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 母は夜勤で父はかなり遅く帰って来た。どうせ食事も終わっているのだろうし、彰子の顔を見て無理やり笑顔をこしらえるのがやっとの様子。おとなしく部屋にこもることにした。

 窓辺につるしたままの真っ赤なワンピースには百合の花が映えていた。百合は大好きな花だ。きれいなだけでなく、花びらがきっちりしていて落ち着いているから。でも、花粉で部屋が汚くなりがちなのでなかなか飾れない。

 ──見ているだけだったら、可愛い服だと思うんだ。でも。

 明日が日曜なのがまだ救いだった。

 ちゃんと南雲くんはうちに帰っているだろうか。おばあちゃんに今日のこと、どういう風に報告しているだろう。彰子のことを大変気に入ってくれたみたいだ。でも、ナッキーと話をしたことによって、気持ちが変わったなんてことないだろうか。友だちでいるのもいやだなんて言わないだろうか。

 いや、ナッキーが彰子の悪口を言うわけがない。

 ナッキーはきっと、彰子のことを心配して追いかけてきてくれたんだろう。一部の女子たちが彰子をかなり、不細工とばかにしていたという噂を真に受けて。みんなはきっと、彰子のことを軽く揶揄する程度だったのかもしれないけれど、ナッキーは親友だと思ってくれているから激怒したに違いない。同じことは時也にも言える。時也は真面目だから、言われたことをそのまんま信じて、親分のナッキーに報告してしまう。彰子のことを嫌っていないからなおさら、なんとかしなくちゃと一人で決めてしまう。そういう時也のやさしさを彰子は知っている。ずっとバスの中でくっついたまま、悪口を一緒に受けていたことを、びんびんと感じている。

 ──でも、南雲くんとは関係ないよ。

 ──みんな、いい人ばっかりなのに。

 みんな笑顔で居てくれればいい。そう思ってしたことなのに、すべてがいいことじゃなくなってしまう。

 ──どうすればいいんだろう。

 小学校時代の友だちに電話をして相談するのはためらわれた。南雲くんのことを「パール・シティー」のボーカル似二枚目だということしか知らない人たちにはわかってもらえないだろう。おばあちゃんのことを大切にして、一生懸命彰子を楽しませようと気を遣ってくれた人だと説明しても、きっと。

 ──私、どうすればいいんだろう。

 眠れない。月の光がちらちらする。父のことも心配だし、ナッキーの自宅謹慎期間も気になる。楽しかったはずなのに、たっぷり遊んで疲れているはずなのに、一睡もできなかった。

 日曜日。母が当直先から帰ってくるのは昼過ぎだろう。

 父が食器を流し場に置いたまま出て行ったらしい。

 休みでも部活の顧問としての仕事はたくさんかかえている。クラスのこと、ナッキー、時也、考えることがたくさんあるのだろう。家族明るいはずなのに、どうしてみな、こうも暗いのだろう。彰子はひとりでパンを食べた。一枚食べ終えた後、電話が鳴った。

「彰子ちゃーん、もっしもーし。古川でーす」

 朝まだ七時半なのに。こずえちゃんからだった。

「朝早くごめんね。ええっと、さっそくなんだけどさ、今日、美里と遊びに行っていい?」 いきなりびっくりだが、彰子に断る理由はない。友だちが遊びにきてくれるのは大賛成だ。父の生徒たちがこなくなったから淋しかったし、それに話もしたいし。

「もちろんオッケーよ。じゃあ、部屋掃除して待ってるね。何時くらい?」

「朝十時って早すぎる?」

 父も母も午前中はいないし、別にいてもまた盛り上がってケーキとか焼いてくれる程度だ。

「わあい、よかったよかった。じゃあ美里と待ち合わせていくね!」

 短く切れた。いい子は女子にもたくさんいる。確認できたような気がして、彰子は少しだけ食欲が出た。あまりもののクッキーを十枚おかずにかじった。


 呼び鈴が鳴ったのは九時半だった。早い。

「ごめんね彰子ちゃん。こずえ! だからあんたそんなに急ぐなって言ったでしょ。人のうちで失礼だって」

「なに神経細かいこと言ってるのよ、美里、もしかして奴の超神経質っぽいところが移ったんじゃないの? もしかしてこっそり、移るようなことしてるんじゃないの?」

「エッチ! もう、知らない!」

 どうやら美里ちゃんがこずえちゃんにひっぱられるような格好で呼び出されたらしい。二人が遊びに来てくれるのは大歓迎だった。彰子は首を振って、すぐに二人を部屋に上げた。「いいよ。うちはちっちゃい頃から人の出入りが激しいうちだったんだ。ほら、美里ちゃんは紅茶がいい? ジュース?」

「ええっと、紅茶、お願いしちゃおうかな?」

 こずえちゃんがまぜっかえす。膝上のオレンジストライブキュロットが可愛い。お尻が小さいから良く似合う。

「なによ。気取っちゃって。いつかだれかさんとデートすること夢見てるんでしょ。あいつだったらまあ、ねえ。あ、私はジュースでいいよ」

「うるさい! もう」

 美里ちゃんはリボンが肩に結ばれているジャンバースカートに、ボーダーのオレンジTシャツを着込んでいた。何気なく袖のところが膨らんでいて、ほっそりした腕の美里ちゃんがちょっと大人っぽく見えた。

 

 ふたりをベットの上に座らせ、サイドテーブルを用意し飲み物を置いた。もちろん手作りクッキーは欠かさない。あとで昼のご飯もこしらえるつもりだった。チャーハンあたりでどうだろう。ふたりはしばらくクッキーの味を絶賛しまくり、例のワンピースを指差しては互いに鏡であてがい、試着しまくったり、大騒ぎしていた。美里ちゃん、こずえちゃんを見ていると全く飽きない。少し心がなごんだ。


