく使ってもらえませんか、彰子さん」
「そんな、あきよくんに私、失礼なことばかりしてるよ。ナッキーは二股でいいとか言ってたけど、そんな私」
「二股なんかじゃないって」
言われた言葉が耳に残り、まだすとんと頭の貯蔵庫に納まっていない。
「私、最初、あきよくんが私に、付き合ってって言ってくれた時、クラスの子が思ってる通り何か裏があると思ってたもん。おばあちゃんの病気で病院紹介してほしいんだなって思って、お母さんから循環器系の病院教えてもらったもの。それに、私、人を見る目なんてないもん」
昨日、美里ちゃんがつぶやいていた言葉を思い起こしながら、
「理科準備室のこと、あった後、あきよくんが羽飛くんとけんかしてたって聞いたよ。きっとクラスでは嫌な思いするんだろうなあって思ってたら、みな、D組では暖かく迎えてくれたし、そういうもんだなって思ってたんだ。でも、それって、立村くんが全部そうするように言ってくれたんだってね。知らなかったよ。私、立村くんって何考えてるかわかんない人だと思ってたし、なんであきよくんと仲がいいんだろうって不思議でならなかったの。保健室で、私に『南雲は本気だよ、クラスのことはなんとかするから』って言ってくれたのに、全然この人、何考えてるんだか、って不気味に思ってたの。人のこと外見でしか見てなかったんだって、やっとわかったの。あきよくんにだって同じこと思ってたよ。本当はおばあちゃん思いの優しい子なんだって、土曜日、やっとわかったの。みんな、私、見ていることに気づかないで、勝手に決め付けてばかりいた、最低な人間だって、分かったの」
言葉がとりとめなく続いた。
戸惑った風に、となりの南雲くんは首をかしげていた。
「立村が、やはり、そうか」
ひとりごとつぶやき、
「ありがたいよなあ。やっぱりいい友だち、持つもんだ」
肩に手が廻った。身を堅くする。もちろん何もしなかった。
「五分だけ、こうしてていい? それで、俺への罪滅ぼしはおしまい」
ぎゅっと、二の腕のところに顔をつけて、抱き寄せるようにしてくれた。
「学校なんだけど、これから俺の自転車に二人乗りしない?」
「だめだよ。規律委員がそんなことしたら。それ以前に自転車が壊れるよ」
「大丈夫だよ。俺、そんなにちゃちなもの、持ってないもん。途中で降ろして、あとは歩けばいいもん。一緒に歩いて、教室に入ろうよ。もし、立村のことが気になるんだったら、あとで俺がうまく言っとく。なあに、最大のライバルからお墨付きをいただいたんだ。俺は負けないよ」
身体を抱き寄せてどこが楽しいのか彰子にはわからなかった。でも、五分間南雲くんは大満足だったらしい。身体を離した後、名残惜しそうに立ち上がった。彰子に片手を差し伸べた。
「では、参りましょうか、花散里の君」
──本当の、「花散里の君」に近づけますように。
ナッキー、時也、南雲くんの心に届くように。
彰子は一息ついて南雲くんの瞳を見つめ返した。朝の光が滴り落ちる手のひらに、自分の手を重ねた。心こめて、握り返した。
──終──