「ところで、彰子ちゃん、本題なんだけど」

 美里ちゃんに「やめなよ」と言われつつも、こずえちゃんがにやっとしながら彰子に向かった。

 目的はすぐにぴんときた。

「昨日の、こと?」

「ご名答。彰子ちゃん、結局こんな可愛い服あるなら美里のファッションチェックいらなかったねえ」

「違う違う、母上の許可がでなかったの。私だってこんな派手な服」

 激しく首を振って、美里ちゃんはまだ服の袖を撫でていた。

「ううん、すっごく可愛い。いいなあ私もほしい」

「で、南雲の奴は、どう言ってたの?」

 ──どこまで話したら、いいのかな。

 彰子は迷っていた。本当のことを話すのには何も迷いがない。

 ただ南雲くんとナッキーとのことまでばらすのは、状況がわからない以上だめなような気がした。

「うん、最初はぎょっとしたみたいだけど、でも、よくしてくれたよ」

「南雲はデート慣れ絶対してるよね」

 膝を叩きつつこずえちゃんは大笑いした。隣りで、割り込むのを待っているのは美里ちゃん。身をかがめて、小さな声で口をつぼめた。

「一緒に、コーヒーカップとか、ジェットコースターとか乗ったの?」

「うん、一通り、案内してもらったよ。私が乗ったら壊れるんじゃないかなってそちらの方が心配だったけどね」

 とりあえずはさしあたりのないことだけに絞った。ふたり、まだデートっぽいことは未体験らしい。もっとも、男子たちと仲のいいふたりのことだ。友だちとしての「おでかけ」は経験しているだろう。

「いいなあ。私も、そういうのしてみたいなあ」

「だから、あんたがこなかけりゃいいじゃない!」

「そんなのあんたに言われたくないよ、もう」

 またこずえちゃんのつっこみが始まった。すでに美里ちゃんのひそかなる恋のお相手が立村くんであることを彰子は知っている。違和感ありありでも、ここまで真っ赤になりながら話すところみると、本気だろう。

 ──立村くんだったら、美里ちゃんに告白されて断るなんてこと、絶対にないなあ。舞い上がっちゃうと思う。真面目な子だからなおさらね。

 ただ、ふたりが評議委員関係以外でデートしているところを想像するのはかなり困難だ。それ以前に立村くんが普段着、いわゆるジーンズとかTシャツとかそういうものを見につけていることがまず、イメージに合わない。立村くんといえばやはり、青大附中の制服でブレザーとワイシャツだろう。学校の中でしか、生息しない人物だ。

「こずえ、あんたの方こそ、なんで貴史の方がいいわけ? そっちの方が謎」

「だって、面白いし、かっこいいし、性格あったかいし、いいよね、彰子ちゃん」

 気づいているのかどうかわからないが、彰子はうなづいた。どうせ女子だけなのだから、安心して話せる。

「好みはあると思うけど、羽飛くんは、確かに、かっこいいタイプだよ。美里ちゃんとは幼なじみなんだよね。みんながうらやましがるのも当然だと思うなあ」

「彰子ちゃんまでそんなこと言うわけ!」

 まあまあと、手で押さえるしぐさをし、彰子はもう一度繰り返した。

「でも、幼なじみだからこそ、気づかないところもあるんじゃないかなあ。友だちとしてはいいけれど、それ以上はいいかなっていうとこ」

 迷ったけれど続けた。

「ここだけの話だけど、私は立村くんがどうして評議委員としてあそこまで、男子に評価されているのかがよくわからないんだよね」

 大きく頷くこずえちゃん。おそらく美里ちゃんは、彰子が気づいていることを知らないのだろう。それなら知らないふりするしかない。思った通り、美里ちゃんは少しだけほおを赤らめてうつむいた。平気な顔をしようしようとして、うまくいかない。やはりそんなところが男子たちからは可愛いと思われているんだろう。彰子も女子ながら、いい子だなと思う。「ううん、立村くんはすごくいい子だと思うよ。この前もね、具合が悪くなって保健室に行って寝てたら、立村くんが来てくれてね。私のことを心配してくれたらしいんだ。クラスの雰囲気がおかしいかもしれないけれどなんとかするから大丈夫だよ、って言ってくれたんだ。その時は、何この人言ってるんだろうと思ったけど。きっと、気を遣うのが得意なんだろうなあ。でも、教室戻ったらそれほどでもなかったし、まあ私のお顔がこの有様だからみんな呆然とするのはあたりまえだし。あきよくんもかなり誤解を解くのに苦労したみたいだし。要するに友だち同士で仲良くしようって、話だけだったんだから。たいしたことじゃないけど、気になってしまうから、声かけてくれたんだって私は思うんだ。ただね」

 美里ちゃんがだんだん唇を尖らせてきた。

「どうしてそんなことまで考えるのかなあとも思う。ほら、この前、遠足についてのホームルームでも、手つなぎ鬼しようってもちかけたら『手を握るのがいやな人もいるんじゃないか』とか言ってたでしょ。それはないよ。だってみんな、二年D組の男子も女子もいい子ばっかりだもんね。みんなをもっと信頼してもいいのになあって、私なんかは思っちゃうんだ」

 どんどん美里ちゃんの目がきつく変わっていく。まずいかも。でも隣りでこずえちゃんが、

「そうそう、もっと言って言って」

 と促す。

「こういう時に、もし羽飛くんだったらどうするかなあ、と考えると、もっと楽しく盛り上がれるんじゃないかなと思うの。もちろんあきよくんでもいいけれど、やはりなあ。みんなへ訴える力があって、男子も女子も関係なくまとめられるとしたら、やはり羽飛くんが一番だと思うんだ」

 頷きまくるこずえちゃん。やはり自分の大好きな相手を誉めてもらえるのは嬉しいことなんだろう。彰子も頷きかえした。共感大。

「確かに、貴史はお調子ものだから、そういうとこあるし、わかるよ。けど」

 そっと紅茶のカップを両手で抱え、すすり、美里ちゃんは目を伏せたままでいた。めずらしい。言い返すのも難しそうだった。

「でも、あいつが評議やったとこなんて想像できる? できないよ」

「そうかなあ? 美里ちゃんは仲が良すぎるから気づかないだけなんじゃないかなって気がするんだ。私からすると、立村くんのように人の顔色ばかり伺っておどおどしているように見える、あくまでも私にはそう見えるだけなんだけど。もっとはっきりしゃきしゃきした人の方が向いているんじゃないかなあ。これは適材適所ってことよ。もし立村くんが保健委員だったら、まあね、こちらも二年連続相棒やっている東堂くんよりは『らしい』かなって気はするよ」

 両手を握り締めて、まず美里ちゃんに頷き二回。三回彰子にするのはこずえちゃんだ。

「でしょでしょ、前から私が言ってる通りだよ。美里。羽飛の方がずっと上だって言うのが女子たち一同の意見だって。美里の方がよくわかっているんじゃないの?」

 美里ちゃんは答えなかった。

 ──もしかして私、美里ちゃんをいじめちゃったかな。

 そっと心に焦りが昇ってくる。ポットからもう一杯、注ぎ足してあげた。ティーカップは母の好みの薔薇模様。ソーサーの真ん中にも一輪、くるくるっと茎がまるまった格好で描かれている。つぼみと一緒だった。

 突然、美里ちゃんが深くうなだれ、ティーカップを膝に下ろした。

「貴史はいい奴だよ。だから仲良しでいるんだよ。でも違うの。私」

 こずえちゃんが顔を覗き込む、はっとした表情で彰子に向い、小さく首を振った。まずい、泣きそう、合図だ。

「ごめん、美里ちゃん私」

「いいの。彰子ちゃんは立村くんの悪口を言ったわけじゃないんだってわかってるもん。でも、私が立村くんを評議として認めるっていうのは、そういうとこじゃないの」

 柄を持つ指が震えていた。完全に泣かせてしまった。美里ちゃんはあまり泣かない子だと思っていたけれど、まさか、こんなことで。

 ──ごめん、なんで私、美里ちゃんを傷つけちゃったんだろう! 

 彰子の方が混乱してきた。手元のクッキーを押しやったり、こずえちゃんと二人で顔を見合わせたりしたけれど、美里ちゃんは全くうつむいたままつぶやくだけだった。小さい声。つまり声。鼻をすすり出す様子。ティッシュを近づけておいたら、すぐにむしって鼻の下を押さえた。はあっと呼吸ひとつ、その後咽がつまったように数回、咳払いのようなことをした。涙をこらえているらしい。

「美里、彰子ちゃんが困ってるよ」

「泣いてなんかない。私、そんなことで泣かない。ただ、違うの」

 言葉とは裏腹に美里ちゃんは片手で目を何度かこすり、肩を振るわせた。

 しょうがないね、とばかりにこずえちゃんは小さくため息をして見せた。

「彰子ちゃん、あの日のこと覚えてる? ほら、保健室で立村くんに会って、何か言われた日のこと」

 忘れるわけがなかった。天井でちらついた光の玉が今でも目に浮かぶ。うんと頷き、彰子は美里ちゃんにぐっと近づいた。

「立村くんが、変なこと言ったって、言ってたよね」

 わけのわからないことを、たぶん思いやりから口にしていたはずだ。

「本当に立村くんそう実行してくれたって、聞いてないよね」

 ──実行? 

 美里ちゃんはいきなり顔を上げて目元を完全にゆがませたまま、一気にしゃべり始めた。せきとめられていたものが、溢れていた。何度か目を拭き、口でしゃくりあげ、鼻水をすすりながら、それでも止めることはしなかった。こずえちゃんが最初あきれたように聞いていたが、だんだん戸惑いに変わっていった。彰子も、同じだった。

 初めて聞くことだらけだった。


「彰子ちゃんがいない間、男子たちが南雲くんの告白について盛り上がっていたの。想像なんて私もしてなかったし。たまたまC組の女子も理科準備室の前で聞きつけたらしくって、あっという間に広まってたの。みんな、意見はいろいろだった。水口くんはショック受けて泣いちゃうし、貴史は彰子ちゃんを馬鹿にしているんだと思い込んで南雲くんにくってかかってたし。それに、やはりC組の人たちは南雲くんの元彼女と仲いいから、みんなかわいそうがってたしね。すごい騒ぎだったんだ」

 知っている。聞いたことだった。目の前にまた、光の玉が揺れたような気がした。

「立村くん実験の途中でいきなり貧血起こして倒れたの。私、立村くんと話しすること多いからわかるんだけど、すごく相手が何を考えているかを想像しなくていいとこまで想像して苦しくなっちゃうみたいなんだ。先回りして考えすぎるっていうのかな。南雲くんが落ち込んでいるのを見ていて、いろいろ考えてしまったらしいの。掃除の前に戻ってきたでしょ。彰子ちゃんが帰った後、男子たちが二派に分かれてすごい罵りあいし始めたの。貴史が南雲くんに……あいつ馬鹿よ、『気がない相手に、よろこばせようとしてちょっかいだすのは男としてというか、人間として最低だ!』なんて言い出したの。貴史単細胞だから、彰子ちゃんと南雲くんがくっつくなんて想像できなかったみたいなんだ」

 ──そりゃそうだろうなあ。羽飛くん面食いだもん。鈴蘭優だものね。

 わかっていることを再確認する。食って掛かってくれた、それがちょこっとだけ嬉しかった。

「私、その時貴史と立村くん待ってたからいたんだけど、南雲くんがね。『そうだ、俺は奈良岡のことが本気で好きだ!』って断言しちゃったのよ」

 こずえちゃんが叫ぶ。

「それ聞いてないよお、美里、それほんとにほんと? あの南雲が?」

 きっと言い返す美里ちゃん。

「ほんとだよ! みんなそれで黙っちゃって、きまずくなっちゃってたら、立村くんが戻ってきたの。『ここまでだ、これから先はお互い、個人の問題だ。羽飛も、他の奴も、このクラス内で南雲たちのことに口出しするのはやめろ』って、びしっと、そう、叱り付けた感じで」

 ──叱りつける? あの立村くんが?

 口篭もりつつも彰子はつぶやいた。

「あの、立村くんが?」

「いつもそうだよ。何かクラスのことで問題が起きると、立村くんが全部男子たちに指示を出すんだよ。ほら、一年の時の宿泊研修だって、国枝くんが食中毒で病院に運ばれた時、面倒みていろいろ片付けたの、立村くんなんだよ。他にも一杯あるけど、たぶん女子はみな気づいてないだけなんだ。女子は立村くんのことばかにしてるから、絶対返事してくれないってわかってるんだろうなあ。私の指示って形で出すようにって、良く頼まれるもの。立村くん、自分はぼーっとした昼行灯の顔してるけど、いつもクラスのこととか、みんなのこととか真剣に考えてるんだよ。嫌いなのは菱本先生くらいじゃない。彰子ちゃんの時だって、ちゃんと言ってくれたんでしょ。なんとかするからって。立村くんきっと、彰子ちゃんが苦しんでるんじゃないかって、心配してくれたんだよ。なんとか、彰子ちゃんが二年D組の教室で居心地いいようにって、男子たちを押さえてくれたんだよ。南雲くんがデートのお誘いしても誰もからかわなかったでしょ。みんな、黙ってみてくれたでしょ。あれ、立村くんがみな、仕切ったからなんだよ」

 激しくすすり上げ、鼻をかみ、ごみ箱に捨てた。「ごめんね」と続けた。

「へえ、男子たちみな紳士じゃんと思ってたんだけど、あの昼行灯がねえ。美里、さすが見てるねえ。ダーリンのこと」

「そんなんじゃないってば! 男子って三グループに分かれてるでしょ。貴史、南雲くん、水口くん、って感じで。でも、私の知ってる限り、一度も大喧嘩になったことないでしょ。女子はしょっちゅう仲間割れしてるけどね。あれも全部、水面下で立村くんが片付けてくれてるんだよ。貴史とも、南雲くんとも仲良しだから、誤解のないようにってお互いのいいことを教えあったりしてるんだよ。貴史は立村くんが南雲くんと仲いいの面白くないみたいだけど。そう、それにね」 

 もう一度、息を吸い込み、今度はこずえちゃんの膝を叩いた。

「こずえ、一年の時、立村くんが杉浦さんに告白したなんていうがせねた回ったことあったでしょ」

「あったよね。でも立村にそんな度胸あるわけないじゃないってことで、終りでしょ」

「あの時、立村くん、一度も言い訳しなかったんだよ。嘘ばっかり杉浦さんに言われてて、悔しかったと思うんだ。だから私も、女子に話したの。立村くんの噂は根も葉もないことだって」

 ──思い出した。

 一年の終りに、杉浦加奈子ちゃんという女子に立村くんが告白し、しつこく追いまわしたという噂が立ったことがあった。C組経由だったと思う。加奈子ちゃんも特別に表立ったことは言わなかったけれども、女子たちは立村くんを軽蔑のまなこで見たのは確かだった。もっとも彰子は、「好きな子に告白して振られたことは恥ずかしくない。立村くん、辛いだろうなあ」くらいだった。すぐに噂は収まった。

「私、思ったの。どうして立村くん一度も言い訳しなかったんだろうって。菱本先生に呼び出されて怒られても何も言わなかったって。そしたら貴史が後で教えてくれたの。男子たち、みんな立村くんが一生懸命にクラスのこととかひとりひとりのこととかを面倒みてくれたこと知ってたから、あえてその噂をガセネタだってことにしてあげようって決めてたんだって」

「じゃあ、嘘だったんだ。あのことは」

「そうよ。立村くんがそんな、女子を追い掛け回すようなことする人じゃないって、男子はみんな信じてくれてたの。もっと自分で、そんなことしてないよとか言えばいいのにって私は思う。でも、言ったら大変なことになるってわかってるみたいだから、がまんしてるんだろうな。そんなことないのに。みんな、立村くんのこと、認めてあげてるのに。でも気づいてないの。言ってるよ、評議委員会の時。『俺は計算が全然できない馬鹿だから、ふつうの人の十倍はやらないと、ふつうになれないんだ』って。馬鹿じゃないよ。立村くん、英語もドイツ語も、他の言葉もぺらぺらだし、この前の数学の授業だって」

 はっと思い出した。狩野先生がいきなりドイツ語で話し掛けた時のことだ。美里ちゃんは大きく頷き、もう一度目をこすった。

「立村くんが言ってた。なんで狩野先生がいきなりドイツ語で質問したのかって。きっとあまりにも基本的な計算式がわからなくって、他の人たちにばかにされるのを可哀想がって、あえて誰もわからないように質問できるようにしてくれたんだって。そんなこと、想像つかないよ。狩野先生ってわけのわかんない人だって私は思うけど、でも立村くんはそういう人の心が異常なほど感じ取れる人なの。私、全然想像つかないことを、気を遣ってくれる人なの。だから、人の悪口とかきかされてると倒れちゃったりするし、熱出したりするし。でも、必死なんだよきっと。みんなと仲良くやっていきたいって、必死にやってるんだよ。二年の評議を選ぶ時、確かに女子から貴史の方がいいって意見が出たけど、男子がみな立村くんを推したでしょ。貴史だったら南雲くんグループの人とうまくいかないかもしれないけど、立村くんだったらどちらのグループの人も味方につけられるし、一生懸命やってくれるって分かってるから。だから。なの。立村くん、あんなにやらなくたって男子も、私も、認めてるのに、わかってくんなくて……」

 とうとう顔を覆った。しゃくりあげたのが止まらない。彰子は美里ちゃんの隣りに座り、そっと肩を抱いた。泣いてしまった時にはこうしてもらうと自分は楽なのだ。きっと美里ちゃんもそうだろう。思わずいじめてしまったことをあやまらなくちゃ、そう思った。

「美里ちゃん、ごめん、ごめんね」

 暖かい温もりが伝わってきた。震える背中をさすった。

「本当に美里ちゃんは、立村くんのことが好きなんだね」


こずえちゃんと少しだけ関係ない話をした後、ふたりは、

「じゃあ、またあしたね」

 と帰っていった。もっと長居してもらったってよかったのに。残念だけど、やはり親友同士で話したいこともあるのだろう。美里ちゃんはすっかり元気をなくしてしまい、涙をぬぐった後もしょんぼりしていた。

 ──あそこまで好きな人のこと、思えるなんてすごいよなあ。

 ──あの、立村くんのことをそんなにまで。

 台所に茶碗を一通り持っていき、洗物をした後、彰子はあらためて、学級文集を取り出し、ぱらぱらっとめくってみた。羽飛くん、立村くん、美里ちゃん、南雲くん。それぞれの文章をさらってみた。当時行っていたクラスの班ノートをまとめて一冊にしたようなものだった。評議委員同士が同じ班で一年過ごしたはず。羽飛くんも一緒だった。

 美里ちゃんが言う通り、いくつか思い当たることはある。

 立村くんが人見知りしやすく無口なのは、小学校時代ひどいいじめにあってきたらしいということに影響があるらしいし、ご両親が離婚してお父さんと一緒に暮らしていること、やたらと文学書の感想が書かれていること、愛読書はフィッシジェラルドの「グレート・ギャツビー」ということ。一通り読み通せば立村くんがどういうキャラクターを持っているかがよくわかる。

 また、美里ちゃんと羽飛くんがそういう立村くんのことを好きで、仲良くしてあげてたことも、伝わってくる。どこがというわけではないけれども、

 ──俺はりっちゃんのことがすっごく好きだなって思う。

 ──立村くんはすっごくクラスのことを考えているんだなって思います。

 ところどころに出てくる思いやりの言葉。彰子はそちらの方がすごいと思っていた。同情を乞うような風に見えなくもない立村くんの文章にくらべ、ずっとふたりの方が大人だと思えた。

 ──でも、美里ちゃんは違ったみたい。

 美里ちゃんが泣きながら訴えた言葉の端々には、彰子の知らない立村くんの姿が見え隠れしていた。もちろん一年時の班ノートには書かれていない、陰で懸命に二年D組のよしなごとを片付けようとする姿はどうやったら見えてくるのだろう。彰子が感じることのできなかったことばかりだった。

 

 ──もし、美里ちゃんのいう通りだとしたら。

 確かに二年D組の穏やかな雰囲気が、理科準備室事件後も若干乱れたとはいえ保たれたのは事実だった。彰子も少しだけ変だと思ったけれども、「クラスのみんな」がいい人だからそうなんだと思ったに過ぎなかった。まさか立村くんが男子たちに「一切南雲くんと奈良岡さんに口出しするな」と指示を出した……ましてや「叱り付ける」なんて想像もしてなかった。

 そうだ。教室を出るやいなや、三年生の女子や他のクラスの人たちから、

「どうして奈良岡さんが?」

「どうしてあんな子に南雲くんが?」

 とささやかれても、全く気にならなかったのはずっと二年D組の教室にこもっていれば何も起こらないと楽観していたからだった。そりゃ最初のうちはクラスの女子だって、

「何か計算してることがあるんだよ、南雲くんも」

 とかいろいろ話し掛けてきたけれども、すぐに納まって何事もないかのように時は流れていった。南雲くんが人前で堂々とデートの予定表を渡してくれた時も、男子たちがいる中で彰子がお付き合いの返事をした時も、誰もからかわなかった。それどころか、

「あいついい奴だよ」

 とまで、一声かけてくれた。きっと南雲くんの人望が厚いのね、それしか思わなかった。

 まさか、立村くんの指揮とは思わなかった。


 羽飛くんが南雲くんに食ってかかり、南雲くんが堂々と彰子への想いを断言したこと。これも初耳だった。

 今の今までずっと、「あきよくんは自分のことを友だちの延長上として仲良くしたいだけだ」と思い込んでいた。絶対に恋愛の対象として見られていることなんてない、そう思っていた。羽飛くんが彰子を「もてる男がからかっただけなんだ」と思い込んだのも当然だと認識していた。

 でも、南雲くんはクラスの男子たちの前で、堂々と、

「そうだ、俺は奈良岡のことが好きだ!」

 と言い切ったという。

 ──私みたいなおかちめんこのことを、そんな意味で好きだなんて、からかうつもりだったら絶対に言えないよ。

 あわてて南雲くんの書いた班ノート部分をめくった。


 あまり興味がなかったからじっくり目を通したことがなかった。

 音楽のことや、毎日のこと、そんな感じだろうと思っていた。

 

 ──僕は将来、父のような会計士になって、家族全員で暮らしたいと思っている。今、事情があって妹はうちにいないけれども、いつかは家族で仲良くくらしていけたらいいなと思ってます。

 ──みんなから僕のことを軽い軽いといわれますが、そんなことありません。僕はそれなりに、真面目なつもりです。

 ──うちのおばあちゃんは小さい頃から僕の面倒を見てくれました。最近は大きい声で話さないと気づいてくれないので、早く補聴器のいいのを買ってあげられるくらいお金を稼ぎたいです。だから、バイトは許可してほしいです。


 もちろん班ノートに書いてあることが全て本当だとは限らない。

 けれど、南雲くんのうちがただ、「軽い」だけではないことも、読み取れた。妹さんが事情あってべつの家に住んでいることも、たぶん何かの時に聞いたのかもしれない。だからデート中は話に出さなかった。やたらと話の中で「俺軽いと思われているかもしれないけど」と出てきたのは、もともと気にしていたのだろう。時也が南雲くんに話し掛けられたのが「山乃耳鼻科」だったのも、おばあちゃんのために毎回薬を取りに出かけていて、それでと考えるなら話は通る。

 

 ちゃんと、彰子の前に南雲くんについての情報は並べられていたはずだった。テスト前に消しゴムをほしがったりして、それを大切に握り締めながら問題を解いていた段階で、南雲くんの本心が本物だと気づいていたら。

 ナッキーや時也と一緒に学校で待ち合わせて出かけた時、南雲くんの様子がふつうじゃないと気づかなかったのはどうしてだったのだろう。きっと心の目を閉ざしてしまったのだろう。もし好きな相手が、他の男子たちと馬鹿騒ぎしながら帰っていったとしたら、面白くないのは当然だろう。

 南雲くんが理科実験室で告白してくれた時も、彰子は真っ正面から答えられなかった。好きだと言われたことがぴんとこなかったのもあったし、友だちでいたいとだけ思っていたからだった。付き合ったら友だちでも居られなくなる、でも好きな相手は羽飛くんだとも意識していた。だから、答えられず保健室に避難してしまった。彰子が逃げ出した間、クラスの中で南雲くんはどんなに苦しかっただろう。恥ずかしい思いをしたのだろう。立村くんが回りの「気」に毒されて倒れたくらいだから相当ひどい状態だったのだろう。

 ──私、何にも気づいてなかった。

 目の前が暗い。文字がだぶって見えた。目が疲れたわけじゃない。光りを見つめすぎてぼーっとしたような感じだ。ナッキー、時也の姿が浮かんできた瞬間、もう彰子は耐え切れなくなっていた。


 ──時也も、ナッキーもみんな私のことが大好きだって言ってくれたよね。わかるよ。すごく嬉しいって思ってた。なのに、正直なのがいいことだって思って平気な顔して、私、あきよくんと「デート」するとか、「友だち」としていい子だとか、さんざん言ってたわけなんだ。

 ──もし、ふたりが私のことを本当に「好き」だったなら。

 ナッキーの、大人びた瞳が思い起こされる。

 時也の、ずっと背中に張り付いていた姿が見える。

 ──私、顔とか体型とかで悪口言われるのは、当然だと思ってる。でも嫌いじゃないからいいと思ってたよ。けど。

 ひとりごと、「ごめんなさい」とつぶやいていた。

 彰子は文集を開いたまま、涙を流れるままにしていた。部屋の中のものがみなぼやけ、輪郭が崩れていったのを感じた。


 ──私、ちゃんと目の前にころがっていること、何にも見てなかったんだ。それでさんざん人を傷つけてきたんだ。こんな性格の悪い子を、あきよくんも、ナッキーも、時也も、周りのみんなも好きだって言ってくれてたんだよね。違うよ、みんな、私が本当は何にも気づかないおばかだってこと。ただのほのんとしてたこと。人を傷つけて平気でいたってこと。こんな奴、嫌いだよね。ごめんなさい。

 かつて彰子のことを思ってくれていたであろう、そして気づいてあげられなかった相手たち、全ての人に謝りたかった。そして。

 ──やっぱり、私は、つきあえない。ごめんなさい。


 ナッキーにも、南雲くんにも、電話しなかった。本当だったら南雲くんに、デートのお礼を言いたかったけれども、今の彰子だと何を口走るかわからなかった。またナッキーにも、また親切なつもりで傷つけてしまうかもしれない。どうしたらいいかがわからなくなっていた。

 部屋が暗くなってに灯をつけずにいたら、ノックが聞こえた。

 あわてて机のライトだけひっぱってつけた。赤いかさで覆われた柔らかい光りだけが、ゆらいでいた。


「彰子さん、今いいかい」

 父は小さい頃から娘のことをさん付けで呼んでいた。顔に、涙の跡がついていたことに気づかれたのだろうか。少し口篭もりながらも、目は優しかった。父に怒られたことはほとんどない。気が弱いけれども優しいお父さん。彰子にとっては大好きな人だった。担任した子ども達にも、小さい頃は慕われていた記憶しかないのだけれども、どうしてこうなってしまったのだろう。

「そろそろ夕食、作んなくちゃね。今降りるから」

「昨日のスープの残りがあるだろう。暖めるだけでいいさ」

 ──お父さんみたいな先生ばっかりならいいのに。

 ──どうしてみんな、お父さんのこと嫌うんだろう。

 

 机から椅子をひっぱりだし、ぺたんと座った。父はベットに腰掛けると、大きくあくびをした。昨夜は遅かった。何時くらいに帰って来たのかわからなかった。彰子も自分のことで精一杯だったから、覚えていない。

「お父さん昨日、遅かったね」

「お前の親衛隊長のところにいたよ」

 ナッキーのうちらしい。びくりとした。

「だってナッキー、あの」

「朝からうちを飛び出していったって聞いたんだよ。お母さんはそれほど心配していなかったようだし、明日香ちゃんのこともあったからなあ。ただ、宗くんの方は」

 彰子を笑顔で見つめた。

「彰子さんのことになると、本当に向きになると、お母さんが笑っていた」

 取り分けて何事もなかったようだった。彰子は少しだけ気が楽になった。もしやナッキーが南雲くんを相手に再び怪我をさせたんじゃないかと恐ろしい想像までしていたのだ、安堵のため息くらい吐かせてほしい。

「じゃあ、何もなかったのね。ナッキー、悪いことなにもしてないのね」

「してないわけじゃない。実際、お前も時也から聞いているだろうからわかるだろうが、他の子を怪我させるくらい殴ったのは、やはりよくないことだよ。たとえ自分の大切な人を罵られたからといって、許してはいけないことだからな。宗くんが一週間の自宅謹慎処分を受けたのは仕方ないことだ」

 あの、学ラン姿で腕を組んでいるお父さんのことを、馬鹿にされたからだろうか。ナッキーもお父さんのことが大好きなはずだ。悔しくてならなかったんだろう。

「でも、ナッキーはちゃんと謝りに行ったでしょ。その子のところに」

「ああ、行ったよ。でも、頭を下げてすむものとすまないものがあるのも、また事実なんだ。宗くんはきちんと、自分を押さえてあやまった。間違いを認めた。だが、簡単には終わらない問題がたくさんあるんだよ。彰子さん」

「簡単に終わらない問題、ってなに?」

 だって、ナッキーが帰って来た時、すっきりした顔でもどってきたことを覚えている。もし、あそこでいざこざが起こったとしたら、もっと暴れていても変じゃない。ナッキーは冷静に時也の訴えおよび彰子の相手について問いただし、純粋に燃え上がっていた。

 父は肩を落としている。言い出しにくいのだろう。彰子には全く想像のつかない出来事がからんでいるらしかった。言いかけたのならば、聞きたかった。聞かなくてはならない内容なのかもしれなかった。

「お父さん、言ってよ。私、もう覚悟できてるから」

「今すぐどうという問題ではないよ。まだお母さんにも話してないけれどな」

 背中の影が大きく写る。父の細い指が何度か組み合わされる。

「ただ、これからいやなことがたくさん起こるかもしれないよ」

「だから具体的に言ってよ、お父さん」

 とうとう父は口を切った。

「PTAとか、学校側や、いろいろなところから嫌がらせを受けるかもしれないよ。彰子さん。それだけは覚悟してくれるかな」

 言葉が出なかった。

 ──嫌がらせって、いったい、何?

「私、わかんないよ。ナッキーと、学校側からの嫌がらせとか、謝りに行っても許されなかったことってなんなの? お父さん、もっと分かりやすく教えてよ。お願い」

 さっき涙を出し切ったと思ったら、また沸いてきた。嫌われるなんて、今まで一度も経験したことがないのに、どうしていきなり、この一週間でそんなことになるんだろう。彰子のことを敵視する「南雲くんの元彼女関係」とかそういう人はいるかもしれないけれど、奈良岡家を丸ごと嫌う存在っていったいなんなんだろう。わからなかった。

「彰子さん、大丈夫だよ。お父さんはね、彰子さんやお母さんに手を出す人がいたら、学校を辞めてでもきちんと守るよ。その辺は安心していい。でも、言葉の矢だけは自分で防ぐしかないんだ。彰子さんはもしかしたら、他の人とか、今まで友だちだと思っていた人たちから、冷たい言葉をたくさんぶつけられるかもしれない」

「たとえば?」

 そうだな、と父はつぶやきつつ、

「右とか左とか、いろいろあるだろう。そういう思想関係に被れているのではないかとか、無言の電話がかかってくるとか、そういう類の嫌がらせだよ」

「もしかして、ナッキーのお父さんと関係が」

「いいや、それはないよ。宗くんのご両親は思想的にそぐわないものがあるかもしれないが、おふたりとも立派な人だよ。それは彰子も良く知っているだろう」

 紅白まんじゅうを持ってきてくれて、彰子の頭をなでなでしてくれたおじさんのことが思い出された。頷いた。

「宗くんにしてもそうだ。ちゃんと自分の非を認めて、堂々と頭を下げるのはとっても勇気のいることだ。だが、受け入れられない人にはどうしても受け入れてもらえないものがあるのも、わかるだろう?」

「それが、思想ってこと? ナッキーのお父さんの、『君が代』みたいなもの?」

 どんなに時也が性格のやさしい真面目な子でも、鼻水が治らない限り不潔感を拭い去ることはできない。それと一緒だ。帰りのバスで、一緒に悪口を言われているにも関わらず、彰子から離れなかった時也のことを思い出した。

「そうだな。これから宗くんも学校に戻るわけだが、きっと辛いことが待っていると思う。彼はそんなに弱い奴ではないし、お母さんもその辺はなんとかなると笑っていたよ。宗くんについては、お父さんは心配してないよ。ただ」

 奥歯をかみ締めるように、こくこくと頷き、もう一度彰子に真剣なまなざしを向けた父。「彰子さん、宗くんと友だちだということで、これから近所の人たちからいろいろ言われると思う。でも、お父さんは彰子さんが彼のいいところを忘れてしまうくらい冷たい子だとは思っていないよ。彰子さんは、お父さんにとって、もちろんお母さんにとって、自慢の娘なんだよ。花散里の君って、知っているだろう?」

「知らない、なに?」

 本当に知らない。彰子は古典文学については疎い方だ。膝を軽く叩いてお父さんは笑った。「そうか、彰子さんは理数系だったなあ」

「なんかそういう風に私のこと、言ってるんでしょ」

「時也から聞いたのか? それとも宗くんか」

 言葉が和んだ。

「『源氏物語』の中に出てくるお姫様の一人で、主人公光源氏が大切にしていた女性のことなんだよ。光源氏くらいは知っているだろう?」

「うん、女ったらしの代名詞ね」

「身もふたもないなあ。とにかく、光源氏はたくさんのお姫さまで心根のやさしい、容貌はまあいまいちの花散里という女性を大切にしていたんだ。ひまな時にあらすじくらいは読んでおきなさい。光源氏も不遇な生活を送っていたけれども、たまに花散里のところに行くと、心が和んだそうだ。心の暖かい人だったそうだ。『源氏物語』には、いろいろな性格の女性が出てくるけれども、お父さんはその中で、この花散里の君が一番好きだし、こういう人になってほしい、いつも思っているんだ。彰子さんにはね」

 ──私、そんな性格よくないよ。

 首を振る彰子に、父は額を軽く撫でてくれた。

「もし、宗くんの周りでいろいろなことがおこり、彰子さんの方にもとばっちりがきたとしても、どうか、それで友だちをやめるようなことだけは、してほしくない。お父さんの言いたいのは、それだけだよ。まあ、そんなこと言う必要なんてないかな」

 さっき、美里ちゃんが泣きじゃくりながら立村くんのことをかばっていた。あの時と同じ泣き方かもしれなかった。彰子は止められなかった。もう、声を出して涙を流しつづけるしかなかった。父に泣き顔をさらしてもよかった。顔を覆うこともできなかった。ただ、父の前で、ひたすら声を上げてつぶやいていた。

「私、そんな性格いい子じゃないよ。でも、ナッキーのことは大切にするよ。お父さん、お父さんも、政治とか思想とかそんなの関係なく、仲良しは仲良しでいるのが大切だって、そう言いたいだけだよね。私、そうだよ。絶対にそうだよ。お父さん」

 ティッシュを引き抜いて、彰子の手に渡すと、父は出て行った。

「じゃあ、スープを温めておくから。ゆっくり、降りてきなさい」


 食事後両親は、居間で真剣に話し合いをしていた様子だ。盗み聞きはしなかったけれども、何度か「夏木さんところの」「ナッキーがねえ」と相槌を打つ母の様子からして、たぶん、彰子と同じことを聞かされたのだろう。

 もう夜の十時近くだった。泣くだけ泣いた。食べるだけ食べた。そっと部屋の中で彰子は、母から借りた「週刊メディカル・イン」を開き、女医さんのインタビュー記事などを読みふけっていた。写真映りのいい美人さんが多い。お医者さんになるためには、別にルックスは関係ないと思うけれども、やはり昨日の今日だけに辛いものがある。

 真っ赤なワンピースをしまいこみ、彰子は父の言葉とナッキーの瞳、南雲くんの笑顔、時也の表情を思い出した。みんな仲良く笑顔でいられたらそれでいい。そう思って彰子が選んできたことが、もしかしたら間違いだったのかもしれない。

 ──どうしたら、みんなが楽しくいられるんだろう?

 ──父さんの言うとおり、あしたからいやがらせが始まるの?

 ──そんなことないよね、お父さんの考えすぎだよね。

 でも、思い当たる節がないわけではない。ナッキーが怪我をさせてしまった女子のところに謝りに行ったはいいが、許してもらえないどころか彰子の父にまで失礼なことを言い返されたらしい。きっと、ナッキーをかばうような言葉を父は口にしたのだろう。それが仇となって。

 PTAとか学校側、も敵に回すようなことを言ってしまったのだろうか。

 もともと父は政治に無頓着な人だった。ナッキーのお父さんとはうまが合って家族ぐるみの付き合いをしていたけれども、特別に思想の右左というのはなかったようだ。たとえ日常的に日の丸が掲げられ、たまに軍歌の音楽が部屋に流れていたとしても、その人とは関係ないことだと考えていたようだ。

 ──でも、ナッキーと仲良くするってことは、お父さんも同じ思想の持ち主だって思われることになる。だから、なのかな。いやがらせが始まるかもしれないっていうのは。ナッキーも小さい頃から、一部の大人に「右翼の子ども」とか言われていたって聞いたし。無言電話とか、日本刀持った人とかがうろついて大変だったって聞くし。

 ──辛いのはお父さんもそうだけど、ナッキーのうちだよ。

 ──ナッキーに今、私、何してあげられるんだろう。

 してもらってばっかりだ。彰子を守ろうとしてくれるナッキーに、何も恩返ししていないことに、今気づいた。

 ──やっぱり、「友だちでいる」ことしか、ないよね。

 ──でもそれだと、かえって傷つけることになるのかな。

 

 何度か無言電話がかかってきた。とうとう始まったのだろうか。

 最初は機嫌よく出ていた母も、五回目には、

「もう、困ったわねえ。電話代もったいないのに、暇な人たちよねえ」

 と、留守電に切り替えてしまった。

「彰子も留守電でいれてくれた人に、こちらからかけなおすようにしなさいね。まあ、しょうがないけどね。困った人にはこちらも頭使うしかないしね」

 真っ白いネグリジェ、当然どふりふり。聖歌隊の人みたいな格好。母は彰子ににっこり笑いかけた。

「大丈夫よ、お父さんは悪いことなんもしてないんだからね。ナッキーのことは心配しなくても大丈夫だって。あ、別の意味での心配は、彰子もしなくちゃいけないか。あの、かっこいい彼。ナッキーにもちゃんと説明してあげなさいよ」

 母は南雲くんのことが気に入ったらしい。彰子は良く知っている。母が若い少年たちのアイドルグループを非常におきに召しているということを。彰子のクラス集合写真を見ては、「この子美少年よねえ」とつぶやいていることを。いやがらせとか無言電話がこれからたくさん襲ってくる前夜だというのに、おめでたい人だ。

 ──心配するなって、言ってくれてるのかな。お母さん。

「早く寝なさいよ」 

 母が出て行った後、また電話が鳴った。五回鳴った後、留守電に切り替わった。案内のメッセージが流れた後、録音される言葉を待った。無言のまま切れた。やはり始まった。


 心配だったので戸口も確かめた。爆弾なんて置かれていることなんてないとは思うのだけど、念のために。

 やはり、何か紙くずが押し込まれていた。郵便物は多いほうだと思うが、夜十一時過ぎにこれだけつめこまれるのは異常だった。一枚ずつ広げてみると、手書きで、

「危険思想の家庭を擁護しようとする最低教師よ、辞職しろ」

 わざわざすみからすみまで丁寧に縁取りしているチラシだった。

 なんで父がここまで悪口を振りまかれなくてはならないのだろう。よっぽどナッキーとのからみでごたごたしていたのだろう。見せる必要もない。彰子はごみ箱に捨てたのち、もう一通、きちんと折りたたまれた封筒を手にした。切手は貼ってない。封筒には小花模様が散らされたかわいらしい絵柄。母の趣味たるどふりふりブランドのもののはずである。しかし上に書かれた文字は四角張っていて、どうみても男手だ。しかも、下にはしみがついている。

 ──時也だ。

 立ったまますぐに封を切った。入っているのはおそろいの便箋で一枚だけだった。


 ──明日の朝六時半、夏木とあの男が、決闘する。

 ──六時に迎えに行く。


 用件だけだ。決闘、とはただごとではない。

 電話ではなくあえて封筒で呼び出したのは、何かの理由があるのかもしれない。しかも、このどふりふり封筒を使ったというのにも、わけがあるのだろうか。

 彰子は袖の下に隠して大急ぎ部屋に戻った。もう一度二行を読んだ。


 ──やはり土曜日、あの後、何かあったんだ。南雲くんとナッキー、私のことでまた言い合いになったんだろうか。どうしよう。ナッキーはただでさえ苦しい立場に追い込まれてる。南雲くんは私みたいな性格の悪い人間に、あれだけ一生懸命してくれたんだもの。みんな、私のことをいい子だと思い込んでるから、こんなにしてくれるんだ。本当は、誰とでも仲良くしたいだけの、いいかげんな人間なのに。人のことを思いやれない、最低の人間なのに。


 時也が知らせてくれたのは、たぶんナッキーに気づかれないように阻止しようということだろう。父にばれたらまた別の意味で大変なことになる。まだ自宅謹慎期間中だ。その間に何かやらかしたら、もっと重い罰を受けるはめになる。しかもきっかけが、担任の娘だとしたら。父の立場ももっと悪くなってしまう。教師の世界には、思想的なからみもあってごたごたがあると聞く。父は話さないけれども、同じ教師の娘やっている子が「組合が大変でうちの父さん、倒れそう」とぼやいているから。

 あの穏やかな父が彰子に釘をさすぐらいなのだ。身の危険すら感じているに違いない。

 ──これ以上、私のことでみんなに迷惑かけられないよ。

 ──ナッキーも、時也も、それと、南雲くんも。

 原因はすべて自分だ。自分の手ですべて片付けたい。

 もう二度と、みんなから好かれなくなったとしても。

 

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